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明治維新(=瓦解)以降…欧米の鬼畜文化に迎合し…日本人は、その本来の精神を失ってしまった。もちろん、日本文明にも弱点はあり、欧米文明にも優位性はあった。大きく後れを取った軍事技術等の挽回には、必要な決断だったかもしれない。しかし、自分自身を見失い、相手に追従し、迎合するだけの文明は、いずれ滅ぶのである。江戸時代においては、「仇討ち」や「無礼討ち」という制度があった。感情論としては、そっちの方が素直でよいと…元に戻せと…そんな声もあるよう
おはようございます🤗今回は山口市にある十朋亭を訪れた時の事を書いていきますねヽ(=´▽`=)ノ前に来た時より綺麗になってましたよ😳💦(全く別物でした💧)看板も十朋亭維新館に変わっていましたよ((o(´∀`)o))ワクワクそして入り口も違う場所にΣ(゚Д゚)💦💦十朋亭の新しい説明板です(≧∇≦)ノ✨こちらが十朋亭になります(≧∇≦)ノ✨ここで高杉晋作さん達が話し合いをしていたのですね(人´∀`).☆.。.:*・゚✨✨
4.19_鹿児島の旅2日目鹿児島市内を中心に回りました🚖薩摩藩の歴史が凄かったです大山巌元帥誕生地鹿児島中央高校のバス停のところにある大山巌元帥の誕生地です明治・大正期の陸軍軍人、政治家。西郷隆盛の従弟。日本陸軍の創設者の一人で陸軍大臣や参謀総長を歴任。日清・日露戦争では総司令官として部下に権限を任せる寛大な指揮で大きな勝利をもたらした元帥・公爵である。この説明を観光タクシーのおじさんが詳しく話してくれましたこの辺りは武士の居住地だったとかこの辺りは商人町だった
本書より】単純すぎる日本国内の右と左の外交論議伊藤貫長州・薩摩の(あまり教養の高くない)下級武士たちが短期間で作りあげた明治体制を「国體」というのでしょうか、それとも飛鳥時代から江戸時代まで千二百年間以上続いてきた日本人の価値規範・統治体制・政治文化を「国體」と呼ぶのでしょうか。明治維新を実行した長州・薩摩の下級武士たちは、国学とか水戸学とか呼ばれる国體思想を、彼らの新体制の中心に据えました。彼らが採用した水戸学によれば「日本民族に仏教は不要だ」ということになっており、新
明治から昭和の戦前まで、南北朝時代の天皇は「南朝が正統」とされ、異論は許されませんでした。現実の天皇は北朝の子孫なのに。たとえ学問の分野でも、うっかり足利尊氏や北朝を擁護するようなことを言うと、ヒステリックに非難され、弾圧されました。なんでか?明治維新、という政治運動が「南朝正統」という思想をドグマとしていた、からです。幕末に活躍した「討幕の志士たち」が自分たちの活動の基盤とした思想は、「とにかく天皇は神聖で、天皇に逆らう者は悪である」という「尊皇思想」というヤツです。天皇の意志に叛
🍀2025年9月16日🍀監督エドワード・ズウィック「奴らに屈していれば、私の頭皮は綺麗に剥かれ、ハゲ頭と化していたでしょう」シャイアン族「相手が貴様ならただで殺す」「ブラックフット語のように、大尉は日本語も覚えるさ」「舌をちょん切り、釜茹でにしろは?」武士の頻出単語?ぶし☆たん、とか発売されてそう。🤭「米はいくらでもある!」無い・・・。(令和7年)「日本の男はこのようなこといたしません」やれよ、荷物運びくらい。かけるな。笑トム・クルーズ、意外と着物似合うね〜。
泊まりました。日光から東北自動車道、中央道、圏央道をひたすら走り、箱根・富士屋ホテルへ到着~こちらのホテルは増築を繰り返しているため、たくさんの館があります。画面が暗いですが💦私が泊まった花御殿は2⃣です↓こちらは、本館です。本館ロビー↓富士屋ホテルも、明治維新後の1877(明治11)年リゾートホテルとして開業しました。発展の礎となったのは、日光金谷ホテル、創業者の次男である正三が富士屋ホテルに婿入りしたことだそうです。両ホテルは助け合い研鑽を積んでいきました。↓
答えは・・内戦。歴史的にみても民主主義国になってから日本では起こっていない。近隣諸国ではモドキも含めれば比較的安易に起こっている。原因は貧困や政治不信や災害・・・日本では起こらない・・起こったためしもない・・。明治維新で整理されて以降起こっていない。現状の世界的な不況がこのまま連続してますます悪化していくと・・各国が自滅していく。暴力的な内部抗争で自滅してしまう。日本はそうしたことは起こらない・・・隣国で起こったとしても反面教師として国民個々に自重するから起こらない。
新幹線で越後湯沢に一度下車して、それから再び新幹線に乗り、上野へ。パンダのいない動物園。今年は100周年が多い。トヨタ自動車、集英社、キューピーマヨネーズ、NHK…いっぱいありすぎ。東京都美術館も、竹の台陳列館を経て、東京府美術館から100年。美術団体の国画会も100年目。設立決定は前年度で、『国展』が開催されて100回目。当時日本画という言葉も概念さえなかった時代。明治維新後、近代国家がつくられ、日本語が国語として統一され、国歌・国旗が制定され、それまでは西洋の模倣だった
この動画は、現在の日本が戦前(1941年)の状況と酷似しており、着実に「ドンパチ(戦争・武力衝突)」の準備が進められているという都市伝説的な視点から警鐘を鳴らす内容です。00:00イントロ『日本はすでにドンパチの準備が整っている』02:25変容する日本の法制度と国民意識のねじれ07:03アメリカによる日本の軍事的役割の拡大10:222026年日本の激変14:06日本国民の意識の変化16:572026年は1941年と同じ状況18:47明治維新に仕込まれ
人間のあまりにも大概さに情けない方が先来るのか…だから、幕末に政り人を消してはいけなかった。それを、わざわざ消しておいて、その消した本人たちがなるって言う、自覚があれば良かったが、結局のところ、国家を私物化する事しか、考えてなかった。大日本帝国という、偉そうな国家も、たった80年程で滅んでしまって、アメリカに良い様に言われて、やられて、こんなありさま。だから、明治維新は何もかもダメの元である。その為、戦後や今も良いとは言いません。決して。戦前が正しいとも思えない。だか
元々、日本人はこういう感じだった。違っていたのは、上にいた政り人という層。政り人が政治を一手握ってくれたおかげで、庶民は3000年近く、大和朝廷の王朝の元、日本が成り立っていた。しかし、薩摩、長州、土肥、土佐の連中がひっくり返して、こんなことになってしまった。言い方は悪いが、だから、今の日本はアホがアホを選ぶ政治。或いは、バカがバカを選ぶ政治。それを、やれ選挙だ。民主主義だと言う輩がいる。トンデモナイとしか言いようがない。
人口59万人。鹿児島県の県庁所在地である鹿児島市を再訪。鹿児島中央駅付近から天文館の繁華街(歓楽街)をドライブ。明治維新の立役となった藩。多くの偉人を輩出した薩摩藩の拠点となった地。
※携帯の乗り替えのPRではありません笑なので、金額や内容はご自身でご確認下さい。携帯電話のキャリアを変えました。デバイスはそのままでいわゆる「乗り替え」というやつです。30年以上前に携帯(もちろんガラケー)を使い始めた時はauその後ずっとauで、一時期docomoそして11年前にまたauに変わりきのう、ahamoにしました。キャリアはdocomoで、その中のブランド❓がahamoということみたいです。なので、回線はdocomoを使うのですが「災害などの非常時に
「もし桜島がなかったら…」もし桜島がなかったら…幕末…「明治維新」は成らなかったのではないかと想像することがある。どうだろう…桜島は、薩摩の若者たちへ…「メッセージ」を降り注いでいた…。「前を向け、前に進め」「熱き心と冷静な頭で」きみたちが行動すれば、雨漏りのしている日本を救えるかも知れないぞと…。桜島を見て育った若者たちは、どれほどの誇りと勇気と胆力と気概を与えられたことだろうか…。もし桜島がなければ明治維新につながる行動は起こせなかった…とすれば、その後の「
※画像は鯨海酔候こと、土佐藩十五代藩主山内容堂品川区にある京急線鮫洲駅を降りるとすぐ前が大井公園である。この公園の奥、石段を登った所にあるのが、土佐藩十五代藩主“鯨海酔候(げいかいすいこう)”こと山内容堂の墓である。参考↓山内豊信(山内容堂)墓https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/yamauchiyoudouhaka/憲さん以前、行ったことがある。土佐藩といえば、憲さんから言わせると「薩長“土”肥」といわゆる戊辰戦争における西軍方であり、「悪の権化
去年の後半から大きく世界が動くという情報があって日本に救世主の女性が現れ明治維新ぐらいの変化が起きると言われていたこの日本の救世主は世界をも救う人だと予言されていた私個人の中では自分の人生が良い方向に動き出すように自分の波動を上げ続けることで望む世界に移動しようと試み続けた自分の現実を動かすために自分の持てる力を存分に使って「今ここ」と向かい続けたそして今に至るちょっと疲れた(^^;)目にする情
そもそも、日本語の「書き言葉」は、「藤原定家の一種類」しかなかったが、明治維新後「言文一致」運動の高まりで、「近代語」が開発された。その時、「時間に関係する多くの助動詞」が、全て、助動詞「た」一つだけに成った。その理由は、「欧米の言語」が原因であり、「一種類の過去形」しかなかったから。英文学:二葉亭四迷、夏目漱石、芥川龍之介フランス文学:永井荷風ドイツ文学:森鴎外西洋列国に御するために、近代化が急がれて、これら全員で、「近代日本語」を、短期間で開発した。
八千代市下高野の菅原神社に行きました。名前の通り菅原道真公を祀っており、菅原神社は全国各地に鎮座している為、他の菅原神社と区別すべくこちらは下高野菅原神社とも呼ばれています。↑菅原神社の別称「天満宮」正面の「天満宮」を掲げた鳥居と「八幡宮」を掲げた鳥居をくぐって奥に進むと「稲荷明神」と「甲人六明神」を掲げた二つの鳥居と祠があり、その奥に本殿がありました。下高野菅原神社は元和4年(1618)に創建(
じっくりと熱いブラックコーヒーでも飲むように司馬遼太郎「世に棲む日日」全4巻を再読したたまたまある時期、天から遣わされこの世に棲んでいたとしか言いようのない稀有な二人の天才を、司馬遼太郎自身小説と言えるものかどうか分からないと前置きしながら書いた実に味わい深い珠玉の小説である小説と言えるものかどうかは分からないというのは、司馬遼太郎が極力史実や証言に沿いながら勝手な小説家の創作を排除し、誠実に実際の吉田松陰と高杉晋作を浮き上がらせようとしたことを意味するのだと思う明治維新
【夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。】吉田松陰(幕末の志士)今日一日、夢と目標を紙に書き出そう❗️\(^。^)/吉田松蔭先生が、幕末の志士という言葉が使用されています。一般的には明治維新の精神的指導者・理論者などと紹介されると思うのですが。確かに幕末の志士達を指導した方なのですから、坂本龍馬、西郷隆盛などと同じ立派な幕末の志士ですね。https://you
YouTubeの「YouTubeの映画とテレビ番組」で「桜田門外ノ変」が無料公開されていたので観た。YouTubeで観る映画は、劇場で観た作品を観返すパターンが多い。でも「桜田門外ノ変」は劇場で観たいと思いながら観れなかった作品である。「桜田門外ノ変」は歴史で習った出来事でもあり有名である。幕末から明治維新にかけての出来事はドラマなどで知っているパターンが多い。しかし「桜田門外ノ変」に関わった人物たちのその後については知らないことが多かった
《当たり前田のテレビ番組紹介》【本日4月22日(水)『歴史探偵』午後10:00〜】『明治維新の英雄・西郷隆盛3つのミステリー』「歴史探偵」は新年度も、水曜夜10時に調査開始!佐藤二朗が探偵社を結成、歴史に挑む新感覚番組。現場調査、科学実験、シミュレーションを駆使。古代、戦国、幕末、あの大事件の真相に迫ります。明治維新の英雄・西郷隆盛3つのミステリー。『希代のカリスマか、反逆の象徴か?!』【なぜ西郷は今も人々を魅了し続けるのか?謎に包まれた生涯をひも解き、“西郷どん”の知られ
・折りから「百万石!加賀前田家」の特別展(前田育徳会創立百周年記念特別展)が開催されているが、加賀藩は、明治維新での働きはあまり、目立ったものはない。将軍家と近く、佐幕の立場で居て、その後、状況を判断して、緩やかな、勤皇の立場に居たようだ。然し、維新の大きな動きからは取り残された。(「藩主の前田家は外様大名ではあるが徳川将軍家との姻戚関係が強く、準御家門として松平姓と葵紋が下賜された。3代・光高以降の藩主は将軍の偏諱を拝領した。大名中最大の102万5000石を領した。」)(Wikipedia)
こんばんは🤗この前に狛犬ウォークで行けなかった赤田神社を後日行った時の事を書いていきますねヽ(=´▽`=)ノ✨✨まずは吉敷川沿いにあった赤田神社の石燈籠(現在は近くの郵便局そばに移動していますヽ(=´▽`=)ノ)から(≧∇≦)ノ✨✨石燈籠に火を灯すための石段も残されています(*´∀`*)✨それにしても高い場所にありますね(//∇//)ポッ竿の部分には「大神宮」とあります(´-`).。oOこれは元々赤田神社が創建された時の社名が良城(よしき)大神宮というもので大社であったことに由来し
『だんドーン』10巻幕末、薩摩藩出身で明治維新に功あった川路利良が主人公。10巻では、薩摩藩士がイギリス人を殺害した生麦事件に端を発し、その報復としてイギリスが薩摩を攻める薩英戦争の様子が描かれる。薩摩がイギリスに好き放題やられ、鎖国の非を悟り開国・倒幕に傾くきっかけとなる戦いではなかったっけ?と思っていたのだが・・・。本作では薩摩がイギリスに善戦。イギリス側の不手際や本国との意見の相違もあり、最後は薩摩が外交交渉でうまく難を逃れたように描かれる。そうなの
日宮神社(米本日宮神社)に行ってきました。立派な鳥居に小さな祠の地元氏神神社。この周辺にはこういった形式の旧無社格神社が多いですね。日宮神社の後は同じ米本神野区の熊野神社(西熊野神社)に。八千代市神野区には熊野神社が2社あり、ここでは便宜上西熊野神社と称しています。日宮神社も西熊野神社も畑の中にひっそりと鎮座しており、有難くお参りさせて頂きました
2025.8.休日ゴールデンカムイを読んでいたらたまらないね。そういや、今度札幌ビール編が映画で公開だ。こういった壁の壁面とか改修工事で見直すと歴史に触れて勉強ちゃんとしとけば良かったって思う。明治維新ってやつだ。西洋化とか、、、
岩倉具視幽棲旧宅京都市左京区岩倉上蔵町100岩倉具視は元治元年(1864)から慶応3年(1867)までの約三年間を洛北の岩倉村で密かに暮らしました。表門普段はこちらの門は開けないそうです係りの方の説明によると幽閉は自由を奪われ屋敷に閉じ込められる幽棲は世間を離れひっそりと暮らす・・そんな説明でした。面白かったのがこちらの説明文必死で書類を抑えてる姿想像して哀しくもあり、滑稽でもあり、不謹慎ながら笑ってしまった。岩倉具視の遺髪
伏線なのか、単なるかぶりか怠慢か、大河ドラマ同様、朝ドラも同じことを繰り返します。水戸黄門同様、ワンパターンのマンネリにむしろ先が見通せる安心感と平安を見出すのが日本人なのでしょうか。ネットでの評判よろしからぬ「風、薫る」明治好きの私にとっては、むしろその時代に浸れて幸いなのですが、頻繁にある歴代朝ドラ再放送を見ると、今の朝ドラかと勘違いするくらいです。衣装やセットが同じ。明治の雑貨屋は、ステンドグラス。ドラマが変われば、戦前昭和の喫茶店に早変わりです。今回は看護師さんの物語。