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◯2022年12月18日から21日まで、第四回京都旅行をした。題して「大和三山・醍醐山参詣旅」と命名した。ここのところ、京都とその界隈を歩き続けている。その第四回が、今回の「大和三山・醍醐山参詣旅」で、ちょっと足を伸ばして奈良県橿原市に存在する大和三山を歩いて来た。今回が八回目の大和三山登頂になる。第一回1992年3月28日第二回2003年8月11日第三回2005年5月10日第四回2009年3月29日第五回2010年4月3日第六回201
○2023年9月6日から12日まで、「寧波・杭州・蘇州・台北旅」と題して、寧波・杭州・蘇州・台北を旅して来た。それぞれに思い入れがあって臨んだ旅だった。今回は、それを振り返って、まず、「寧波篇」と題したい。○寧波と日本との結び付きは、何とも古い。当古代文化研究所では、それを『遣唐使船南島路』と題して、研究を深めている。おおよそ、それは次のようになる。・坊津→硫黄島(56㎞)・硫黄島→口永良部島(36㎞)・口永良部島→吐噶喇列島口之島(59㎞)・吐噶喇列島口之島→吐噶喇列
◯前回、ブログ『香具山』を書いて、大和三山の順序が、畝傍山・香具山・耳成山であることを案内した。それを国(文部科学省・文化庁)が、香具山・畝傍山・耳成山と並べていることが誤りであることを述べた。◯なぜなら、日本で、畝傍山以上の山は存在しないからである。日本で最も神聖な山が畝傍山なのである。そのことは、「古事記」や「日本書紀」を真面目に読めば判る。◯ただ、残念なことに、誰も真面目に「古事記」や「日本書紀」を読もうとしない。その証拠に、天孫降臨の世界山が何処であるかすら、規定でき
2024年1月15日能登半島の大地震が起きてから既に半月が経ちましたが、災害対応が大幅に遅れていることを、政権、与党側の動きでは12年前の大震災の時と比較しながら考えてしまいます。少なくても8年近く前の熊本地震より酷いのに、この党で今回の地震で動いている議員はいるんだろうかとさえ疑念を持っています。ここから本題ですが、私はこれまで生きてきて、都道府県単位では高知県以外にはすべて訪れています。ここでの訪れるの基準は、鉄道や自動車での通過だけでなく、駅構内や空港、高速道路のサービス
天岩戸神社。宮崎県高千穂町。(23年10月29日日曜日)youtube.com⬆10月29日の日曜日。宮崎県高千穂町の【天岩戸神社】。
○2023年10月12日に、開聞岳に登って来た。本当は、まず、薩摩国一宮である枚聞神社へ参詣してから、開聞岳に登るのが筋である。なぜなら、開聞岳をご神体とする神社が枚聞神社なのだから。○その枚聞神社参が薩摩国一宮であると言うのも、意義深い。それは、もともと薩摩国を代表する神社が枚聞神社であることを意味する。少なくとも、一宮制度が成立した当時、枚聞神社が薩摩国を代表する神社であったことは、間違いない。○その枚聞神社が鎮座ましますのは、鹿児島県指宿市開聞十町になる。そこは、ちょうど開聞岳の真北に
○前回、ブログ『天孫降臨の世界山が畝傍山であること』で案内したように、大和三山を最もよく案内しているのは「万葉集」である。私見によれば、「万葉集」には香具山が十四回、畝傍山が六回、耳成山が三回記録されている。○その「万葉集」を代表する修辞が枕詞になる。当然、地名「やまと」にも枕詞が存在するのをご存じだろうか。なんと、地名「やまと」には、三つもの枕詞が存在する。そんな地名は「やまと」以外にはない。○地名「やまと」に掛かる枕詞は、次の三つになる。そらみつあきつしましきしまの○
日向国一之宮都農神社御祭神は大己貴命:おおなむちのみこと(大国主命)手水場の水は竹製の龍の口から白祓に蝉の抜け殻遠くの土からおつかれさま無病息災の撫でうさぎ病気平癒、開運厄除の撫で大国自然豊かな敷地内にはシオカラトンボハグロトンボ盛塩の皿の色にも意味があるようです。西に黄色は、金運東に赤色は、仕事運・健康運・勝負運南に金色は、才能と美しさアップ東南にピンク色は、恋愛・結婚成就北西に緑色は、学業成就・目標達成・交通安全・精神安定なるほど
○前に、卑弥呼とはヒムカの謂いであって、日本では日向と表記し、その内実は太陽崇拝であることを、次のブログで案内した。・テーマ「海の民の肥国をさるく」:ブログ『卑弥呼の国が日向国であること』卑弥呼の国が日向国であること|古代文化研究所(ameblo.jp)・テーマ「海の民の肥国をさるく」:ブログ『太陽崇拝が観音信仰であること』太陽崇拝が観音信仰であること|古代文化研究所(ameblo.jp)○この話はまだまだ続く。このように歴史は連綿と繋がっているものなのであ
○すでに、ブログ『卑弥呼の肖像』で、次のように書いている。・最後に。卑弥呼とは何者か。卑弥呼とは「日向(ひむか)」の謂いである。「ひむか」音を漢字表記したのが卑弥呼になる。日向国とは、畢竟、卑弥呼の国であることを意味する。・加えて、「卑弥呼=日向」が意味することも見逃してはなるまい。「卑弥呼=日向」は、そのまま太陽崇拝そのものである。その光景を見たければ、中国浙江省舟山群島、普陀山へ参詣するしかない。普陀山参詣の基本は、太陽崇拝であり、洛迦山を拝むことで
○日本最古の史書とされる「古事記」には、九州島を次のように記録している。次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。○この記録が何を意味するか。それを理解することはなかなか難しい。それは誰も九州をご存じ無いからに過ぎない。「古事記」が案内する九州四国、・筑紫国:白日別・豊国:豊日別・肥国:建日向日豊久士比泥別・熊曾国:建日別で、当時、最も栄えていたのが「肥国:建
○前回、ブログ『肥前国一宮:千栗八幡宮』を書いたばかりである。・テーマ「海の民の肥国をさるく」:ブログ『肥前国一宮:千栗八幡宮』肥前国一宮:千栗八幡宮|古代文化研究所(ameblo.jp)そのブログ『肥前国一宮:千栗八幡宮』は、同じ題名で、古代文化研究所第2室でも書いている。もちろん、内容は別物である。・テーマ「豊国」:ブログ『肥前国一宮:千栗八幡宮』肥前国一宮:千栗八幡宮|古代文化研究所:第2室(ameblo.jp)○その『肥前国一宮:千栗八幡宮』へ参詣
九州巡礼の旅3日目①前泊の為に宮崎駅で下車すると、駅前広場で肉フェスやってました。せっかくなので宮崎牛とスパークリングワイン。気分が上がります。駅前のホテルで一泊してJRで都農駅に移動。都農駅から徒歩で15分ほどで都農神社へ到着石を一つ持っていきます。御祭神は大己貴命で、初代天皇の神武天皇が東征前に大己貴命を祀ったとの事。神武天皇の願いを叶えているので、その威力は凄いのでは?!神の石を納めに本殿裏に進む。沢山の願いがありました。都農駅に歩いて戻る。駅の待合室に自販機でなくコ
【問題】阿蘇惟豊は、家督相続後に一時日向国に逃れているが、その理由とは次のうちどれか?【選択肢】当主への復帰を狙う兄に逐われたため災害により避難を余儀なくされたため伊東氏領の難民が押し寄せて来たため秀吉から一揆への加担を疑われたため【正解】当主への復帰を狙う兄に逐われたため【解説】阿蘇惟憲(これのり)の次男だった惟豊は、兄・惟長の菊池家相続に伴い、阿蘇大宮司に就任した。しかし、後に帰郷した惟長により職を逐われ、一時日向国に逃れている。
○今日は2022年12月19日である。今年もいよいよ残りわずかとなってしまった。今年を振り返るにはまだ早い気もするが、実は、今日、奈良へ行って大和三山へ登って来た。○考えてみると、今年ほど、山に登った年も珍しい。気になったので、日にち毎に並べてみると、次のようになる。・1月7日霧島山高千穂峰・1月13日霧島山白鳥山・1月14日霧島山韓国岳・1月15日霧島山えびの岳・3月28日霧島山白鳥山・3月29日霧島山韓国岳・4月25日
○ブログ『海の民の肥国をさるく』を書いたのは、2022年11月26日のことである。そこで、今回の「五島列島福江島」の旅を整理した。その流れで、ブログ『肥国:建日向日豊久士比泥別の国』をまとめることができた。日本最古の史書とされる「古事記」が記す建日向日豊久士比泥別がどういう意味内容を保持しているかを理解することは、なかなか難しい。それができたように思う。○そうなると、どうしても、日向国から邪馬台国、薩摩国の流れを説明しないわけには行かない。それで書いたブログが『日向国と邪馬台国と薩摩国』になる
○ブログ『天降付く天の香具山の風景』については、2022年12月10日に書いたばかりである。『天降付く天の香具山の風景』を初めて見たのは、2012年12月4日のことだった。その時の感動は未だに忘れられない。枕詞「天降付く」が誕生した風景は、誰が何時見ても感動させられる。それが枕詞と言うものである。○実は、当古代文化研究所は、12月11日から13日まで、英彦山や宝満山に登り、肥前国一宮である千栗八幡宮、筑後国一宮である高良大社、水天宮などに参詣して来た。古代文化研究所第2室で書いているテーマ「豊
○ブログ『邪馬台国の風景』で、次のように書いている。。ブログ『日向国と邪馬台国と薩摩国』から、ブログ『日向国』、『邪馬台国』と続けているから、次は当然、ブログ『薩摩国』となるはずである。ところがその前に、どうしてもクリアしておかなければならない幾つかの問題がある。それが『邪馬台国の風景』であり、『邪馬台国の女王卑弥呼』、『卑弥呼の鬼道』になる。○それなのに、その後ブログ『天降付く天の香具山の風景』を先に書いてしまった。それで、前回がブログ『邪馬台国
○「三国志」を読むと、魏国が認識する倭国三十国は、次のように案内される。そのことについては、すでにブログ『邪馬台国』で案内している。【渡海三国】・狗邪韓国・対馬国・壱岐国【北九州四国】・末廬国・伊都国・奴国・不弥国【中九州二十国】・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)【南九州三国】
○前回、今後のブログについて、次のように書いた。・ブログ『日向国と邪馬台国と薩摩国』から、ブログ『向国』、『邪馬台国』と続けているから、次は当然、ブログ『薩摩国』となるはずである。ところがその前に、どうしてもクリアしておかなければならない幾つかの問題がある。それが『邪馬台国の風景』であり、『邪馬台国の女王卑弥呼』、『卑弥呼の鬼道』になる。したがって、今回は、『邪馬台国の風景』の話になる。○前回は、その『邪馬台国の風景』を書いたのだが、その中で、真実の大和三
○2022年7月に五島列島の福江島を訪問した。もちろん、テーマ「海の民の肥国をさるく」旅の一環としてである。その福江島訪問をブログ『福江島から長崎へ』で書き終えて、福江島訪問をまとめる作業をしている。それをブログ『肥国:建日向日豊久士比泥別の国』から昨日のブログ『邪馬台国』まで続けている。○できる限り、こういう機会に振り返って原点に立ち返ることが大事だと考える。もともと、日向国から始まった話なのだが、甑島を経て、天草から五島列島まで到達した。お陰で、多くの情報を手に入れることができた。そういう
○テーマ「海の民の肥国をさるく」を追い続けて、改めて、日向国、邪馬台国、薩摩国と言う言葉の概念を正確に規定する必要を感じた。前回、そのことについて、ブログ『日向国と邪馬台国と薩摩国』に詳しい話は書いている。今回は、その第一回として、日向国を取り上げたい。○まず、普通に、日向国の概念がどうなっているかから。ウイキペディアフリー百科事典が案内する日向国は、次の通り。日向国日向国(ひむかのくに、ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国。律令制ののちは、西海道に属し、現在の
○テーマ「海の民の肥国をさるく」を追い続けて、天草から五島列島福江島まで来た。もともと、日向国で、邪馬台国を追い続けて来た結果、そうなった。そのことを、「古事記」が次のように案内している。筑紫国:白日別豊国:豊日別肥国:建日向日豊久士比泥別熊曾国:建日別○この「古事記」の九州四国案内ほど、難解なものはない。これが何を意味するのか。誰も説明できない。当古代文化研究所も、これまで、そうだった。ただ、テーマ「海の民の肥国をさるく」の旅を続けているうちに、「古事記」の九州四国案
○日向日豊久士比泥別とは、また何とも立派な名であることに、驚く。そのことは、筑紫国が白日別の国であり、豊国が豊日別、熊曾国が建日別の国であることとは、雲泥の差がある。それだけ、肥国が特別であったことの証ではないか。○そう考えて、現在、テーマ「海の民の肥国をさるく」と題して、肥国をあちこち歩いているわけである。九州が四国、筑紫国:白日別豊国:豊日別肥国:建日向日豊久士比泥別熊曾国:建日別であった時代、肥国が特別な国であったことだけは、間違いない。○それが何を意味するか
都農神社日向国一之宮創建は神武天皇が宮崎の宮を発し東遷の折、此の地に立ち寄り国土平安・海上平穏・武運長久を祈念し御祭神を鎮祭された事と伝えられる。駐車場で降りると傍に車祓所参道に廻りました。神橋のたもと右に神の石此方で神の石を頂き、念じて本殿裏の神の石納所に納めると願い事が叶う。神橋の左手にあぶら石目標達成・所願成就神門の裏に撫でウサギ無病息災撫で大黒商売繁盛祓所手水舎自祓所
<名残り???の木蓮かな>Fuasan79のブログのおかげで、「玄與日記」なるものを読むことができた。それを読むと鹿児島から京都まで、一時陸路をつかうが、ほんど海上交通を使っていることが分かった。玄與(げんよ)日記とは「薩摩から帰路する公家・近衛信伊(のぶただ)に随行した阿蘇惟賢(これかた)(阿蘇大宮司惟前(これさき)の子。出家して黒齋玄與と号す。生没年不詳)が記した資料である。信伊は文禄三年(1594年)に勅勘を被り薩摩配流となったが、文禄五年に勅勘が解け、帰路する折に玄與が随行し
○前回、ブログ『天降付く天の香具山の風景』で、大和三山、・畝傍山(199.2m)・香具山(152.4m)・耳成山(139.7m)の本物が邪馬台国三山、・畝傍山=霧島山(1700m)・香具山=桜島山(1117m)・耳成山=開聞岳(924m)であることを証明した。○何しろ、枕詞「天降付く」は、香具山にしか掛からないのだから、枕詞「天降付く」が説明できるところが真実の香具山であることは間違いない。そう考えると、本物の香具山が桜島山であることが証明される。○日
○前回、ブログ『遣唐使船南島路』に、次のように書いた。・そういう意味では、『遣唐使船南島路』の意義は、極めて大きい。日本三津の筆頭が坊津であることくらいは、誰でも知っている。しかし、坊津が何故、日本三津の筆頭となり得たのか。そういうことを説明できる人は少ない。○こういうふうに書いたが、日本三津がどういうものであるかを正確に理解している人は、ほとんど居ないような気がしてならない。それで、改めて、『日本三津と白尾国柱』と題して、日本三津について、ここで触れておきたい。○ちなみに
福島の「花塚山」に登った時、最北の富士山がみえると聞いた。巨石の山。山名由来は、「鹿を放した所」→放鹿→花塚登山後、むしょうに南相馬にいきたくなったことがあります。導かれたのは白い狐でした。稲荷であり、阿多津姫であり、コノハナさんのことを妄想しまくりでした。「冠嶺(かみね)」という神社が南相馬にいくつかあり、ニワタリ権現とも関係していた。まるで、鳥の冠というような(とさか)その時、安達の民が登場し、安達氏(足立・安立など)は、スクナヒコ
日向国一之宮都農神社に到着です。明るくて良い感じの参道です。何かイベントの準備してました。川の増水で神社に参拝できないとき、この石に油を注ぎ火を灯して、遥拝したんだそうです。信仰が厚かったんですね。この箱の中の石を、本殿裏に収めるといいことがあるそうなので、お賽銭をして、やってみました。欲しくなるようないい苔が生えてます。門をくぐって境内へなんかイベントが沢山あります。拝殿を参拝末社熊野神社摂社手摩乳・足摩乳神社摂社素戔