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#牛込家の呪い☠️牛込りみ(以下、りみりん)「…それでね、香澄ちゃんがね…」市ヶ谷有咲(以下、有咲ちゃん)「なんだよ、香澄のやつまたそんな変なこと言いだしたのかよ」????「おっはよー!」戸山香澄(以下、香澄ちゃん)「いや〜、間に合った間に合った」有咲ちゃん「おっせーぞ、香澄!」りみりん「香澄ちゃん、寝坊しちゃったの?」香澄ちゃん「今日はさ、なんか髪型のセットが上手くいかなくってさ〜」有咲ちゃん「髪型って…そのネコミミみたいのか?」りみりん「何があっても絶対に崩れない驚異の髪型
※まことにすんません。一部記憶違いがありました。「顰に倣う」の故事は、同じく古代中国史に名を遺す美女「西施(せいし)」のものでした。こちらに関しましては、次の記事でご紹介します。間違っていた部分は、打消し線で消しましたので、ご了承ください。m(__)mこんばんは。BGMです。映画「キングダム」を見ました。面白かった。原作とはちょっと違ってたけど、それも良し。そもそも、原作は長く続けることが前提になっていて、映画は約2
悪食75点今年60本目監督佐藤信介原作、脚本原泰久脚本黒岩勉出演山崎賢人吉沢亮橋本環奈清野奈々満島真之介岡山天音三浦貴大濱津隆之豊川悦司高嶋政宏要潤加藤雅也高橋努渋川清彦小澤征悦佐藤浩一大沢たかお原泰久の漫画を実写化した2019年
ご訪問ありがとうございます。日課として日々の他愛ないこと書いております。なお、フォロー返しは致しておりませんので悪しからずご了承ください。人見知りで女性は苦手です。またピグも苦手です。中国の春秋時代仲の悪い呉の国の者と越の国の者が偶然同じ舟に乗り合わせたまたま嵐に遭遇しお互いの者が協力しあった。注、舟は比較的小型のふね、船は大型のふね。ということから
今晩は!どうでもいいヨタ噺の時間ですよ。ご家庭や職場でチョットしたネタ噺をお届け!「鳴かず飛ばず」という言葉を辞書で調べてみると「何の活躍もしないでいる様」とあります。恐らく殆どの方は期待をしていた人が全く活躍せずに、期待はずれだった時に「鳴かず飛ばず」という言葉を使いますよね。そのため「鳴かず飛ばず=うだつが上がらない状態」という意味と捉えがちですが・・しかし「鳴かず飛ばず」の本来の意味は、実はもっとポジティブなもの。。。「将来の活躍に備えて行いを控えて、機会を伺っている様子」を
「春秋時代の勘違い(;´Д`)」最近、筋トレする時はスマホかタブレットでYouTube番組を見ながらやってますが、この時に選択しているのは歴史系か健康系か政治系が多いです。その中の1つに、非常に癖が強いながらも、「ぴよぴーよ速報」を気に入ってます。口調でダメだと言う人も多いかと思いますが、(実は私も最初はそうだった)慣れると実に面白いです。さて、中国史の一連の動画を見ていたら、春秋時代についての説明がありました。何となく思い込みで1300年代くらいの時代
【木造駅舎カタログ】東北本線18/100鶯谷駅|鉄道コラム鉄道チャンネル1928年(昭和3年)京浜線は赤羽駅まで延伸され京浜東北線になります。現在の南口駅舎は昭和初期に線路の上に高架の土台を作りそこに建てられました。駅の南西(...小さな古墳、大きなロマン26遺跡の出土品を春日井で展示-中日新聞中日新聞春日井市内の古墳をはじめとした二十六遺跡の出土品などを展示した企画展「7世紀の古墳文化〜春日井の小さな古墳の物語〜」が、同市柏原町一の...11月10日は「エレ
みなさま、昨日もありがとうございました。今日は土曜日なので、「ごじたくーる歴史模擬授業編」の更新をば♪詳しくはこちらを↓最初に『ごじたくーる歴史模擬授業編基本情報まとめ記事』みなさま、ありがとうございます。今回は、今後のためを見越して定期的にリンクをはるためのベース記事をアップしています。1:はじめにこんにちわ、初めまして、セザー…ameblo.jp先週は中国文明、殷王朝について、お話ししました。前回の話はこちら↓『「ごじたくーる歴史模擬授業編」6中国文明─殷』みな
はい!奈央です。日本の弥生時代はどのようにして開かれたのでしょうか?私たちは、平和な縄文時代争乱の弥生時代そんな風に学んできました。それでは、弥生時代の争乱っていったいどうして起こったのでしょうか?丸地三郎氏が季刊「古代史ネット」第2号に寄稿された論文をご紹介します。弥生時代の開始時期論文の骨子*内容は後に図入りで説明します。スキップされても結構です。1.日本への水田稲作渡来が二度あった。2.二度目の渡来時期に「弥生の戦争」が発生して
幸福後衛魔導師(ハピネスキャスター)の瑞姫です☆万葉の湯3F、占いコーナーは、8月から再開です。(土・日・祝)ただし、コロナの感染状況によっては、お休みすることもあります。瑞姫は8/29(日)に出る予定ですが、上記の通り、状況によってはお休みするかもしれません。お休みするときは、このブログでお知らせします<(__)>゛春秋左氏伝から、易占で面白い話があるので、動画にしました。穆姜(ぼくきょう)という王妃が愛人と共謀して、国王を継いだ息子から全てを奪おうと企み、閉じ込め
中国の春秋時代には、醍醐という食べ物があった。醍醐という言葉は、仏教の経典に出てくると言いますから古いものです。一口で言えば牛乳を煮詰めたものが「酪」で、それを幾つかの精錬工程を経て出来上がったものが「醍醐」。一斗の牛乳から数パーセント、2-3合しか出来ないともいわれ貴重なものだった。その濃厚な味わいは最高のものとされ、醍醐味の語源になったことはいうまでもありません。現代でいうカルピスや飲むヨーグルト或いはレアチーズのようなうなものだなど諸説入り乱れ実態は不明のようです。その
薪胆か君臣難関艱難辛苦感嘆し(しんたんかくんしんなんかんかんなんしんくかんたんし)ますお意味臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の故事をみるようです。主君と臣下のものが難関に遭遇して、艱難辛苦をともにする様子。感嘆しております。この君臣とは、例えば、義経、弁慶に見立てることもありでしょう。義経は幼い牛若丸のころから、臥薪嘗胆、艱難辛苦の一生でした。臥薪嘗胆とは春秋時代(紀元前770~紀元前403)、呉王夫差は越王勾践を討つために、
高校生の頃から次男は中国春秋時代などを描いた小説など宮城谷昌光の著書が好きで読み漁っていましたそれから孟嘗君(もうしょうくん)が好きで彼の言葉をよく教えてくれました中国の戦国時代の君子(もうしょうくん)の言葉に狡兎三窟(こうとさんくつ)と言う教えがあります軍師が提言したもので、孟嘗君(もうしょうくん)が職を解かれ自分の領地に逃げ帰った時、彼にはその土地だけしかありませんでした不安になっていた彼に軍師が賢く用心深い兎は身の危険から逃れるために3つの隠れ穴を持っ
春秋の五覇楚の荘王(そのそうおう)呉王闔閭(ごおうこうりょ)越王勾践(えつおうこうせん)晋の文公(しんのぶんこう)斉の桓公(せいのかんこう)その~相応の御考慮を!僭越ながら、新聞の一斉の刊行やめて!その~相応=楚の荘王(そのそうおう)御考慮=呉王闔閭(ごおうこうりょ)僭越=越王勾践(えつおうこうせん)新聞=晋の文公(しんのぶんこう)斉のに刊行=斉の桓公(せいのかんこう)最低先生、彼らしく今日も生きています。「ベン座の怪人」編の始まりです。
題名:-呉越春秋-湖底の城九ASIN:B08DCQ6W8Z著者:宮城谷昌光出版社:講談社文庫メモ:第8巻で、呉の捕虜となった越王句践范蠡が幽閉される代わりに釈放され、越に戻ることとなるこの間、所謂臥薪嘗胆の「嘗胆」の部分だが、臥薪の部分と同様、一切の記載は無いいや、臥薪については、薪の上に寝たのではなく、薪の中に寝た、と書かれた文書がある、と書いてあったが、いずれにしろ、後世の捏造嘗胆も同様、実際に肝を嘗めたわけではない奢れる呉王夫差は、諫め
笑わない女がいた。周の幽王の后、褒姒(ほうじ)である。褒の国で育った捨て子で、褒の国が周の国から罰を受ける際、美しく成長した彼女を周に献上したということになっている。幽王が彼女の美しさに惚れ込んで、彼女を後宮に入れただけでなく、正室である申后の子で、太子に立てられていた宜臼を廃し、褒姒の産んだ伯服を代わりに太子に立てた。そのことを不満に思った申后の一族申氏は、犬戎などの各勢力とはかって、時を待っていた。そして、都を襲撃し、幽王は捕らえられ殺害されてしまった。太子の伯
昨日は春秋時代の呉の国の舞台、木渎とその周辺をぶらぶらしてきました。地下鉄で木渎駅まで行ってからレンタル自転車借りて現地にむかったんですが木渎周りって自転車置き便がなく返却場所探すの大変でした。自分の自転車買おうか本気で考えました!結局20分ほど歩いて山の麓に着きましたが、道路は大渋滞でしたのでこちらで正解だったかも午前中お寺にお参りした後、お寺までの途中にあった名物和尚麺を堪能。お店は混んでましたが1人なので相席で大丈夫でした。お寺までの30-40分ほどの階段は辛かった(お水持ってくこと
建国記念日の意味、知ってる?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう2月11日は「建国記念の日」です。「建国記念日」ではなくて・・・「建国記念の日」なのです。わたしは随分前には「建国記念日」だとずっと思ってました(笑)「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として、1966年(昭和41年)に『紀元節』から『建国記念の日』という名前に改正され祝日として翌1967年(昭和42年)より適用されたとのこと。なぜ2月11日?初代
許穆夫人(许穆夫人)春秋時代、東周が宗主国であるものの、国土は実質、小国に分かれていた。そのうちのひとつ、常に北狄の脅威を抱える衛国で詩会が開かれることになった。だが、招いた各国の王侯が到着しても、君主の懿公は鶴と遊んでいて姿を見せない。業を煮やしたのは最大の力を持つ斉国の桓公である。桓公は鶴を切って捨ててしまった。その後に開かれた詩会では桓公が刺客に襲われ、両国のあいだに不穏な空気が漂う。ところで、この詩会には別の意味があった。懿公の妹、淇の縁談である。彼女は
【キングダム】穆公(ぼくこう)はまれにみる名君だったのか?歴史の中の秦の穆公歴史関係の本を読むのが好きです。漫画でもキングダムを愛読しています。最近読んだ「人物中国の歴史Ⅰ大黄河の夜明け」(集英社)で、秦の穆公がでてきました。そうです。キングダムで、山の民と友好関係を築いて、秦の勢力圏を西側に大きく拡大し、秦王・政(のちの始皇帝)をして、「穆公はまれにみる名君だった」と言わしめた秦の君主です。以下が
玄は暗い。暗いは→黒黒=玄を北に配し向は『北向きの窓』漢語林玄を臨むか大原神社の→大原は太原→太ははじめ→大本の意味はじめ(太)は晉國山西省→晉の都を指す晉は、周の二代め→成王の弟の叔虞(懼)が封ぜられた国で成王は、武王の長子、父王が出征途上で亡くなり幼少時に即位した叔虞は、武王の第三子or末子。叔の俗字がこれ!シュク枝に付いている豆この豆は、いとけない、幼ない弟たちor善良な叔父→旦と召公奭+斉の姜呂尚∴豆と豆がら→周
今日は朝から映画館に通って、ついに新生星組の『眩燿の谷』大千秋楽公演をライブビューイングで観ることができました!【あらすじ】紀元前の中国大陸に西の地からやってきた流浪の民“汶(ブン)族”は、彼らの神“瑠璃瑠(ルリル)”の使いに導かれ、豊かな自然と土壌を持つ“亜里(アリ)”という地にたどり着いた。そしてその地に「汶(ブン)」という小国を築きあげる。紀元前800年頃、勢力を拡大する周の国は、汶族の首領・麻蘭(マラン)を征討し、汶を攻略。ここに汶族は周国の統治下に置かれる。その美しい亜里の地に
まず土用の丑の日は土曜の丑の日ではないことをしっとけwわざと逆wここのうなぎは日本一場所はナイショwでは解説を夏の「土用の丑の日(どようのうしのひ)」にうなぎを食べることが常識のようになっていますが、なぜうなぎを食べるのか?いつからうなぎを食べるようになったのか?ご存知ですか?2020年の「土用の丑の日」はいつ?2020年の「土用の丑の日」は以下の通り。夏だけではありません!冬…1月18日(土用入り)春…4月16日(土用入り)夏…7月21日(一般的な夏の「土用の丑
臥薪嘗胆読みかな:がしんしょうたん<意味>目的を成し遂げるために、苦難に耐えること。<解説>春秋時代の呉王夫差(ふさ)が仇討ちの志を忘れぬよう薪の上に臥し(臥薪)、志を果たした。一方敗れた越王勾践(こうせん)は苦い肝を嘗め(嘗胆)、屈辱を忘れないようにして怨みを晴らしたという故事から。<例>2年前には予選さえ突破できなかったチームが、臥薪嘗胆の末に、見事に優勝した。
隅グウはすみっこ。四すみある。『その物のひとすみだけを知らされてほかのすみがどこにあるかを類推することを隅反ぐうはんという』では、さっそく始めてみます①西陬セイスウは西方のいなか、西の果て。陬は隅。漢語林P1289.1514陬邑は春秋時代には魯にあった(臨沂)②曲くまは隈くま。湾曲したところ。すみ。漢語林P649→曲阜。曲阜は周代に魯に周公旦が都したところ。今は山東省。③北曲は北の隅。漢語林P203元曲→北方の大都。今の北京
開発された都市部に残っている少し古いものを探してみようという活動の続きかつて南園村だったと思われるところを経由して、現在の南園村エリアに入りましたこういう門は大通りに面したところに設置されていて、入ってすぐのところは比較的広い通路になってますが少し進めばまたこのとおり広場の先に見えました呉氏宗祠です呉氏は春秋時代の呉の国が発祥という話もあるんですけど、その頃の中国は確かこっちの方まで含んでなかったはずだし呉の国の領土は長江付近で南の方というわけでもないので、真偽の程は不明まあ、そ
つい最近……………キングダムのアニメ………シーズン1シーズン2見ました(´・ω・`)かなり驚いております(꒪⌓꒪)キングダムの時代の春秋時代……………日本に例えたら…………縄文時代の後期…………と、なりますね(꒪⌓꒪)(꒪⌓꒪)(꒪⌓꒪)えっと……………(´・ω・`)そんな昔から…………戦があったのですね……………( ̄◇ ̄;)しかも……………軍師(宰相)までいるとは…………………(꒪⌓꒪)(꒪⌓꒪)(꒪⌓꒪)↑かなり驚きです(꒪⌓꒪)(꒪⌓꒪)(꒪⌓꒪)その上…………縄
傘って雨傘よりも日傘が先に誕生していたと今日知った玄子(げんし)です。長傘派?折り畳み傘派?ビニール傘派?ー止みそうにないなら長傘、晴れる予報が出ているなら折り畳み派です。▼本日限定!ブログスタンプ昔は日傘として傘をさすのが常識だったので、雨の日は・・・雨のシャワーを浴びるのが普通だったとか。けど、これは雨の日傘ささなきゃズブ濡れになるだろその程度さ笑うだけさってやつです。日傘が傘の常識だった18世紀のイギリスでは雨の日に傘をさすと笑われていたそうですは?
カマキリの子供を見つけました。下の写真の右側に写っているのは、人差し指の先です。指を近づけると、警戒して立ち上がりました。小さな小さなカマをふり上げようとします。カマキリの子供にしたら、指は怪物そのものです。まさに、蟷螂の斧です。その根性だけは立派です(笑)昔、漢文で習った蟷螂之斧(とうろうのおの)を思い出しました。中国春秋時代、斉の荘公が猟に出たその車に、カマキリがかまを振り上げて立ち向かい、荘公は勇者であるとほめて、車を迂回させてカマキリをよけて通