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新月と満月は祈りの時期ですが、新月と満月では祈りの種類が違うといいます。満月の時は、エネルギーが増大することを祈り、新月の時は新しく始めることを祈るのだといいます。もしかしたら、そんな祈りが込められた詔が、昔々に発せられました。本日は旧暦では三月十七日となりますが、天武天皇十年(681年)三月十七日は、「帝紀及び上古の諸事を記し校定せよ」と詔があった日です。(当時の暦と何度も改暦された後の現在の旧暦は同じではありませんが、単純に旧暦で考えています。)十五日は満月、あるいは満月の時期となって
こんにちはまつじゅんです!生き方について考えさせられた本をご紹介します。『一冊でわかる神道と日本神話』武光誠一冊でわかる神道と日本神話:「わが国の起こり」「日本人の心の原点」を読み解く――Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}神道を知っていますか?縄文時代に自然発生的に生まれた日本古来のルーツをもつ信仰だといわれています。その神道では私たちが幸せに明るく活き活きと過ごすことが神々が喜ぶことであるという考えだった
1972年に民家を建てる前の調査で発見され1981年から本格的に調査が始まりましたその結果「日本書紀」に記された漏刻と関連施設である事が分かりました日本書記には天智天皇が大津宮の新台に漏刻を置いて鐘鼓を打って時報を開始したとの記述があり、これが西暦に当てはめると671年6月10日となりこの日が時の記念日と制定されましたただ日本書紀には皇太子(中大兄皇子)が10年前の660年に日本で初めて漏刻を造ったとあり、時を支配して人々を統制・管理すると言う政治体制が築かれていた事を
こんばんはHickeyですまずは今朝に台灣東部で発生した地震により亡くなられた方々の御冥福をお祈りするとともに被災された皆様に心よりお見舞い申しあげます台湾加油さて今日4月3日は憲法記念日です‼️『なんで今日が憲法記念日なんだよ😨』そう思った人もいるでしょう😒誰もここで言っている憲法が日本國憲法そんな風には言ってないだろ🫵😒君は日本書記を読んだことがあるのかね🫵😒日本書紀によるとだね【推古天皇12年(604)4月3日に厩豐聰爾皇子が憲法十七条を作ったよ
本日は我国建国の祖である神武天皇祭、神武天皇がお隠れになられた日、命日です。令和の御代替わりの時には、上皇陛下上皇后陛下が春に、また初冬の時期には天皇陛下皇后陛下が、奈良にある神武天皇陵へ行幸啓されました。それは初代天皇であらせられる神武天皇への御代替わりのご奉告をされたのです。上皇陛下は125代目、今上陛下は126代目の天皇ですが、その皇祖が神武天皇です。曇りの中の参拝ですが、天皇陛下が拝礼されている間にみるみる晴れていく御参拝映像。そしてつい先日は、敬宮殿下も大学のご卒業を
先日、敬宮殿下が伊勢神宮と神武天皇陵に御成りになられて話題となりましたが、伊勢神宮は天皇と皇室の祖先神天照大御神が祀られており、神武天皇陵は初代神武天皇の陵(墓陵)となります。以下の動画では、敬宮殿下のドレスの違いについて説明されています。2024/03/27天皇・皇后両陛下の長女敬宮愛子内親王殿下さまが、27日午後4時半ごろ、奈良県の橿原神宮前駅に到着された。2日間にわたる初めてのお一人での地方訪問を終えられ、淡い水色のスーツと帽子姿で歓声に手を振って応えられた。午後2時ごろ、
厩戸豊聡耳皇子命(うまやどとよとみみのみこのみこと)、斑鳩宮(いかるがのみや)に薨(かむさ)りましぬ。是の時、諸王、諸臣、および天下の百姓は、ことごとく、長老(おきな)は愛児を失うがごとく、塩酢之味口(あじわいくち)にあれども嘗めず、小幼者は慈しめる父母を失うがことく、哭(な)き泣(いさ)つる声、行路に満てり。すなわち耕夫は耜(すき)を止め、春女は杵(きおと)せず。皆いわく、日月輝を失いて、天地すでに崩れぬべし。今より以後、誰をか恃(たの)まん哉。日本書記では、聖徳太子薨去のありさまを上記
下鴨神社の紅葉。のんびりと京都お散歩。縁結びの社としても有名です。日本書記、古事記にも記されている模様。市内は混んでるので、少し中心地から離れた場所がおすすめ。
おはようございます本日みなさまのために現れたひめ神カードは✨⛩️11.くくりひめ💖本音のひめ神さまです✨📕古事記に出てこないで、日本書記にでてくるひめ神さま喧嘩したイザナギとイザナミを言葉をかけて仲直りさせたひめ神さまです。男女をくくる、仲良くさせるひめ神さまとして人気のあるひめ神さまです。何を語ったか記述されていませんので謎の女神とも呼ばれています。🌈✨本日のひめ神カードメッセージ✨⛩️自分の本音を見てみましょう。(何を大事にしているか)⛩️嘘偽りない言葉(白い
イラスト『ラノベ古事記』イラスト・キャラクターの利用規約アマテラスの孫ニニギは、美しい乙女コノハナサクヤ姫を見付けて求婚した。サクヤ姫は父のオオヤマツミへそのことを言うと、オオヤマツミは喜んで、姉のイワナガ姫を添えてニニギへ嫁がせた。しかし、その姉は容姿が醜かったので、二日はサクヤ姫だけを留めて姉は返した。オオヤマツミは「イワナガ姫と結婚すれば、ニニギ様の子孫は石のように永遠に変わらず揺るぎないものになり、サクヤ姫と結婚すれば木の花が咲き栄えるように繁栄するようにと願い
第十四代仲哀天皇は、古代の天皇で四世紀後半頃の、古事記、日本書紀の時代の天皇です。御名は帯中津日子命/足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)。御父は倭建命/日本武尊(やまとたけるのみこと)、御母は布多遅能入理毘売命/両道入姫命(ふたじのいりびめのみこと)で垂仁天皇の皇女。容姿端麗で背も高かったといわれています。成務天皇四十八年、成務天皇に皇子がいないため、天皇の異母兄である日本武尊の第二皇子の足仲彦尊が三十一歳で皇太子となられました。それから十二年後に天皇の崩御により即位されまし
小説家が1番、風刺で世情をいうが、虚無になる。日本は世界の雛形縄文、日本書記、黒潮文明に、東北の縄文起源説https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjAhPO4oeKEAxWTla8BHQSNAKAQFnoECC8QAQ&url=https%3A%2F%2Fcuriosity-koukisin.com%2Fsocialissues-technology%2Fsado_g
澪をひく船音遠く雨の夜窓辺に春はしのび来たりぬ厭きずに春を歌う、紅の爺イ画像/海ノ中道・道切り辺りから、未明の福岡市内天平八年・筑紫館(ちくしのむろつみ)太宰鴻廬館での七夕祭https://frcodon.yoka-yoka.jp/e1003139.html
どちらがお好きでせう、、結句がロマン派か自然派か、、、、木々の芽の未だ固きを春告げる鳥遊ばせて神々の青木々の芽の未だ固きを春告げる鳥遊ばせてのたのたり空「光る君へ」九夜・ポチ下さいませ、、、https://frcodon.yoka-yoka.jp/e2341414.html
日の神に赤瀬燃えたち綿津見の比売汲む水にスメラギは春志賀島赤瀬は、日の出うけて輝きます、、綿津見神の宮の井の傍らの湯津桂木に待つ火遠理命は、豊玉比売に出会ひます。春をむかへます、、、海幸・山幸神話祭儀、志賀海神社・歩胴結舞.勝馬詣.汐掻きhttps://frcodon.yoka-yoka.jp/e2337261.html
虎落笛激しき夜は黄泉神狂おしき夜悲しみの夜虎落笛でふた夜。虎落笛の「もがり」と、音が通じる古代葬礼殯・もがりは関係がある?という連想で連夜、、、画/青木繁「黄泉比良坂」(よもつひらさか)刻まれた少女の体は食物に変わる祭儀と、保食神を殺す月読神、保食神を殺す須佐之男命https://frcodon.yoka-yoka.jp/e2341359.html
若日子の胸貫ぬくか返り矢か未明を走る春のイナズマ葦原中国へ派遣されたものの、復命を怠るうえ、高天原に矢をいかける天若日子。矢を拾う高木神の返り矢で薨る。若日子の葬儀を弔問した阿遅志貴高日子根神は、親族らが若日子が甦ったと喜ぶと、死人と間違えるな!と、喪屋を破壊する、、、不思議な話。その時、兄を称えた阿遅志貴高日子根神妹・下照比売、若日子の奥様の歌あめなるや弟棚機おとたなばたの項うながせる玉の御統みすまるに穴玉あなだまはやみ谷二渡ふたわたらす阿治̪志貴日子根
本日は天皇陛下のお誕生日でありますが、孝安天皇の祭日でもあります。我が国は歴史の長い国ですから、こういう日が重なることもあります。天皇陛下は百二十六代天皇となりますから、ちょうど百二十代前の天皇となります。百二十代前のご先祖様の祭日がわかっているとは凄いことではないかと思います。『奉祝天長節天皇陛下お誕生日おめでとうございます』本日は、天皇陛下のお誕生日です。天皇陛下は昭和35年2月23日(1960年)にご誕生され、本日64歳となられました。おめでとうございます。本日は令和初の天皇…
物部氏も謎の多い氏です天皇家のように天降る神話を持っていてある人は九州が発祥と言いある人は大和に先住していたとも言う古代の有力豪族各地に物部の地名も多く残る・・この本は文献に記された記録から物部氏とは・・を探った書備忘録です物部氏古代氏族の起源と盛衰篠川賢吉川弘文館2022年〇祖先伝承の中の物部氏【物部氏の祖先伝承】日本書記:初代神武即位前記に「此れ物部氏の遠祖也」饒速日十代崇神天皇即位前記「物部氏の遠祖」大綜麻杵命(おおへそきのみこと
天武天皇四年(675年)一月五日、初めて占星台が建てられ、天体の観測・吉凶の占いが行われました。本日は旧暦では一月五日ですから、1349年前の今頃の時期だったでしょうか。※改暦がなんどもありますので単純に旧暦にあてはめています。新月から五日目ですから夜空はまだまだ暗く、また冬の空は空気が澄んでいますから天体観測にちょうど良い時期だったでしょう。晴れていれば夜空の星がスッキリ見えたのではないでしょうか。現代の都会の空は明るすぎて、星があまり見えませんが、この時代の冬の夜空はきっと星が
斉明天皇元年(655年)一月三日、皇極天皇が飛鳥板蓋宮にて再び即位されました(斉明天皇)。旧暦では本日は1月3日ですので1369年前の本日ということになります。※古来より何度も改暦がされていますので単純に旧暦にあてはめています。これは史上初の重祚ですが、重祚は後の孝謙天皇が称徳天皇として重祚された2例しかなく、両方とも女帝です。孝徳天皇が即位されたのは、乙巳の変の直後、皇極天皇が史上初の譲位をされたことによるものでした。これ以降光格天皇まで五十四例の譲位が行われています。(北朝は除
こんばんは😊尾張にいるHickeyです😊今の時期って春を迎える祭りとか多くない❓🤔俺の住んでいる愛知県豊橋市でも2月10日・11日この両日に安久美神戸神明社さんで国指定重要無形民俗文化財にも指定されている鬼祭りがとりおこなわれとるんだわ‼️でも俺は今年は豊橋を留守にしとるで参加してせん😛この祭りが終わると豊橋には春が訪れるという…春近し😊さて…ここからが本題だがね☝️😊今日2月11日は紀元節そう言ってもわからない人もおるわな😨💦今は祝祭日の名称が変わってしまったから実
明日2月11日は紀元節です。紀元節とは日本の始まりの日のこと。日本の誕生日です。日本の国のはじまりは、神武天皇が即位された日をいいます。日本書紀巻三に「辛酉の年春正月庚辰の朔(ついたち)、天皇橿原の宮において帝位に即きたまふ。この年を天皇の元年となす」とあり、その日が日本の始まりとされました。つまり、正月1日が紀元節でしたが、明治の改暦の際の日付に現在は固定され、現在2月11日が紀元節となっています。本日は旧暦正月ですから、2月11日と1日違いとなり、旧暦だったらこの時期が正月であったこ
足羽神社。もちろん御祭神は継体天皇(と宮中の神々)。治水灌漑殖産等々で、この地を拓き尊ばれ、請われて即位上京する際に、この地に残す人々を慮って御自らの生御霊をこの地に鎮めたとか。間違いなく実在していると、研究者の意見が一致している最も古い代の天皇とのこと。しかしその出自は特異で、書紀には母の故郷・越前高向で育ったとあるが、古事記には越前の記載は無く近江とある。後嗣無き先代武烈の崩御によって即位するが、即位後20年近く大和入りしなかった事や、武烈天皇とは4親等以上離れている事から、王朝交代
『赤貝PART3』今現在の流れで『日ユ同祖論』へ移行していきます。ただまだ伝えたいことがたくさんあります。歴史仕組み宗教にはまだまだたくさん秘密がある。前回は『アマテラス』ヘブライ語では『ヘフジバ』という名前です。旧約聖書ではユダ王国ヒゼキヤ王の妻アビ「私の父はヤハウェ」アビヤ-Wikipediaja.wikipedia.org旧約聖書でいう『神の系譜』です。『アマテラス』はここからきています。また赤猪をまつる神社というと明
千葉県行徳駅から歩いて道沿いの歩道にあった案内看板の方向に歩き野鳥観察舎に向かって歩いて行きます。空の雲は5月の白い雲が自由に漂ってなんだかとっても5月ののんびり気分です。道端に咲く白いマーガレットノースボールかな。春と初夏を同時に感じるそんな時間です。そんな風景を見ながら歩いて行くと野鳥観察舎に到着したようです。野鳥観察舎
第四十一代持統天皇は飛鳥時代の女性天皇です。大化元年(645年)生。御名は鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)。御父は天智天皇、御母は蘇我遠智娘(そがのおちのいらつめ)。大海人皇子の妃であった鸕野讚良皇女は、任申の乱の時ただ一人皇子に従い作戦も練ったといいます。4年前は日本書紀編纂1300年の記念すべき年でしたが、その日本書紀で一番詳細に記載されているのがこの壬申の乱の時代です。大海人皇子が天武天皇として即位すると皇后に立ち、政治面でも補佐をしました。その為天皇が崩御され
第二十五代武烈(ぶれつ)天皇は五世紀末の古代の天皇で仁徳天皇系最後の天皇です。御名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかささぎのみこと)。御父は仁賢天皇、御母は雄略天皇の皇女、春日大娘皇女。継体天皇の皇后で欽明天皇の母である手白香皇女、宣化天皇の皇后である橘仲皇女は同母姉妹にあたる。仁賢天皇の崩御により即位。漢風諡号のその字からもとても激しそうな感じが想像できますが、日本書紀にはその暴虐ぶりが書き連ねてあり驚きます。これは、この代で仁徳天皇系が終わってしまうためにわざと悪く書かれた
古事記、日本書記によれば菟道稚郎子は、仁徳天皇の弟であり、仁徳天皇と皇位を譲り合ったと書いてある。2人の父である応神天皇は、菟道稚郎子命を跡継ぎとして指名していた。しかし、菟道稚郎子は、漢字を伝えたと言われる王仁(わに)博士から、儒教を学び、長男相続が正しいと考えた。このようなことから、応神天皇崩御の後、菟道稚郎子命と大鷦鷯命(仁徳天皇)の間で、3年間、皇位を譲り合い空位が続いた。(古事記、日本書記)菟道稚郎子命はこの状態を解決するために、宇治の地で自らの命を絶った。