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次の令和哲学の準備のために、最近幕末の状況を調べています。何となく触れたことはあったけど、改めて調べてみるとこういうことだったのかと新しい発見があります。江戸時代の幕藩体制は、すべてが幕府の直轄地ではなく、各地域を藩主(大名)が治めていました。親藩:徳川の血縁関係のある藩参政権なし譜代大名:関ヶ原以前から徳川の家臣や味方になっていた藩江戸から近い、要所に位置、参政権あり外様大名:関ヶ原の戦い以降に徳川の味方になった藩江戸から遠い地域に位置、参政権なし
朝廷に許可なく日米通商修好条約を結んだ井伊直弼(幕府大老・彦根藩主)を詰問すべく、慶勝は江戸城へ押しかけました。しかし、江戸城の途上日はあらかじめ定められています。よって押しかけた罪を問われます。慶勝は尾張藩主の座を追われ、弟の茂徳が次の藩主となりました。いわゆる安政の大獄に連座して失脚した慶勝ですが、井伊直弼が桜田門外の変で水戸浪士らに討たれると復権します。弟の茂徳が隠居し、慶勝の三男義宜(よしのり)がわずか六歳で尾張藩主となって、慶勝が藩政の実権
”天下りポスト“の根源となった将軍家斉は、かつての尾張藩主吉春がライバル視した八代将軍吉宗の血統でした。こうしたことが重なり、藩内に幕府への不満が醸成されていったのです。十一代藩主の斉温(家斉の一九男)が死去した際、藩士らは分家(高須藩)から慶勝を迎えたい旨を嘆願しますが、認められず、幕府からの“押し付け養子”が続きました。そして、ようやく一四代慶勝の時代に藩士らの念願がかなったのです。ちなみに高須藩主次男だった慶勝の弟には一五代藩主となる茂徳がいて、前出の
11月に、日米修好通商条約の勅許奉請に関する史跡めぐりがある。昨日はその下調べのため京都寺町の本能寺を訪ねた。本能寺は、使節の正使・老中首座堀田正睦の宿舎であり、また朝廷との交渉の場だった。とりあえず僕が知りたいのは、交渉が行われた安政5年(1858)の本能寺の敷地と建物の、当時の姿。実は、10日ほど前にも本能寺を訪ねたのだが、このときは不首尾に終わった。何人にもお会いしたのだが当時の絵図面はないとおっしゃる。本能寺は、秀吉の命により四条西洞院から現在の寺町に移転したが、移転後も、
徳川記念財団は8月20日、江戸幕府14・15代将軍の徳川家茂と慶喜が外交で用いた銀印「経文緯武」が宗家の蔵から見つかったと発表した。日米修好通商条約を国家元首として批准した時に利用されたという。三つ葉葵の家紋が施された黒漆塗りの蒔絵の箱に、縦横9.2cm、高さ7.8cm、重さ2.7kgの銀印の実物が入っているのが、2017年に判明した。銀印は1857年(安政4年)に益田香遠らが用意したもので、篆刻された「経文緯武」とは、文を縦糸に武を横糸に文武両道の統治をしく意味だ。日米修好通商条約な
NHK大河ドラマ『西郷どん』で薩摩藩主・島津斉彬と彦根藩主・井伊直弼の対立がいよいよ先鋭化してきました。これかれ、もっと対立は深刻化します。とくに安政五年(1588)四月、直弼は幕府大老に就くや、矢継ぎ早に重大な政治課題を決着させます。直弼はまず、朝廷の許しを得ずに日米修好通商条約へ調印し、一橋慶喜擁立派を出し抜いて紀州徳川藩主慶福(家茂)を一四代将軍にすえました。むろん、違勅条約締結に反対し、一橋擁立派だった諸侯は激怒します。斉彬は鹿児島へ戻って来た西郷隆