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昭和43年6月25日(火)、京王線東府中駅近く「府中ガス(株)西部営業所」(府中市清水ヶ丘1-5)の「緑の箱」の下に「脅迫状」が置かれました。ところが、それを知らせる犯人からの電話は、午前7時45分、営業所ではなく、府中市分梅町の自宅の方に入りました。店先に書き出されていた電話番号の、後の方に掛けてしまったためでした。同じく6月25日(火)朝、府中市朝日町2-16の民家(Y氏宅)の西側の板塀に、朝日新聞6月21日付夕刊を使った「脅迫状」が貼ってありました。(私の1992年
現金強奪の、実に「8ヶ月前」から、犯人の「根回し」は始まっていました。「東芝府中工場」の給料日・ボーナス日を中心に、府中市東部の「多磨農協」に対して、脅迫事件を起こしていたのです。これは、その日府中市西部を通り、「東芝府中」に運ばれる給与・賞与の「現金輸送車」の、通過ルートを確認するためと思われます。「現金輸送車」の、おそらく尾行中に捕まっては元も子もないため、当日に府中警察署の関心を、府中市東部に集め、西部の警備を手薄にする作戦では無かったかと考えられます。※写真はい
「東芝府中工場」の給与・賞与を運ぶ現金輸送車は、既報の通り「日本信託銀行」だけでなく「三菱銀行」から発の可能性がありました。さらに現金輸送車の輸送ルートも、国分寺街道を南下する、通称「Aコース」と、府中街道を南下する「Bコース」がありました。昭文社「エアリアマップ国分寺・国立市」1992年1月版より現金輸送車が発車する「銀行」と、「コース」の関係を事件発生半年前から整理すると、下記のようになります。6月給与三菱A7月給与三菱B8月給
「三億円事件」と言うのは、「白バイ警官」に扮した犯人が、現金輸送車を止めるという犯行シーンが有名ですが、犯人は、それまでずっとその扮装で白バイを乗り回していたワケではありません(笑)犯行直前に「着替えた」のです。その場所が、「奇跡の立地」の府中市栄町2-11の空き地を利用した「第3現場」です。「第1現場」は、府中刑務所前の犯行現場、「第2現場」は、「現金輸送車」から東芝府中工場社員のボーナスの入った「ジュラルミンケース」を、「逃走用カローラ」に詰め替えた「国分寺史跡七重塔」付近。そして「
昭和43年4月25日(木)、「多磨農協」に届けられていた「脅迫状」に同封された「地図」で、犯人はなぜか、現金を乗せた車の通行ルートで、同じ場所を2度通るよう指示しています。「押立神社」から北に向かい右折。「中央自動車道(犯人は「コウソクドウロ」と記載)」のガード沿いに、甲州街道まで出て、左折・左折で京王線「武蔵野台駅」横を通り南下し、再びこの場所を通過しろというのです。むらきけい著「図説三億円事件」(文芸社)よりカラーの「脅迫状」は見た事が無いのですが、「犯人指定ルート地
もう一度「多磨農協」に届いた「脅迫状」を確認します。別冊宝島「20世紀最大の謎三億円事件」(宝島社)よりまず。強調した部分に「トクベツチュウイ」と付けた「●―●―●」の「シルシ」は、「テレックス」だとか、建築関係の「壁芯」の書き方に似ているなどという報道が多く出ましたが、私はもっとストレートに「消防団」が半鐘を鳴らす際の「打鍾信号」そのものだと思います。従って、犯人は「消防団」経験のある、犯行時既に成人していた人物と考える方が、自然かと思われます。むらきけい著「図説三億
「多磨農協」に届けられた、ここを走れという「犯人指定コース地図」。むらきけい著「図説三億円事件」(文芸社)より「府中6中」前を南下し、中央高速「調布8」以南のエリアは、犯人の別の作成地図でも登場します。<その2>「府中6中」付近から「中央高速道路」沿い<Googleマップより>①府中市立第6中学校前(2009年5月25日撮影)②「六中角」交差点(2009年5月25日撮影)③中央自動車道「調布8」ガード北側から(2022年5月18日撮影)④「調布8」ガード南側から(2022年
最初の脅迫状事件は、昭和43年4月25日(木)府中市白糸台1-11-10にあった「多磨農協」(写真)に対して起こりました。「多磨農協(現:JAマインズ多磨)」1992年10月3日撮影午前8時55分、交換台に「預金課に電話を」と、男の声で電話が入りました。交換手が預金課長につなぎ、課長に渡された電話で話したのは、口座係兼運転手の小作道夫さんでした。「組合長はいるか」「今はいない」「お前は預金部の者か。お宅に黒塗りのクラウンがあるだろう。その車のナンバーは1925だろう。その
犯人は、本番の8ヶ月も前に、伏線としての「脅迫状」事件を、府中市東部で起こし始めました。「東芝府中工場」に、「給料」や「賞与」が運び込まれる時間帯に、警察の関心を離れたところに持って行きたかったからでしょう。これは、この事件が「偶然・突発」的なものではなく、長期にわたる「計画的犯行」である事を示しています。そのターゲットとして、「多磨農協(現:JAマインズ多磨)」(府中市白糸台1-11-10)に目を付けました。「多磨農協(現:JAマインズ多磨)」2008.11.11撮影確
“犯人が事件当時、埼玉県南部に居住した疑いがあり、埼玉ナンバーの「ヤマハ42年型250cc」を乗り回していた”という報道もありました。犯人らしき男が「埼玉ナンバーのあずき色(赤色)ヤマハバイク」に乗っていた、という目撃談もありました(既報)。もし、これらの情報が正しいとすると、いくつかの「点」が一気につながる気がします。例えば、犯人は事件前年の昭和42年頃までは、埼玉県の「西武池袋線」沿線に住んでいた。なので、沿線の「ひばりが丘団地」(付近で「プリンススカイライン」など窃盗
昭和43年当時は、まだ「週休2日」では無く、銀行も一般企業も土曜日午前中は営業されていました。翌週火曜(12月10日)の犯行を成功させるには、ギリギリでも6日(金)に「脅迫状」が届かないと、銀行が動揺しているかどうかの確認が前週中に出来ないため、何としても6日(金)に到着させる必要がありました。(写真:別冊宝島「20世紀最大の謎三億円事件」宝島社刊より)そこで犯人は作成に焦り、「手書き」を含めざるを得なかった上に、切手を自分で舐めて、さらに「速達」で投函したのです。
犯行4日前の昭和43年12月6日(金)午後6時、「日本信託銀行国分寺支店」に、支店長名宛の速達封書で「最後の脅迫状」が届きました。「最後の」というのは、筆跡が同一な「脅迫状」が、同年4月~8月に、府中市内で発見されていたからです。400字詰め原稿用紙2枚に書かれた「脅迫状」には、「同封の風呂敷に300万包み、窓口の女子行員が制服のまま7日(土)午後5時30分に銀行を出て、5時33分に国分寺駅北口に行き、電話ボックスの前(写真①中央:1992年撮影)に
前述の通り、この晩犯人は、「雑誌切り貼り」と「手書き」で作成した「脅迫状」を、「速達」扱いで国分寺局管内のどれかのポストに投函しています。(写真:1992年撮影国分寺駅北口)この後犯人は、日野市の「多摩平団地」(写真;1992年撮影)に行き、のちに「現金輸送車」から現金を積み替えた「逃走用カローラ」となる通称「第2カローラ」を盗みます。私がこの晩の行動で興味深いのは、この点なのです。この流れを私は大まかに、こう推測します。自宅から「あずき色ヤマハバイク」(前述)
昭和43年12月4日(水)~5日(木)に関しては、犯人は自宅で「日本信託銀行国分寺支店」宛の「脅迫状」を作成していたと思われます。事件5日前の12月6日(金)、支店長宛に一通の封書が届きました。内容は300万円を要求するもので、それが満たされなければ、支店長の巣鴨の自宅をダイナマイトで爆破する、と書かれていました。この「脅迫状」の事は、支店内の従業員全員に通達され、時限爆弾の針の音にすら注意するよう指示が出されました。結果的に、これが事件本番の「ニセ白バイ警官」を信じ
犯人の心情を察すると、この日は「現金輸送車」が通る、同じ曜日・同時刻帯の道路事情の確認を、本番で使用予定の、12月1日未明に料亭「鮫陵源」から盗んだ「カローラ」でしたかったはずではないか、と思えるのです。従って午前中、ほぼ翌週の犯行と同時刻の8時~10時頃、現金輸送及び逃走コースの下見を行っていたと考えています。この頃、7月の「東芝府中」の給料日の際に「現金輸送車」が通った、「府中街道」側コースの途中では、工事が行われていました。なので、こちらのコースでは
当時「東芝府中工場」社員の給与・ボーナスの担当銀行は「日本信託銀行国分寺支店」でした。しかし、それらは昭和43年9月の給与までは、支店斜め前の「三菱銀行国分寺支店」から運ばれていました。(写真:右奥に「三菱銀行」1992年撮影)これは、1日分だけでも多額の給与・賞与の金利を稼ぐために、「日本信託銀行」が予め金額を全部揃え、前日「三菱銀行」に預けていたため(“一晩預金”)です。だが、これに「三菱銀行」側から断りがあり、10月からは「日本信託銀行」から直接の運搬に戻し
以前私は、犯人の「アジト」(居住地)は、①府中以西の「京王線沿線」②日野市「平山団地」近くと推測しました。これを裏付けるかのように、前述の通り京王線「高幡不動駅」「百草園駅」近くでの、後に「ニセ白バイ」になったと思われる「青色大型バイク」の目撃談が、12月初旬に続きました。京王線駅近くに「青色バイク」を駐車させたのは、「アジト」が京王線駅近くで、他の駅にも移動しやすかったという事が考えられます。さらに、12月2~3日(月・火)ごろの午後、日野市平山1014(現・西
あくまで「目撃談」なので正確性には欠けるかと思いますが、12月初旬にはいくつかの「青色大型オートバイ」の目撃が報道されています。12月1日(日)は、前述の昭島市宮沢町76-1(当時)の「出光」GSに「青色オートバイがハイオクタンを給油に来た」という情報があります。12月「初旬」という書き方ですが、日野市落川988の駐車場(写真①:1992年撮影)に、シートを掛けた「青色バイク」が数日停まっていた、という付近の建築事務所社員の目撃情報もあります。この「日野市落川988
昭和43年11月末の夕方5時ごろ、犯行現場に残っていた遺留品にそっくりのハンチングに黒ジャンパー姿の25、6歳、身長170cm位でやせ型の男が、八王子市横山町22の食堂「三徳支店」(後「三徳食堂」→「サントクカレー」)に入るのを二度ほど目撃されました。<写真①②とも2015年撮影>男は「ビカビカ光る」ヤマハの青い350ccバイクで乗りつけ、目撃者は「デカいオートバイに乗ったヤツだな」と思ったが、事件時の報道を見た際は場所的に関係ないと思い、届け出ていなかったそうです。
昭和43年11月末頃、信憑性に疑問は残るものの、昭島市付近で「あずき色ヤマハオートバイ」に乗った男が、東町の自転車店に「赤色灯」(ニセ白バイ用)2個買いに来たとか、松原町の塗料店で「ニッサンイージーカラー」(スプレー白ペンキ)2本買ったとかという目撃談もあります。“犯人が事件当時、埼玉県南部に居住した疑いがあり、埼玉ナンバーの「ヤマハ42年型250cc」を乗り回していた”という報道もありましたが、これが「あずき色」であれば、犯人である事もあり得るかと思います。
(「日本信託銀行国分寺支店」通用口写真:1992年撮影)いよいよ犯行10日前ですが、犯人はこの時点でもなお準備していない事だらけでした。未手配の主なものとしては・現金輸送車見張り用車両(のちの「第1カローラ」)・現金輸送車からの積替え・逃走用車両(のちの「第2カローラ」)・取付各部品、ラッカー等の入手含む「ニセ白バイ」の制作・日本信託銀行国分寺支店への脅迫状作り・犯行使用車両隠しのためのシートカバーなど。つまり、この時点で止めておけば、今までの車両の盗
この頃犯人は、またも平日午後から“青色ヤマハバイク”で動き出したようです。前日このバイクを、府中市住吉町3-1付近で目撃した小学5年生が、今度は下校途中の14時頃、前日より約400m西北の府中市日新町「日本電気府中工場」正門前(写真①②:2021年撮影)で、同じバイクが分梅駐在所方面(東側)に走り去るのを目撃しました。これらは、前述のリヤカー追突との日時関係から、小学生の目撃日を11月28・29日(木・金)と推定してみました。
漠然と“11月下旬”という目撃談は多く、この頃犯人にとって犯行後の逃走経路の確認・決定と、日野市平山団地で盗んだ「ヤマハスポーツ350RI」の運転操作の習熟が課題であった事は間違いないでしょう。この日も早朝から府中市内をバイクで走っていたところ、通学途中の小学生に目撃されました。府中第5小学校に通う府中市住吉町の5年生の男の子が、11月下旬に2日続けて「青色大型オートバイ」を目撃したと証言しました。1日めは午前8時頃、住吉町3-1の中央高速道と立体交差する
犯行約2週間前の昭和43年11月下旬、犯人は、犯行後の逃走経路確認のため、川崎街道を通り、府中、国分寺、小金井方面での下見を行っていたようです。11月下旬のバイク目撃談がかなりあるのです。中でも、はっきり月日が語られているのは、次のものです。11月27日午前11:00頃、府中市分梅町3丁目の交差点(写真;現在の「分梅駐在所」交差点付近)で、信号待ちしていた竹ざお行商のリヤカーに、“青色バイク”が信号無視して追突するという事故が起きました。これでは三億円事件との関
犯人は11月25日(月)深夜~26日(火)未明にかけて、つまり53年前の今頃、日野市多摩平1-9(画像:1992年撮影)から、「コロナマークⅡ」の「シートカバー」を盗みました。これは後に、小平市の「ブリヂストン・アパート」の下で昭和43年8月21日~22日に盗んだ「プリンススカイライン1500」を、小金井市の本町住宅に放置する際に、隠すために上から被せています。盗みに行って、帰りは「シートカバー」を持ち帰らなければならない訳ですから、多摩平にはこの「プリンススカイライン」で
犯人は何台もの乗用車・バイクを盗みました。以前、テレビの情報番組で、犯人の自宅を「国分寺市恋ヶ窪」付近とし、その庭にこれらの盗難車を保管していた場合、当日朝、車がセッティングされていた国分寺市西元町の「第二現場」や、府中市栄町の「第三現場」、府中市晴見町団地と往復が出来るか、と言うのを運転が出来る大学生を使って実験していました。結果「出来る」となりましたが、いやそれ以前に、そもそも自宅の庭に盗難車を並べるというのが不自然でしょう(笑)日に日に駐車している車が増えて行って「
犯行に使用されたバイクの整理をしておこうと思います。当時警視庁の白バイは、「ホンダ」か「メグロ」でした。犯人は当然それを知っていて、昭和43年11月9日(土)朝5:40頃、八王子市石川町502の自動車修理工場「井上モータース」から、「ホンダドリームスーパースポーツ350㏄」<多摩い189>を盗んでいます。(画像:ストリートビューより、現在の石川町502「井上モータース」跡地付近)「行き」は(単独犯なら)車で行けませんので、おそらく八高線の小宮駅から歩いたのではないかと思われます
53年前の今夜、昭和43年11月19日(火)23:30~20日(水)07:00の間、日野市平山626、平山団地22号棟15号前の植込みより、入口前のヒバの木に鎖で前輪をつないでおいた青色の「ヤマハスポーツ350RI」<多摩い11-29>が盗難されました。持ち主のMさんは、翌週の26日(火)、立川市の奥多摩バイパスを午後5時頃走っているのを見つけ、執念で100mほど追いかけたと証言しています。これが後に犯行に使用された「ニセ白バイ」になるのですが、犯人は12月10日(火)の朝の
「ひばりが丘」と「多磨農協」の事件、一見、全く離れた場所で無関係に思えますが、私は実際現場を歩いてみて、ドキッとしました。まず、「ひばりが丘団地」付近に車を盗みに行くなら、片道は「西武線」利用だろうと思い込んでいました。そして私も「西武池袋線」に乗って、「ひばりヶ丘駅」前に降り立ってびっくりしました。盗難のあった「本願寺墓地」が非常に遠いのです!<Googleマップより>これは、電車利用では無いな、と実感しました。ならば何かと思って駅前を歩いたら、またびっくり
昭和42年12月に保谷市(現:西東京市)の「本願寺墓地」から複数の乗用車を盗んだと思われる犯人は、翌年春、次の行動を起こしました。犯人は、昭和43年4月25日(木)、府中市白糸台1-11-10にあった「多磨農協」(画像:1992年撮影)に、脅迫状を送りつけます。これがなぜ、三億円事件犯人の仕業と分かったかというと、「本番」の事件直前の12月6日(金)に「日本信託銀行国分寺支店」に送りつけられて来た脅迫状と、筆跡が一致したからです。この4月25日は、「東芝府中」の給料日でした。