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いつもエコノミライ研究所のブログをご覧下さり、ありがとうございます。今年は午(うま)年何事もスムーズに駆け抜けることができるならば、素晴らしいことです。ウィキペディアはじめ、様々な文献や記録に残っている、近代国家として歩み始めた「日の本(ひのもと)」が、地球上の人類社会でトップグループを維持するために必要とされた「投資」物件である、戦艦をはじめとする、海上艦艇の歴史を紐解くシリーズを始めさせて戴いています。1945年8月14日をもって無力化されたとはいえ、21世紀に
4月に友人の勧めで2冊の本を読みました。いろいろ書こうと思いいろいろ引っ張ってきましたが・・次々に巻き起こる?興味に今は深化を中止します著者の小松真一氏、軍属の将校としてフィリッピンに招集され、終戦間際に捕虜となり無事日記を持ち帰り家族にも何も言わずに亡くなられた方です後に自費出版するいろいろな方面から中立に見ることができ、その時その場の記述である山本七平氏は同時期同じフィリピンで将校として従軍し似たような辛苦を舐めた人として「虜人日記」を解説しています、いろいろ暴力等
日露戦争の激戦地である旅順要塞の攻防。203高地の攻略とロシア艦隊の壊滅・・・、戦局が大きく動きだす!◆あらすじ・内容と読みどころ203高地の激戦明治37年(1904年)11月、日本陸軍第三軍は、旅順要塞の中でも最も堅固とされた203高地への攻撃を開始します。この高地を制圧すれば、旅順港内のロシア艦隊を砲撃できるため、戦局を有利に進める鍵となっていました。しかし、正面からの攻撃はロシア軍の激しい抵抗に遭い、多くの死傷者を出します。特に、斜面には遮蔽物がなく、日本兵は砲弾の雨の中を
日本は、いつ道を誤ったのか――日清・日露戦争から太平洋戦争までを「反省」という視点で考える8月15日の全国戦没者追悼式。高市早苗首相は式辞で、先の大戦について「反省」という言葉には触れず、「戦争の惨禍を繰り返させない」という趣旨を述べました。ここは、過去の首相の表現と比較すると、興味深い違いがあります。例えば安倍晋三首相は、2015年の戦後70年に際して、「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないという不戦の誓い」と述べています。つまり、安倍首相の表現は「繰り返してはならない」。
岡倉天心著「茶の本」をちょっとずつですが原文で読んでいます。😊ドイツ語でも読みたいが、原文が英語なので、英語の特訓だと思って・・・👍この版は、日本語付きなのでさっぱり分からなかったら日本語に頼ります。😅いつになるか分かりませんが、英語で見事に読み終えたらドイツ語で。^_^日露戦争終結の翌年、1906年に出版されたみたいですが、当時このような著作を発表するなんて、信じられないくらいの勇気と覚悟も必要だったでしょう。岡倉天心さん、私の母校東京芸大の美術学部初
—明治日本の外交を支えた人物が、静かな飫肥の地で眠る。歴史の大きさと場所の静けさが対照的な墓所—飫肥の町を歩いていて、ふと現れる「小村寿太郎候の墓」。あれだけ日本の外交史に名を残した人物が、こんなに静かで、何気ない場所に眠っているのかと驚く。---🏞️①小村寿太郎とは?明治日本を語るうえで欠かせない外交官。•外務大臣(第6・8代)•日英同盟の締結(1902)•関税自主権の完全回復(1911)•日露戦争後のポーツマス条約の全権大使特に「関税自主権の回復」
>AERADIGITAL>「勝てない相手」となぜ戦ったのか「対米依存」を直視せず、日本が針路を誤ったワケ>田中宏巳の意見>・1時間・>なぜ日本は太平洋戦争へと突き進んだのか。>その答えは戦略の失敗だけでなく、産業・経済の構造的欠陥にあった。>米国への依存を深めながら対立を選んだ矛盾、精神論に傾き現実を直視できなかった軍部の姿——。>発掘資料から戦争の実像に迫った書籍『誰も知らない「太平洋の戦争」』(田中宏巳)から、その核心を紹介する。
間抜けな愚将により命を落とした方々への弔いは絶対にやらなきゃダメじゃん。普通に。日露戦争で気が大きくなって不敗神話などと言って調子に乗ったツケが第2次世界大戦での敗戦だ。地域の文化などを犠牲にしてまで戦争をやりたがるのは間抜けな権力者。その時代の栄光?アホかって感じだよ。負けた事へのリベンジ?国民を巻き込むなよ、愚劣な自民党絡みはお役御免だね。東條英機元首相の間抜けなパープリン奴隷の言う事って理解してもメリット皆無だからね。
日露戦争(1904~05年)の激戦地「二〇三高地」で戦死した川島町出身の陸軍将校の大礼服が見つかり、町へ寄贈されました。町内の実家できり箱に入れ保管されていた。町は「戦争の記憶と平和の大切さを再認識してほしい」として、町役場で開催中の特別展「新資料が語る戦争の風景」で紹介しています。大礼服は天皇の即位など重要な儀式に参加する時に着用した正装です。町へ寄贈された一着は、日露戦争に出征した山口守雄氏が使用していた。紺色の布製で上着とズボン、帽子のセットとなっています。上着の肩から腰
日露戦争が本格化し、日本陸海軍がロシア軍との激しい戦闘を繰り広げられる。秋山好古と秋山真之の兄弟を中心に、明治日本の若き国力と人々が奮闘する。◆あらすじ・内容と読みどころ日露戦争の始まりと日本の苦境明治37年(1904年)2月、日露戦争が勃発。日本は、国力や兵力で圧倒的に勝るロシアとの戦争にいよいよ突入。秋山好古は陸軍少将として第二軍に所属し、遼東半島に上陸するが、戦況は厳しく、苦戦を強いられる。一方、弟の秋山真之は連合艦隊の参謀として、旅順港に潜むロシア艦隊への対応に苦慮する。
この風刺画を中学の時、社会科教科書で見ました。当時はまったく何を意味しているのか知らなかった。ただただ、「なーんかおもろ」そう思って眺めていた記憶だけは鮮明にあります。先日のミヒャエル・エンデの動画が秀逸だったので同じチャンネルの動画を見ています。高橋是清、、、たしかNHKのドラマでも取り上げられてなかったかな?名前は知っています。結構、歴史の勉強時で
ロシアのプーチン大統領が北方領土を訪問したらしい。大変に遺憾である。太平洋戦争の末期である1945年8月8日,降伏寸前の日本に対して宣戦布告してきたソ連は,日本の降伏後も侵攻を止めず,国後・択促・歯舞・色丹の4島を占領。終戦後,日本は千島列島を放棄するものの,この中に北方領土は含まれていないと解釈しています。だけど,ソ連は実効支配を続けた。そして,今に至るまでほぼほぼ進展はなし。そんなグレーゾーンな領土を,ロシアの
JR折尾駅にほど近い鷹見神社を訪れるが、八幡西区には同じ名前の神社が数多く存在する。コンクリートの参道の右側に目的物がある。浮標水雷罐(機雷)が置かれている。台石には「獻」と刻まれている。奉献された物のようだが由来は彫られていないので調べてみた。アジ歴での廃兵器下付情報は確認できなかったが、googleマップでの折尾鷹見神社の2020年の投稿写真を見ると、由来が書かれた紙が額縁に入れられて台石に置かれていた。2023年訪問時には額縁は存在しなかったが、そこに書かれていた
日清戦争後、帝国主義の波に翻弄されながら日露戦争へと突き進んでしまう日本。国家存亡かけた戦争が始まろうとする時代の中で活躍する秋山兄弟と、正岡子規の最後が語られる怒涛の第三巻!◆あらすじ・内容と読みどころ秋山真之の成長と海軍戦術の革新秋山真之は、米国留学を経て帰国後、海軍大学校で戦術講座の初代教官となり、日本海軍の戦術理論を体系化する。彼の講義は多くの将校に影響を与え、日露戦争では彼の教え子たちが各戦隊の参謀として活躍する。真之の戦術は、源平時代の戦法や瀬戸内海の水軍の戦術などを
珍しく海です笑ここは三浦半島の久里浜浦賀港の近く燈明堂江戸時代、浦賀港の入口に作られた灯台今のは再建されたものあんまり知られてないのかな?人が少なくてプライベートビーチ感あり磯釣りがしたくなる少し歩いて、千代ヶ崎砲台跡明治時代の、東京湾防衛のための砲台のあと保存状態がよく、国史跡に指定されています砲台はこんな感じ砲弾を上空に向けて撃ち上げて、敵艦の甲板を上からぶち抜くようになってます二十八糎榴弾砲日露戦争時、二百三高地では旅順要塞を攻撃する攻城砲として使われました
2026年8月のブログです*今朝の東川町の気温13°、涼しいです。さて、東大文学部教授加藤陽子さんの『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(2016・新潮文庫)を読む。ご存じの方も多いかもしれないが、加藤さんは2020年の学術会議が推薦した会員候補者だったが、当時の首相だった菅ちゃんが任命拒否をした6人のうちのお一人。じーじは菅ちゃんが拒否をするくらいだから、どんなに左寄りなのかな、と思っていたが、本書を読むと、とても穏健・中立の方で、こんな人を偏向学者だという自
”『論語の活学』-⑥安岡正篤!!”感激を失った民族は衰退する子、子産(しさん)を謂(い)う、君子の道に四(よつ)有り。其の己れを行うや恭(きょう)、其の上(かみ)に事(つか)うるや敬(けい)、其の民を養うや恵(けい)、其の民を使うや義。[公治長第五]めったに人を褒めない孔子がたいそう子産を褒めておる。子産とは春秋時代の鄭(てい)の国の名宰相公孫僑(こうそんきょう)のことで、私も好きな、また深い敬意を感ずる一人であります。『史記』によると、孔子は彼の亡くなったのを聞いて泣いておる。私はこ
このときの日本軍司令官は「乃木希典(のぎまれすけ)将軍」でした。日本軍は多くの戦死者を出しながらも(乃木将軍の二人の息子も戦死しています)、ロシア陸軍が築いた巨大な要塞を崩しました。この勝利をおさめた乃木将軍と、ロシア軍の総司令官だったステッセルが、共に会見をしたときのことです。あるアメリカ人が、この会見の模様を撮らせてくれと、乃木将軍に願い出ます。それに対し乃木将軍はこう言いました。「武士道の精神からいって、ステッセル将軍の恥が残るような写真はとらせてはならない」その後、再
山鹿市(やまがし)南原の国道3号線沿いにある南島菅原神社を訪れる。国道を車で走っていたら石碑が目に入ったので、Uターンして寄ってみた。石碑は「日露戦役紀念碑」だった。揮毫者は陸軍少将従四位勲三等熊谷直通?カビで判読が難しい。この名前で検索したがヒットしなかったので違うかも。明治39年3月建設南島区出征軍人名録と題して名前が刻まれている。=======================【日露戦争の説明】=======================
イギリス近代化の洗脳を受けた長州・薩摩藩は徳川幕府を追い込み明治維新を敢行する。当時世界一の100万人を擁する文化都市である江戸文化を破壊しイギリス・フランスの傀儡政権を樹立。そして彼らの宿敵であるロシアを警戒する役目の番犬となった日本は途方もない借金をイギリスからして日露戦争を行う。日本は日露戦争では勝利するも残念ながら、多大な犠牲を出し多額の借金を背負う結果となった。武器・弾
昨日より会社がお盆連休に入ったということで、さっそく史跡巡りに行ってきました。↑記念艦「三笠(日露戦争時の日本連合艦隊旗艦)」巡ってきた場所は横須賀です。来年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』主人公小栗上野介忠順が建設したという「横須賀製鉄所(乾ドック・造船所)」と記念艦「三笠」の見学が目的でした。実は、何十年か前にも一度ここには来ていたのですが、当時はカメラなどで資料撮影するといったことは考えていなかったので、マジ見ただけだったんですな。今回は、改めて個人資料用の写真撮影をする目的と、
日露戦争でもっとも激しい戦闘が行われたといわれている、中国は旅順での戦い。このときの日本軍司令官は「乃木希典(のぎまれすけ)将軍」でした。日本軍は多くの戦死者を出しながらも(乃木将軍の二人の息子も戦死しています)、ロシア陸軍が築いた巨大な要塞を崩しました。この勝利をおさめた乃木将軍と、ロシア軍の総司令官だったステッセルが、共に会見をしたときのことです。あるアメリカ人が、この会見の模様を撮らせてくれと、乃木将軍に願い出ます。それに対し乃木将軍はこう言いました。「武士道の精神からいっ
今日は大阪市城東区に位置する諏訪神社に向かう。最寄りはJR放出駅。“はなてん”と読む難解地名だが、関西に住んでいた頃はハナテン中古車センターのCMでお馴染みだった。駅から歩いて10分程度で諏訪神社に到着する。説明書き。参道を進む。右手に昭和39年4月建之の「日露戦役凱旋紀念碑」が建っている。題字の揮毫者は不明。下部に出征軍人の芳名が刻まれている。===================[日露戦争の説明→→]===================
2020年8月7日。全長122mの巨大潜水艦「伊400」と、その内部に搭載された特殊攻撃機「晴嵐」3機。NHK『歴史秘話ヒストリア』で目にした日本の技術力と、高山正之氏・大高未貴氏の対談における「日本は30年先を行っていた」という言葉が重なった。日本は、かつてどれほどの技術を持っていたのか。そして、その日本を戦後の私たちは、どのように教えられてきたのか。2020年8月、私は高山正之氏と大高未貴氏の対談を世界へ発信する作業を進めていた。その時、NHK『歴史秘話ヒストリア』で巨大潜水艦「
別府市街地にある「別府公園」は、明治40年、大正天皇が皇太子時代に行幸した記念として開園した。1万5千坪の敷地には赤松が群生し、各宮家御手植の松、温泉神社、県商品陳列所、大グラウンド、忠魂碑などがあった。大東亜戦争敗戦後、米軍に接収されて「キャンプ・チッカマウガ」として使われたが、昭和31年の返還後は、陸上自衛隊が引き継ぎ昭和52年まで使用した。その後、公園として再整備され今に至っているが、当時公園内だった南部地域は公園外となっており、報国丸のマストと忠魂碑はこの場所に建っている。別府
坂の上の雲ミュージアムの向いに立つ瀟洒な洋館、萬翠荘https://www.bansuisou.org/。明治になって久松松平家の当主が、大正11年に建てた洋館。松山で最も古い鉄筋コンクリート建築らしい。建築はまったく詳しくないのでスゲーしか出てこない。展示で気になったのは、日露戦争時に捕虜として連れてこられたロシア人将校と看護婦の恋物語。互いの名前を刻んだ金貨が松山城の井戸から出てきたんだそうです。なんか、ロマンチックやね。ちょっとはしゃいでみた。ロゲットカードもらいました。
呉市の大和ミュージアムに展示されていた戦艦三笠の砲身を紹介するが、4年前の企画展で置かれていた物なので、常設展示はされていないかもしれない。******************************日露戦争で連合艦隊旗艦を務めた戦艦三笠は、イギリス・ヴィッカース社で起工、明治35年(1902)3月に竣工した。横須賀に回航後連合艦隊に編入され、明治36年12月、東郷平八郎司令長官が座乗する連合艦隊の旗艦となった。排水量:15,140トン速力:18ノット主兵装:安式12吋
艦橋に向かう。両舷に60㎝探照灯が置かれている。右舷探照灯デッキより前甲板を見る。艦橋へ。操舵室。海図室。東郷長官が指揮を執ったデッキ。有名な絵画「三笠艦橋の図」の場所はココ。手前は羅針盤、奥に測距儀。羅針盤。1m半測距儀。立ち位置のプレート。ボートデッキを通って艦尾側に向かう。中甲板に下りると中央展示室がある。ここには数多くの展示品があるが、その一部を掲載する。東郷長官の双眼鏡。測距儀。