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赤淵神社は朝来市和田山にある式内社お参りしました古代このあたりは新羅とのかかわりが多くこの神社の由来もそうでした神社略記によると大化元年(645)表米宿彌命が、丹後白糸の浜に来襲した新羅の賊を討伐した際、沈没しかけた船が、海中から浮かび上がった無数のアワビに助けられたため、そのアワビを持ち帰り、赤淵神社に祭ったとされている。大海龍王は海神で、アワビを使い難を救う神であると伝わり、表米宿禰命の子孫である日下部氏の一族の中には、現在もアワビを食べない風習が残っているといわれてい
『出張の合間の神社巡り関西編2023『石切剣箭神社上之社』』『『出張の合間の神社巡りシリーズ』今月は関西です。』さて、今月は久々(2月以来)の出張がある。最近アップした記事や、書き途中の記事には『阿波』や『遷都』に関…ameblo.jp↑のつづき。さて、『石切剣箭神社上之社』を後にして、さらに歩を進める。地名はいつしか、石切町⇒日下町へ。徒歩20分。鳥居が見えてきた。『日下神社』鎮座地大阪府東大阪市日下町創建不詳祭神若日下部王眩しい光が出迎えてくれた。小さい
六神社(京丹後市網野町)丹後国竹野郡京都府京丹後市網野町下岡小字宮ノ越1160(P有)■旧社格村社■祭神天児屋根命浦島太郎島子ノ神島垂根命伊満太三郎綿積乙女命網野町市街地から南西外れの山裾、かつての「下岡村」に鎮座する社。◎「浦島太郎伝説」のモデルとなった「島子ノ神」を祀る社。網野町内には嶋児神社や網野神社で祀られる他、島子ノ神(水江浦嶋児)の生誕伝承地、乙姫を祀るという西浦福島神社など、伝承が色濃く地。◎当社も「島子ノ神(水江浦嶋児)との」何らかの関わりがあるの
嶋児神社丹後国竹野郡京都府京丹後市網野町浅茂川明神山382(社前に駐車スペース有)■祭神島子神網野町市街地の西端、海に面した突端に鎮座。高さ50cmほどの盛り上がりを「明神山」と称し、その上に祠が設けられています。浦嶋子伝説(下部に投稿記事一覧)が色濃く残る網野町、その要となる社と言えるかと思います。◎浦嶋子そのものが祀られ、近くには生誕伝承地があり、乙姫が祀られるという西浦福島神社が鎮座。他にも網野神社(現在記事改定作業中、本日22時02分にUP予定)や六神社(後ほど記事UPしま
但馬に醤の歴史がある。飛鳥時代には大宝律令により、宮内省の大膳職にさまざまな醤を扱う役所、「醤院」(ひしおつかさ)が定められました。醤院では肉醤・魚醤・穀醤を作っていたようですが、氏族豪族しか口にすることは出来ませんでした。その醤院が奈良時代に但馬で醤を作っていたという証がありました。豊岡市日高町国分寺の金堂・講堂・大衆院跡から木簡が出土しました。天平13(741)年の聖武天皇の詔(みことのり)で、全国で国分寺の建設が始まりました。但馬国分寺はこれまでの調査で、七重塔や金堂などの建物跡が見
なんかよほど大事なことが書いてあったみたいで、記事が消えてしまった。きっと必要な人たちの意識には届いたであろう。「もう一回かけば」といわれたが思い出せない。こういうのは、完璧にすごく大事なことなのである。なので、重要なメモだけ貼っておこうと思う。ぐーたら気延日記(重箱の隅)こちらに浦島太郎の忘備録として、興味深い記述があった。そうそう、亀は女神だってことであった。それを元のパートナーにメールしたってことを書いた。そのやり取りの中で、本殿が北極星を向いているという
日下神社(東大阪市日下町)河内国河内郡東大阪市日下町1-4(P無し、近隣に停め置きできそうなところも無し)■祭神若日下部王(ワカクサカベノミコ)神武東征において長髄彦神と激戦となった「孔舎衛坂(くさのえのさか)」推定地のやや南麓、石切劔箭神社上之社のやや北に鎮座する小さな社。創建由緒についての資料は見当たりません。ご祭神の若日下部王は雄略天皇皇后。草香幡梭若朗女(クサカノハタビワキノイラツメ)や波多毘能若朗女(ハタビワキノイラツメ)などとも。仁徳天皇と妃である日向髪長媛との間に
☆浦嶋子生誕地・釣溜(つんだめ)丹後国竹野郡京都府京丹後市網野町浅茂川※ともに詳細住所不明※「釣溜」は嶋子神社の隣、「浦嶋子」生誕地は徒歩5分ほど(アクセスは下の絵地図を参照)浦嶋子(浦島太郎)にまつわる史跡が網野町「浅茂川」にいくつかあります。当記事ではうち二つ「生誕地」と「釣溜(つんだめ)」を。海辺の突端には嶋児神社が鎮座。また浦嶋子が乙姫(亀比売)に出会ったところとされる西浦福島神社が鎮座。その近くに当史跡二箇所があります。網野神社においては嶋子が「福島に置かれていた」として
昨晩雅子皇后陛下の御経歴をWikipediaで閲覧したのだが、御出身の小和田家が日下部(くさかべ)氏の末裔であり、日下部氏は四道将軍の一人・彦坐王(ひこいますのみこ)を出自とする氏族であることを知った。つまり小和田家の遠い御先祖様は皇族なのである。第10代崇神(すじん)天皇の時代、大和の勢力伸張のため天皇の命により四方面に皇族の将軍たちが派遣された。これを四道(しどう)将軍と呼ぶ。ちなみに2009年に四道将軍ゆかりの地へそれぞれお参りしている。四道将軍・北陸道・・・大彦命(おおびこのみこ
日部神社(くさべじんじゃ)和泉国大鳥郡大阪府堺市西区草部262(向かいにファミリーマートがある交差点に鎮座)(境内に駐車できなくもないが転回不可でしかも交差点上、外部に駐車すべきかと思います)■延喜式神名帳日部神社の比定社■旧社格村社■祭神彦坐王[合祀]素盞嗚尊伊弉冉尊菅原道真草部の住宅等の密集地内の社。創建伝承については二説あります。一つは、当地を拠点とした日下部首(クサカベノオビト)が、祖神である彦坐王を祀ったとするもの。「新撰姓氏録」には「日下部宿禰同祖彦
産霊七社神社(うぶすなしちしゃじんじゃ)丹後国熊野郡京都府京丹後市久美浜町市場向山(2~3台程度の駐車スペース有)■祭神国常立命天津彦根命天穂日命素盞嗚命正哉吾勝勝速日天忍穂耳命活津彦根命熊野久須日命稲田姫命久美浜湾に注ぎ込む「川上谷川」沿いは古くから開けた丹後国の主要地ですが、その最奥というべき地に鎮座する社。「市場」という地名から、そうであったものかと思われます。◎「熊野郡誌」には、その市場の氏神であった産霊神社と七社神社とが明治末に合祀されたと記されます。七社
こんにちは、スタルペスです。今日は熊本地震の本震からちょうど3年になりました。あれからもう3年と思う反面、まだ3年との思いもあります。3年経ってもまだ仮設住宅やみなし仮設に住む人は現在でも1万6千人以上を数えます。復興・復旧はまだまだの感があります。一日も早い復興を祈るばかりです。さて、前回の「ガランドヤ古墳」のつづきです。日田市には国の重要文化財「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」が出土した「ダンワラ古墳」があります。正確には「あった」
前回のブログ『「ある書籍」に記されていた事』より続きます。https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12433956906.html今回『宮原誠一の神社見聞牒』の宮原様の『No.91江戸幕府降伏王政復古祈願の地・球磨郡宮原村皇大神宮④』をリブログさせて頂きました。https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12435195732.htmlブログ『宮原誠一の神社見聞牒』の宮原様が、私が今まで何度もブログ内で書かせ
今日からは越前(福井県)一乗谷の朝倉氏の紹介です。2018年3月16日に訪問しました。一乗谷の朝倉氏館唐門前です。以前来た時は門の前に堀は無かったと思います。元々は堀があったのですね。朝倉氏の歴史但馬には、開化天皇の後裔とも孝徳天皇の後裔とも伝わる、日下部氏が平安時代から起こる武士団を形成し栄えていました。朝倉氏は、この日下部氏の分家の一つです。朝倉氏は但馬国養父郡朝倉(兵庫県養父市八鹿町朝倉)が名字の地です。越前朝倉氏は初めて越前へ入国した朝倉広景を祖とし、以後
こんにちわです!腰紐〆田です。今日も、よろしくお願いしますそれでは、はじまり~はじまり~散策して来ましたです...はい。舞子駅へとうちゃこ~明石大橋が、目の前に、現る海が近い駅ですなぁ~歩くこと5分ほどで旧舞子ホテルへ.......大正時八年に、海運業で名を馳せた日下部久太郎氏が、別荘兼迎賓館として建てられたのであります。洋館と和館と言う組み合わせは、当時の富裕層が、よく取り入れた手法だそうだ。玄関ポーチの両サイドには、ステンドガラスが、はめ込まれていました。
前回のブログ遠江国を出自の地とする曾祖母の実家「新堀氏」https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12317128956.htmlから続けて書かせて頂きます。前回に書きましたように家の宮原家の曾祖母(新堀家の娘)の弟が養子(婿養子ではありません)に入って「名」を継いだ家や、私の住む集落「宮麓」内の数軒に渡る家々が使用されている家紋。調べたのですが、こちらは「楓紋」でした。楓紋に剣がありますが、正式な名称は残念ながら解りませんでした。「楓紋
弁才天さんを探して10京都府与謝郡伊根町に浦嶋神社があります由緒「かつては宇良神社(うらのかむやしろ)祭神は浦島子(浦島太郎)創記は淳和天皇の天長二年(825年)浦島子を筒川大明神として祀った浦島子は日下部首等の祖先に当たる日下部氏は「新撰姓氏録」によると「日下部宿
弁才天さんをさがして94月27日の「六甲姫神社」の記事からずいぶん間が開いてしまいました三峯神社に行って(三峯神社の記事も書き終えていないし・・・)その後も修行の旅に行きました六甲姫神社からの続きを綴っていきます六甲山の摩尼山・神呪寺(かんのうじ)兵庫
霊巌洞に行く途中なのですが、「阿知王」と記された石碑を偶然発見しました。普通ならば見過ごしてしまいそうな石碑ですが、引っかかるところがあるので急遽この「阿知王」なる社に向かうことにしました。小さな社ですが立派な石碑が建っています。やはりそうです。大蔵姓田尻氏正統系譜とあります。系図を見ると初代は「史記」の主人公の劉邦とあります。社の中に入ってみましょう。かなり古い人形です。真ん中が漢高祖劉邦大皇帝右が漢皇霊帝左が阿知王と書いてあります。壁には先ほどの石碑にあった大蔵
真名井御前は日下部氏出身の可能性大2012/10/13真名井御前は、空海と共に、西宮神呪寺で瀬織津姫を弁財天としてお守りされた方です。藤原氏と秦氏の渡来系が、神祇の一切を掌握する中、伊勢神宮も含めて全国の主だった神社と、神道が捻じ曲げられ、祭神を変更され、社地を乗っ取られ、あるいは隣接の神宮寺の建立によって圧迫を受ける中、神社のまま、神道のままでは、守りきれない状況が出来(しゅったい)していた時代背景を押さえておかなくてはこのことは理解できません。いったん仏教の本尊として伊勢祭神
岡山臨港鉄道跡「花曇り」ameblo.jp道路(臨港鉄道、児島湾旧堤防跡)から北(ふれあいセンター側)は江戸時代に開拓された「福田」、南(写真左・手前)は藤田組(現、DOWAホールディングス株式..白河関跡terurocket-FC22016.4奥州の関所白河関跡に行ってきました東山道の要衝に設けられた関門として史上名高い国の史跡に指定されている関跡です2730.jpg白河藩主松平...能古焼古窯跡江戸時代の古窯跡フォートラベル...江戸時代、明和
八木城(養父市八鹿町八木)11世紀半ば、源義家の重臣、閉伊四郎頼国が八木に土城を造り、館を構え、以後約130年間勢力を誇っていたが、建久五年(1194)から正治二年(1200)頃、日下部氏を祖とする朝倉高清が頼国の後裔・閉伊十郎行光を攻め滅ぼし、土城の東部の峯に新たに城を構築し、三男の重清を城主に置き、地名をとって「八木」を名乗らせたのが八木城の起こりであると云われる。以来八木氏は約400年近い歳月に渡りこの地に君臨、南北朝期には権勢を振るった山名氏に従い「山名四天王」とも呼ばれた。天正八年
私市と書いてなんと読むかご存知だろうか?「きさいち」と読む。北河内にある地名だ。大阪には読みに困る地名が多い。放出(はなてん)、喜連瓜破(きれうりわり)、枚方(ひらかた)、十三(じゅうそう)など、挙げればキリが無い。関東の河原氏は、武蔵七党の私市党に属していた。日本の苗字七千傑の私市氏についての説明にこうある(以下、引用)。「開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、日下部氏より別れる。河内国交野郡私市村から地名を負つて、武蔵国埼玉郡私市村に移住したものと思われる。私市氏一族は武蔵七党の私市
武蔵七党の一つ(正確には7つの中に分類されていないようだが)、私市党に河原氏がいたが、私市党の河原氏は、「日本の苗字七千傑」では、開化天皇にはじまる日下部氏の後裔となっている。因に、日下部氏の後裔として越前の戦国大名朝倉氏が自称している。この系図を見る限りは、日下部氏から私市氏が生まれ、私市を名乗った日下部黒山の7代後の私市成方が、河原を名乗ったことになっている。つまり、河原連とは関係がないことになる。武蔵七党については、その出自について後世の仮冒が多いとも考えられ、私市党の河原氏が本当に開化