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旧一ツ戸隧道(きゅうひとつとずいどう)大分県中津市耶馬溪町延長:48.00m幅員:4.50m竣工:1956年(昭和31年)耶馬溪の景勝地の一つであり、中世には城も築かれていた一ツ戸は、険しい岩峰が山国川に突き出した中津と日田を結ぶ日田往還の難所でした。隧道は2本あり、明かり取りの窓を設けた長さ130mと54mがあったそうです。ここ一ツ戸は1980年(昭和55年)に国道改良に伴って歩道(片側)付きの新トンネル・一ツ戸隧道が建設されました。旧隧道は廃道になりましたが、山国川
名勝耶馬溪立留りの景(たちどまりのけい)大分県中津市耶馬溪町日田往還約10年ぶりに馬溪橋を訪れました。当時は石橋以外、周囲には興味もなかったのですが、今回は石橋周辺を少し時間に余裕があったので、歩いてみました。整備された馬溪橋の駐車場から見上げると岩が剥き出しになった岩山が気になったので、案内看板を読むと伝説ある岩山でした。訪問日:2025年2月23日(日曜日)馬溪橋と立留りの景(右上)立留りの景立留りの景=====案内看板=====名勝耶馬溪
ちょっと体調を崩して伏せっております。昨日、通院の帰りに筑紫野市内の山家郵便局に立ち寄ったところ・・・・九州の郵便取扱いは、長崎街道から始まったんですね。この山家宿は、江戸時代に黒田二十四騎の母里太兵衛、桐山丹波らが冷水峠と共に整備した宿場町で、長崎街道、日田往還、薩摩街道が結節する要衝でした。
はい!奈央です。秋の晴れた一日、日田に向かいました。日田って知ってますか?日田を言うとき、天領という言葉が枕詞としてついてきます。最近では、進撃の巨人の故郷の方が知名度があるかな?動画時間2分5秒動画時間8分24秒進撃の巨人わたしもちょっとだけ読みましたけど・・・なぜ?天領?*投資を楽しむ♪ブログより日田は、古代より交通の要衝だったそうです。中国からの文物の受け入れ地点は福岡の太宰府であり、大宰府から都への最短ルートは、「大宰府
追分より200mほど進むと二本木より往還道筋が残っています。(市道宮ノ前線)江戸時代、日田の歴史家・森春樹の「日田造領記」によると、郡代羽倉権九郎(寛政5~文化6年(1793~1809)の任期中)の時に女子畑村から五馬・出口村間の道普請で石組舗装(石畳)が行われたようです。大分縣史料三十二「日田造領記・下」森春樹羽倉権九郎君の項国立公文書館デジタルアーカイブより中村・熊野神社前には、他方では見られないほどの約150cmの切り石が組まれた立派な石
女子畑・台古井の久保の道標からの坂にも石が畳んでいた様です。この坂のアスファルトの下には、石畳が保存されていると言われています。しばらく道なりに進み、この辺りから右手の農地に上がります。この畑中の右側くらいを往還道が走っていました。虎御前塔往還道沿いの櫟と雑草の中にあったそうですが、昭和前期の農地の整備により水田の畔に座っていました。さらに数十年前に水田の端に10メートルほど移動され祀られています。「亀山抄」(安政四年〔18
女子畑村入口柚ノ木村塔ノ本を過ぎると路は、女子畑村との境に向かいます。小屋屋根の上に見える一本の木辺りから路がこちらへ通っていたのですが、山を切り拓いて掘り下げ、土場になっている為に途切れています。切り拓いた土場のこちら側の民家と小屋の間辺りを通り、県道に下ります。(県道はここもかなり掘り下げられています)県道をなぞる様に百数十mほど下ります。ここも堀割られた路だったようです。この村堺の旧字名が「石坂台」といわれたことから、石畳が敷かれて
今宿(塔ノ本)伝切から100mほど進むと大きく掘り割られている所を県道は通ります。ここを往還道は、法面の最上部くらいを越えるように通っていました。丘を越えると、右の杉林の向こうへ抜け、民家右脇を抜け、ほぼ現道の様に進みます。現道は当時より深く掘り下げられています。右ガードレール沿い、窪地に沿うように進み、公民館敷地に入りすぐに現道に出ると、掘り割られている右斜面を上り進みました。ここ塔の本にはシンボルともいえ
新ルート・バイパス東折~堀田東折追分跡より、幕末~明治以降に本道となったと考えられる大鳥堀田への路を辿ります。東折追分からのルート考察→日田往還肥後路を歩く⑨字堀田は江戸期、大鳥村に属していました。大鳥村は、明治八年に隣村の柚ノ木村と合併、合田村となりました。明治十二年編纂の「豊後國日田郡村誌」合田村の章・道路の項に肥後道として、この堀田ルートが詳しく記されています。豊後國日田郡村誌より(写し・天瀬公民館所蔵)まだ江戸期~明治期の面影が残っている1960
続木路まず、東折の追分から続木の台へ向かってみます。ここ続木地区には、開基明暦二年(1656)の「伝照寺」があり、文化九年(1812)六月二十九日に伊能忠敬一行が測量時に宿泊していることが彼の測量日記に記録されています。『二十九日六ツ後出口村出立…続木村"林"(丸に林)印まで測る。止宿打上共合二里三町四十八間九ツ前に着。止宿続木村西派一向宗三光山伝光寺(伝照寺誤り)』『七月一日六ツ後続木村出立。同所"林"印より初め…』ちなみに日付は旧暦です
続木村東折追分梅畑から市道に合流すると数十メートル先で右に入ります。右の路が往還道跡。すぐの民家の前が追分になっていた。民家前で左・続木方面(現在、市道に変換され民家の敷地になっている)、右・大鳥村堀田方面(市道)の追分になっていました。資料、聞き取りにおいて、この二つのルートそれぞれ往還道という説が分かれ、どちらの路が本道なのか?ここは本当に悩みました。この続木村には、庄屋が不在で赤岩村庄屋が兼帯していました。(その後、兼帯庄屋が鎌手庄屋へ代わる。)当時の記
横手から東折追分へ五馬市村八石田を過ぎると栗林村、大鳥村と少しずつ界し続木村横手の峠を通ります。横手の峠ここには「峠のおとき」という茶屋があったそうです。現道の部分は大きく迫り出した丘陵を削ってます。往還道はその迫り出した丘陵を迂回する様にして黄色い看板の向かいくらいに出てきて、広域農道と同じ感じで進みます。横手の河津家庭に古い家神が祀られています。天保十年七月吉日この家の近くの高台に横手権現があり、そ
五馬市本村北側、大坪尻へ下る道の手前から分かれ往還道に入ります。舗装された道を50mほど進むとそのまま山路に変わります。こちらも風倒木で荒れています。しばらく進むと枯れ沢に架かる土橋があります。200mほど進むと林道へ。道なりに直進。しばらく進むと広域農道に合流。合流地点を直進する様にそこから往還道が残っています。50mほど進むと八本木・辻の堂です。。ここは八角形に形どられたお堂で樹齢数百年のクヌギ
小栗林から五馬市見折谷橋(通称「土橋」。当時は橋の上に土を盛った土橋だったのでしょう)を渡り、すぐに左の脇道へ入ります。松並木の生き残りでしょうか、200mほど進むと再び現道と合流します。(左の路が往還道)現道を50mほどで生目神社の脇へ入ります。生目神社明治初めの神仏分離・廃仏毀釈によって、玉来神社に合祀されました。本殿は、天瀬町塚田の阿蘇神社に移設されています。地元の方々が再建しています。旧神社跡所有者が整
戸苅田から見折谷ここを左へ県道674号を進みます。右の杉の木の辺りに往還道の跡が見受けられます。戸苅田のバス停付近より左へ入ります。この辺りから右の藪に入ります。竹薮をかき分けながら進むと路が現れました。廃墟の脇を通ります。ぽつんと一軒家の開けた場所に出ます。往還道は左に進みます。一軒家の前を通り林の所で路は途絶えてしまっています。ここから数メートル先より斜めに現戸苅田農道に合流するまで
出口(いでぐち)の驛曽田の台坂を下り出口の里に入るとすぐに浄念寺があります。開創元禄十年(1697)寺前を往き来する人たちを見届けてきたことでしょう。すぐに地元の人が「森」と呼んでいるところに大きなタブの木があります。六部の墓と伝えられる板碑状の自然石を抱いています。昔から触れるとさわりありと伝えられています。小林(うばやし)のタブの木坂を下るといよいよ出口の驛に入ります。旅籠跡日田屋の前を通ります。茅葺の旧宿の横に明治・大正頃
曽田の台石坂曽田の池をあとに現在は舗装・拡張されている林道を進みます。舗装・拡張前の曽田の台往還道跡(昭和50年代)「岡城路」大分県教育委員会より500mほど進むと林道より右に入る路があります。これが歴史の道にも選ばれている曽田の台の石畳坂の入口です。40年ぶりに歩いてみました。今回は坂を下って行きます。近年では、地元の人たちもほとんど足を踏み入れることがなくなっています。大雨などの影響で落
肥後国境から曽田の台熊本城・阿蘇方面、竹田・岡城方面からそれぞれ来た路は阿蘇郡小国町の宮原で合流そこから日田へ向かいます。小国宮原→土田→下城→弓田→二俣→田原→下城田原前原の一本桜(十文字)そして肥後国境から豊後国へ。日田へ向かいます。往還道もほぼこの道をなぞるようにこれより西へ約1㎞ほど曽田の台の追分へ向かいます。杖立・白糸の滝の上流、沢・「境ノ谷(さけんたに)」を境界に国境となっています。(日田市天瀬町出口境ノ谷)この現道の県境と曽田の池の中間あたり
日田往還・肥後路江戸時代、日田には西国郡代が置かれ、四方八方へ各藩へつながる往還道がありました。そのひとつとして、日田・五馬地方には肥後・熊本方面、大分・竹田、佐伯方面への往還道が通っていました。玖珠川・大山川は深い渓谷が続いているため、現在の様な日田からの大分や熊本方面への川沿いの幹線道はありませんでした。豊後風土記にも五馬の地名が出てくるようにここは古代から南九州や東九州への交通の要所だったようです。頼山陽田能村竹田広瀬淡窓伊能忠敬西郷隆盛など数々の歴史人がこの
道の駅やまくにからちょっと中津側に進むと現一ツ戸トンネルが有り、トンネルの横を山国川側に回り込み歩くとすぐに旧一ツ戸隧道が有りました現一ツ戸隧道見えた!カッコいい‼︎この先の道は無くなっていました奥からの景色
2週続けて日田にやってきました大石隧道を歩いてみる為だ奥耶馬トンネルの手前から左に旧道を上り、途中に車を停めて歩いて進みますこの先の二又を左に曲がると見えました雰囲気抜群‼︎トンネルを抜けてみる風が吹き抜けてくる凄く良い‼️
長者原からの帰りに日田にやってきました中津へ向かう212号線から少し山側へ入ると有りました石坂石畳道です16箇所曲折ある道の上り道が1,260m続きます石坂修治碑16番目の曲折日田往還の碑ここまで日田往還の碑の先にフェンスが張ってあり進めなくなっていました、民家の敷地になるみたいで下りて来ました汗だく💦になりました😵原鶴温泉♨️で汗を流そう
恵比須神社えびすじんじゃ福岡県朝倉市宮野1891-1下町公民館に駐車スペースあり◆御祭神◆事代主神(ことしろぬしかみ)◆全景◆日田往還朝倉街道沿いに鎮座します。◆鳥居◆大正14年(1925年)建立。◆手水鉢◆◆狛犬◆前足を少し前後させた特徴のある筑後型狛犬。朝倉市は、旧筑前国に属します。筑後地方の範囲は、狭義(きょうぎ)の旧筑後国の領域を指す場合と、広義(こうぎ)の旧筑前国に属するものの筑後川流域である朝倉市や朝倉郡を含める場合とがあり
以前から気になっていた場所を病院の帰りに訪問しました。この郡境石は、夜須郡二(ふた)と、御笠郡天山の集落の境界に建てられたもので、御笠郡天山は現在の筑紫野市天山行政区、二は、後の山家宿場を示しているそうです。この付近は、日田往還と長崎街道の結節点にもなっていました。
7年前のゴールデンウイークのお出かけ記事も今回で終了です。私達も杖立温泉を出発して、鯛生金山に寄った後、帰路につくことにしました。国道212号線を経て帰ることになりますが、これはかつて城下町中津~天領日田~杖立温泉~城下町竹田を結ぶ一大交通路であり、日田往還とも呼ばれていました。杖立の市街地を通る道はまさに日田往還の一部にあたります。松原ダムが見えてきました。日田の市街地はもうすぐです。やっぱり旅は良いものですね。すさんだ心も随分癒されましたし、何より
自由と孤独小椋佳暮らしの中のわずらわしさを断ち切りたくてたった一人で時間と場所を設(しつら)えてみる何をしようと何思おうと邪魔ひとつ無く勝手身勝手開け放たれた自由を愉しむさあれ人間この世の出でて意味目的の本来無くて底なし沼に空しく騒ぐ他と交わらぬ一人の夜は闇の戦士に武器術は無く争い難い孤独が攻め込む自由のベクトル高く伸ばせば孤独のベクトルより深みを増す自由と孤独一枚の金のコインの裏表裏表今日はヒメの病院の日で
2017年10月19日今日も引き続き「お宿野の花」さんのお仕事でした。チェックアウトを待って午後からの作業開始なのですが予定よりも早く到着したので先にお昼にすることにしました。黒川温泉街の上のほうを走る国道442(日田往還)沿いにあるこちらのお蕎麦屋さん「沙羅」さんに寄りました。先日通りかかった時は定休日でしたので次回は是非寄りたいと思っていました。