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大僧正天海(100)本能寺の変から4年後の天正14年(1586年)、家康の旗本として駿府に移り住んだ遠山利景のもとに旅僧が訪れる。驚いたことにそれは死んだはずの長兄・秀満であった。秀満は「家康に会わせろ。」という。仲介した本多正信は「殿は本能寺の変の真相を知りたがっている。」として、秀満と引き合わせたのである。家康と面談した秀満は、次に天下を取るのは家康しかいないと確信し、協力を申し出る。すると正信から、北条領内の上野国長楽寺に赴くよう依頼があった。さらに仙波不
大僧正天海(99)さて、天海が「遠山氏」である、といっても最近このブログに参加した方には何のことか分からないかも知れない。このブログでは「天海=明智秀満説」なのである。以下内容を簡記する。美濃国恵那郡明知城の明智遠山氏は、遠山景安の時代に次男・遠山直景が士卒180人を率いて、伊勢宗瑞(北条早雲)のもとに出奔する。これが武蔵遠山氏である。明智遠山家は長男の遠山景成が継いだが、嫡子がいなかったため、土岐明智家から明智光安(光秀叔父)を養子とする。(「恵那叢書」)
大僧正天海(74)三宅重利は、明智秀満と倫子の子である。重利は、叔母に当たる細川ガラシャを頼って細川家に仕官した。この時、ガラシャの影響で切支丹になったという。ガラシャの遺言によると、関が原の戦いまでは細川家にいたようである。ガラシャの死後、細川家を去り、寺澤家に仕えた。理由は不明であるが、恐らく、信仰の関係ではないかと思う。一般的には、寺澤家に仕官したのは、「光秀の家臣であった天野源右衛門(安田国継)」の縁である」といわれるが、どうにも嘘くさい。何故なら、この
近江遠征の2日目、5月12日(月)前日は彦根城の後、JR瀬田駅前のホテルに宿泊し翌朝、ホテルの駐車場から望む東海道線とその向こうに比叡山のホルンフェルス!まず向かったのは、ホテルから車で約20分明智左馬之助湖水渡りの碑明智左馬之助(秀満)は明智氏の一族で明智光秀の重臣山崎の戦いで光秀が敗死した事を知った左馬之助は坂本城へ引き揚げようとするも大津で敵に遭遇止むなく馬で琵琶湖を渡ったという伝説次に、左馬之助の碑から車で約10分長等山園城寺(三井寺)
【問題】明智秀満に関する逸話として知られる「湖水渡り」とは、次のうちどの湖を舞台としたものか?【選択肢】霞ヶ浦九頭竜湖三方湖琵琶湖【正解】琵琶湖【解説】主君である明智光秀が羽柴秀吉に敗れたことを知った秀満は坂本城(滋賀県大津市)へ入ったが、その際に追っ手から逃れるため馬で琵琶湖へ乗り入れたという「湖水渡り」の逸話を残す。
これまでの話⑨穴山梅雪を暗殺し、伊賀越を敢行した家康は、三河に着くとすぐに「打倒光秀」の軍を起こす。しかし、掛け声ばかりで軍は進めず、武田遺臣を集めると、駿河の穴山領を併呑する。家康は本多信俊を派遣し、甲斐の河尻秀隆に帰国を勧める。これに反発した秀隆が、信俊を殺害したため、家康は武田遺臣を使って一揆を起し、秀隆を敗死させるのであった。その後、徳川、北条、上杉による三つ巴の天正壬午の乱が勃発する。黒駒合戦で北条氏を破った家康は、北条氏の上野国領有を認める代わりに、
これまでの話⑧近江を平定した光秀は、最大の敵である柴田勝家の抑えとして秀満を安土城に置いた。一方、信長・信忠の遺体が見つからなかったため、秀吉は「信長は生きている。」との噂を流す。光秀が味方になると期待した細川藤孝、筒井順慶は参集せず、池田恒興ら摂津衆は秀吉側に付く。備中から引き返した秀吉は、山崎の戦で明智軍を破ったのである。勝竜寺城に逃げ込んだ光秀は自害を試みるも、庄兵衛にたしなめられ、南山城に落ち延びる。藤田伝五が勝竜寺城から丹波亀山城に向けて出立、続けて庄
大津にある明智塚です。この地は明智光秀が築いた坂本城二の丸があった一角に当たります。天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は本能寺の変において主君織田信長を討ち、同5日、安土城に入ります。儲君の要請により光秀は安土城を娘婿の明智秀満に任せて上洛、中国大返しをした羽柴秀吉軍を迎え撃つも、同13日、山崎の戦いで敗北。居城の坂本城に敗走する途中、山城国栗栖野で百姓に竹槍で刺され討たれました。同14日、光秀の敗戦を聞いた秀満は坂本城に取って返します。途中、打出浜で秀吉方の堀秀政と遭遇し
これまでの話⑦一方、光秀は織田家中でも出世頭となって、近江滋賀郡5万石と坂本城を与えられていた。坂本城は琵琶湖に面する水城で、光秀が縄張りをし、弥平治が普請奉行をしている。天正3年(1575年)には従五位日向守「惟任光秀」となる。この頃から丹波・丹後平定を命じられ、藤孝と共に畿内各地を転戦することになる。長篠の戦いで、織田・徳川連合軍は武田軍に壊滅的な打撃を与える。信忠は失われた東美濃を奪還するために秋山虎繁が籠る岩村城を攻撃する。利景・一行らは、信忠方とし
大津にある明智左馬之助光俊駒止松碑です。明智光秀の重臣で娘婿の明智左馬之助には、光春、満春、光俊、光遠など複数の名が伝わります。この碑は光俊の名が記されますが、一般的な秀満の名で統一します。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で主君織田信長を討った明智光秀は、同5日、信長の居城・安土城を占拠。儲君が都の政情不安を訴えたため、光秀は安土城を娘婿の秀満に任せて上洛。同13日、光秀は中国大返しをした羽柴秀吉を山崎の戦いで迎え撃って敗れ、居城の坂本城に逃走する途上に百姓に竹槍で刺
大津にある明智左馬之助湖水渡りところ碑です。山崎の戦い後、安土城から坂本城入りした明智左馬之助秀満が、愛馬に乗ったまま琵琶湖を泳いで逃げたと伝えられる伝承地。明智秀満(?~1582)は明智光秀の重臣。出自ははっきりせず、坂本城落城後、秀満の父が捕らえられて処刑されたことが「言継卿記」にみえます。妻は明智光秀女(諸説あり養女とも)。この妻は当初、織田信長の命で有岡城主・荒木村重の嫡男村次に嫁ぎますが、村重村次親子は信長に反旗を翻し、光秀が説得のため有岡城に派遣されるも失敗。妻とも離縁と
大津にある坂本城です。元亀2年(1571年)、織田信長の家臣・明智光秀によって築かれた城。織田信長は、浅井・朝倉と組んで抵抗を続ける比叡山延暦寺の僧房が建ち並んでいた坂本を焼き払うと(比叡山焼き討ち)、戦功のあった家臣明智光秀に坂本の地を与え、光秀は坂本城を築いて居城とします。坂本城は琵琶湖に面した水城で、堀に琵琶湖の水を引き入れ、城内から船に乗って琵琶湖に出ることができました。織田政権では織田信長の安土城、織田信澄の大溝城、羽柴秀吉の長浜城がいずれも琵琶湖に面した水城であり、兵士や
南光坊天海㊴「堀秀政、美濃人也。姓藤原氏。鎮守府将軍利仁八世孫季高、族称堀。曾祖某、称掃部大夫属齋藤道三領美濃厚見郡西部父秀重称太郎左衛門初属道三後仕織田信長領江州坂田郡田五千石秀政小字菊千代改久太郎。(中略)永禄八年賜坂田郡二萬五千石天正五年二月従織田信忠伐雑賀寇于紀伊七年八月又従徇摂津九年九月、爲長濱城主。」(「野史」)「家伝」によると、やはり長浜城主になったようである。そもそも坂田郡の中に
※こちらの記事は、令和3年4月1日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は令和2年の大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』第44回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない。歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【『麒麟がくる』の楽しみ方】・第1~2回―当時の三傑と明智家/リアルな戦の描写・第3~4回―美
南光坊天海⑱三宅重利は、本能寺の変の前年、天正9年(1581年)の生まれである。父親は明智秀満(三宅弥平治)、母親は倫子(光秀長女、一説には三宅長閑斎の娘で光秀養女)であるという。山崎の戦いの時、重利は2歳であるから、まだ幼児である。ところが通説では、重利は勝龍寺城の留守居役であったとされるのだ。無論、2歳の幼児に留守居が務まるはずがないし、戦略的にも無意味である。しかもこの城は戦場に近く、敗走した光秀らが一時入城しているのだ。重利は秀吉軍の包囲の中、勝竜寺城か
天海(251)喜多村弥平兵衛は、家康に連れられ江戸までやって来た。初めて見た江戸は方々で槌音が響き、慌ただしく荷車が行きかっていたのである。弥平兵衛は一旦、本多正信に預けられた後、関東代官頭の伊奈忠次の与力につけられた。忠次はまず、弥平兵衛の人となりを見るため、小荷駄隊に所属させ、馬の飼料等の手配をさせた。弥平兵衛はそれを嫌がる素振りもなく、手際良く差配して見せたのだ。忠次はその才覚に感心し、これは見込みのある若者だと思った。「弥平兵衛、お前の話は、上様から
天海(97)宴会が始まると、「伝蔵、こちらへ来い。」と庄兵衛が呼んだ。「おお、伍助、久しぶりであるな。」と天海がいうと、「天海様、ここでは伝蔵でお願いします。」と笑うのだ。「うむ、この男の本名は阿寺伝蔵という、れっきとした遠山一族だ。」と庄兵衛が言うと、「いえ、いえ、ほんの末流でございます。」と伝蔵は照れた。「こちらにおられる弥右衛門殿は、苗木遠山家の御一族であるそうだ。」と庄兵衛は、景利を紹介した。「さては、阿寺城にゆかりのかたでありまするか。」と景
続・福知山城。二回に収める予定だったが…あ、これ無理だわ…ということで急遽三回に分けます。第35期竜王戦の第4局が福知山城で行われこちらがその時に使われた部屋っぽい。将棋はあまり興味ないので詳細はわからんwこちらはシアター室柱や梁、格子窓も時代調で好印象。松平時代の福知山城模型天寧寺文書光秀~秀満時代の福知山の展示明智光秀の福知山支配秀満の福知山支配明智秀満書状の複製素槍丹州住通明の在銘地元福知山で元々は野道具
2023年5月19日。2021年5月の出雲大社奉納演武から約2年ぶりの西国旅行。島根県以外では初の二度目旅行だったり。離陸直前の千歳空港。あまり天気がよろしくないんですよね…雲へ突入下界は終始雲海で何も見えませんでしたとさ気付けば既に大阪上空。しかし、こう何度も行き来してるので大阪の街並みも見慣れたもんだよなw伊丹空港着。やばいくらい雨降ってますね…大丈夫かこれ本日の昼食。道中の兵庫県のなんちゃらSAだったっけか?大阪→兵庫→京都あれに見えるが
光秀の城代には藤木権兵衛と明智秀満がなり1582年の本能寺の変後、明智光秀は山崎の戦いで敗北し殺害されました光秀の福知山城在城期間はわずか3年間でした石垣は「乱石積み」「穴太積み」と言う自然石をそのまま利用した工法ですまた五輪塔や石仏、石臼などの石造物が転用石として使用されています。
天海⑩沼田城の視察が終わり、長楽寺に戻ると弥平次はその内容を書状に認めた。伍助はそれを持って、駿府の正信の屋敷を訪れたのである。「このまま長楽寺に戻るのか。」と正信が尋ねると、「いえ、一旦、美濃に戻ります。」と答えた。「では、関東に行くときにまた寄ってくれ。」と正信は命じた。正信は一読すると、そのまま書状を家康のもとに届けた。「ほう、長いな。」と家康が言うと、「されど饒舌ではありません。」と正信は答えた。家康は書状を読みながら、「かつて信長公
天海⑨長楽寺から沼田城まで15里ほどである。弥平次と僧衣に着替えた伍助は、各地で寺院を巡りながら数日かけて沼田まで来た。沼田城は利根川と薄根川の合流の河岸段丘の台地に築かれた城である。「勝頼公が攻めあぐねた長篠城を思い出します。」と伍助は言う。「ほ~、良い視点だ。」と弥平次は褒めながら(何故それを知っているのか。)とも思った。ただ堅牢さでは長篠城のほうが上だ。「伍助ならどう攻める。」と尋ねると、「川は流れが速く、断崖がそびえています。とても登れないでしょう。
天海⑧本多正信から弥平次に呼び出しがあった。「遠路で申し訳ないが、上野国長楽寺に赴いてもらいたい。実は徳川家の祖である得川義季様が創建した由緒正しい寺なのだが、相次ぐ騒乱に現在は荒廃している。住職には話をしてあるので、そこで『修行』を積んでいただきたい。」と告げた。正信の目は細く、深い皺からは表情が読み取れない。この時、正信はまだ51歳である。弥平次は53歳であるから、何と2歳年下である。(どれほど苦労しているのであろうか。どうすればこんなに老け顔になるのだ。)
天海⑦天台宗の法服を身に纏い、弥平次は駿府城を訪れた。姿勢が良く体躯が大きいので、霊験あらたかに見えるから不思議である。奥の茶室に入ると上座に家康が、側に正信が控えていた。弥平次は平伏し、丁重に挨拶をすると面を上げた。家康は好奇な目で弥平次を見ていた。「おお、左馬助、これは本物だ。安土の折に接待を受けたので間違いない。」というと家康は、正信に笑顔を見せた。「このように大納言様にお目見えするのは、真にお久し振りのことでございます。」と弥平次は言った。家康は前に見た
天海⑥その旅僧は、利景の知己であるという。「長聞斎宗行…。知らんな。」と利景は首を傾げる。しかし、どこかで聞いたことがあるような気もする。「折角、遠路を訪ねてくれたので、お目に掛かろう。」と言った。旅僧は土間で足を洗うと客間に通された。慇懃な態度で正座をすると利景に対し丁重に礼を言った。利景は旅僧を観察したが、知っているような、知らないような不思議な気分になった。すると突然、旅僧が破顔し胡坐をかいた。「おい、勘右衛門。お前、まさか兄貴の顔を忘れたわけではある
天海④それでは天海のもう一つの家紋である「輪宝紋」について、通説ではどのような説明をしているか、見てみよう。「輪宝紋は、仏教の法輪から発生した紋章で、寺院や神社の装飾としてよく使われる紋である。」つまり、天海の家紋ではなく、お寺の装飾だと言っているのだ。輪宝紋自体は確かに装飾として寺院に飾られることはある。とくに真言宗ではよく見られるのだ。ただ、天海は天台宗で、その輪宝は菊輪宝という全く異なる意匠である。そもそもWikipedia自身が、天海の家紋が「丸に二引き
明智秀満(最終話)「このままでは織田家の次期当主は信孝になってしまうのではないか。」と難しい顔つきで秀吉は官兵衛に尋ねた。「何を仰せでしょう、すでに次期当主は明白ではありませんか。」「どういうことだ。」と重ねて問うと、「信長様は先代のご当主であり、今のご当主様は信忠様でした。さすれば次期当主は三法師様以外におりません。」と官兵衛は自信満々に言った。「しかし三法師様はまだ…。」と言いかけて、はたと気づいた。「官兵衛、お前は悪党だな。神輿は軽ければ軽いほど良いのか。
明智秀満(129)「寛永諸家系図伝」『天正十年、明智日向守光秀滅亡のとき、藤右衛門(妻木広忠)江州坂本西鏡寺(西教寺)において自害する。光秀が伯父たるによってなり、時に六十九歳、法名宗真。』6月18日、西教寺にふらりと妻木広忠が供を連れ現れた。広忠は坂本城で戦死したと聞いていたので、僧侶たちは腰を抜かすほど驚いた。しかし、そんなことはお構いなしに、広忠は僧侶たちに矢継ぎ早に指示を出し、ここに明智一族の墓を作るように命じた。やがて満足したのか、僧侶たちの
明智秀満(126)「耶蘇会の日本年報」『安土城より逃げた明智の武将は、明智の妻子親族等のいた坂本の城に入ったが、火曜日(6/14)には羽柴殿の軍隊が同所に着いた。此城は、五畿内にある諸城中安土山の城を除いては、最も善く最も立派なものであったが、兵の多数は城より逃げたので、彼の殿(明智光春)及び他の武士等は敵軍の近づいたことを見(中略)切腹した。明智の二子は同所で死んだといふが、長子は十三歳で、欧州の王侯とも見ゆる如き優美な人であった。彼らは今日まで現れない故、噂の通り
明智秀満(125)一戦交えて昼過ぎに秀政は坂本城に到着した。その頃、先鋒の直政が既に三ノ丸にまで進出していたのである。「オレ達は左馬助を討取ったぞ。監物(直政)、戦況はどうだ。」と意気揚々と秀政が言うと、直政は怪訝な顔で「現在、その左馬助と交渉中です。」という。「え~。」というと秀政らは顔を見合わせ、どうなっているのかと首を傾げた。「左馬助が申すには、この城には天下の宝物がたくさん保管されていて、この城とともに失われるのは国の損失であると申しております。国行の刀