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近江遠征の2日目、5月12日(月)前日は彦根城の後、JR瀬田駅前のホテルに宿泊し翌朝、ホテルの駐車場から望む東海道線とその向こうに比叡山のホルンフェルス!まず向かったのは、ホテルから車で約20分明智左馬之助湖水渡りの碑明智左馬之助(秀満)は明智氏の一族で明智光秀の重臣山崎の戦いで光秀が敗死した事を知った左馬之助は坂本城へ引き揚げようとするも大津で敵に遭遇止むなく馬で琵琶湖を渡ったという伝説次に、左馬之助の碑から車で約10分長等山園城寺(三井寺)
続・福知山城。二回に収める予定だったが…あ、これ無理だわ…ということで急遽三回に分けます。第35期竜王戦の第4局が福知山城で行われこちらがその時に使われた部屋っぽい。将棋はあまり興味ないので詳細はわからんwこちらはシアター室柱や梁、格子窓も時代調で好印象。松平時代の福知山城模型天寧寺文書光秀~秀満時代の福知山の展示明智光秀の福知山支配秀満の福知山支配明智秀満書状の複製素槍丹州住通明の在銘地元福知山で元々は野道具
2023年5月19日。2021年5月の出雲大社奉納演武から約2年ぶりの西国旅行。島根県以外では初の二度目旅行だったり。離陸直前の千歳空港。あまり天気がよろしくないんですよね…雲へ突入下界は終始雲海で何も見えませんでしたとさ気付けば既に大阪上空。しかし、こう何度も行き来してるので大阪の街並みも見慣れたもんだよなw伊丹空港着。やばいくらい雨降ってますね…大丈夫かこれ本日の昼食。道中の兵庫県のなんちゃらSAだったっけか?大阪→兵庫→京都あれに見えるが
三宅弥平次②「名将言行録」『〇明智光春……明智光安の子、初め三宅彌平治と称す。明智光秀の従父兄弟なり。後、復族して左馬助と改む。天正十年六月十五日死、年四十六。』これまでの結果、「三宅弥平次」と「明智弥平次秀満」は存在しているようである。「信長公記」や「川角太平記」に現れる「明智左馬助」も信用していいようだ。「国盗り物語」(司馬遼太郎著)にも出てくる有名な名前である「明智光春」はどうであろう。まず名前というものについてもう少し考えてみよう。当時の
三宅弥平次①「名も間違えられた明智秀満」(「戦国の人々」高柳光壽著より引用)『秀政の家老であった堀直政の履歴を書き上げた「寛永系図伝」九十七には、明智弥平次としてあるが、秀政の子孫の信濃飯田の「堀家譜」には明智光春としている。…(略)…「細川家記」などもこの誤りを犯している。そこで「明智氏一族宮城家相伝系図書」を見てみると、光俊として、その注に童名岩千代、三宅弥平次、明智左馬助、本名光春とある。あるだけの名をみな書いてある。後世の作り物であることがよく分かる。系図には
瀬田の唐橋着。ここ歴史上すごく重要な場所。京防衛の東の要衝。大津に入るにはこの唐橋を渡らないといけない。唐橋の近くに瀬田城🏯があって(現在は碑だけ残る)、左馬助が大津に入る際、瀬田城を守る山岡氏に妨害されます。なんとか唐橋を越え、大津の打出浜まで来た左馬助でしたが、秀吉軍の堀秀政と遭遇。一戦交えますが窮地に陥り、馬ごと湖水に飛び込み、対岸(坂本方面)まで泳ぎきります(川角太閤記)泳ぎきった馬を繋いだ松。浄水場の横、駐車場の一角にあるので、風情はないですが、明智左馬之助光俊駒止の松の碑
今練習中の湖水乗切(こすいのっきり)の現場を巡りに滋賀県に行ってきました物語は、明智左馬助光俊(明智光秀の重臣、娘婿とも)が、光秀の敗死を聞き、守っていた安土城を出発し、大津を目指し、大津で秀吉軍の堀秀政と一戦するも多勢に無勢打ち破られ、単騎馬と湖水をわたり本拠地の坂本城に向かうというお話です。まずは、安土城跡に向かいました気温凄すぎて、今回登城は断念安土城には滋賀名物『飛び出し坊や』がちょんまげ姿でいらっしゃるいきなり、脱線ですが、安土城を出発して、大津に向かう途中の街道沿いに(野洲
『湖水乗切(こすいのっきり)』用の資料。私は主人公・明智左馬助光俊の輪郭作りに使います琵琶歌は物語を語りますが、歌詞だけではなかなか掴みづらい所があるので、奥行きを作るために、出来るだけいろんな情報から色付けしていく作業をします。
同じ奈良在住、同じ鶴田流の平田くんとプチ勉強会を行いました琵琶弾き同士が集まると、琵琶談義が始まって、結局勉強会の半分は琵琶話になってしまったよあまりに琵琶人口少ないので(特に関西に鶴田流がほとんど居ない)ほんとに貴重な仲間です2人で別々の課題曲を決めて、次回までにやってくるということにしました。私は、湖水乗切(こすいのっきり)。明智左馬助光俊の物語です。琵琶湖を馬に乗って渡るというお話。平田くんは白虎隊。こちらは有名だから皆さんご存知でしょう。どうなるか楽しみです
明知左馬助紺糸威錆地南蛮胴具足兔耳形兜大きな耳で素早く情報を集め、俊敏に動き回り、月の精をやどし、めでたい動物とされた🐰うさぎは武将に好まれたモチーフのひとつです。「佐間助、」と光秀が呼ぶ声が今も耳に残っておりますが、大河ドラマ中の佐間助は、まさに🐇の如く俊敏に動き、光秀に仕えましたね。ここで絵馬を拝見することも、絵心を持ち合わせていないワタシの楽しみでもあります🐰🍁11月の参拝⛩️三つ鳥居の神社です。名古屋市中区🐰三輪神社11月の参拝で授かった
3月21日日曜日~その1(写真)続いて聴いたのは、LP盤『浪曲特撰盤』~「明智左馬助湖水渡り/出世太閤記天守閣」松浦四郎若(テイチクレコード)です。(写真)松浦四郎若さんと初めてお目にかかったのは、S57年1月16日に大阪市南区千日前内川ビルの芸能を楽しむ会で開催された『浪曲ずばり寄席』。ゲスト出演の楽屋でした。HDDをチェック。
昨日はNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の最終回。ホテルに泊まっての鑑賞会となりました。大画面は迫力ありでした。光秀が、家臣たち(3人とも顔が濃い)に、信長を討つと告げるシーン。あそこが、一番、グッときました。あの決断までの、長い、長い、お話だったわけですから。信長の光秀LOVEとそればかり話題ですが、この方の光秀愛だって負けてないと思うのですよ。エキセントリックな愛情表現の信長よりも、静かに寄り添い、いつも見守る、そんな愛の方が、私は好きですよ。それにしても、明智
2話まとめての感想です。30話朝倉義景を討て31話逃げよ信長待っていましたよ〜金ヶ崎エクソダス!英傑揃い踏みのオールスター戦なんですから、どう描いても必ずドラマチックで面白くなるに決まってるエピソードです。それぞれの転機としても描かれて、満足度の高い回でした。①長谷川さんの光秀らしさに惚れ惚れいきなり私的趣味を炸裂させて申し訳ないですが、私、男優はお髭が似合う人じゃないと興味湧かないんです笑。その点、長谷川さんは100点満点💯将軍のもと幕臣として出世してからの晴れ姿に惚
旭堂南鈴独演会にお忙しいにもかかわらず、たくさんの皆様にご来場くださいまして、本当にありがとうございました。心より御礼申し上げます。また差し入れや楽屋見舞い、お花もたくさん頂戴いたしてまして、本当にありがとうございました。舞台に上がって、いつも応援して支えてくださってる皆様のお顔を拝見致しますと、込み上げてくるものがございました。有り難いなぁ。有難うございます。皆様が応援してくださるので、私は頑張る事が出来ているのだと皆様に生かされているのだと心から感謝申し上げます。独演会の本番
公益財団法人史跡鳥取藩主池田家墓所保存会設立50周年記念講演会の開催鳥取県初代藩主池田光仲をはじめ、鳥取藩の歴代藩主と夫人・御分知家当主らを祀る史跡鳥取藩主池田家墓所の保存と活用を適切に行うこと等を目的として...大垣の史跡で演奏会撮影赤坂中吹奏楽部、集大成に中日新聞大垣市赤坂中学校吹奏楽部の定期演奏会が二十日、同校などで開かれた。コロナ禍でホールでの開催が難しい中、学校の体育館に加えて、地元の美濃...麒麟がくる:“リュウソウレッド”一ノ瀬颯が大河デビューへ!足利義
夏にハマった断捨離は落ち着きました今度は美容にハマりつつもそちらも慣れて落ち着き、またマンガを描けるようになりましたふぅゼロか100か、極端を行ってバランス取るタイプハマると全力なので、その間は他が手につかないトコあります…自分の名前や誕生日を見ても、その性格を表しているようだから、ま、しょうがないかなって諦めてますマンガ描いていると、目の端にチラチラと光が見えることが多いですそれも、この子を描いている時は何故か多めに見ます三宅弥平次(明智左馬助)秀満くん何故か「くん」付けメモが凄ま
大河が復活して大いに盛り上がってまいりましたが所縁の地坂本城跡付近は残念ながらそんなに盛り上がっていないように思います光秀公の四頭身の銅像と変な詞の書かれた石碑位しか無いので仕方ないです。天守があった場所には企業の保養所が建っている始末···やはり裏切り者、三日天下といった旧来からのマイナスイメージがこの場所が余り大切にされなかった(私にはそう感じます)一因なのかもしれません。色々と思いながら坂本城跡から琵琶湖を望みます。北東の安土方面を望む雑木も整えて
光秀の娘は、たま。のちの細川ガラシャである。その最期によって悲劇のヒロインのイメージがつきまとうが、気の強い女性だったらしい。父・明智光秀が謀反人となり横死。たまは夫や舅の細川家の体面のため、幽閉された。しかし、夫・忠興のたまへの愛情は一通りでなく、この間に二児をもうけている。本能寺の変の二年後、たまは夫の同僚、高山右近のからカトリックの話を聞き、その教えに傾倒していった。忠興のたまへの激しい盲愛や、たまのキリシタンとしての最期は有名な話だが、本稿では割愛する。写真W
弘治二年春1556年斎藤道三、大桑城から鶴山へ。斎藤高政との対決のために。明智光秀は鶴山へ敵は高政。織田信長はイライラ帰蝶は父に策を拒否られて不貞腐れ。兵力差は絶望的だけど信長は動く。帰蝶は悲しみと怒りでキレる。前田利家とか、まだモブ気味にいるけど、織田家中編はどうすんだろ?長良川北岸の陣では、道三がブツブツ謡ってる。軍議はイマイチ南岸の高政陣の威勢はいい。先陣は家臣に譲るけど、自ら二番槍で早期決着を図る高政。そもそも同輩同士だし。道三は生け捕りの指示。稲葉良通は
「麒麟がくる」では、明智光秀が、信長に臣従する日は、まだ先のようだ。ただ、美濃の明智の終焉が近づいている。この時から25年ほど先のことになる。織田信長が、全国に領地を拡大する過程で各方面を持ち場とする軍団が必要になってくる。最終的に信長は、6つの軍団を有した。その最大のものは、嫡子・信忠による軍団だ。家中最大の軍団で、尾張衆や美濃衆からなる。次いで、筆頭家老・柴田勝家が北陸方面軍の軍団長、羽柴秀吉が中国方面軍の軍団長、滝川一益が関東方面軍の軍団長、丹羽長秀は四国方面の副軍団長
桔梗塚白山神社に隣接する林の中にある桔梗塚は明智光秀の墓とされています。光秀は、本能寺の変の後に身代わりとなった影武者「荒」木山城守行信に恩の「深」さを感じ荒深小五郎と姓名を改めたとされています。その後、関ケ原合戦で徳川家康に従軍しようと藪川(現・根尾川)を馬で越えようとしたときに洪水に巻き込まれ溺死しました。従者たちは光秀の遺品を持ち帰り、墓を建てたと伝えられており、現在も地域住民により毎年供養祭を行っています。なお、明智家の家紋は「桔梗紋」で、土岐氏の家紋「水色桔梗紋」から用いたので
公式には、龍馬は「土佐日記」で有名な紀貫之の子孫ってことになってます。彼の本名は「紀直柔」で、墓石にもそう掘ってあります。但し、坂本家は実は、明智光秀の家臣の「明智左馬助秀満」の子孫だ、というふうに、坂本家のなかで内内に言い伝えられていた、のだそうです。明智左馬助はもともと光秀の従兄弟ともいい、また娘婿という説もあります。それが本当なら、龍馬は光秀の女系の子孫ってことにもなるわけだ。山崎の戦いで負けたあと、敵の包囲にめげず琵琶湖を馬を泳がせて渡り(見事な馬術!)、坂本城に戻ったが、堀秀政に
湖水渡りなので波の盛り上がりやキラキラ感を強調してみました。小さなジオラマですが、キラキラ輝いててインパクトはあるかと思います。何が楽しいかと言うと浮世絵では絶対にあり得ない対岸からの情景が見えるのがジオラマの楽しさです。#明智馬助湖水渡り#明智光秀#大河ドラマ#麒麟がくる
明智左馬助の湖水渡りつい、こういう事をやりたくなるんです(笑)
講談塾発表会に出させて頂きます!7月7日千日前上方ビル3F千日亭にて。私こと天神堂淡海は5部?ですので多分16時頃の出番だと思います。(早まる事も有ります)出し物は軍記物の「明智左馬助湖水渡り」というお話です「見てやろう」という方は私にご連絡下さい🙏または、直接お越し頂いても大丈夫です暑中ではございますがどうぞ宜しくお願い致します!
通っている講談塾の題材に「明智左馬助湖水渡り」を頂戴したのをきっかけに明智光秀や戦国関連の本を読み漁っているのですが、その中で心打たれた作品を紹介したいと思います。明智光秀とその家臣左馬助妻の煕子、娘の玉子こと細川ガラシャ等の明智一族がドラマチックに描かれた素晴らしい作品です。読みながら何度か涙してしまいました。前から余り好きではなかった織田信長を更に嫌いにもなりましたが···(ーー;)光秀が題材という2020年の大河もこんな感じだと良いなと思いましたまだ読まれ
ルーチェのまゆです本日も早朝ジョギング気持ちよくいってきましたぁ1日が素敵に過ごせますそしてついに大好きな本入手しました明智左馬助素敵です(≧∇≦)加藤廣明智左馬助の恋何度読んでもほっこり本なのに恋心芽生えます一人旅に出た車中泊のあてなき旅を思い出しますひたすら歴史巡りしていました気づいたら京都天橋立伊勢志摩飛騨高山奈良他にも色々な県またぎながら下道一本主義で道の駅が宿でした明智家興味を持ちひたすら下道走って向かった日を思い出します福