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日本は晩春は桜ですが中国では桃であり、桃と言うと桃源郷が思い浮かびます。桃花源記という中国の小説に桃源郷は出て来ます。東晋の陶淵明が撰したもので、武陵の漁師が渓流で道に迷い、桃林の奥に秦の戦乱を避けた人々の隠れ里を入ってしまう。もてなしを受け帰宅して、再び訪れようとするがどうしても見つからなかった、という物語が桃源郷の言葉の由来です。老子道徳経の小国寡民は次のようになっています。什伯の器有れども用ゐざらしむ。民をして死を重んじんて遠く徙らざらしめば、舟輿有りと雖も、之に乗る
こんにちは♪資格取得試験の勉強の前にセピアさんのYouTube動画を見ています。『セピアのゼロから歴史塾』こちらのブログで何度も紹介しています。私のオススメYouTubeチャンネルです。今回は中国の春秋時代を解説されていました。春秋時代といえば論語孫子の兵法中国史の中でも中身の濃い時代だと思います。尊王攘夷の語源周王を尊んで夷狄を討ち払う実は紀元前からあった言葉だったのですねすごーく勉強になりました
塾長の書斎更新:「管仲(上)(下)(151)」をUPしました。https://fusanokuniinoujuku.vitaly.jp/book_blog/book151/#古代中国#歴史小説#宮城谷昌光#春秋時代#管仲#鮑叔#斉#桓公#管鮑の交わり#文集文庫
麻生さんの『揶揄発言』に『上』対応の上川外務大臣。『正面』から『怒れ!』の指摘がある中での国会答弁は『脇目も振らず一意専心』であった。『一意専心』。原典は中国春秋時代の『管仲』の書『管子』。かつて相撲の若乃花が『大関昇進時の口上』で引用した。昨年の国会答弁では岸田さんがこれを引用しこの度は上川さん。決して悪い言葉ではないが『政治家』は時に『両脇』や『下』を見たりつまり『脇目』も大事かなと思った次第だ。『脇目』で見えてくる『世界』もあろう。元NHKアナウンサー吉
沙中の回廊上下巻セットAmazon(アマゾン)古代中国の晋で最高の宰相と絶賛された「士会」の、兵法に優れ、義・礼・徳を体現する生涯を描いた作品。晋に戻った重耳(文公)の時代から始まり、宮城谷氏の作品「重耳」と重なる個所を掘り下げての描写から始まります(なので重耳を読んでいると分かりやすいです)。晋の正卿趙盾の隣国の秦に対する礼の欠いた心変わりに、士会は秦への亡命することで無言の批判をします。秦では康公に気に入られ軍事顧問となり、晋を脅かしますが、人の命を奪わぬよう策略を講じま
<無料フリースクール雑学講座-63>【中国の歴史-1】・先史時代長江、黄河、遼河時代三皇五帝・夏王朝・殷・商の時代・周王朝・春秋時代春秋五覇(晋文斉桓)名宰相・子産名将・孫武諸子百家思想家・孔子/孟子名言、夏姫・西施等々
塾長の書斎更新「重耳(上)(中)(下)(143)」https://fusanokuniinoujuku.vitaly.jp/book_blog/book143/#小説#講談社文庫#春秋時代#文庫#宮城谷昌光#重耳#晋#春秋五覇#周王弼#文公#覇者
「星漢燦爛」にハマってます。ラブ史劇、あと数回で最終回が待ってます。笑えるシーン、シリアスなシーン、恋愛模様や家族との関係、争い復讐などあり面白いですね。登場人物のモデルは史実のようです。ビックサイトでのモビリテーショー2023での写真
塾長の書斎更新介子推(139)https://fusanokuniinoujuku.vitaly.jp/book_blog/book139/#小説#講談社文庫#春秋時代#文庫#宮城谷昌光#介推#重耳#春秋の覇者
やっとみ始めました。これも幸薄い女の子が継母にいぢめられ、、、かと思いましたが、ちょっと捻って実母との確執が大きかったりします。しかし、主人公は躾や文字とか書けなくても、才能と観察眼で相当なレベルに達しているのでした。この主人公も明蘭と同じで、美人!というよりも個性的な顔立ちで、最初見た時は、「星漢燦爛(せいかんさんらん)」の主人公チャオ・ルースー(趙露思)が夢華録(むかろく)の主人公の趙盼児:リウ・イーフェイに似てる!しかし、若い。10
悪食75点今年73本目監督佐藤信介原作原泰久脚本黒岩勉出演山崎賢人吉沢亮橋本環奈清野奈々満島真之介岡山天音三浦貴大杏山田裕貴高嶋政宏要潤加藤雅也片岡愛之助山本耕史長澤まさみ玉木宏佐藤浩市大沢たかお吉川晃司原泰久の漫画を実写映画化した第3作目。二子玉川109シネマズへ。鑑賞結果、見事なほどのスケール感とアクションですが、一つ
その人を知らざれば、その友を見よ孔子(紀元前552年または551年-紀元前479年)孔子(こうし/くじ、英語:Confucius[kənˈfju.ʃəs]、拼音:Kǒngzǐ、朝:공자[ˈko̞(ː)ŋd͡ʑa̠]、紀元前552年または紀元前551年-紀元前479年)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖[1]。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子は尊称である。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は
(122)夏の牡丹餅季節には、春夏秋冬のほかに、二十四節気という季節の移り変わる小さな変化を「立春」や「夏至」、「処暑」、「小雪」など、美しい言葉で表現する慣わしがあります。ヤマアジサイ奈良・矢田寺にて二十四節気では、およそ6月21日から7月6日ごろまでが『夏至』。北半球では一年中で最も昼間が長い時期です。梅雨の中休みの日など、いつまでも明るく、夕方の散歩道に紫陽花、タチアオイ、アザミなどが咲いて、6月は本当に良い季節なんだな、と思います。ノアザミ
こんちゃ。ぼなんざ★です!最近どハマりしまくっている「史上最強の哲学入門亅、哲学者の考えって千差万別で魅力的なんですよ〜。今回は儒教の始祖「孔子」の思想、仁•礼とは何ぞや?という事でめっちゃ簡単にまとめました。<仁>とは、一言で表すと愛することである。中身は…孝悌…子が親に尽くすこと、弟が兄に尽くすこと克己…私利私欲を抑えること恕…他人に対して思いやりを持つこと忠…自分の心に素直であること信…人を欺かないこと↑この5つで孔子は特に孝悌は仁を実現するには基本中の基本
紀元前403年、周の威烈王によって、趙氏・魏氏・韓氏は、正式に諸侯となった。そして、紀元前349年に、晋公室の僅かな領土は、趙・韓の連合軍が、分割し、静公は庶民となって、晋は、完全に滅亡した。晋の文公以来、南方の楚と中華の覇権を争い続けた、大国の晋は、事実上、自滅したと言える。三家文晋によって、新たに、趙・魏・韓の三国が、誕生した。晋陽の戦い以前、趙鞅が没し、趙無恤が、後継者になると、趙無恤は、喪服を脱がない内に姉婿の代王を偽りで、招待して宴を開き、代王を討ち取って、代を簒奪し
韓氏の当主、韓不信は、中行寅と不仲であった。魏氏の当主、魏侈は、士吉射と不仲で、智躒は、韓不信、魏侈と共に定公を奉じて、中行寅と士吉射を攻めた。中行寅と士吉射が、定公を攻撃したため、国人の反感を買い、敗北して、朝歌に逃れた。趙鞅は、絳に帰還した。紀元前496年、晋軍が、中行寅と士吉射の拠る、朝歌を包囲した。晋軍が、中行寅と士吉射の軍を潞で破ると、更に、鄭軍と士吉射の軍を百泉で、勝利した。紀元前494年、斉と衛が、晋の士吉射を救援するために邯鄲に出兵すると、五鹿を包囲し、
羊舌肸は、卿ではなかったが、平公の側近として、卿の相談役として、晋の政治に対して、絶大な影響を与えた。羊舌氏は、姫姓であるため、晋の公族であるが、どの晋公の子孫かは、不明である。羊舌氏は、晋の権門の六卿の家柄ではなかったので、国のため、派閥を越えた、判断を必要とされるたびに、晋の君主、正卿は、叔向に下問した。紀元前520年、周王室において、景王が、狩りの最中に急死した。太子の猛(後の悼王)と王の庶兄である、王子朝との間に後継争いが勃発して、周都が、灰燼に帰した。趙鞅は、太子
晋の悼公が、太子彪(後の平公)の元服後、台上に昇り、国都の絳城内・城下を見下ろし、「楽しいものだな」と言った。側に控えていた、汝斉は、「下の眺めが、素晴らしくても、徳義を行う、楽しみに及びません」と言った。悼公は、「何を徳義というのか」と問うた。汝斉は「諸侯の行為をみて、善事を行い、悪事を戒める。これを徳義と言います」と答えた。悼公は、「その徳義を実行できるものは、誰か」と問うた。汝斉は、躊躇わず、「羊舌肸が、諸国の歴史を熟知しております」と薦めたため、悼公は、羊舌肸を太子
しかし、智罃は、魯の仲孫蔑の進言を受けると鄭に近い、晋の虎牢に城を築き、威圧した。その結果、直接、戦闘することなく、鄭を晋の傘下に収めるのに成功し、智罃は、大いに、面目を施した。紀元前566年、韓厥が、老齢の為に正卿を引退すると、次卿・中軍の佐の座の智罃が、正卿・中軍の将の座に就いた。邲の戦いで、捕虜の憂き目にあってから、三十一年目にして、遂に、その汚名を雪いだ。しかし、同年、嫡男の智朔が、息子の智盈、即ち、智罃の孫の誕生直後に急逝するとの悲運に遭遇する。その後、智罃は、晋
日本で最もよく食べられている外国の料理は中華料理でしょう。おっと間違い、中華料理と云うと日本で成立した中国料理(いわゆる町中華)を指すようで、中国の料理は中国料理と呼ぶようです。日本語は難しいですね。今回は、シングルマザーが育てた知の巨人、孔子が食べていた食事の話です。孔子は、今からおよそ2500年前に中原地方魯国(今の黄河中流地方)に生まれ、士太夫(官僚・政治家そして思想家)として活躍した人物です。今回は、彼の食べた食事から当時の中国中原地方の食文化を紹介
しかし、士鞅と激しく、対立していた、魏侈が、智躒及び、韓不信と共に趙鞅に協力する、姿勢を取り、晋の定公を抱き込んだため、士鞅は、孤立した。そして、士鞅は、正卿・中軍の将の辞任に追い込まれて、失脚したのである。士鞅の失脚を境とし、士会の子孫で、士氏の分家の范氏は、急速に衰退への道を辿ることになる。晋の六卿の一つ、智氏は、中行氏と同様、荀息の子孫である。荀息の姓は、不明であるが、元の氏は、「原」である。晋の分家、曲沃の武公が、翼の本家を滅ぼすと、原息は、武公の大夫に任ぜられた。
士鞅は、秦の景公の働きかけによって、程なく、晋に帰還するが、欒氏に対し、深い恨みを抱くようになる。欒黶の妻は、士匄の娘であったが、紀元前552年、欒黶の没後の生活の乱れを子息の欒盈に指摘されたことを怒り、士鞅に欒盈の謀反を讒言する。欒氏追い落としの好機と捉えた士鞅は、士匄に敢えて、讒言を聞き入れるように進言した。士匄は、それを受け、欒盈を追放し、晋国内の欒氏の勢力を壊滅させると同時に、士氏の勢力を拡大させた。紀元前550年、欒盈が、斉の荘公の支援を受けて、残党を糾合すると、晋に
紀元前576年、鄭は、楚に領土を割譲して、和睦し、楚の盟下に置かれることになった。晋の厲公は、元々、自分に従っていた、鄭の背信を正すために、衛・斉・魯などを従えて、鄭を討つことにした。鄭は楚に救援を求めたため、紀元前579年の講話のわずか、四年後、晋と楚は、再度、戦うことになったのである。紀元前575年の鄢陵の戦いである。戦闘は、楚の共王が、晋の大夫の魏錡に目を射られて、負傷する程の混戦となる。共王は、怒って、家臣の養由基に命じて、一矢で以て、魏錡を射殺させた。しかし、
范氏は、士氏の分家で、士会が、晋の景公により、范及び、随の地に封じられたために、范氏と呼ばれるようになった。士会は、晋の文公の祖父の武公、父の献公に仕えた、士蔿の孫に当たる。士蔿の祖父は、周に仕えた、杜伯、父は、隰叔で、姓は、祁である。晋には、その他、祁姓の家臣が、仕えているが、明確な関係は、不明である。士会は、士蔿の息子、士缺の末子で、士氏の本家ではない。士会は、城濮の戦いに従軍し、その後、晋軍の帰還の際、文公によって、車右に指名される。車右は、君主と同じ、馬車に乗っ
紀元前476年、周の敬王が、死去すると、息子の姫仁が、王位を継承した。元王である。紀元前473年、越王勾践が、呉を滅ぼし、北方の瑯琊に遷都した。勾践は、斉・晋等の諸侯と徐州にて会盟した。元王は、勾践を覇者として、承認している。紀元前468年、元王が、死去すると、息子の姫介、即ち、貞定王が、周王の座に就いた。紀元前441年、貞定王が、死去すると、長子の哀王が、即位した。しかし、三カ月後には、弟の姫叔襲に殺害された。姫叔襲は、思王として、即位する。わずか、五カ月後、
呉越春秋湖底の城一/宮城谷昌光Amazon(アマゾン)99円Amazon(アマゾン)で詳細を見る楽天市場で詳細を見る★★★★★急に宮城谷昌光さんの本が読みたくなり、いつの時代の誰が主役の本なのか分からずに著者だけで選ぶ。全九冊もある長編を選んでしまったらしい。時は春秋時代末期の呉と越が舞台の様だ。越王勾践に覇を唱えさせた名将・范蠡(はんれい)の類稀な生涯を壮大なスケールで描く。とのことだがまだ登場せず、楚の人、伍子胥が主役に見える。経営
欧米各国で「孔子学院」の閉鎖が相次ぐ中、中国共産党は広域経済構想「一帯一路」を推進する目的で「魯班工房」を開校させている。孔子学院は中国の言語・文化を教える機関であると主張していたのに対し魯班工房は職業訓練校であるとしており途上国への技術指導と発展を名目としている⇒2016年天津市政府が泰国(タイ)に設立したのが最初で中国の技術を国際的に拡散し、人材育成を目的としている。中共の主張⇒中国企業に相応しい専門的・技術的人材育成の為の訓練校で中国の技術と製品を理解し精通する人材を育成⇒産業用ロ
人生とは、その時々に自然に変化し、移りゆくものだ。変化に抵抗してはならない。それは悲しみを招くだけである老子(紀元前6世紀)老子(ろうし)は、中国春秋時代における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激し
友達への道案内です(´艸`)いま虎丘の斜塔が14年ぶりに内覧を行なっています。完全予約制で、1日5回20人づつ約10分間の自由見学ができガイドさんに塔について由来を聞いたり質問も出来ますまた、「虎丘夜遊」というイベント期間中で夜は幻想的なプロジェクションマッピングを行っているようです中国史上最も優れた書家である王羲之の文字(剣池の赤文字)とココに埋蔵されたとされる3000本の名剣をモチーフに白い虎まで描かれていますね(´∀