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「朝鮮総督府鉄道局映画」。大日本文化映画製作所が昭和十五年に製作し、清水宏が監督を務めている。映像と音楽のみ。カラー写真はいずれも1996年に撮影したもの。*****まず、明け方の明洞聖堂が映し出される。登校してくる生徒たち。陸軍訓練所。株式会社朝鮮取引所。市内の中心部。人々の日常。密集する住宅。美術工芸品。競馬場、野球場にゴルフ場。京城駅。映画館(上映されているのは清水宏監督の「信子」ではないか…)。市電の乗降客。夕暮れ後の街。西洋レストランにてんぷら屋、そして朝鮮式の宴席。
今11月は作詞家・佐伯孝夫の誕生月。明治35年(1902)11月22日、東京麹町区で生まれている。流行歌の黎明期である昭和1ケタ時代から亡くなる50年代まで、まさに戦前・戦中・戦後の昭和を生きた作詞家であり、希代のヒットメーカーだった。もはや聴くことも少なくなったが、昭和30年代には彼が作詞した歌謡曲が巷にあふれていた。「哀愁の街に霧が降る」「東京の人」「有楽町で逢いましょう」「西銀座駅前」「東京ナイト・クラブ」「再会」「潮来笠」「いつでも夢を」「江梨子」などなどなど。70歳以上あるいは
幕下家の島(上手投げ)良安〇左四つ、右上手取った良安が家の島の下手投げなんなくこらえて起こした末の右の投げ。竜翔(上手投げ)米沢龍〇立つや左四つの米沢龍が竜翔に攻め立てられるも青房耐えての上手投げで勝ち越し。〇清水海(送り出し)出沼出沼の当たりと突進を左に右にかわした清水海が出して崩して後ろ着いて東溜りに。〇大畑(寄り切り)大飛翔左四つがっぷりから上手切った大畑が引きつけ起こして東溜りに。大飛翔負け越し。豪聖山(下手投げ)朝玉勢〇突いて左差しの朝玉勢右も掴
4年生となり、桃山中学独特の「満州旅行」が実施された。これが桃中最後の満州旅行である。行程は2週間、下関から興安丸(戦後復員船として活躍した)に乗船、翌朝釜山(現在の大韓民国、プサン)に上陸し、ソウル、ピョンヤンを訪れた。<ピョンヤンにて1940年5月>特に、ピョンヤンは歴史的遺跡が多く、景観の素晴らしい街であったことが印象深い。今は北朝鮮の首都であり、日本との国交回復が期待されている。鴨緑江を超えて、現在中華人民共和国の北西部(旧満
JamesSetouchi2025.3.27舟橋聖一『りつ女年譜』ドン・キホーテとノラ(?)1舟橋聖一(1904~1976)明治37年東京の本所(現・墨田区)に生まれる。父・了介は東京帝大助教授(のち教授)(採鉱冶金)で仙台藩の儒者の子。母方の祖父は近藤陸三郎と言って古河鉱業の幹部で足尾銅山の所長もした人物で大金持ち。聖一は足尾鉱毒事件は「生まれながらに負わされた十字架」だった。陸三郎の妻(聖一の祖母)が聖一を溺愛、芝居に連れて行ったり花柳界(芸者の世
昭和歌謡の伴奏レパートリーを増やして昭和歌謡バンドでもやろうかなぁ・・と、色々、模索中で時間を割いている1940年(S15)の曲西条八十:作詞服部良一:作曲君がみ胸に抱かれてきくは夢の舟唄鳥の歌水の蘇州の花散る春を惜しむか柳がすすり泣く花を浮かべて流れる水の明日の行方は知らねども今宵映したふたりの姿消えてくれるないつまでも髪に飾ろか口づけしよか君が手折りし桃の花涙ぐむよなおぼろの月に鐘が鳴ります寒山寺銀座カンカ
まだまだ昭和歌謡、懐メロは続く。素晴らしい音楽が多いので何を弾こうか迷う。銀座カンカン娘と同時進行で練習していて蘇州夜曲も、2曲とも服部良一氏作曲の作品。この曲は昭和15年『シナの夜』東宝映画主題歌#蘇州夜曲#服部良一#ピアノカバー#昭和歌謡#懐メロ昭和15年東宝映画『シナの夜』主題歌君がみ胸に抱かれて聞くわ夢の舟唄鳥の歌水の蘇州の花散る春を惜しむか柳がすすり泣くpic.twitter.com/wrBeeMWWI1—non(@non_waltz
DavidMarkによるPixabayからの画像※こちらの記事は、令和元年10月21日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は令和元年の大河ドラマ『いだてん』第35~36回の感想です。【これまでの記事】・第1~3回―異色の現代劇大河・第4~5回―視聴率が伸びなかった名作・第6回―問題なく面白いと思う・第7~8回―感動したまずはあらすじ。昭和15年(1940年)のオリンピックがついに決定した。開催場所は東京(とうきょう)。嘉納治五郎(役所広司)や田畑政治(阿部サダヲ)らの
「東京麦茶」頂きました。お洒落なパッケージ!最高の素材とこだわりの製法の特別な麦茶です。素材には、栽培期間中農薬を使わずに手間暇かけて育てられた国産の六条大麦を使用高品質な六条大麦を、川原製粉所がこだわる伝統の「砂釜焙煎」製法で仕上げています。東京麦茶|川原製粉所昭和15年創業、練馬区の川原製粉所のサイト。東京麦茶について。www.kawaharaseifun.jp
今日(11/28)放送の『ブギウギ』千人針や贅沢は敵!と声を張る婦人会の前に茨田リツ子が通り。派手な衣装・帽子の茨田リツ子にイチャモンつける婦人会の面々。でもでも…茨田さんは、「これは私の戦闘服です」「丸腰では戦えません」と、堂々と対抗する。前回の、警察での尋問でも自分の主張をしっかりと言い信念を曲げない茨田リツ子さん。カッコイイっっっ茨田リツ子は淡谷のり子さんがモデルとのことですが。私が知っている淡谷のり子さんは
原爆は昭和15年に完成していたつまり開戦前宇野正美さんの意味深な言葉本当にアメリカに落とせたんですか空がピカッ🌟と光ったというけど(空中起爆)それならなぜ煙は下から上に流れているのですか【宇野正美】天皇の終焉。狙われる日本と女系天皇について。今後ロシアはイランを動かしていく。イスラエルにはすでに多くのロシア系移民が定住している。彼らは何を成そうとしているのか。ロシアがウクライナに侵攻することで、恐るべき新しい時代がすでにスタートした。#宇野正美#講演会#米中youtu.
8月と言えば子供の頃には夏休みで楽しく遊びに夢中になっていました。しかし二度の原爆投下と終戦の日を迎える季節でもあります。戦争で亡くなられた方には深く哀悼の意を捧げたいと思います。第二次世界大戦の前、日本が統治支配していた時代の台湾、朝鮮のたばこのパッケージが数枚手元にあります。琉球たばこの研究で大変お世話になった方に頂いたパッケージです。戦前の記憶のひとつとして、今回は数少ないそれらのたばこをご紹介します。3回に分けて掲載します。それぞれ《臺灣専賣局》《朝鮮總督府専賣局》と書かれて
どりゃあ~、やっとゲットしたジェ。そっ、矢野顕子のレアな1枚だよ。プロモ盤の「達者でナ」だよ。こりはワタチのご執心なブツの1枚だったのよ。音源自体は昭和51年にリリースさりたライヴ・アルバム『長月神無月』からのシングル・カットなんだけど、正規盤はリリースさりていなくてプロモ・オンリーなレアなブツのよね。にゃにょで、このプロモオンリーのシングルの裏ジャケはこんな感じだよ。何と言っても、ワタチ的に、この楽曲が大好きなのよ。もち、そりはオリジナルの三橋美智也版で馴染みがあるのよね。
速達制度全国化以降における、速達扱いの価格表記便です。乃木2銭と厳島30銭貼で、料金は32銭。昨日ご紹介した速達私葉と同じ料金総額ですが、当然ながら内訳はまったく異なります。こちらの料金は書状4銭+書留料10銭+速達8銭+価格表記10銭=計32銭。差立ては京都志賀郷局(昭和15年9月8日)、到着印はありませんが、大阪市内宛となっています。価格表記郵便の速達扱いは、速達制度全国化以降(それ以前のものはかなり稀少です)でも余りみかけないのですが、最近はモノが出てきて、以前に
先月のJAPEX2022ではブースで少々拾い物がありました。全国化以降の速達私葉です。東郷4銭3連と昭和白紙20銭貼で、料金は葉書2銭+速達料(郵便区市外)30銭=計32銭。差立ては大森山谷局(昭和15年1月6日)、到着印は茨城岩瀬局(昭和15年1月6日)で即日配達となっています。余りみかけない貼り合わせで、かつ気軽に買えるお値段でしたので、衝動買いしました。
落語であなたの人生をナビゲート!HPS〇ら落語コンシェルジュ®相山・美奈:子:です。━━━━━━━━━━━━━・私のプロフィールはこちら・Youtubeもやってます!こちら・相山美奈子のリンクまとめはこちら・お申込みはこちら━━━━━━━━━━━━━祖父の絵が出てきたので、終日整理中です。歌舞伎だけだと思ったら、文楽の絵もでてきました。昭和15年8月明治座の文楽公演のパンフレットも!私としては貴重な資料舞台はいい。ざわざわしたことを忘れさ
筥崎宮の蚤の市。購入品紹介5つ目昔の誰か知らない(あんまり有名ではない)人が作文用紙に書いた本。二眼レフカメラが1000円やった人の店を散策中。何か本を見つけた。読んでみるとなかなか面白ろそうな本。で、読みたいなぁ〜って思って値段も聞かず。「これも一緒に下さい」ってお店の人に伝えると。「え?これ?買ってくれるん?」って店の人に言われて。「まぁ〜面白ろそうやったんで」って伝えて「値段はいくらですか?」ってその時、値段を聞いて。「500円です」って言われて。カメラと一緒に購
みなしゃんお元気ですか、momojiroなんだワン19日の金曜日この日は高校野球も休養日だからどこかに行ってみるか~~~って・・・・・・・牛久の大仏様を右手に眺めながら走るよ走る~~~momojiro号~~~新型momojiro号の初めての遠出だからおいらmomojiroの分身チビmomojiroも一緒なんだワン茨城県を抜けて、いよいよ千葉県~~~ん、何か見えるぞ~~~って・・・・・・はい、着きました~~~~ってここはどこでごじゃるか・・・・・・・・b
実家の片付けに行ってきました。父が亡くなった時父の物だいぶ捨てました。ビデオテープとかカセットテープとか。母の物はそんなになくて。私物といえば服と着物くらい。母は昭和15年生まれ。81歳で亡くなりました。古い人間なので着物も自分で縫っていました。そんな着物が残っていました。私や兄の小学校の入学式に着てくれたり、兄の場合は授業参観に着ていったみたいです。母はとにかく家族に尽くした人生だったと思います。若い時は父に。兄が産まれてからは兄に。私が産まれてからは私に。孫が産ま
山梨県から上海宛ての航空郵便山梨県の差出は山梨県中巨摩郡飯野村差出は昭和15年8月31日で、消印は山梨飯野の櫛型印である。上海到着は、裏に上海の機械印などがあり、1940年9月2日に到着している。書状料金は4銭で、航空料は35銭である。35戦切手が発行されなかったので、切手が2-3枚貼られることになる。第1次昭和の30銭、5銭、4銭切手が貼られた使用例。第1次昭和切手だけなのが良い。たまに25銭切手+14銭切手の組み合わもみる。
①昭和38年下関駅前で歓迎(昭和三十八年)第十八回国民体育大会秋季大会にご出席の天皇皇后両陛下は十月二十九日、下関駅に着かれたのち、林兼産業へ向かわれる。(しものせきなつかしの写真集下関市史別巻より)下関駅西口を大和町へ下関駅西口を経て大和町へ向かわれる。(しものせきなつかしの写真集下関市史別巻より)林兼産業㈱へご到着林兼産業のブラスバンド·ペンギンシスターズに迎えられる。(しものせきなつかしの写真集下関市史別巻より)下関庭球場で第十八回国民体育大会秋季大会の、軟
音もなく静かに雨が降ってます。涼しすぎて窓を閉めました。閉めたら蒸し暑いので、また開けました。音もなく雨が降っています。≪小雨の丘≫昭和15年小夜福子ほ他の歌手達が歌っているけれど、なんといっても小夜福子の歌が一番いい♪ノイズ無しで聴いてみたいなぁ…
昭和12年8月16日以降の速達全国化以降においては、ポスト投函でない速達郵便は窓口での引受けであったことを示すための表示として「速達料金○銭徴収」印が使われました。この表示方法は2年弱続きましたが、昭和14年7月16日以降は「窓口」印に変わり、さらに昭和15年11月15日をもって、この「窓口」表示も廃止されました(速達郵便物のポスト投函自体が禁止されたので、すべての速達が窓口引受となり、「窓口」表示は不要となった画像は、その廃止の約半年前において「窓口」が押捺された使用例です。
前回のブログ「おしゃべりアコーディオン」のリクエスト曲で登場した『高原の旅愁』ご存知の方は少ないと思いますが、聞いてください。明治43年生まれの伊藤久男が昭和15年(1940)に歌った歌≪高原の旅愁≫作曲の八州秀章さんは、原盤では鈴木義章のお名前で発表しています。映画「高原の月」高峰三枝子、佐野周二、飯田蝶子、坂本武・・・この映像を見ると、高峰三枝子が歌っているようなシーンが…お教室のオルガンも懐かしい~!動画の最後に映画「高原の月」より…とありますが、この映画
≪こりゃさの音頭≫Victor灰田勝彦オリジナル昭和15年発売(戦後のプレス)東京大衆歌謡楽団(TTKG)TokyoPopularSongOrchestra(TPSO)字面の好きなTTKGにしよう訪問者の少ないK.のブログだから勝手に省略してもいいかな?と、いうことでTTKGのレパートリーに入っていなさそうな曲を探してみたくなりました♪これは私にとっていい脳トレかもしれません!と云っても、TTKGの歌はYouTubeとCDしか
全国化以降の速達郵便を整理していましたら、このカバーがでてきました。昭和15(1940)年10月29日に兵庫県・淡路島の福良局から差立てられた速達書状です。一見すると、何の変哲もない、ごくごくありふれた速達書状です。宛て先は、徳島県三好郡三野町大字加茂字清水となっています。配達局は江口局で、同日の到着印が押捺されていますので、淡路島から徳島までの速達はかなりのスピードであったことが分かります。ところで、この宛名の右側に「江口郵便局ヨリ郵便」という朱印が押捺されて
おなじみの「皇紀二千六百年記念」の国旗掲揚台なのですがこの掲揚台があるのは、なんと大阪市のど真ん中「天神橋」の南詰なんです。刻まれている文字から、「久良岐組」と言う所が建立して「京橋三丁目町内会」と「京橋三丁目青年団」に寄贈したようですね。建立年は不明ですが、おそらく1940(昭和15)年でしょう。掲揚柱のあった穴に、いつの頃か木の実が落ちたのでしょうね。今では、見事に木が生え、掲揚台と同化しています。----------------------------------------
★全曲リンクリストは←こちら~~♪あのときあそこでこの歌を…♪~~「湖畔の宿」とらカラ071作詞:佐藤惣之助、作曲:服部良一、唄:高峰三枝子、カバー:とらじろう日本が大戦に向けて突っ走り始めた昭和15年(1940)の発表で大ヒット。高峰三枝子は「特攻隊の航空兵たちがこの歌を聞きそのまま出撃していった姿が忘れられない」と何度も語っていた。=※◎※=気まぐれ写真です=※◎※=<鯉>←こちらに参加、アイコンをクリックしていただけると感激です。ご訪問ありがとう