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朝番はひんやりだが、日中は歩くと汗ばむ。日の出を見、朝焼けの六甲をみて起きる。NHKまいアサの野村アナの最新ニュース、MBS浜村純のありがとうで芸能ニュースを聞き、またときには東京の朝日テレビモーミングショウ羽鳥キャスターの政治ニュースを聞きながら自分流の朝食を準備する。モーニングショウで聞きなれない言葉に驚いた。新宿歌舞伎町の大久保公園に夜半「立ちんぼ女子」という若い街娼が増えていると云う。私は中学高校を山手線新大久保近くの学校に通っていたので
昨日は3時間ほど残業でした😅職場が忙しいと、仲間の同僚もイライラしているのが何となく雰囲気(オーラ?)でわかるので、性格温厚な私は居心地が良くないですね…。さて、そんな今日はひさびさに趣味の「切手」の話でも。私は以前、日本切手のカタログコレクションで、昭和20年から40年代の切手を収集しているとお話ししたことがあると思います。特に、昭和20年代の日本切手は高価なものもあり、なかなか集めにくく、アルバムもあまり埋まりません(日本切手アルバム第2巻より)集めにくいと言えば、1950年10
フリマの後…(続き)前回のブログはこちらです。『計量カップは世界共通?』計量カップは世界共通?週末に大井競馬場フリーマーケットへ行ってまいりました。最近、骨董市とかフリマが楽しくなっちゃって…笑今回、ゲットしたものはアンカーホッ…ameblo.jp実は、前回の続きがありまして…。大井競馬場フリーマーケットの後、時間がまだまだあったので、巣鴨まで足を運びました。ちょうどこの日は縁日でしたので…♪※巣鴨地蔵通り商店街では、毎月4、14、24日に多く
今回は久しぶりに小川未明の「赤いろうそくと人魚」をご紹介します。須田寿(ひさし)の絵の「赤いろうそくと人魚」は、昭和35年にあかね書房から出たものを以前ご紹介しましたが、今回は昭和27年に出版された本です。「小川未明童話六年生」小川未明:著須田寿:画(金子書房1952年9月刊)「赤いろうそくと人魚」はウロコ模様の着物が特徴的。本文の挿絵はモノクロで一ヶ所だけですが、装丁の絵は赤いろうそくを中心にしたデザインが目を引きます。私としては、あかね書房の本よりこちらの表紙のほ
世界の丹下、、、日本が世界に誇る建築家「丹下健三」のデザインで国の登録有形文化財にも指定されている「倉吉市役所本庁舎」。成徳小学校に通っていたので、すぐ隣の市役所庁舎も毎日見ていた建物です。閉庁後は広いテラスなどは自由に出入りできていたので、かくれんぼや鬼ごっこ、コマ回しをして遊んだ思い出がたくさんあります。この庁舎は1957年に竣工され、翌年から市役所として華々しいスタートを切りました。そして近隣の町村を編入合併して倉吉市が誕生しました。つまり、その前までは「東伯郡倉吉町」
今日実家で本棚の整理をしていて、子供の頃に母親と撮った写真を見つけました。昭和20年代だと思いますが、当時住んでいた家の裏手で母と姉妹と撮ったものです。当時の思い出と言えぱ、とにかくお腹が空いてた事。学校が終ると近所の友達と野山を駆け回って遊んだこと。お母さんが何時も家に居てくれてたこと、そして怪我をして帰っては怒られたこと。テレビは村に一台しかなくて、プロレスを見せてもらいに米屋さんまで行ったこと。お風呂は2日に一回お隣に借りに行ってました。いま思うと貧しく不充分な生活でしたが、
✢戦争を知らない子供たち(昭和20年代生まれの男)は使えない戦争を知らない子供たち(昭和20年代生まれの男)は前の世代の戦前、戦中派の人たちに守られ75年以上戦争を回避してきたしかし当の本人たちは出生数が極端に多かったこともあり自分のことにしか関心がない最早戦後ではない次の戦争の前、戦前である戦争を知らない子供たちは次の世代を守ることなど考えることは露ほど頭になくいつまでも自分(の年金)のことばかりこの国は再び戦禍にまみえるだろう戦争を知らない子供たち
最近、よくYouTubeで昔の日本映画を観ている。気分転換になる。いろんなことを思う・・特に最近のいろんな意味での殺伐たる日本、精神的疲れが癒される。決して、“昔はよかった“とかの思いではないのだけれど、時間の流れがゆっくりしていて、焦燥感が少ないと思う。今は、便利すぎる。昔、時間をかけなければできなかった諸々のことが、簡単に出来てしまう。これを便利になったと言うのだろうか?そうだとしても、何をやるにつけても常に追いかけられているような現在の日常だと思う。昨日と今日、
おー、ようやく見つけたぞ。順序を無視して手に入るものから読んでいるさっささんの自伝的小説だが、本書が俺にとっては最後の一冊。80年代以降の‘後藤田さん’関連の時代こそがビジネス的に売り上げがよかったようで、純粋にさっささんの個人史についての初期時代作は、シリーズ中ではなかなか見かけづらい(100円棚しか探さないけど)。(★)少年時代の前作からの続きそのまま、冒頭は昭和20年8月15日。すさんでいた時代におけるハイソな少年の日常は興味深くもあるが、前半の主人公はお父さん。あとがきでは本書
再び偶然見つけた古いフィルムを観てのお話。(余談ですが『NPO法人科学映像館』のYouTubeアカウントは年配者ほど面白いと思います……!)(なんでこんなおっさんを「表紙」にしたかね?とは思いますが)中学卒業者が180万人余り、そして高校に進学するのがその3分の1(!)という時代。正確な製作年代は不明なのですが、途中の話などから推測するに昭和27~8年(1952~3年)の作品でしょう。まさに
2月は如月、一年のうちで1番寒さが厳しい月だ。そのせいか、学園の玄関に珍しい物が展示された。丹前…知ってる?丹前って関西の呼び名で関東では褞袍(どてら)って言うんだよね。確り綿の入った広袖の長着の事。亡くなった父は仕事から帰ると夏は浴衣、冬は木綿の着物に丹前を着て細帯締めていた。お若い方は温泉宿に置いてあったりするので知ってるかなぁ?元々は男性用の防寒着だったが、昭和の中頃には女性も着ていたりした。この女性用丹前は熊本県にお住まいの方からの寄贈品。昭和22年産まれのこの方が七五三でお召し
お盆があるせいか、夏場にふと口ずさむのは、幼い日、在りし日の父が歌ってくれた童謡が多いです。七つの子なんて優しい歌だろうと、歌うたび声が詰まります。今や害鳥とも呼ばれるカラスに「いい子だよ」と愛情を向ける余裕があった時代。長閑な原風景が浮かんで来ます。からすの赤ちゃんこれも可愛い。自分に無いものを欲しがって泣く子と途方に暮れる大人の愛くるしい光景。夕焼け小焼け小さな町から離れると、山と川と田んぼしか無い…わたしの子供時代はそうでした。ただ、そ
梶ノ目さんのブログにあった記事を基にどんな風景になるのか?とiOSは電気羊の夢を見るか?|梶ノ目トランシス(ameblo.jp)でその写真は親戚が山形市七日町の大沼デパートのすぐそばで経営していた笹沼玩具店の写真です。少し綺麗になった程度でした。撮影時期は不明ですが昭和20年代の可能性が高いです。戦災がなかった山形市ですから建物は戦前である事は確かです。ただ青空の下で撮影されたのであろうとは考えられます。恐らく大沼デパート山形本店は当時は2階建てだった時代でしょう。
片づけものをしていると絶対必ず何かに引っかかりますーほらネこんなのが出てきちゃぁ…ねぇムリでしょ⁈中学生の頃毎日歌っていた歌は『春のサンバ』とコレ≪歌がはずめば≫(10)美空ひばり歌がはずめば(唄美空ひばり)-YouTube
画像は昭和20年代の絵葉書「G.H.Q.Building総司令部」GHQの総司令部は丸の内のお堀端にあった第一生命館に置かれ、接収が解除されたのは1952(昭和27)年だった。現在建物は外観のみ保存され、内部は大幅に改装されている。
先日、エロティックな人魚のイラストの時計をご紹介したから、というわけでもないけれど、今回の人魚の話は昭和20年代に刊行された、こんな大衆雑誌に掲載された小説「人魚の死」をご紹介します。「猟奇雑誌人魚」(漫画書院1947年11月刊)昭和20年代に刊行された、いわゆるカストリ雑誌と呼ばれる、粗悪な紙質の簡素な造りの雑誌です。主にエログロ系の記事が多いのですが、現代の感覚からするとそれほど過激な内容とは思えません。「人魚の死」はごく短い小説です。新聞社の記
今日の父の書斎の片付け。デジャヴかと思うほど毎回同じような写真です…父は高校を卒業した後仕事に就かず、夜な夜な新宿や池袋に出かけては飲み歩き、喧嘩をし…という放蕩息子でした。父の実家は裕福でないどころか、長男の父を筆頭にきょうだいは5人。本来なら長男の父は家計を助けるために働かなきゃいけないのに。って、昭和20年代は特にそういう時代だったはず。父と一番下の弟。普通ならこの弟のためにも稼ぐでしょ。業をにやした祖父が知り合いのIさんに相談しました。「うちの息子を使ってくれないか」と
本格的収集を始めた昭和62年、今回の切手を所有するとは思いませんでした。当時旧車で云うならば、ハコスカGTに近い存在。それが・・・・・右が昭和24年発行の月と雁、左が昭和23年発行の見返り美人。共に切手趣味週間。昭和62年当時同じ物が右が2万円超、左が2万円前後でした。(評価によってはもう少し高い事もあった。)この切手は消印が押しにくく郵便現場では嫌われたそうです。この切手で思いだす事は、以前お付き合いしていたとあるお金持ちの方がいて、昭和40年代の半ばに月と雁の切手を
それにしても何とも絶妙な名前をつけたものです、円満な滋養に溢れむくむくといつまでも湧き上がってきそうで朗らかに私たちを明日へ送り出してくれる、しかも肩肘張らずに何か大きな冗談のようにケロッと澄まして(、あとから思えばそのケロッとした目で何と冷淡に自分に寄ってたかった人間たちを見下ろしていたものか)...そんなヒロポンです。1941年に発売されたまったくの日本製でそもそもわが国と縁深いのはこの成分を発見したのが近代日本の薬学が排出した俊才のひとり長井長義であって1883年のこと、析出した植物が<
テレビのなかった子供の頃の大晦日の夜を思い出した。私の家は理髪店です。両親と通いの職人理容師と、住み込みの見習い理容師などで4,5人で営業する、ごく普通の店だったと思う。大晦日は忙しく、年が変わって12時を過ぎまで客は途切れない。。小学生の頃は除夜の鐘を聞くまでは寝ないで、起きいようと店の中で頑張るがダウン。母が寝床に運んだことだろう。中学生にもなるつと最後の客が終わるまで起きていて、下働き、店閉めの最後の大掃除の手伝いをした。た。町の商売をしている家の子供はみな、店の手伝いを
今日は外に出そびれて、家でDVDを観ていました。小津安二郎監督作品「東京物語」。昭和28年の映画ってことは……67年前昔の映画は字幕表示で観るとひじょうに分かりやすい。尾道から東京まで、この頃は鉄道で何時間掛かったんでしょうね。今日はもう寝よう、明日からまた仕事
8月21日このシリーズ、別に餃子をわざと避けたのではなく、お昼を食べたのが遅かったため餃子屋さんが開いてなかったのと、散策に入ると食べたり飲んだりしなくなるので。歩いてたら偶然見つけた「江野橋横丁」。ほとんどビルの間の路地ですが、中を見るとなんとも好奇心を刺激されます。ちょいとみに行って見ようかと。入ってみれば、戦後すぐを思わせる凄まじさ。そこへ木が生えてほとんと魔境化してます。「本当に店が営業してる?」。こういうとこがあるから郊外の街は面白いです。通りに出る通路かと思
「買物ブキ」のジャケットに「東京ブジウギ」の歌がありました。大阪ブキウギもあるのを知りました。ご当地ブキが色々と出来たようです。気になりました。歌詞を探しました。江戸っ子にとって、まず初めに「東京ブキウギ」を見てみました。東京の何処が賑やかに登場してくるかと期待するも、どこもでてこない。それとは対照的に、「大阪ブキウギ」には、生き生きと、戦後の大阪の街が、次々と出て来る。大阪城、梅田、天六、千日前・・・分かる。心斎橋、戎橋、そして船場どれ
前回の続きです。徳岡優文堂大正町店の前身である「東伯文庫」、そしてその奥か2Fにあったといわれる「倉吉経済クラブ」。これを調べてみたら、なんと今でも「倉吉経済クラブ」は健在でした(と思います)。検索すると倉吉郵便局の近くにその名がありました。さて、さっそく続きの写真を見ていきましょう。左の方、完全に脱力しています。なんか楽しそうですが、リラックス度合いが手に取るようにわかりますね。パイプ椅子でしょうか?この時代にあったのかな?意外に木製だったりすることも。ダン
終戦直後の大相撲は、日本国民にとって貴重な娯楽であり心の支えであったことでしょう。昭和20年代、羽黒山、照國、安芸ノ海、東富士、千代の山、鏡里喜、吉葉山、などが力のこもった土俵を展開した群雄割拠の時代でした。YouTube/【横綱伝】昭和20年代
先日の記事で「東伯文庫」の詳細を知りたい、ということで、千葉県にお住いの読者「Aさん」の1枚の写真から所在地や何をしていた施設なのかを検証してみました。戦後まもなくのことですので、なかなか詳細が判明するまでは時間が掛るだろうと覚悟していましたが、地元倉吉の読者の方のご協力により、ものの見事に解決しました。貴重な情報をお寄せいただいてありがとうございました。「東伯文庫」をまとめますと、所在地は大正町。以前に徳岡優文堂大正町店があった場所で、徳岡さんと市議会議長を務められた大橋二郎氏が
★全曲リンクリストは←こちら~~♪あのときあそこでこの歌を…♪~~「北上夜曲」とらカラ028作詞:菊地規、作曲:安藤睦夫、唄:多摩幸子・和田弘とマヒナスターズ、カバー:とらじろうこの歌は、昭和20年代の初めごろから、岩手県盛岡、宮城県仙台あたりから自然発生的に歌われ始め、盛岡や仙台に各地から遊学していた学生たちが帰省した際に後輩などに教えたことから、しだいに全国に広まり昭和30年代初めには歌声喫茶の定番曲の1つとなった。これに着目したレコード各社はレコード化を企画、作者を捜した
沖縄インディーズの歴史がここに!自主制作CD300枚を展示県内の“バンド少年”支えて18年那覇・昭和...琉球新報【那覇】9月に6周年を迎えた那覇市泊のライブハウス「GIG昭和」の店長オーナー・金城忠則さん(54)は、前身の店も含めると那覇市内で18年間もライブハウスを...下立駅難読でしょ?富山地鉄全駅探訪34【50代から始めた鉄道趣味】125ガジェット通信...た。1943年(昭和18年)戦時下の統合で富山の鉄道会社は富山地方鉄道にまとめられ、富山地方鉄道の黒部
伯母の家からこんなものも出てきたww黒電話!しかも・・・・黒電話の最後の方はもっと形がスマートだった。このごつさ!!そろばん!!え、そろばんなんて珍しくないでしょ、って思ったアナタ。今のそろばんは下の玉、4つだからね^^なんでも昔は5つ玉だったらしいけど・・・・・4つ玉で習った私。どうやって計算するんだろうしかもこの黒電話は昭和24年Σ(・ω・ノ)ノ!そろばんは昭和20年6月Σ(・ω・ノ)ノ!まだ戦争やってる最中のもの。いやあ、これは博物館ものだわあ。あ、これは演出