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かわらめき古墳群かわらめき古墳群は、4世紀後半から5世紀にわたって造られた、榎戸周辺に住んでいた権力者の墓である。この「かわらめき」の地に1基の古墳があることは、古くから知られていたが、平成23年、古墳の築造年代や形状・規模等を確認するために、部分的な学術発掘調査を実施した。その結果、既に知られていた古墳が円墳(1号墳)であることが確認された。さらに、墳丘(棺を納めた盛土)が失われていた円墳(2号墳)及び方墳(3号墳)が新たに発見された。3基の古墳は、3号墳が最も古く、次いで2号墳、
上人塚古墳について□上人塚古墳(しょうにんづかこふん)佐倉市文化財史跡根郷地区昭和41年(1966)9月26日市指定史跡(正慧寺所有古墳)小篠塚にある上人塚古墳は鹿島川を眼下に望む標高32mほどの台地縁辺に位置する古墳です。北側と東側の一部分が削平されていますが、よく整った方形を呈し、1辺22.6m、高さ3.5mを測る市内でも有数の方墳です。未調査のため、埋葬施設や副葬品については明らかではありませんが、占地状況及び形態から古墳時代終末期(7世紀代)の所産と推定さ
県指定重要遺跡八重塚古墳群指定年月日昭和44年10月1日八重塚古墳群は、南北に小さな谷が入り、西に向けて突き出た台地上に位置しています。標高は約26mで、北側の谷との高低差が9mほどの高台となっています。この付近は古くから八重塚山と呼ばれ、地域の人々によって古墳の群集する場所として認識されてきました。これまでに4基の古墳が確認されていますが、現在でも墳丘が残されているのはこの2号墳だけです。1号墳はこの2号墳から西へ50mの地点にあったといわれています。昭和25年に浦和第一女子高
駄ノ塚古墳(板附4号墳)成東駅から日向経由八街行きのバス(2~4本/1日)に乗車。板附下車。板附公民館そばの火の見櫓そばの細く緩やかな道を上ると、道が上下に分かれているので、下を行く。やや行った右手の雑木林の台地上に駄ノ塚古墳がある。県内第2位の1辺62mで、3段築成の方墳。◆方墳◆7世紀前半◆所在地成東町板附◆一辺62m高さ10m◆埋葬施設横穴式石室(複式構造)全長7.76m前室長2.32m幅1.32m高さ1.9m奥室長2.74m幅1.55m高さ2m
駄ノ塚西古墳駄ノ塚古墳から畑の中に高さ1mくらいの草むらが見える。これが駄ノ塚西古墳である。一辺30mの方墳で、墳丘はすでに削平されている。埋葬施設は軟質砂岩の切石で築成された横穴式石室。天井石などの一部は崩落している。墳丘上は手入れが悪く荒れている。離れて見た方が形状が分かる。奥室西壁に仏像が線刻されているといわれる。後世のいたずらであろう。◆方墳◆7世紀◆所在地成東町板附◆一辺30m◆埋葬施設横穴式石室◆備考1979年調査(芝山町立芝山古墳・はにわ博物館Websit
今日の散歩おじさん地域の最高気温は、気象庁のデータで見る限りは昨日よりほんのちょっと低いくらいだったのですが、雲が多く日差しに炙られなかったせいか、だいぶ過ごし易く感じられました!さて記事の方は「北総ウォーク」の続きです!前回の記事の最後に載せましたチェックポイントで無事チェックポイントスタンプを押した後、少しアップダウンのあるコースを20分ほど歩くと、次なる立ち寄りスポットであります「中根鳥見神社(なかねとみじんじゃ)」に到着です(^.^)前回の記事では「小林鳥見神社」をご紹介しましたが
埼玉県指定史跡塩古墳群所在地熊谷市塩古墳群は、滑川沖積地を望む比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布しています。この古墳群は、前方後円墳2基のほか、方墳26基・円墳8基が残されており、古墳時代前期(4世紀中葉~後半)の土器類の遺物が出土しています。主墳の2基はいずれも、前方後円墳で、北側の第1号墳は、全長約35m、高さは前方部で1.7m、後方部で5.9mを測り、長軸北20度西を示しています。南側の第2号墳は、全長約30m、高さは前方部で2.2m、後方部で5.5mを測ります。
多功大塚山古墳種類史跡(町指定文化財52)指定年月日平成10(1998)年7月27日所在地多功所有者個人多功大塚山古墳は、発掘調査の結果、古墳時代の終わりに築造された栃木県最大規模の方墳で、直径53.8mあることがわかりました。周辺には奈良時代以降、下野薬師寺をはじめ、大規模な遺跡がありますが、これらを築いた有力者の一族の墓とする考えもあります。なお、現在は畑になっています。(上三川町ホームページより)多功大塚山古墳(タコウオオツカヤマコフン)【
岩屋山古墳2023.5.28この日のあすかめぐりで最後におとずれたのは、岩屋山古墳でした。飛鳥駅で電車待ちの時間が結構あったので、飛鳥駅から徒歩5分ほどで行けるエキチカ古墳・岩屋山古墳に行ってきました。写真は、石室の中から入り口を撮りました。切石積みがキレイな石室です。※※※今日のもう1枚岩屋山古墳は、大字越にある終末期古墳です。7世紀代の一辺約54m、高さ約12mの方墳と推定されています。
百目木古墳(どうめきこふん)方墳1辺約10m・高さ約2.5mの方墳。(古墳マップhttps://kofun.infoより)住所:千葉県富津市二間塚736-1特徴:撮影:2022年5月5日
森山塚古墳(下飯野字森山)方墳で墳丘の一辺27m、高さ4mを測る。内裏塚古墳群内では割見塚古墳・亀塚古墳に次いで3番目に大きい方墳である。周囲には外辺約43mの周溝がめぐり、さらにその外側に二重周溝がめぐる可能性が強い。埋葬施設は墳丘の南東側に開口する砂岩切石積みの両袖形横穴式石室で、昭和58年に国学院大学による発掘調査が行われている。石室の現存長は6.9mで、羨道と玄室の間に1.2mの大きな段差がある点が特色となっている。床面全体に切石が敷かれ、玄室の床面には石材の切り組みが見られる。
亀塚古墳(富津市上飯野字亀塚)形態規模:方墳墳丘辺長38m・墳丘高3.5m・内周溝辺長58m・外周溝辺町99m埋葬施設:横穴式石室(全長8.1m・玄室長2.4m・奥壁幅1.94m・羨道長5.7m・羨門幅1.2m)出土遺物:銅椀1・金銅製耳環1・銅製弓弭1・蜻蛉玉1・ガラス丸玉1・ガラス小玉22・鉄釘4・須恵器(フラスコ型長頸壺3・平瓶1・はぞう1・短頸壺1・台付頂頸壺1)出土品保管場所富津市教育委員会・国立歴史民俗博物館内裏塚古墳群の
割見塚古墳(二間塚字割見塚)前方20mにある古墳は、内裏塚古墳群中最大の方墳、割見塚古墳である。墳丘は一辺40m、高さ5mを測り、昭和58・59年度の確認調査で、外辺106~107mの大形二重周溝の存在が明らかにされた。千葉県の方墳の中では栄町竜角寺岩屋古墳、山武市駄ノ塚古墳、木更津市松面古墳に次いで第四位の墳丘規模であるが、周溝全体を含めた規模は岩屋古墳にほぼ等しい。昭和39年と59年の発掘で、砂岩切石積み複室構造の横穴式石室の存在が明らかにされた。石室は羨道・前室・後室・棺室に分かれ
小島八幡山古墳一辺約40m、高さ約4mの隅丸方形墳で、いびつな周溝が巡る。かつて墳頂に箱式石棺が露出していたが、現在は埋め戻されている。またこれとは別に木棺直葬の存在が確認されている。遺物は、箱式石棺内部から出土した鉄剣二振のみである。5世紀前半の築造。1976年(昭和51年)市指定史跡に指定された。(wikipediaより抜粋)場所:埼玉県本庄市万年寺3-3-24特徴:本庄市指定文化財八幡山古墳(131号遺跡)昭和51年12月27日指定撮影:2022年4
県指定史跡大塚古墳昭和32年6月30日指定大塚古墳は、地元では「五界塚」と呼ばれる御門古墳群の一つです。五基の古墳が存在したとされていますが、現在では四基しか確認できません。大塚古墳は方墳で、その規模は一辺の長さ約23m、高さ約3.5m。墳丘は明確な方形状をなしていますが、北西コーナーで少し崩れています。墳頂部は長辺薬9m、短辺約8mの長方形状をした平坦地です。野木町教育委員会(現地、説明板より)県指定史跡大塚古墳1基所有者大本タネ昭和32年8月27日指定
金山塚古墳(かねやまづかこふん)上円下方墳もしくは方墳とされているが、未調査のため詳細は不明。県指定史跡、1957(昭和32)年指定。1981(昭和56)年には周溝確認調査が行われたが、周溝は確認できなかった。もしかしたら古墳ではないかもしれない・・・。(古墳マップhttps://kofun.infoより)住所:栃木県栃木市岩舟町静戸特徴:撮影:2022年4月9日
虎塚4号墳(とらづかよんごうふん)方墳畑の中に横穴式石室の巨石が残存。調査の結果、方墳だったことが判明している。(古墳マップhttps://kofun.infoより)場所:茨城県ひたちなか市中根4514-5特徴:石室の石のみ存在撮影:2022年4月2日
千葉県成田近郊の龍角寺古墳群です日本最大の方墳の岩屋古墳があります110数基の古墳が集中しています印旛沼の高台で立地が最良だったのでしょう6世紀から7世紀の建造とのことこのあたりも大和朝廷の支配だったのです岩屋古墳
ひたちなか市指定史跡飯塚前古墳(いいづかまえこふん)所在地ひたちなか市三反田字飯塚前3268ほか所有者ひたちなか市指定日昭和54年4月17日飯塚前古墳は那珂川と中丸川に挟まれた細長い台地上に所在している。本古墳の墳形は30m×22mの長方墳であり、市内のみならず他でもあまり例を見ない貴重な古墳である。墳丘の高さは約4mを測るが、墳頂部が近世の墓地に利用されていたために若干削平されていると考えられる。内部構造(埋葬施設)は、凝灰岩を用いた南へ開口する横穴式石室と推定され
国指定文化財史跡吉田古墳大正11年3月8日指定この古墳は飛鳥時代の6世紀末以降に造られたもので、現在は一辺8m高さ1.6mほどの方墳にすぎないが、周溝から判断すると当時は一辺30mを超えていたことが推定される。内部主体は南に開口する全長約3mの凝灰石の板状の石で構築した横穴式石室であり、大正3年4月に発掘され、金環、鉄鏃(やじり)、直刀、勾玉等が発見された。また、石室の奥壁には線刻で靫(ゆき)、刀子、鉾等武具を主体とした壁画が施されている。このような壁画古墳は、北九州についで関東から
次に来たのは常陸風土記の丘ですちょっとお高い蕎麦屋の様な門構え実際蕎麦屋さんもありました駐車場から展示施設に行くには結構歩きます道標には入っていませんでしたが、染谷古墳群の案内板がたっていました行ってみましょう『染谷古墳群』32基が確認されている径10〜30mの円墳方墳も確認されている方墳は、龍神山産雲母片岩製の石棺式石室7世紀の茨城県で多い平成9年石岡市教育委員会表示はありませんがこの高まりは古墳ですねこちらにも高まり2/32ですね
横浜市青葉区大場町の稲荷前古墳群。3基のみ残された古墳群の、17号墳。16号墳の脇から…こちらの藪の中を見る。↓おそらく、この藪の中には、17号墳が有るハズ。↓17号墳は、方墳であるらしい。残念ながら、稲荷前古墳群の最南端の3基以外は、宅地造成により姿を消してしまっている。関東古墳探訪ベストガイド改訂版[東京遺跡散策会]楽天市場トレッキングシューズウォーキングシューズ登山靴疲れないスポーツシューズ運動靴男女兼用アウトドア滑り止めカジュア
八幡古墳群八幡古墳群はかつて15基ほどありましたが、明治以降の開墾でほとんど削りとられ、現在3基を残すだけです。現存する1号墳は八幡塚とよび、高さ3メートル、直径28メートルの円墳で、頂上に八幡神社を祀っています。この神社に源義家が立ち寄り、その守り本尊を祭神にして祀ったという伝説があります。2号墳は高さ2.4メートル、直径10メートルの方墳。3号墳は高さ1.5メートル、直径20メートルの円墳です。付近には羽賀戸古墳群(円墳等4基)、君島古墳群(円墳6基)がありますが、八
横浜市青葉区大場町の、稲荷前古墳群。かつては、このエリアに10基の古墳と3つの横穴群が存在していたという。しかし、現存しているのは、15、16、17号墳の3基のみである。こちらが15号墳。方墳である。↓この角度なら、方墳である事が判り易いか。↓そして、振り返るとそこには前方後方墳!16号墳である。↓古墳時代東国の地域経営[若狭徹]楽天市場古墳のなぞがわかる本(学校・公共図書館向けシリーズ)[河野正訓]楽天市場都心から行ける日帰り古墳
村山法華塚古墳(むらやまほっけづかこふん)鏑木古墳群中の1基。東西29.1m、南北27.3m、高さ3.6m。天保年間に経塚として改築されたといわれている。市指定史跡。(古墳マップhttps://kofun.infoより)村山法華塚古墳(ムラヤマホッケヅカ)指定市指定史跡住所千葉県旭市鏑木3792-1所有者妙経寺指定日1975年7月22日(旭市文化財一覧より)住所:千葉県旭市鏑木特徴:撮影:2022年2月6日
つくば市指定史跡佐都ヶ岩屋古墳昭和48年12月12日指定ここ平沢には「三十六岩屋」という伝承がある。地元では開口した横穴式石室を岩屋と呼び慣わしてきており、かってはたくさんの古墳があったと推測される。現存するのは四基のみであるが、その中の一基、この佐都ヶ岩屋古墳(そどがいわやこふん平沢一号墳)は、筑波山南麓の7世紀の古墳としては最大級の墳丘や横穴式石室を有しており、この地域を支配した首長の墓といえる。本古墳は、おおよそ南北25m、東西35m、高さ7mの方墳で、南側に巨大な板石を組
前原古墳(まえはらこふん)おおよそ3世紀中ごろから8世紀初めまでを古墳時代といい、各地に権力者の墓として古墳が数多く作られました。手賀沼沿岸では柏市戸張の戸張一番割遺跡の前方後方墳と柏市片山(手賀の丘公園)にある北ノ作1・2号墳が3世紀中ごろと最も古い古墳であることが分かっています。我孫子市内では高野山にある水神山古墳が最も古い古墳(4世紀末)と考えられていました。水神山古墳は全長69mの前方後円墳で、千葉県北西部地区最大の前方後円墳として知られています。前方後円墳は大和政権とのつながり
加納古墳群よりシシヨツカ古墳一辺34m方墳埋葬施設横穴式石室の奥室に横口式石槨花崗岩製築造6世紀末
ジオラマ「平石古墳群」よりアカハゲ古墳一辺44m方墳埋葬施設横口式石槨花崗岩製築造7世紀前
市指定史跡花園古墳群二号墳指定年月日平成10年9月18日所在地桜川市友部字山田1950-3ほか管理者桜川市雨引山北麗山田丘陵(花園)の、東南斜面標高約70mに形成されて、前方後円墳、方墳、円墳からなら、八基の花園古墳群である。主墳である一号墳は、前方後円墳で箱式石棺を有したものや、横穴式石室を有する二号墳、三号墳、四号墳、五号墳と多様な形態を有している。特に三号墳は、装飾古墳としても東国随一と評価されたものである。二号墳は、東西約20m、南北約27m、高約