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小林一三先生(阪急・東宝・宝塚)の業績を、「阪急文化財団池田文庫」(池田市)で調べました。2017年9月3日記事2020年8月5日再掲載2020年11月改訂版(結論部補強)2023年3月再改訂版(導入部分補強)2023年10月3訂版(歌劇団のいじめ問題。宝塚の閉鎖性。)「東宝映画」の拠点は東京都世田谷区成城。「東宝撮影所」には一般人が入れないため、知られていない。映画監督、俳優・女優は成城などに居住。撮影所周辺では、
宝塚歌劇団に想う。女性だけの歌劇団はよいけれども・・・・客層を、男女、上下、内外、もっと広げたら、宝塚歌劇団が、今以上に有名になる。2020年8月改定版2021年12月再改訂版2022年4月3改訂版2023年2月4改訂版2023年10月5改訂版2024年1月6改訂版宝塚歌劇団が強烈なコアのファンによって支えられているのは、長期的に見れば、長所ではなく、短所ではないかと私は思う。お贔屓の男役スターを、何回も観劇し、どこまでも追っかけ
東京アンナ大津美子蝶は蝶でも、銀座の蝶銀座の高級クラブを舞台にした大津美子の「東京アンナ」昭和30年(1955年)♪ライトの虹を踏みながら銀座の夜をひらく薔薇ああ誰か呼ぶ舞姫のその名はアンナ東京アンナ噂のアンナ作詞・藤間哲郎作曲・渡久地政信作詞の藤間哲郎が有楽町にあった日劇ミュージックホールで、ヒロセ元美の踊りを見た瞬間にビビッと来て作ったのが「東京アンナ」だったとか。なるほど、それで歌詞の中に舞姫が出てくるのかな。「東京アンナ」
宝塚歌劇団に想う。女性だけの歌劇団はよいけれども・・・・客層を、男女、上下、内外、もっと広げたら。2020年8月改定版2021年12月再改訂版2022年4月3改訂版2023年2月4改訂版(2021年版も別にあります)宝塚歌劇団が強烈なコアのファンによって支えられているのは、長期的に見れば、長所ではなく、短所ではないかと私は思う。お贔屓の男役スターを、何回も観劇し、どこまでも追っかける、強烈なファン(おばちゃん)が、宝塚歌劇団観客の中核
ひとつ前のブログで書いたように、『男はつらいよ』(1969山田洋次監督)が公開されたのは1969年8月27日です。当初はシリーズ化される想定がされていなかったこの第1作、封切時の併映作は『喜劇深夜族』(1969渡辺祐介監督)です。この映画は、緑魔子さんが父親に隠れて夜、コールガールをいて、父親の方は娘に隠れてポン引きをやっているという喜劇で、僕は後年、名画座で緑魔子さんの特集をやっているときに観たのですが、『吹けば飛ぶような男だが』(1968山田洋次監督)でも好演していた緑魔子さんがい
こんばんは。芸能人の死去が続き😢今日はあき竹城さんが亡くなった、という訃報が……私が物心ついた時、すでにあき竹城さんの山形弁を耳にして、温か~い気持ちになったもんです。あきさんで印象深いのは『楢山節考』🎬今村昌平監督は、あき竹城さんの日劇ミュージックホール時代の豊満な美しい肉体と愛すべき土臭さを作品に生かしました❇あき竹城さんの濡れ場シーンは私には衝撃でした!もう一度観たいです。享年75歳……まだまだこれから活躍して欲しい唯一無二の個性豊かな人でした。合掌…
宝塚歌劇団に想う。女性だけの歌劇団はよいけれども・・・・客層を男女、上下、内外、もっと広げたら。小林一三先生は男性も、女性も、鑑賞するショーや歌劇をめざていました。2020年8月改定版2021年12月再改訂版2022年4月3改訂版(2021年版も別にあります)宝塚歌劇団が強烈なコアのファンによって支えられているのは、長期的に見れば、長所ではなく、短所ではないかと私は思う。お贔屓の男役スターを、何回も観劇し、どこまでも追っかける、強烈なファンが、宝塚歌劇
宝塚歌劇団に想う。女性だけの歌劇団はよいけれども・・・・客層を男女、上下、内外、もっと広げたら。強烈なコアのファンによって支えられているのは、長期的に見れば、長所ではなく、短所だ。小林一三先生の劇団創立時方針に戻すことが、宝塚歌劇団がコロナ禍で生き残る道だと思う。私は池田市の阪急文庫で、先生の著作を数時間で速読し、先生が宝塚歌劇団を創立した狙いと、後継者に託したことを、阪急全体の経営戦略の中で、理解したような気がする。京都五花街の「をどり」鑑賞の前後・途中に、
東京は国際観光都市ですから、昔の日劇ミュージックホールのような、綺麗で、明るく、楽しく、セクシーのところが、復活されてもいいのではないかと、真面目な私は思います。(B版題名と内容の類似重複A版があります)トップレスでなくても、宝塚歌劇団のロケットでもいい。大人の男性が、男女一緒で、健全に楽しめるところがほしい。観光客の誘致にも役立ちます。今ではあまり知られていませんが、宝塚歌劇団だけでなく、日劇ミュージックホールについても、小林一三先生が
押入れの中からでてきた亡父のコレクションのマッチ箱…戦後復興から高度経済成長期へ、日本が活気を取り戻していた時代…なんとも粋な昭和30年代のデザインから、日劇ダンサーとして、この世の春を謳歌していた父の足跡が伺える。現在この住所を訪ねたらどうなっているのだろう?右:亡父(滝礼二)右:森繁久弥さん-----------------------------------------------------------------10
押入れの中からでてきた亡父のコレクションのマッチ箱…戦後復興から高度経済成長期へ、日本が活気を取り戻していた時代…なんとも粋な昭和30年代のデザインから、日劇ダンサーとして、この世の春を謳歌していた父の足跡が伺える。現在この住所を訪ねたらどうなっているのだろう?楽屋でのひとこま-----------------------------------------
押入れの中からでてきた亡父のコレクションのマッチ箱…戦後復興から高度経済成長期へ、日本が活気を取り戻していた時代…なんとも粋な昭和30年代のデザインから、日劇ダンサーとして、この世の春を謳歌していた父の足跡が伺える。現在この住所を訪ねたらどうなっているのだろう?上左:亡父(滝礼二)上右:日劇11期生の同期の藤村俊二さん稽古中にひょいと姿をくらますことから「おひょい」のあだ名が付いた----------------------------------------
昭和の年号が無くなって30数年経つ。それから平成、令和と年号が代わったが、自分が生きる時代は昭和であり、それを超えるものはない。息子や娘は昭和生まれではあるが、生きた時代は平成の時代で、彼らはきっと語る時、平成の話をするだろう。レトロと言う言葉を使い始めたのは、今から40年ほど前からだろう。その当時はまだ「大正レトロ」などと呼ぶ事も出来た時代だった。それは今「大正ロマン」などと呼ばれ、「昭和レトロ」などと呼ぶ。もう昭和を語れる人は40代時代の人限られる。だから勇んで昭和の話をしても「だ
テレビを見ていたらお笑いの「ボケ」と「突っ込み」には「間が大事」で、その「間」のお手本は、「ブランキーなんちゃら、かんちゃら」と申しておりました。暇だし、外出は出来ないので検索してみると・・・・見つけました。1990年代の日本のロックバンドなんですねぇ。「ブランキージェットシティ」というらしいです。更にYouTubeで探すと「ガソリンの揺れ方」という意味深なタイトルの曲がありました。「間」があります。多分お手本はこれでしょうね。ナカナカ、いいと思いませんか
手元にある、昭和27年の三大スターの〝ストリップ廃業声明〟への吾妻京子の抗議文に対する伊吹まりの反論の生原稿「吾妻京子さんへの御返事」。ストリッパーによるストリップ論争が巻きおこった経緯は前の投稿で触れた通りで、この二百字詰め6枚の文章は伊吹まり名義にはなっているが、日劇ミュージックホール運営委員の丸尾長顕の名前入り専用原稿用紙「長顕草稿」に書かれている。〈私達はストリップそのものを軽蔑するのではありません。ストリップによって、低劣なワイセツ感をねらう舞台、その「低劣なワイセツ」を強いられる
手元にある、昭和27年のメリー松原、ヒロセ元美、伊吹まりの〝ストリップ廃業声明〟に対する吾妻京子の直筆の抗議文。同年1月に東宝の小林一三社長が「有楽町からのハダカ追放」を宣言して日劇小劇場を閉鎖。3月に日劇ミュージックホールと改称してハダカなしで開場したものの客が入らず、再びハダカを登場させるにあたって、運営委員の丸尾長顕がメリー松原、ヒロセ元美、伊吹まりの三大スターに〈私たち三人は長らくストリッパーとして舞台に立って参りましたが、この度思うところがありまして、三人で話合いの上、所謂ストリップ
日曜日、お天気もよく買い物へ向かったのは、有楽町。自分が就職で上京した頃まだこのビルはなかった。日劇ミュージックホールという建物だった記憶がある。て、それいつの話・・・!?さて、プレゼント用の京都シルクを使ったネクタイを購入する為ネットで調べてみました。東京では新宿伊勢丹と阪急でしか買えない事がわかり、久しぶりに阪急メンズ館にお邪魔しました。ありました!「フランコスパダ」色も新色がそろっていましたので明るい色を選択してプレゼントに購入しました。そ
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/nokorika.exblog.jp/amp/15492018/%3Fusqp%3Dmq331AQQKAFwAZgB_cXj1trj7tTPAQ%253D%253Dさぁ聖火ランナーの募集400文字以内つくろう✴️奈良高校の陸上部の記録がワテの中学生ぐらいまで抜かれなかった!!!✴️阪急の代走で2軍手辺りに入ったらしい✴️上記ネタで当日は全スポーツ新聞の一面に親父の名前が搭載された!!!✴️飛行機に乗り気圧のせいで白内
一億火の玉の大戦争も負けてみれば敗戦の現実が国のあちらこちらに出てまいります。そんなひとつに...1947年のまだ寒さも厳しい頃、帝都座の五階劇場に突如額縁が現れなかには胸も顕な女性がお目見えします。西洋名画を現物でお見せするというのがショーの趣旨(というか建前)でそれ故の額縁であり絵画ですから勿論微動だにせず時間にしてもわずか数秒、よそ見をしていたら終わりです。これに世の男たちが押し寄せたことでこれからの数年を狂熱のうちに駆け抜けていくストリップ騒乱記の始まりです。最初こそ額縁にかしこまって
ストリップ傑作題名シリーズ。昭和25年8月の日劇小劇場(昭和27年に日劇ミュージックホールに改称)の「濡れたマンボ」の読売新聞の広告。内外タイムスではなく読売新聞というところが良いね。昭和20年代半ばから後半にかけて「マンボ」ほどストリップの題名に多く使われた言葉はないだろう。
手元にある、昭和26年9月の新宿セントラル劇場「ストリップ女地獄」のパンフ。表紙は、ストリップ・アックルと言われるグニャグニャ系の軟体アクロバットをストリップの中で披露して人気のあったR・テンプルである。名前のところが「R・テンプ」とルの字が抜けているが…。R・テンプルは、日劇ミュージックホールの舞台でも活躍し、昭和30年にはマキノ雅弘監督の東宝映画「めくら狼」に出演して蛇踊りお綱という役を演じている。
手元にある、日劇ミュージックホールの大スターであった小浜奈々子さんの写真。おそらく、これは日劇ミュージックホールでのステージ写真ではなく、フジテレビと東宝の共同製作で昭和35年(1960)9月から翌年12月まで放送されたテレビ番組「ピンクムードショウ」収録時の物ではないか。
手元にある、昭和33年(1958)11月の日劇ミュージックホールでのゲー・アブストラクト・フォーリーズ「メケメケよろめけ」の公演パンフ。表紙イラストは、東宝の映画ポスターや舞台パンフを多く手掛けていた落合登によるものだ。日劇ミュージックホールは昭和27年の開場以来、落合によるアメリカン・ピンナップ・ガール風のパンフ表紙イラスト路線を続けてきたが、翌年からヌード・ダンサーの写真をパンフ表紙に使用するようになる。
手元にある、昭和38年の赤坂のレストランシアター〝ミカド〟のレヴュー「チェリー・レーン・ショウ」の公演パンフ。プロデューサーとして岡田恵吉の顔写真が掲載されている。岡田は戦前の宝塚少女歌劇で多くの作品の作・演出を手掛け、戦後は昭和24年から同27年までジューン河戸という筆名で日劇小劇場での〝日小バーレスク〟の大半の作品の作・演出を担当。バーレスクの研究と実践の成果は昭和33年の著書「女のシリ・シンフォニー」にまとめられた。昭和27年に日劇小劇場から日劇ミュージックホールへと劇場名が変わり、
手元にある、昭和24年3月の日劇小劇場(日劇ミュージックホールの前身)での空気座による「獄門島」の公演パンフ。表紙イラストが抜群のセンスだね。ちゃんと〈原作横溝正史〉のクレジットがあり、横溝自身も「獄門島について」という小文を寄せている。空気座は昭和22年8月初演の「肉体の門」の大ヒットで知られ、金田一耕助役は新宿ムーランに居た並木瓶太郎、同じくムーランに居た左卜全も出演している。
浅草での荷風シリーズ。手元にある、昭和24年6月の浅草・大都劇場で荷風の書き下ろし戯曲「春情鳩の町」が劇団美貌により上演された時のパンフ。〈向島鳩の町カフェー組合応援〉。桜むつ子と高杉由美という荷風お気に入りの女優二人の競演。桜は劇団新風俗から荷風に呼ばれて参加した形である。伊吹まり子は、のちに日劇ミュージックホールのスターとなる伊吹まり(伊吹まり代)だ。
手元にある、5ページの漫画「ストリップの女王小浜奈々子の巻」が掲載された「土曜漫画」昭和47年4月7日号。日劇ミュージックホールのトップスター時代の小浜奈々子さんの半生が漫画化されていたとは。ただ、「ストリップの女王」というタイトルは、徐々に脱ぐストリップではなくパリのムーランルージュなどど同じく最初からトップレスの状態で踊るヌード・レヴューを上演していた日劇ミュージックホールのスターである小浜さんには、合ってないようにも思えるが。
手元にある、昭和52年4月の巣鴨のグランドキャバレー「ファイブスター」の開店3周年記念ショウ・ガイド。3日の雪村いづみの他、園まり、天地茂、ケーシー高峰、菊地章子、ジョージ川口とビッグフォー、ストレートコンビ、日劇ミュージックホールの明日香ミチや島淳子らが出演。豪華なラインナップだな。
手元にある、昭和29年6月の日劇ミュージックホール「美女に化けたお馬」の公演パンフのパン猪狩こと世界一の写真。パン猪狩と言えば、日本の女子プロレスの生みの親と言えるボードビリアンであり、日本の女子プロレスラー第1号の猪狩定子や東京コミックショウのショパン猪狩のお兄さんでもある。この当時、スケールの大きな名前が良いと「世界一(せかいはじめ)」に改名したのだが、良く共演していたトニー谷の名前と並ぶと「トニー谷世界一」と、トニー谷は世界一だと称えているみたいだからということで、すぐにパン猪