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こんばんわ昨日とは変わり空気は冷たいですが穏やかな堺来年の万博を見越して駅前に「東横INN」が建設途中わ見ない間に高くなってきた❗今日、角田先生は名古屋教室でしたわ〜素敵な作品がいっぱい✨角田先生、トレーナーさんお疲れさまでしたありがとうございました🙇ご参加いただきました皆さま、ご出席ありがとうございましたm(__)m娘の小学校の壁面南蛮貿易の壁画かなぁ?堺は日明貿易の時に栄えた町の1つあっ!絵の中にポルト之助さんがいる?
6代将軍を籤引きで決めた理由として、『建内記(けんないき)』(内大臣万里小路時房の日記)には、3回とも籤は「義円(足利義教の出家名でその後還俗)」とでたことから、籤はイカサマだったとしています。つまり、神意を借りて諸大名らを心服させるためにイカサマを仕組んだというのです。しかし、今では『建内記』の内容の真偽が問われ、イカサマ説は否定されています。それでは、義持の真意はどこにあったのでしょうか。謎を解く手がかりは、彼が家督を継いだ当時に隠されています。その
夕暮れのうっすら夕焼け。きれい~「学研まんがNEW日本の歴史5室町幕府と立ち上がる民衆-南北朝時代・室町時代ー」長いです。興味のない方は飛ばしてねやっと5巻目を終わったところ。この頃になると、名前が似ているのと、途中で名前が変わったりするのと、味方だったのに敵に回ったりして、頭の中はでいっぱいになる。学生時代、丸暗記していたのが悔やまれる。苦手だったので理解しようとは思わなかったなあ1333年、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は天皇中心の政治を始め
足利義満は将軍、すなわち幕府のトップとしてより、天皇家および朝廷と一体になった政治を断行しようとし、皇位簒奪の疑いをかけられています。応永13年(1406)に後小松天皇の母が亡くなった機会をとらえ、義満は正妻の康子を准母(天皇の母に準じる地位)とすることに成功しました。これで「准父」(天皇の父)となった彼は、義持の2番目の弟義嗣を皇位に就けるべく画策したとされています。実際、義嗣を親王に准じ、内裏で元服の儀式が行われたところまで話が進みましたが、その年に義満が急死し、本
さてさて…先日、足利尊氏が元に天龍寺船を派遣して貿易をしたことをを書きましたが…尊氏の孫の義満も明と貿易をやってしこたま儲けていますな…義満の別荘だった金閣寺がある北山あたりは…元々、公家の西園寺家の別荘地だったものを義満が買い叩いて再開発したものだとか…それには日明貿易で儲けた資金が使われたのだろうけど…この日明貿易も義満にとっては決して損することのない貿易で…どう転んでも儲かるようになっていたわけで…その理由はこの貿易が朝貢貿易だったからで…朝貢貿易は中華の主であ
【問題】室町幕府が行っていた日明貿易を、その終盤に独占していた大名とは次のうちどれか?【選択肢】朝倉氏大内氏今川氏土岐氏【正解】大内氏【解説】日明貿易とは、室町時代に日本と明が行った貿易である。当初は幕府が行っていたが、その弱体化とともに守護や商人の手に移り、最後は大内氏が独占する状態となった。
遣明船の発着港となったことに次いで、天文一二年(1543)に種子島に鉄砲が伝わりますと、堺の商人はすぐさま製造技術を持ち帰り、鉄砲の大量生産に成功しました。それが日明貿易に次ぐ第二の発展に繋がったのです。そのころ、堺の寺に寄付した者の名簿には、米屋・銭屋・薬屋・油屋・扇屋・絹屋・布屋などと、商いの品目を示す屋号が並んでいます。さらに天文一九年(1550)、来日したキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが堺を訪れ、マラッカ総督へ、「堺は日本第一の市場であるからそこに公使を
日本史上、堺を港として初めて注目したのが南朝ではないでしょうか。北朝の征夷大将軍足利尊氏に追われて吉野へ逃げた朝廷は南朝と呼ばれますが、山の中の朝廷にとって堺は物資を調達する窓口(外港)として重要な土地でした。後醍醐天皇の崩御後、南朝を継いだ後村上天皇が綸旨を発し、南荘に着岸する船に対する守護らの「乱妨」を禁じた一方で、北朝の後光厳上皇も堺南荘の港に停泊する船から「泊船目銭」(港利用料)を徴収しようとしました。こうして南北両朝の天皇と上皇が争うほどに港としての重要性は当
室町時代の最重要人物。それは一休さんに出てくる将軍様足利義満公です。(古い)足利義満といえば金閣と勘合貿易です。昔は勘合符と覚えさせられていましたが今は勘合でオッケーです。平安時代に菅原道真の提言で遣唐使が廃止されて以来公式な日本と中国との国交は途絶えておりました。しかしながら貿易は続いていました。平安時代末期の平清盛も貿易していますがこれはあくまで私貿易であって国と国との正式な貿易ではありませんでした。勘合というものがなぜ出てきたかと
1591(天正19)年6月、奥羽平定を最後にして、秀吉の天下統一は成った。鳥取城攻略以降、不殺の人となった秀吉は、天正偃武を呼号し内治に専念するかと思いきや、その年の8月に、来春に「唐入り」を決行することを全国に布告したのだ。結果からすると、朝鮮出兵の泥沼にはまり唐入りは失敗。結果が秀吉の不殺主義の栄光を剥ぎ取り、老耄による愚行と断じられてしまった。1595(文禄3)年、甥の関白秀次に切腹を命じ、その妻妾30余人を殺害しひとつ穴に投げ込み葬り去ったことも、評判を下げた。秀吉
実は野蛮で残酷だった?バレンタインデーの起源ナショナルジオグラフィック日本版詳細は時とともに失われ、ロマンチストたちが歴史を語るたびにねじ曲げられてきた。諸説あるだけでなく、由来とされる同じ名前の聖人は少なくとも2人いる。「きれいにする行為」に対する日本における普遍的意識を確認福島民友花王株式会社(社長・澤田道隆)感覚科学研究所は、国立歴史民俗博物館(館長・久留島浩、千葉県佐倉市)との共同研究で、日本人の「きれいにする行為」(=...福岡市西区やよいの風公園弥生時代
“北欧のフェルメール”ハマスホイの絵画約40点が来日!Yahoo!ニュース19世紀末から20世紀初頭に活躍したハマスホイは、没後一時忘れられた存在となっていたが、1990年代以降欧米の主要な美術館で次々と回顧展が開催され...“元祖”ロナウドからロドリゴまで…21世紀以降にレアル入団を果たしたブラジル人選手たちサッカーキングレアル・マドリードは20日、フラメンゴからU-23ブラジル代表MFヘイニエルを獲得したと発表した。ヘイニエルは2002年1月19日生まれの18歳。10代の
原則1回の問題数は2問。アトランダムに出題する。センター試験前日まで、できるかぎり連日出題する。問31室町時代における日明貿易について述べた文として誤っているものを、次の➊~➍のうちから一つ選べ。➊明が海禁政策をとったため、中国人の海外渡航は禁じられていた。➋幕府から交付された朱印状を明に持参することが義務づけられた。➌日本国王が明の皇帝へ朝貢し、その返礼として品物を受けとる形式がとられた。➍幕府の衰退によって、貿易の実権は細川氏や大内氏の手に移って
1404年に日明貿易が開始されました。その翌年にみずがめで大会合が起きています。土星は第2ハウスドミサイルで木星を伴い利益をあげます。おや、この土星。受講生の皆さん、覚えていますか。第1ハウスに第9ハウスの水星が入り込んでいます。交易で外国船がよく来るので日本としては大きな変化のある時期です。このホロスコープは、しばらくすると日の出になります。その前に水星が強く輝きながら上昇します。太陽と水星のArcusvisionis(高度差の絶対値の合計)がだいたい8度
1.日明貿易の形態・・・15世紀~16世紀中頃まで・形式は「朝貢形式」・日本船は「中国皇帝が発行した」勘合符を持参する・・・正誤問題・勘合の発行は「倭寇対策」・日本船の滞在費、運搬費は「明側の負担」・・・正誤問題・明船は来日しない・・・「海禁政策」のため・貿易港は「寧波」・・・地図問題での、位置の出題に注意2.開始・・・「3代将軍足利義満」・正使「祖阿」(僧)と「肥富」(博多商人)を派遣『善隣国宝記』に記されている・明側は足利義満(将軍)を「日本
日本史の基本歴史の問い8(中世対外関係+戦国期+室町文化)(リンクは「問い」に対する答え、もしくは解説がある記事を示す)➊海禁政策とは何かを説明せよ。→日本史の基本99(22-2日明貿易)➋日明貿易の経過を,簡潔に説明せよ。→日本史の基本99(22-2日明貿易)➌中世の日朝貿易が日本の社会にもたらした,もっとも大きな変化について説明せよ。→日本史の基本100(22-3日朝貿易の特徴)➍琉球王国のもとでの琉球船の活動の特徴を説明せよ。→日
22-2日明貿易1368年、モンゴル人の支配した元が打倒され、漢民族による統一王朝である明(ミン)(初代皇帝朱元璋(しゅげんしょう)=洪武帝(こうぶてい))が成立した。日明貿易(にちみんぼうえき)(勘合貿易(かんごうぼうえき))は、東アジアの伝統的な国際秩序にもとづき、日本が明に朝貢(ちょうこう)するかたちをとって展開された(朝貢貿易)。➊明の外交政策明は、周辺諸国の国王と冊封関係(さくほうかんけい)(中国皇帝が朝貢した周辺諸国の国王に称号などを授与する関係)を結び、それら国
22-1大陸との関係中世における東アジア、とりわけ大陸との関係は、日元貿易(にちげんぼうえき)→倭寇(わこう)活発化(南北朝時代(なんぼくちょうじだい))→日明貿易(にちみんぼうえき)→倭寇活発化(戦国時代(せんごくじだい))、という展開をみせる。➊日元貿易(a)建長寺船(けんちょうじぶね)(建長寺再建費用を得るために鎌倉幕府が元に派遣した船)、(b)天龍寺船(てんりゅうじぶね)(天龍寺造営費用を得るために足利尊氏(たかうじ)が元に派遣した船)にみられるように、蒙古襲
皆さん、こんにちは。いつもありがとう。一時休止しているテーマ「早慶大受験・正誤判定新研究」の目次(問51~問60)です。【目次】問1~問50までの目次は、以下をご覧ください。早慶大受験・正誤判定新研究72(目次1~10)早慶大受験・正誤判定新研究73(目次11~20)早慶大受験・正誤判定新研究74(目次21~30)早慶大受験・正誤判定新研究75(目次31~40)早慶大受験・正誤判定新研究116(目次41~50)【参考】「日本史の基本6(演習の方法論①-文
*問題は、「早慶大受験・正誤判定新研究110(問58)」で確認してください。問58正解は➍。➍「足利義教の時代になると……20年ほど中断した」の部分が誤り。日明貿易は4代将軍足利義持の時に一時中断され、6代義教の時に再開された。日明貿易の経過は最頻出事項の1つ。次の点を必ず確認しておこう。【日明貿易の経過】■日明貿易の開始14世紀後半の一時期、明は南朝方の懐良親王を「日本国王」に任じた。その後、公武の両面で政治を主導しうる強力な権力を築いた足利義満が明から
問58標準レベル日明貿易について述べた文として誤っているものを、次の➊~➍のうちから一つ選べ。➊日明貿易を開始した当時、明は海禁政策をとっていた。この海禁政策とは、一般の中国人の海外渡航や海上貿易を禁止する措置をいう。➋足利義満は、祖阿を正使、博多商人の肥富を副使とする使節を明に派遣し、正式の通交を開くよう求めた。➌日明貿易は、明の皇帝から「日本国王」に与えられた渡航証明書である勘合を持参した遣明船によって展開され、勘合の照合作業は遣明船の寄港地と定められた寧波で
20-8室町幕府の財政基盤各地に散在する御料所(ごりょうしょ)(将軍の直轄領)の規模が小さかったため、室町幕府は年貢収入などだけで政権を運営することはできなかった。このため、段銭(たんせん)・棟別銭(むねべつせん)、土倉役(どそうやく)・酒屋役(さかややく)、関銭(せきせん)・津料(つりょう)、日明貿易(にちみんぼうえき)の利益など、貨幣収入に対する依存度が高まっていった。21-1永享の乱室町幕府は、足利義満(よしみつ)の時代に頂点を築いたのち、6代将軍足利義教(よしのり
2-7東アジア世界との交流(SNG上p.94~p.98)➊倭寇と呼ばれた集団のもつ本来の性格と、その海賊行為が活発化する事情を説明せよ。➋海禁政策とは何かを説明せよ。→参考:日本史の基本99(22-2日明貿易)➌日明貿易の経過を、簡潔に説明せよ。→参考:日本史の基本99(22-2日明貿易)➍中世の日朝貿易が日本の社会にもたらした、もっとも大きな変化について説明せよ。→参考:日本史の基本100(22-3日朝貿易の特徴)➎琉球王国のも