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日本の言葉の由来を愛おしむ母がこんな素敵な本を購入していました。母とは考え方が合わなくてつい喧嘩ごしになってしまうけれど、こういう趣味は合うんですよね。未来は発した言葉でつくられる。大好きな川端知義さんの言葉。優しい言葉や、美しい言葉遣いって人を幸せにしてくれるって日々感じています。そして、その言葉を1番聞いているのは自分自身。優しい言葉を使える女性(ひと)になろう。ここまでお読みいただきありがとうございました🌈
cocorobi受講中にご紹介いただいた本【日本の言葉の由来を愛おしむ】の第二章ご先祖様が感じたことの中に『暮らし』という言葉がありました。日が暮れるまで時を過ごす。〜中略〜沈む夕日を見る機会があったら、是非「暮らし」を感じてみてください。というお話。こちらの本を読み私が子供の頃は自然の中で時計も見ずに日暮れまで遊んでいたことを思い出しました。私は、夏の日暮れが好きでした。日
今日ははりきって早朝ヨガに行ったら、休みだった…。3月は日曜5回あるから、1回休みだったんだ早起きできて、ラッキーかな昨年の年末近くに、社長から従業員のみんなに本のプレゼントがありました「すごくいい本だから、皆さんに読んでもらいたい」ってことでそれがこちら日本の七十二候を楽しむ―旧暦のある暮らし―1,728円Amazonこれがね〜、イラストも中身も私好み私の大好きな詩人さんの詩が載っていたり、四季を感じて楽しもう、日本人で良かった、って思う内容ですある時本屋さんで
こんにちは。FLOVE富雄店のクジョウです先日チラッと書いたのですが、日本の言葉の由来を愛おしむ-語源が伝える日本人の心-という本を買いました。元々語源を知るのが好きなのですが、読み始めるとすぐにいくつもの感動に出合いました。例えば『しおり』。本に挟む紙片も、遠足の詳細を書いた小冊子も同じ『しおり』。~以下抜粋~辞書で「しおり」を引くと、まず書いてあったのが「山や森を進む際に、迷わぬための目印として、通った道の木の枝などを折っておくこと」という説明です。古くは、そうやって自
コツコツと感想を書いてきたが、「日本の言葉の由来を愛おしむ」は今回の「憎めない」が最後の項である。著者はこの言葉で人間関係が守られていると言っている。それは、少々のことがあっても「嫌いにはならない」と判断した時に、この言葉によってそれを表現できるからである。最初は、なんで最後にこの言葉を選んだのかと思ったが、読んでみて強く共感した。思いは表現しなければ忘れ去られてしまう。こうした時に思いを正しく反映してくれる言葉があるというのは、実にありがたいことである。その
「あきらめる」の古い形は「あきらむ」で、その意味は「行為の行く末を見通し、結果を明らかにすること」であると言う。それ故、著者は「あきらめる」ことは前向きな取り組みであるのだが、マイナスの印象を伴った「断念する」という意味で使われることが多くなり、言葉のイメージが悪くなってきているのではないかと言っている。十分に吟味した後に納得して断念したのならば、それは前向きに「あきらめた」ということなのだ。孫子に「戦わずして勝つ」という言葉がある。これにも同じような印象の違いがあ
この節は「むら」と「まち」についてである。「むら」とはもともと、さまざまなものが自然に集まる様子である。「村」、「群れ」、「群がる」、(心の欲望などが集まった)「むらむら」なども同様である。またこうして自然に集まったものは不均一であるという特徴を持つので、その意味でもの「むら」もここからきている。これに対して「まち」とは区切られた一区画であり、家と人が区画された土地に配置されているのが町、区画した田んぼは「たまち」や「まちだ」であると言う。著者はこうした「むら」と「まち
ある人が「○○したがる」という言い方には、その人を見ている人の心にある「常識」のレベルよりもやや強く欲求をアピールしているニュアンスがあると言う。つまり、私から見てあなたがどう見えているかを伝える表現ということである。個人的には、「いつも○○したそうだ」という頻度が多いことを表している印象の強かった言葉である。確かに他者を評する時に用いる表現なので、言われてみれば、誰かについてを「○○したがる」と言っている時には、私にはそう見えているというニュアンスが、自然と含まれてい
「聞くともなく聞く」という言葉は受動的な認知を表しており、意識や感覚について考えるヒントになると言う。「聞く」という部分を他のいろいろな動詞に置き換えてみると、著者は「思うともなく思う」時間が一日に二時間はあるとこに気づいたと言っている。心理学では、意識される内容というのは脳の活動全体のごく一部であると考えられている。有名なのはカクテルパーティー効果で、パーティーで目の前の人と話していても、隣の人たちの会話で自分の名前が挙がったのに気づくといった現象のことである。まさに
「適当」という言葉には、「ちょうどいい」という肯定的な意味と、「不誠実」という否定的な意味の両方がある。著者は否定的な意味の由来について、例えば真剣勝負を求める相手に、「ちょうどいい」ぐらいの感じで臨むのは不誠実であったりしたからではないかと考察している。そして、「ちょうどいい」ぐらいの感じの良さは認めつつも、時には不誠実さを感じた先人のたちの純粋さに感動したと言っている。個人的には、今でも「適当」という言葉を使い分けるというやり方をし続けている所に関心する。人間には
著者は、人間関係をボタンに喩えた「ボタンの掛け違い」という言い回しに感心すると言う。この言葉の良いところは、一方だけを悪者にしないところで、こういう言葉が生まれたということは社会が賢くなったということであると言っている。人間関係がこじれると相手を責めてしまいがちだが、「悪意の不在」ということを考えると、一方だけを悪者にしないというのは確かに、大切な在り方だと思う。この喩えが使われ続けているのは、ボタンというものはしばしば掛け違ってしまうということが、誰しも日常的に経験
著者は、「中」というあいまいな範囲を示す言葉に、更に「ぐらい」がついており、その範囲はゆるゆるだと指摘する。思いっきり吹き出した。一二三(ノ゚Д゚)ノ(牛乳飲みながら読んでなくて良かった…)言われてみれば、まぁそういう気はするが、それにしてはけっこう使ってしまう言葉であるとも思うのである。コミュニケーションてなんじゃーっと、日常会話の曖昧性を改めて感じたりするのであるが、著者は、学校の成績を話題にされる子どもからすると、この「中ぐらい」というゆるゆるな言葉があっ
「○○ぼう」の「ぼう」の語源は僧侶が住む建物である「坊」。そこから僧侶をあらわすようになり、その後、「赤んぼう」など子どもにも用いられ、更に、「瓜ぼう」など動物にも用いられ、果ては、「甘えんぼう」など、人間の性質にまで用いられるようになったと言う。「怒りんぼう」といった人間の性質を表現した言葉を、大人にも使ってしまうところに、それを許容して「かわいさ」を見る文化があると著者は言っている。言われてみると「○○ぼう」という表現は実に多彩だし、「ぼう」と付けるとかわいらしく感じ
「いじらしい」の語源について、定説はないらしい。著者が説明するとしたら、「自分より弱い立場の人が努力する様子を見たときに沸く、気の毒だ、助けたい、愛らしい、という三つの思いが合わさった言葉」であると言う。この言葉は自分の中でも意味がはっきりしておらず、実のところあまり使った記憶がない。著者は、こんな複雑な意味をあらわす言葉があるのは、民族の個性だと言う。どんな個性だろうか。ここまで複雑な意味を一語に込めてコミュニケーションできるのは、互いに共通の感受性の世
「ねぎらう」のもとは「ねぐ」という言葉であり、心を安らかにするという意味であると言う。「願う」という言葉も「ねぐ」からきており、相手が神様や目上の人の場合はこちらを使う。著者は、何かを「願う」のと同じくらい「ねぎらう」ようにすれば人間関係はもっと円滑になるのではないかと言う。ナルホド!結果によらず、まずは「ご苦労さま」と言ってみよう。(^^)b
「気配り」は文字通り「気」を「配る」ことであるが、「配る」というのは、もともとはみんなに行き渡るようにすることであり、人を選んで渡すことではないと言う。著者は、この意味での気を「配る」という心の在り方は非常に良いものだと言っている。「配る」の意味は広かった!自分の気は足りるだろうか?足りる!「仁は呼べばくる」(孔子)のだから(ノ゚ο゚)ノでも、つまらないことはそもそも気にしない!(^^)b
冒頭、「にこにこ」は笑顔の象徴のような言葉であると言う。まったく同感だ。「にこ」は古代からある言葉で柔らかいという意味。柔らかい草は「にこぐさ」、柔らかい鳥の毛は「にこげ」。つまり、「にこ」というのはもともとは触覚の感じを表現していたのだと言う。著者は、人の顔が「柔らかい」とは受容的なおだやかな印象ということであり、そういう意味での「いつもにこにこしている」という人がいると言う。「にこ」が触感の表現であったのは実に意外であったが、こういう人になるというのもなかなか大
「大丈夫」は中国から伝わった言葉で、「丈夫」とは一人前の男子のこと、「大丈夫」とは立派な男子のこと。日本人が人を慰め励ますのに「大丈夫」という言葉を、使うようになったのには濁点が多いということがあるのではないかと言う。濁点は重く強く響くと言われていて、「大丈夫」という言葉には実にバランス良く配置されている。著者は、「大丈夫」という言葉に主観的判断を伝えているという危うさを指摘する一方で、「大丈夫」と言い合うことで支え合う仲間でもあると言う。「大丈夫、大丈夫」と言
「すみません」と「ごめんなさい」はどちらも、なぜ謝罪になるのかわかり難い言葉だと言う。「ごめんなさい」は「免じる」ことで昔は、「御免候え(ごめんそうらえ)」と言ったそう。これは、そうなのではないかと思っていた通りだった。「すみません」は「この借りを返すのは難しく私の気が済むことはないでしょう」という意味の、謝罪の言葉であると言う。物事が済まないのを「すみません」と言っているように思っていたが、実は、そういうことであったか!著者は、身近な人には素直に許しを乞
この項は冒頭からいきなり、「ゆるす」のは、難しいことです。と真っすぐに事実が述べられる。「ゆるす」の「ゆる」は「ゆるキャラ」の「ゆる」と同じ。つまり、ぎゅっと絞っていた心の入り口を少しゆるくするということだと言う。ナンデスト!(ノ゚ο゚)ノ「許す」と書くから気づかなかった!三(ノ゚⊿゚)ノ著者の言うように、100パーセント承認するかしないかという姿勢だとメンタルヘルスは悪化するだろう。少し心をゆるませるというのであれば、大分易しいではないか!一二三
「正しい」の「しい」は、「おいしい」「やさしい」のように形容詞を作る部分。「ただ」はそっくりそのままで、ほかの要素が入りこまないこと。唯一という意味の「ただ」、無料という意味の「ただ」も同じ。だから、「正しい」というのは、何らかの規範に照らして、そっくりそのまま当てはまることであると言う。著者は、何が正しいかは自分が何を規範とするかによるのだから、一つの正しい正解を考えるのではなく、自分が何を規範とするかを考えることが大切であると説いている。由来にもビックリしたが、これはな
「生きがい」の「かい」は「代わり」の古い言い方である「代い(かい)」と考える説が有力であると言う。つまりもともとの意味は、行為の結果としての報酬や効果ということである。著者は、「かい」という言葉のもともとは報酬であった意味が、それに伴われる喜びや充実感を主たる意味に変えていった、心の作用に注目している。確かに「かい」なしということは、単に結果が得られなかったということよりも、心理的な満足が得られなかったということの方が大きい。著者は小さな「手応え」から大きな喜びや充実
「慣らす」と「均す(ならす)」は、もともとは同じ言葉と考えられ。だから「着慣れる」という場合であれば、不快感が消えるということでもあり、肌との接触によって衣服の凹凸がなくなるということでもあると言う。著者は、組織に慣れるというであればそれは、組織の凹凸と自分の凹凸が、うまく調整されていくことだと言っている。「慣れる」という言葉の中心的な意味は、受け手に目新しさが感じられなくなるということであると思っていたが、これは受け手の側の感じ方だけを問題にしている見方である。
「互い」はもともとは動詞「たがう」の名詞形。「たがう」は「約束をたがえる」という時の「たがえる」の古い言い方。従って、意味は不一致の状態になることであると言う。けれども、「互いに称える」と言う時には「おなじように」という意味となる。この点について著者は、「互い」という言葉はもともとは、行為の方向の違い意味していたが、同じ行為をしているという共通点に注目した意味が加わったのではないかと言っている。なるほど。最近ではもう、「不一致」の意味で「たがえる」とは言わなくなってきてい
純粋な水を「真水」と言うように、「真心」は純粋な心、あるいは、本当の心ということ。この本当の心ということには、相手の幸せを願う心という意味があると言う。著者は、本当にそうかどうかは賛否あるだろうとしながらも、「人の本当の心」とは「相手の幸せを願う心」であるという解釈には希望があると言っている。良い解釈だと思う。孔子も「仁は欲すればすぐ来る」(述而第七二十九)と言っているように、人の心には相手のことを思う気持ちが溢れているのだから。
「ささやか」の「ささ」は、小さく細かいこと。「やか」は、~である様子という意味の語尾。その小ささが好ましく感じられるというニュアンスがあると言う。著者はこの言葉が「ささやかな宴」、「ささやかな楽しみ」など、謙遜を伝えるのに用いられる点に注目している。贅沢な幸せばかりを求めるのではなく、小さなものに価値を見る価値観が伝わると言う。謙譲の美徳という観念がある日本人にとって、小さなものに価値を見る価値観を表現することには、重要な意味がある。そして、今日一日の満足は、ささや
「ここち」は「心持ち」が縮まった語とも言われているそう。人の行為を表す動詞と結びついて、「○○ごこち」という複合語となる。著者は特に、「衣」と「食」に関する動詞との結びつきに注目している。それは例えば「着ごこち」、「住みごこち」という言葉であり、心と体と環境は不可分のものという洞察が含まれていると言う。確かに、「着ごこち」という時の意味は、着るという行為を媒介として、心と衣服が一体化している時の「心地」(感じ)である。この生物個体と環境を不可分のものとする見方は、科学
「ほのぼの」は「ほの」を重ねた言葉で、「ほの」とは「ほのか」や「ほの白い」というように、光や音などが少量であることを示す言葉。著者は「ほのぼの」という言葉について、じんわりとにじみ出るような美しさが感じられて心が温まるが、それは、時代が下ると「ほの」に「少量であることで生まれる美しさ」という肯定的な意味が含まれるようになったからであると言っている。また、「ほのぼのを感じる心」は「足るを知る心」に通じるものであると、指摘している。著者は「少量であることで生まれる美しさ」に
「こころなし」は「心為し」。つまり、「心が為すところかもしれないが」という意味であり、「自分の心が勝手にそうとらえているだけかもしれないが、とにかく、自分にはそう感じられた」ということであると言う。「こころなし」が「心為し」であるとは知らなかったが、「なんと便利な言葉」と言う著者には全く同感した。私の目にはそう見えるという主観性は、勿論、心の作用によるのだがこのことをそのまま、心が為したという言葉にしているのは凄い事だ。最近、使わなくなっている言葉である気がするので、今日
「まえ」は「ま」+「へ」。「ま」はもともとは「め」であり、目の意味。「まぶた」は「め」の「ふた」であり、これも同様に音が変化したそう。「へ」は「~へ」という方向の意味。反対の意味の「しりえ」という言葉もあったと言う。なるほど、「ま」(目)のシリーズであった。確かに、我々は常に前を見ている!