ブログ記事33件
日本を貶めようとする日本人は少数派であるのに、彼らの主張はオールドメディアを通じて発せられるので、あたかもそれが世論であるかのように思われがちである。しかし、日本人の多数派は、ネットで徹底的に反撃し、彼らを孤立させ追い詰めている。それはあくまでも自然発生的な動きである。組織的に行われたわけではない。与党を離脱したときの公明党や、高市発言をめぐっての立憲などは、明らかに党所属の議員を動員したものであったが、高市さん支持のムーブメントは、そうしたことが一切なかった。名も無き日本人の多くは、
三島由紀夫は『花ざかりの森・憂国』の解説で「もし忙しい人が、三島の小説の中から一遍だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえればよい」と書いている。三島は「物語自体は単なる二・二六事件外伝であるが、ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると云ってよい。しかし、悲しいことに、このような至福は、ついに書物の紙の上にしか実現されないのかもしれず、それならそれ
日本浪漫派の保田與重郎は岡倉天心について「天心の世界藝術論は、日本の覺醒と日本の内部から起つた聲として論じることであつた。日本に於てだけ亡びなかつたものをありありとみたからである。―明治文藝を流れる我々の血統と尊敬すべき精神には、その厳粛な精神には、その嚴肅な自覺があつた。明治に前後して亡んだアジアの國々の中で日本だけが滅びなかつたのである。天心は世界藝術としてのアジアからそれを考察した。その日本こそ千五百年の間、アジアの太初からの藝術を保護してきた國であつた。アジアのすべての芸術は日本の土
これから何が起こるか分からない。平和ボケした日本は、ある日突然、戦場になっているかも知れない。しかし、現在の日本では靖国神社の国家護持はかなわず、戦いに倒れたものを讃える詩の一編すらもない。祖国とも呼べない国家に、語るべき国の大義はあるのだろうか。いかに敗れたとはいえ、大東亜戦争においては、私たちの父祖は「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめかへり見はせじ」を歌うことができた。日本浪漫派の保田與重郎は「我らの歴史と民族と
日本人の信仰心は教義に裏打ちされたものとは、かなり異なっているのではないだろうか。それよりも、無意識ながら日本人の生活に密着した独得のものではなかったか。日本浪漫派の保田與重郎は「わが国の歴史に於ては、教会や宗教教団の信仰にはうすかったが、日常生活や家庭のしつけ、また共同生活の祭礼や年中行事に於て、永遠とか不死とか、神聖とか清浄といふものを、一つの行儀作法として身につけた生活を形づくつてゐたのである。わが国人に宗教心がうすいといふものは、物欲を追求するだけを目的とした生活様式をもって、住家
伊東静雄・明治39年(1906年)生~昭和28年(1953年)没『わがひとに与ふる哀歌』発行・杉田屋印刷所/発売・コギト発行所、1935年(昭和10年)10月5日発行『伊東静雄詩集『わがひとに與ふる哀歌』昭和10年/1935年(3)』伊東静雄・明治39年(1906年)生~昭和28年(1953年)没、昭和14年頃、長女とともに『伊東静雄詩集『わがひとに與ふる哀歌』昭和10年/1935年(2…ameblo.jp病院の患者の歌あの大へん見はらしのきいた山腹にある友人の離室(はなれ
伊東静雄・明治39年(1906年)生~昭和28年(1953年)没、昭和14年頃、長女とともに『伊東静雄詩集『わがひとに與ふる哀歌』昭和10年/1935年(2)』伊東静雄・明治39年(1906年)生~昭和28年(1953年)没『わがひとに与ふる哀歌』発行・杉田屋印刷所/発売・コギト発行所、1935年(昭和10年)10月…ameblo.jp前回ご紹介した杉本秀太郎『伊東静雄』(筑摩書房・昭和60年/1985年刊)は1冊を費やして伊東静雄(明治39年/1906年12月10日生~昭和28年/1
伊東静雄・明治39年(1906年)生~昭和28年(1953年)没『わがひとに与ふる哀歌』発行・杉田屋印刷所/発売・コギト発行所、1935年(昭和10年)10月5日発行『伊東静雄詩集『わがひとに與ふる哀歌』昭和10年/1935年(1)』伊東静雄・明治39年(1906年)12月10日生~昭和28年(1953年)3月12日没、享年46歳『萩原朔太郎詩集『氷島』(6)伊東静雄への激賞』萩原朔太…ameblo.jp歸郷者自然は限りなく美しく永久に住民は貧窮してゐた幾度もいくども烈し
伊東静雄・明治39年(1906年)12月10日生~昭和28年(1953年)3月12日没、享年46歳『萩原朔太郎詩集『氷島』(6)伊東静雄への激賞』萩原朔太郎(1886-1942)、詩集『氷島』刊行前年、個人同人誌「生理」(昭和8年6月~昭和10年2月、全5号)創刊の頃、47歳。萩原朔太郎詩集『氷島』昭和…ameblo.jp伊東静雄(明治39年/1906年12月10日生~昭和28年/1953年3月12日没)は明治40年(1907年)生まれの中原中也、逸見猶吉より1歳年長の詩人ですが、中
萩原朔太郎・明治19年(1886年)11月1日生~昭和17年(1942年)5月11日没、享年55歳詩集『月に吠える』刊行2年後、大正8年(1919年)、上田稲子との初婚の頃、33歳『萩原朔太郎詩集『氷島』(1)詩集全篇』萩原朔太郎・明治19年(1886年)11月1日生~昭和17年(1942年)5月11日没、享年55歳詩集『氷島』刊行前年、個人同人誌「生理」(昭和8年6月~昭和…ameblo.jp萩原朔太郎(1886-1942)の最後の詩集は通常、昭和9年(1934年)6月刊行の詩
日本浪漫派の保田與重郎の『日本浪漫派の時代』は、とんでもない長編の詩のように思えてならない。純粋無垢な魂の発露であり、傷つきやさしい繊細な精神が綴られている。保田は「吾々の時代には、なほ美しい情緒が若者の生活の中にもあった。人々は清純な気分を求めた。欲望を乱暴によってごまかす代りに、それを霊的なものに純化する方法、泪(なみだ)の詩によって洗ふという方法が一般にあった。これだけでは人間の底辺の条件である。また文明文化の第一歩をなすものであり、文学の地面である」と書いたのである。その言葉が
ねこちゃん飼ったことある?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう前回はこちら(↓)石母田正『平家物語』(1957)読了。たくさん〝気づき〝を得られた。今日はその中から幾つか。一昨日は「猫の日」だったので、まずは猫間中納言の件。「或時、猫間中納言光高卿といふ人、木曽にの給ひあはすべき事あッておはしたりけり。郎等ども、『猫間殿の見参にいり、申べき事ありとて入らせ給ひて候』と申ければ、木曽大にわらッて、『猫は人にげんざうするか』。『是は猫間の中納言殿
日本浪漫派とは何であったのだろうか。迂闊にも僕は、保田與重郎がドイツ浪漫派の影響下にあったことを忘れていた。あまりにも時局に関した評論ばかりを読んでいて、そこまで考えが及ばなかったのである。それだけに、保田の『英雄と詩人』に収録されている「清らかな詩人—ヘルダーリン覚書」は衝撃的であった。隠された秘密がそこにあるように思えたからだ。ドイツ語のまったく読めない僕であっても、保田の語り口には魅了されてしまった。ドイツ浪漫派とフランス革命は、まさしく同根であるという再確認もまた、なぜか新鮮であり
太宰治『雌に就いて』読了。二十世紀旗手(新潮文庫たー2-9新潮文庫)[太宰治]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}前回に続いて新潮文庫の短編集より。まあ良くも悪くも太宰的な作品、と言える。銀座のホステスだった田部シメ子との心中一件をモデルにした、とも言われている。太宰は何度も自殺未遂を起こしている。中には女性を巻き込んだ(あるいは巻き込まれた)ものもあり、周知のように最後は玉川上水で入水して死んでいる。猪瀬直樹はこれを、太宰
70年代に若者であった僕らの多くが日本浪漫派に惹かれたのは、吉本さんの鮮烈な体験を、僕らなりに思い起こすことではなかったろうか。未だに僕は吉本さんの「草ふかき祈り」よりも優れた愛国詩を目にしたことがない。保田與重郎に代表される日本浪漫派の血脈は吉本さんにも流れていたのではないか。新左翼の教祖としての吉本隆明ではなく、もう1人の旧米沢高等工業学校当時の吉本さんを『初期ノート増補版』で世に出したのは、僕も懇意にしていた会津人川上春雄であった。1964年のことである。すでに吉本さんも川上さんもこ
世間には「こたつ記事」といふものが跳梁跋扈しておって。例えば田尾さんや高木豊さんが自身のYoutubeチャンネルで話したことを、Yahooニュースがまんま載せる。単に文字起こし・脳を1mgも使うことなく。自分で汗をかいて取材せず脳も使わぬ、こんな「こたつに入っていても書ける記事」の事をこたつ記事と言います。ネットニュースの多くがコレ。諸人は〝マスゴミガー〝するが、朝日にせよ讀賣にせよ、表し方に賛否両論あれども足で稼いでいる記者が大半。「ネットこそ正で既存のマスメディアは駄目」なる衆は
グローバリズムというのは欧米の価値が全世界を覆うことであるが、繁栄の影には人間が背負いきれない闇の部分が付きまとう。第一次世界大戦後から西洋の没落が問題視され、今日ではなおさら深刻化している。明治維新から現在まで、欧米を目標にしてきた我が国が、それに毒されないためにも、自分たちのアイデンティティーを確認するというのは、日本民族としての当然のことなのである。これまでも我が国では、大東亜戦争以前から「近代の超克」が叫ばれ、世界史的な日本人の使命が論じられた。昭和35年からは昭和45年にかけ
台風6号宮古島など暴風域影響長引くおそれ厳重警戒を2023年8月3日10時23分台風台風6号最新情報(3日10時)宮古島など暴風域影響長引くおそれ警戒|NHK|台風配信より大型で非常に強い台風6号は沖縄県の宮古島の北の海上を西寄りに進んでいて、沖縄本島地方などで非常に強い風が吹いています。台風は4日以降、強い勢力を維持したまま東へ進む見込みで、沖縄地方や鹿児島県の奄美地方では台風の影響が長引くおそれがあり暴風や高波、高潮に引き続き厳重に警戒してください。
「それはある夕暮れ時に起きたーラミレス=ホフマンは黄昏が好きだったー。そのとき僕たちは、コンセプシオン郊外のタルカウアノに近いラ・ペーニャ留置所にいて、その急ごしらえの刑務所の中庭で、退屈をまぎらすために、他の囚人たちと一緒にチェスをやっていた。少し前まですっかり晴れ渡っていた空に、西から東に向かって雲の細長い筋が見え始めた。針か煙草のような雲は、初めは白黒だったのがやがてピンク色に染まり、最後は輝く朱色に変わった。雲を眺めていた囚人は僕だけだったと思う。それからゆっくりと、雲の間か
友人F君(ループする太陽)が、こんなブログを書きました。◼️窃盗団窃盗団にはいろいろある。直近なら、えーっとルフィだっけ?窃盗団とは言い条、しょせん詐欺。単に金が目的で、ロゴスもパトスもそこには無い。いっぽうF君のは「詩」だ。*じゃあ何が目的かって?あんたらとおなじだよ*不肖ワタクシ、自称日本浪漫派。「詩」さえ在れば良い。逆にいうなら、あらゆる事物をこの一点で峻別する。小林秀雄は〝保守〝じゃない。福田恒存や浅利慶太は保守っちゃ保守だが、そんな区別に何の意
敗戦から78年目の夏を迎えようとしているのに、LGBT法案などでアメリカの言いなりになってしまう日本とは何なのか、国際法を無視した我が国への原爆投下をも、正面切って批判できない日本とは何なのか。そうしたことを考えると、戦後レジームから一歩も脱却できない不甲斐なさを痛感してならない。僕が若かった頃に日本浪漫派の再評価が行われた。機関誌「日本浪漫派」の復刻版が出たのは昭和47年であった。竹内好、橋川文三、桶谷秀昭、磯田光一、大久保典夫、大岡信らが、同人であった保田與重郎、伊東静雄、太宰治らを論
山口県東部と中部で震度205月19日10時41分、NHKNEWSWEB配信より山口県東部と中部で震度2|NHK山口県のニュース19日午前6時56分ごろ、愛媛県で震度4の揺れを観測する地震があり、山口県の東部と中部で震度2の揺れを観測しました。この地震による津波の心配はありません。県内各地の震度は、震度2が、山口市と防府市、柳井市、周防大島町、平生町でした。震源地は豊後水道で、震源の深さは50キロ。地震の規模を示すマグニチュードは4.4と推定されています。四国
卓球石川佳純引退会見【詳しく】「自分自身やりきった」2023年5月18日17時39分、NHKNEWSWEB配信よりhttps://www3.nhk.or.jp/news/html/20230518/k10014070911000.htmlオリンピックに3大会連続で出場して銀メダル2つ銅メダル1つを獲得し、今月、現役引退を発表した卓球の石川佳純選手が18日、記者会見を開き「自分自身、やりきったと思えた。卓球に必死で夢中になった競技生活23年間だった」と話しました。※記事後半
上皇ご夫妻奈良中宮寺の修繕終えた本堂で拝礼される2023年5月17日13時03分、NHKNEWSWEB配信よりhttps://www3.nhk.or.jp/news/html/20230517/k10014069911000.html上皇ご夫妻は奈良県斑鳩町にある中宮寺を訪問し、修繕を終えた本堂で拝礼をされました。斑鳩町の中宮寺は昭和43年に建てられた本堂の傷みが目立ったため、上皇ご夫妻からの支援も受けて、おととし3月までおよそ5か月かけて修繕が行われました。上皇ご夫妻は
20thCenturyが切り開く新たなジャニーズポップス竹内まりや、曽我部恵一、ミツメらアーティスト提供曲の充実2/17(金)18:03配信20thCenturyが切り開く新たなジャニーズポップス竹内まりや、曽我部恵一、ミツメらアーティスト提供曲の充実(リアルサウンド)-Yahoo!ニュース配信より20thCenturyが切り開く新たなジャニーズポップス(C)リアルサウンドアイドルグループの楽曲には、専業の作詞家/作曲家が制作を手掛けているものだけでなく、自
わけもなく保田與重郎の『日本浪漫派の時代』を引っ張り出して読みたくなった。今のような騒々しい時代にあっては、芳醇な精神をリフレッシュする文章を目で追いたくなるからだ。日本浪漫派は、あくまでも先の敗戦によって、占領軍の力で勢いを殺がれたのであって、外部的な要因によって言論を封殺されたのである。あの時代のもっとも先進的な若者は、コミンテルンによって官僚的になった共産主義運動に愛想をつかし、新たな文学運動に馳せ参じたのである。その当時の空気を吸っていた保田は、それを素直に書き記したのである。「我々
共産党の昔のイメージは今と違っていた。清廉潔白であり、正義のために戦っていると思われた時代があった。とくに、敗戦後に刑務所から出てきた徳田球一、志賀義雄らの幹部は、転向せずに信念を貫いたというので、まるで英雄扱いであった。東大の新人会に集まった若者たちも、セツルメント運動として、労働者や貧困の地に入っていって、そこで知り合った女性と結婚した例が多かった。間違っても、貧困ビジネスで私腹を肥やすことなど、考えられもしなかった。権力に牙をむくというのは、潔癖さの証でもあった。保田與重郎の『日本の文学
過日、こんな日記を書きました。↓ブロ友さんの記事に触発されて、ブロ友さんを釣ったらおお釣れた♪(失礼)めっさ長いコメントをいただきました。ありがとう、ありがとう。あれから半月。ようよう当該コメントにレスしました。遅くなってすみません。氏は映画がメイン。いっぽう俺は音楽と聖書と昔話をもっぱらに。ジャンルは重なったり重ならなかったりするが、アートを好む人ならば、相通ずるのは確かである。映画はハリウッドでもインディーズでも・・・そういえばゴダール、昨秋死んだんだって?◆ゴダー
寒々な朝が来てから仕事場に入りて我は娑婆に背向ける令和にも日本浪漫派反近代どよめきの声地おおいたり志功なる装丁なりて日の丸を描きて手文字雄渾なりし我が足が向きたる茶店休みなり老いたる夫婦の奮闘なるが老体は老体のまま仕事せん無理をしないで休憩まじえて
伊東静雄・明治39年(1906年)生~昭和28年(1953年)没『わがひとに与ふる哀歌』発行・杉田屋印刷所/発売・コギト発行所、1935年(昭和10年)10月5日発行『伊東静雄詩集『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年/1935年刊)その3』伊東静雄・明治39年ま(1906年)生~昭和28年(1953年)没『伊東静雄詩集『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年=1935年刊)その2』伊東静雄・明治39…ameblo.jp病院の患者の歌あの大へん見はらしのきいた山腹にある友人の離室(はな