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山川出版社から発売している全100巻のシリーズは、お手頃価格と薄めのページ数で入門編にもってこいの一冊です。本書は天皇や治天の君をも超える権力を獲得した足利義満の生涯を追っていますが、公家社会から権力を奪っていったという論調で解説されています。それが適切かはさておき、2010年初版の書籍で桃井直常を「ただつね」ではなく「なおつね」と読む(14ページ)のはいかがなものかと思います。『『桃井直常とその一族(中世武士選書49)』松山充宏著』畠山斯波吉良細川今川石
父の足利義満は明(当時の中国)との交易に伴う利益を重んじ、皇帝から「日本国王」に封じてもらう朝貢貿易に甘んじていました。ところが、義持は、義満の死によって新たな日本国王に封じるという明の永楽帝の使者の弔意だけ受け、朝貢貿易については拒絶したのです。その後も明からの使者に会わず、ついに両国は国交断絶しました。このように義持の治世は父の時代の反動政治と言われますが、その後、南朝の残存勢力の蜂起や父の時代に親王に擬せられた弟の義嗣の挙兵と苦悩が続きます。応永25年(1
京都の冬の風物詩の一つ、雪の金閣寺に行きました。一年前に、金箔を塗り替えているので一層美しさに磨きがかかった筈😊金閣寺の屋根工事完了で公開(2020年12月29日、京都市北区)#金閣#鹿苑寺#京都京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)の舎利殿で進められていた檜皮葺き屋根の葺き替え工事がこのほど完了し、29日、報道関係者に公開された。youtu.be寒波予報が出たので、前日の夕方に金閣寺では雪が降っていることをライブカメラで確認(便利やわ)。金閣寺|臨済宗相国寺派正式名称を鹿苑寺といい、相国寺
1401年5月、足利義満は明に使節を送り、1402年2月に第2代皇帝になった建文帝から返詔をもらいます。その返詔には足利義満を『日本国王』と認める文言が含まれていました。これは単なる外交儀礼としての朝貢ではありません。世界の支配者である中華皇帝から、日本の国王が任じられただけでなく、日本の国を中華帝国の明に従属させたという意味です。つまり、聖徳太子が隋の煬帝に『わたし天皇、あなた皇帝』と対等を宣言して以来、初めて日本を中国の属国にしたのです。返詔を読むと、『封ず』とまで書いてあります。完全に冊
『ty・coon[<Jap.「大君」]『幕末の日本の将軍』と辞書にある。英語になったのが幕末なのであろうが、「大君」の言葉自体は、家光か家綱将軍あたりから使われている。しかし、普通は、日本人でもあまり知らないであろう言葉を、なぜ「英語」なってしまったのでしょう。「スシ」「サキ(ケ)」「マンガ」とだれでも知ってる日本語でなく「タイクン」などが「英語」に?結論からいえば、「徳川幕府の巧妙な外交戦略」です。徳川幕府開闢当時を思い起こしてください。秀吉の朝鮮出兵で、隣国朝鮮とは敵対関係で
後醍醐天皇が足利尊氏との政権闘争に負け吉野に起こした南朝が実は、九州を制圧し長期間独立国家として君臨していたことをご存知でしょうか?その立役者は怪物「後醍醐天皇」の第11皇子懐良親王(かねよしORかねながしんのう)です。後醍醐天皇の皇子といえば、楠木正成公ととともに「建武の新政」を成功せしめた武勇の誉れ高き「護良親王(もりよししんのう)」が有名ですが、異母弟である懐良親王もとても皇子とは思えないほどの武勇に長けた人物でした。懐良親王(元徳元年(1329年)?-弘和3年/永徳3年
いずれにしましても、こうして朝鮮へ出兵した「日本国王」が「平秀吉」であり、彼が「華人」であるという説が中国から朝鮮へと広がっていったのです。次第に、中国人だった秀吉の出身地まで中国の史書に登場するようになります。明朝の末期に編纂された『国榷』によりますと、もともと秀吉は中国の全州(広西自治区全州市)か、寧波(ニンポー)(浙江省寧波市)出身ということになっています。広東(カントン)の海賊・曾一本に従っていたものの、戦いに破れ、日本へ亡命したといいます。そこから先は、こ
『懲毖録』によりますと、まず秀吉は中国から日本へ渡った後、日本で「薪を負う」暮らしをしていたといいます。貧しい暮らしをしていたことの喩えです。ところが、ある日、路中でたまたま「日本国王」に遭い、その才能を認められます。やがて秀吉は「勇力善闘」し、功を積み重ねて「大官」となり、政権をとったというのです。「日本国王」を織田信長に置き換えると、信長に重用され、やがて天下人へと昇りつめる秀吉の物語と重なり合います。ただし、秀吉その人は中国から渡来した「華人」だというので
<第114代中御門天皇>1709年即位。(将軍)徳川家宣。正徳の治〔新井白石〕。生類憐みの令・廃止。1711年朝鮮通信使・待遇簡素化。将軍の称号「日本国王」に!1716年(将軍)徳川吉宗。(町奉行)大岡忠相。江戸町火消し・いろは47組。1722年小石川養生所。
なぜ新日鉄資産差し押さえの判決はくだり、反日書籍は書店から消えたのか日韓関係は「相互戦略的放置...BLOGOS1965年の日韓基本条約では、当時、日本による韓国併合が合法だったか不法だったかを巡り数年間、結論が出ず、最終的には、米国の仲裁で「もはや無効で...1月24日(木)ムネオ日記BLOGOS今回は1956年宣言を基礎として平和条約交渉の加速を約束したと述べている。合意と約束では...国境線を画定して平和条約を結ぶことで領土問題も解決する。日本は恐ろしいが、実
22-2日明貿易1368年、モンゴル人の支配した元が打倒され、漢民族による統一王朝である明(ミン)(初代皇帝朱元璋(しゅげんしょう)=洪武帝(こうぶてい))が成立した。日明貿易(にちみんぼうえき)(勘合貿易(かんごうぼうえき))は、東アジアの伝統的な国際秩序にもとづき、日本が明に朝貢(ちょうこう)するかたちをとって展開された(朝貢貿易)。➊明の外交政策明は、周辺諸国の国王と冊封関係(さくほうかんけい)(中国皇帝が朝貢した周辺諸国の国王に称号などを授与する関係)を結び、それら国
*問題は、「早慶大受験・正誤判定新研究110(問58)」で確認してください。問58正解は➍。➍「足利義教の時代になると……20年ほど中断した」の部分が誤り。日明貿易は4代将軍足利義持の時に一時中断され、6代義教の時に再開された。日明貿易の経過は最頻出事項の1つ。次の点を必ず確認しておこう。【日明貿易の経過】■日明貿易の開始14世紀後半の一時期、明は南朝方の懐良親王を「日本国王」に任じた。その後、公武の両面で政治を主導しうる強力な権力を築いた足利義満が明から
問58標準レベル日明貿易について述べた文として誤っているものを、次の➊~➍のうちから一つ選べ。➊日明貿易を開始した当時、明は海禁政策をとっていた。この海禁政策とは、一般の中国人の海外渡航や海上貿易を禁止する措置をいう。➋足利義満は、祖阿を正使、博多商人の肥富を副使とする使節を明に派遣し、正式の通交を開くよう求めた。➌日明貿易は、明の皇帝から「日本国王」に与えられた渡航証明書である勘合を持参した遣明船によって展開され、勘合の照合作業は遣明船の寄港地と定められた寧波で
問53標準レベル18世紀前半に登場した将軍のもとで展開された政策として正しいものを、次の➊~➍のうちから一つ選べ。➊上野忍ケ岡の林家の私塾と孔子廟を湯島に移して学問所として整備し、林信篤を大学頭に任命した。➋朝鮮通信使に対する待遇を簡素化し、その国書に記された将軍の称号を「日本国大君殿下」から「日本国王」に改めさせた。➌江戸に防火施設を整備し、幕府の定火消、大名の大名火消に加えて町方独自の町火消を組織させた。➍金貨の単位で通用価値が表示された計数銀貨を流通
*問題は、「早慶大受験・正誤判定新研究24(問17)」で確認してください。問17正解は➋。➋「強硬な倭寇対策をとった」の部分が決定的な誤り。また、「対馬・壱岐をくりかえし襲撃」「海禁政策を徹底」の部分も誤り。14世紀頃の朝鮮半島では、倭寇(前期倭寇)による被害がきわめて深刻だった。1419年には、朝鮮軍が倭寇の根拠地とみなされていた対馬島を襲撃する事件(応永の外寇)も発生したが、こうした軍事力の行使も、倭寇の活動を抑制する効果を十分に発揮したとはいえなかった。このた