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最近の外務大臣や外務省のヘタレぶりに、落胆したり怒っている国民は多いはず。しかしそんな日本にも、かつては欧米諸国と互角以上に渡り合った政治家がいたのです。今日は、その中の一人、陸奥宗光の命日・没後125周年にあたります。1844(天保15)年に紀州藩士・伊達宗広の六男として生まれた彼は、8歳の時に父親が藩内構想に敗れて失脚し10年間にわたり幽閉されたため、家族は苦しい生活を強いられました。父親の影響で尊王攘夷思想を持つようになった彼は、15歳の時に江戸に出て
7月16日の出来事622年ヒジュラ暦1年1月1日。この年内に、預言者ムハンマドはメッカからメディナに移住(ヒジュラ)したため、彼らの太陰暦でこの年の年初にあたるこの日がヒジュラ暦の始まる日になる。1054年東西教会の分裂:カトリック教会の使節としてコンスタンディヌーポリを訪問していた枢機卿フンベルトが、正教会のコンスタンディヌーポリ総主教ミハイル1世とその同調者に対する破門状を聖堂の宝座に叩きつける。ミハイル1世もフンベルト一行を破門。(東西教会の
*「18東大日本史本試Ⅳを考える①」の続きです。*問題は「東大教室(18東大日本史本試Ⅳ問題)」をご覧ください。第4問近現代(総合)教育勅語と時代の変化解説新たな構想(設問A)ここまでの説明でわかるように、教育勅語とは、ようやく日本が憲法制定・議会開設にたどりついた時期に作成されたもので、時代の状況に対応した性格を色濃く有するものだった。以後、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦で戦勝国の地位を得た日本は、対外的にも経済的にも急速に大国化していく。そのたびに新しい教育方針が模