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久しぶりに近所のスーパーに「大隅ごぼう」があったので、さっそく購入し、調理。ゴボウサラダとキンピラゴボウにした。調理しながら、今更ながらも、「どうして、わが故郷は「大隅」というのか?」という疑問が浮かんできた。「鹿児島」という地名の由来もちゃんと聞いたことがなく、ただただ「そうなんだ」と思ってきたことと同様、「大隅」についても「そうなんだ、おおすみなんだ」と疑うことなく使ってきた。しかし、なぜ、鹿児島県の桜島側の半島を「大隅半島」とか「大隅地方」というのか?当然のこ
○そもそも、テーマ「投馬国はどんな国家だったか」を設けたのは、2015年3月7日のことで、次のブログから始めている。・テーマ「投馬国はどんな国家だったか」;ブログ『投馬国はどんな国家だったか』投馬国はどんな国家だったか|古代文化研究所(ameblo.jp)○と言うのは、それまでに邪馬台国や狗奴国については、幾度となく書いている。具体的には、次のようなものである。・テーマ「邪馬台国の虚像と実像」;16個のブログ邪馬台国の虚像と実像|古代文化研究所(ameblo
こんにちは。このところ続けております令和3年冬の肥後・天草遠征シリーズ。今回は前回の球磨郡よりさらに南下したところからになります。前回同様、ワタクシ史上未踏の地、ここが肥後か、薩摩か、はたまた日向なのか、いったいどこなのかもよくわからないままお邪魔させていただきました。よろしく、お願いします。島津義弘(道の駅えびの)島津義弘さん、皆さまご存知でしたでしょうかって入りは、今回は大丈夫ですよね。はい。私の住んでいる東海エリアでも鬼島津のお名前は轟いております。ご安心ください。
○昨日、ブログ『嫁坂』を書いて、今日はその続きで、橋野について書こうとして、「三国名勝図会」を見ていたら、「麑藩名勝考」の記述に関する話が出ていて、それが頗る気になった。それで、急遽、話を変えて、末吉郷二之方村の話をしたい。○白尾國柱の「麑藩名勝考」が刊行されたのは、寛政七年(1785年)のことになる。それに対して、「三国名勝図会」が成立したのは、天保十四年(1843年)のことだとされる。両者の間には、五十八年の時間差がある。○ここで気になるのは、白尾國柱の「麑藩名勝考」が『末吉郷二之方村』
○ブログ『吉野山の正体』から話はどんどん邪馬台国方面へと進んで行って、とうとう『邪馬台国の風景』とか『桜島が香具山であること』にまで行ってしまった。取り敢えず、この話はこれでおしまいにして、本来の投馬国の話に戻したい。○写真の記録から確認すると、昨年2020年10月6日に、都城市の金御岳から末吉町の住吉山や檍神社などへ参詣している。その後、2020年10月14日に、都城市の黒尾神社と神柱宮へも参拝をしている。○さらに、年が明けて、2021年1月8日に、薩摩川内市の新田神社へお参りしている。
○前回、ブログ『邪馬台国の所在地』の最後に、こう書いた。・判るように、すでに邪馬台国は完全発見されている。次回はその邪馬台国の風景について述べたい。○その邪馬台国の所在地が何処であるかは、「魏志倭人伝」を読み解いて判断するしかない。「魏志倭人伝」の主題が倭国三十国の案内だと言うことも、前回紹介した通りである。具体的には次の通り。【倭国三十国】渡海三国狗邪韓国・対馬国・壱岐国北九州四国末廬国・伊都国・奴国・不弥国中九州二十国斯馬
○ブログ『出雲神の故郷が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島であること』から『八雲立つ出雲八重垣が硫黄島のものであること』と、出雲神の故郷が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島であることに言及して来た。これにはもちろん、理由がある。○それは大和国一宮である大神神社の御祭神が出雲神だからである。大神神社の御祭神は、大物主大神と申し上げ、出雲神である。そのことについて、ブログ『出雲神の故郷が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島であること』の最後に、次のように書いている。・もっと大事なのは、この風景が大神神社が斎き祀
○前回、ブログ『神代三山陵の先坣僑位』で、畿内に神代三山陵の先坣僑位が存在し、それは次のようになることを紹介した。・吉野山=可愛山陵・高野山=高屋山陵・熊野本宮=吾平山陵○当古代文化研究所がそういう研究をしていたのは、2008年ころである。実際、神代三山陵の先坣僑位を発見してみると、それが文化庁から、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として案内されていることを知って、驚いた。○それは文化庁の次のHPで確認することができる。世界遺産:紀伊山地の霊場と参詣道
○前回、ブログ『吉野山の正体』で、吉野山の正体が可愛山陵の先坣僑位だと言う恐ろしい話をした。「日本書紀」持統紀に拠れば、持統天皇は九年間に31回もの吉野行幸を繰り返している。吉野山の何が彼女を引き付けたのか、甚だ気になった。それが吉野山の正体を考える契機となった。○もっとも、吉野山で、吉野山が何を意味するかを正確に理解している人は少ない。前大僧正行尊や西行法師などの時代までは、吉野山の概念ははっきりしていたようだが、すでに芭蕉の時代には、それが完全に見失われている。当古代文化研究所では、そうい
おはようございますいつか行きたい、と思ってる高千穂について調べていたからかなぜか、こちらに辿り着きました。ぜひ、ご覧ください。高千穂町の天岩戸神社。コロナ禍に生まれた「しめ縄張り神事」を後世に続く伝統行事へ宮崎県高千穂町にある天岩戸神社では、昨年12月、ご神体の「天岩戸」に、しめ縄張りを行いました。神話の継承と、明るく暮らせる世の中に戻るようにとの願いを込めて、新たに始めた神事です。この神事で町を活性化すると共に、神話に描かれた「しめ縄張り神事」を後世に残すため、皆様からのご支援を
○前回、この話について書いたのは、次のブログになる。・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『筑紫の日向の小戸の橘の檍原』筑紫の日向の小戸の橘の檍原|古代文化研究所(ameblo.jp)このブログを書いたのは、2020年11月1日だとあるから、もう一年以上も前の話である。そのまま、この問題について放置したままになっているのが非常に気になっていた。○ただ、その前に片付ける問題がいろいろと出現して、延び延びになったままだった。先日、和歌の浦の話が完結したので、やっとこの問題に戻るこ
○2020年7月15日に、日向市美々津を訪問し、その後、都農町の日向国一宮、都農神社へ参詣した。続けて、7月29日にも、宮崎市江田神社から、住吉神社、西都市の都萬神社と参拝して来た。更に、8月5日にも、美々津や都農を訪れている。○その後、2020年10月15日に、末吉の住吉神社へ参詣して来た。行き掛けに、金御岳へ登り、帰り道には、檍神社や黒尾神社、神柱神社へもお参りして来た。その後、2021年1月29日に、内之浦の国見山へ登り、高屋山上陵へ参拝し、高屋神社へお参りしたが、その帰りに橋野の若一王
苅谷さんがまたまた古代日向国に関する詳細な解説をブログで書いてくださったのでここにリブログされてもらいます。わが故郷の大隅国は和銅6年(713年)4月3日、日向国が分立してできたようなので、そのルーツである日向国の成り立ちには興味がある。苅谷さんの解説には感謝、多謝です。なお苅谷さん解説で出てくる志布志には従兄弟が住んでいる。
○ブログ『NHK:邪馬台国サミット2021』から、ブログ『邪馬台国の風景』、『大山祇神の故郷』、『彦火瓊々杵尊と大山祇神』と書いてくると、続けて来るのは『卑弥呼の肖像』しかあるまい。つまり、卑弥呼の正体が何であるかと言う話である。○三世紀の中国の正史、「三国志」に描かれているのが邪馬台国であり、その女王が卑弥呼だと言うことになる。したがって、邪馬台国や卑弥呼の正体を探すとなれば、「三国志」を読み解くしかないわけである。ところが「三国志」を読み解くことは、なかなか難しい。○第一、中国の史書は、
○前回、ブログ『天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊が見た風景』を書き、前々回、ブログ『日本人最初の言葉』を書いて、天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊が高千穂峰山頂で発した、日本人最初の言葉、此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此処は甚吉き地。がどういう意味なのかを説明している。ただ、その説明が長くなって、今回もその続きとなる。それ程、この彦火瓊々杵尊の言葉の意味するところは大きいと言えよう。○整理すると、まず、韓国は「からくに」と訓んで、中国本土を意
○前回、ブログ『日本人最初の言葉』の最後に、こう書いている。・高千穂峰山頂に立つと、天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊が発したと言われる詔、此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此処は甚吉き地。の風景がどんなものであったかが、よく判る。実は、その風景は現在でも見ることができる。・また、これが日本人が地上で最初に発した日本語であることを理解している人は、少ない。ただ、それを理解するためには、相応の奮闘努力が要求されるこ
○前々回、ブログ『大山祇神の故郷』で、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島で邪馬台国三山を眺めている者が大山祇神である話をした。また、前回、ブログ『硫黄島が舎衞城であること』では、その硫黄島が舎衞城である話もした。併せて、前に、ブログ『出雲神の故郷』で、大物主大神の故郷が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島だと言う話もしている。その大物主大神を斎き祀る社が大和国一宮である大神神社である。○2021年9月1日に、東京国立博物館へ、聖林寺十一面観音を見に出掛けて来た。この聖林寺十一面観音は、もともと、大神神社の神
○これまで、鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島がどんな島であるかについて、いろいろと書いて来た。前回のブログでは、次のように案内している。・そういう三島神や出雲神の故郷が硫黄島であることに、誰も注目しない。と言うか、そういうふうに日向国を認識できないのである。意外と、一宮の多くは日向国出身の神様なのである。その日向国の中心が薩摩半島であり、信仰の中心が硫黄島だった。○ただ、忘れてならないのは、硫黄島のもう一つの顔である。実は、このブログでは先にその話を済ませている。なかなかそこまで
○前回の最後に、こう書いている。大和国一宮である大神神社が鎮座まします三輪山から見る大和三山は、そのレプリカである。逆に言うと、邪馬台国三山は硫黄島から眺めるのが正式で、正しい。次回は、そういう話をしたい。○邪馬台国三山である、・うねびやま=霧島山(1700m)・かぐやま=桜島山(1111m)・みみなしやま=開聞岳(924m)は、何処から眺めても良いものではない。物事には作法があって、邪馬台国三山も、実は正式に眺める場所が決まっている。それが鹿児島県鹿児島
○昨日のブログ『NHK:邪馬台国サミット2021』の最後に、こう書いた。・当古代文化研究所とNHKのどちらが正しいか。それは視聴者が判断していただければ判ることである。もうすでに邪馬台国は完全発見されている。それは畿内でも北九州でもない。その詳しい話は次回に述べたい。○したがって、今回は邪馬台国が何処に存在したかがテーマとなる。そのことについて、前回、次のように書いている。邪馬台国や卑弥呼は、中国の正史「三国志」に書かれた史実に過ぎない。したがって、「三国志」を
○当古代文化研究所では、日向国に存在したもともとの大和三山を邪馬台国三山と名付け、奈良県橿原市に存在する現在の大和三山と区別している。それは大和三山が二つもあっては、何とも紛らわしいからである。つまり、大和三山とは、・畝傍山(うねびやま、199m)・天香久山(あまのかぐやま、152m)・耳成山(みみなしやま、140m)であって、邪馬台国三山が、・うねびやま=霧島山(1700m)・かぐやま=桜島山(1111m)・みみなしやま=開聞岳(924m)だと言うことに
○大和国には大和三山が存在する。・畝傍山(うねびやま、199m)・天香久山(あまのかぐやま、152m)・耳成山(みみなしやま、140m)○同じように、日向国には邪馬台国三山が存在する。・うねびやま=霧島山(1700m)・かぐやま=桜島山(1111m)・みみなしやま=開聞岳(924m)○この両者は、もともと同じものであって、日向国から大和国へ移住した人々が故郷の山々の名を冠したのが大和三山である。だから、標高200mにも充たなくても国名を冠している。それが大
◯前回のブログの最後に、こう書いた。・これが大和国一宮である大神神社が出雲神を齋き祀る理由である。つまり、大物主大神の故郷は鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島だと言うことである。そして、それは実に簡単に証明できる。それが大和三山である。次回は、その話をしたい。◯前回案内したのは、出雲神である大物主大神が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島だと言うことであった。硫黄島では、現在でも、常時、『八雲立つ出雲』の風景を見ることができる。そんな場所は日本中探しても、それ程あるわけではない。◯ここで
◯前回の最後に、こう書いた。・これらが大神寺に嘗て存在した聖林寺十一面観音とどういう関係があるのか。なかなか見えて来ない気がする。しかし、それは話が逆であって、大神神社の御祭神である大物主大神の故郷が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島だからだと言うことになる。次回は、その話をしたい。◯したがって、今回のテーマは大物主大神の故郷が鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島だと言う話になる。ちなみに、ウィキペディアフリー百科事典が案内する大物主大神は、次の通り。大物主大物主神(
○2021年の今年は、よく山に登っている。そのことに、今日2021年10月3日に写真の記録を見て気付いた。確認の意味で並べてみると、次のようになる。・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『2021年初登山:甫与志岳』~1月16日~2021年初登山:甫与志岳|古代文化研究所(ameblo.jp)・テーマ「日向国の邪馬台国」:ブログ『肝付町内之浦国見山の高屋山陵へ参詣』~1月29日~肝付町内之浦国見山の高屋山陵へ参詣|古代文化研究所(ameblo.jp)・テー
○前回、ブログ『甑島の住吉神社と大帯姫神社』を書いて、甑島に於ける神功皇后の影を紹介した。同じように、現在の甑島では影が薄いものとなっているものに、三島神及び三島神社がある。今回は、その三島神及び三島神社について、触れてみたい。○三島神及び三島神社について。まず、三島神及び三島神社がどんなものであるかが、なかなか理解されていない気がしてならない。ちなみに、ウイキペディアフリー百科事典では、次のように説明する。三島神社三島神社、三嶋神社、三嶌神社(みしまじんじゃ)、あるいは
○ブログ『金峰神社とは何か』から、『金御岳(かねのみたけ)』、『吉野水分(よしのみくまり)神社』、『住吉神社とは何か』、『住吉神の故郷』、『諸県君:住吉神を奉祀する人々』と続けて来ている。甑島とは、あまり関係無い話のように思われるかも知れない。しかし、金峰神社自体が甑島から遠望される風景であるし、住吉神も深く甑島と関係している。今回は、そういう話をしたい。○これまでの甑島訪問で、甑島の各集落を巡って来た。特に今回は、各集落の地主神を参詣して巡ることを心掛けたつもりである。確認すれば、上甑島里で
○住吉三神の故郷について、「古事記」では、伊邪那岐命が禊祓をした地を、『竺紫日向之橘小門之阿波岐原』としている。それに対して、「日本書紀」では、同じ場所を、『筑紫日向小戸橘之檍原』と記録している。この両者には表現上、微妙な差異が見られる。○この表現の違いを検証すると、住吉三神の故郷は、どうやら、『筑紫日向小戸橘之檍原』であるらしいことが判る。その『筑紫日向小戸橘之檍原』が日向国には二カ所存在する。それが、ウイキペディアフリー百科事典の住吉神社項目で、宮崎県鹿児島県の住吉神社として、掲載している
○ウイキペディアフリー百科事典では、住吉神社について、次のように載せる。住吉神社住吉神社(すみよしじんじゃ)は、主に住吉三神を祀る神社。日本全国に約600社ある。ここでは「住吉神社」を法人名とする神社を記す(神社名の一部に「住吉」を含むものについてはCategory:住吉神社を参照のこと)。住吉神社-Wikipedia○住吉神社を語る上で、住吉三神を抜きに話すことはできないので、もう一回、住吉三神を掲載しておきたい。住吉三神住吉三神
○ブログ『第4回:甑島周遊の旅を終えて』から、『串木野地名考』、『甑島が「コシキシマ」であることの意義』、『再度、大和地名が日向国のものであること』、『金峰神社とは何か』、『金御岳(かねのみたけ)』、『吉野水分(よしのみくまり)神社』と続けている。こうなると、次はどうしても、『住吉神社とは何か』にならざるを得ない。○昨年は、コロナ過で、中国へも行けず、日本で過ごすしかなかった。それで、これまで、行けていないところへ、久し振りに出掛けることが出来た。「万事塞翁が馬」ではないけれども、コロナ過で、