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☆太平塚古墳(おおひらづかこふん)河内国石川郡大阪府南河内郡太子町春日(駐車スペース有り、アクセスは下部写真参照)近鉄南大阪線の線路下にある古墳。「二上山」の西方、丘陵南斜面に築かれています。敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と5基の王陵を中心とした「磯長谷古墳群」の北端に位置します。またかつての「大坂道」の起点と思われる場所。「大坂道」とは、大和国葛下郡の長尾神社から、大坂山口神社(香芝市穴虫)または大坂山口神社(香芝市逢坂)の側を通過し、「二
☆松井塚古墳石棺河内国石川郡大阪府南河内郡太子町太子2150(「太子和みの広場」内、大型P有り)「太子和みの広場」という、聖徳太子所縁の叡福寺に隣接して設けられた広場(公園)内に移設された古墳石室。推古天皇陵の北300mほどの民家の井戸掘削中に石室石棺を発見、石棺のみを移転したようです。墳丘は既に失われているとのこと。「二上山」と「岩橋山」との間の谷筋を縫うように走る「竹内街道」沿い、「王陵の谷」と称され、敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と王陵が
☆用明天皇河内磯長原陵(こうちしながはらのみささぎ)河内国石川郡大阪府南河内郡太子町大字春日(P有、常時開放されているかは不明)第31代用明天皇の治定墓。「二上山」と「岩橋山」との間の谷筋を縫うように走る「竹内街道」沿い、「王陵の谷」と称され、敏達天皇陵・用命天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と王陵が密集する地。周辺の古墳を含めて「磯長谷古墳群」と称されます。学術名は「春日向井山古墳」。東西65m南北60mの方墳。空壕が巡らされ、外堤までも含めると100mほ
しばらく愛知県春日井市の古墳が続いたので、今日は茨城県つくば市の古墳をアップします。↑国道354号線沿い、赤塚公園内にある稲荷神社の鳥居から場所はこちら:36.049741,140.131999↑赤い鳥居もたくさん↑狛狐さんたちと稲荷前稲荷塚古墳一辺が18メートルの方墳。↑墳頂の稲荷社↑墳頂から振り返って↑南西側の様子↑東側の様子↑北側の様子明日も茨城県つくば市の古墳です
浦和市指定史跡本杢古墳(ほんもくこふん)昭和46年2月12日指定本杢古墳があるこの場所は、大宮台地とよばれる洪積台地の西端にあたり、荒川の低地を望む台地の縁辺部になります。古墳の現状は、東側と北側とが道路などによって削られていますが、全体としてはよく墳丘を残しています。平成4年に実施された墳形を確認するための発掘調査でが、古墳の周囲に幅約1.5m、深さ約1mの堀が四角くめぐらされていることが確認されています(墳丘を保護するために設置された柵は、ほぼこの堀の外周部に沿っています)。こ
文化財紹介方墳大塚古墳■指定の区分県指定史跡■指定名称方墳大塚古墳■員数1基■指定年月日昭和33年3月20日■所在地西区宮前町■所有者個人■概要JR川越線西大宮駅の東約250mにある底辺21×25m、高さ4mの方墳と考えられています。(さいたま市ホームページより)住所:埼玉県さいたま市西区宮前町特徴:複合施設の駐車場の隣に所在撮影:2024年3月10日
雨降りの時は室内に限る焼き物とか興味ないので…あまり魅力はなかったけれど…収穫あり販売している、見本の古墳BOOKを必死に読み込み~早速見に行ってこよう川合次郎兵衛塚1号墳(名前で選びました)(文化財紹介2)川合次郎兵衛塚1号墳/可児市岐阜県可児市の公式ウェブサイトです。可児市の紹介、お知らせと市への意見、くらし・環境、イベント・講座・市民活動、健康・福祉・教育、産業・事業、行政情報など紹介しております。www.city.kani.lg.jp先のウェブサイトを見ると復元技術が
☆葉室塚古墳(越前塚古墳)河内国石川郡大阪府南河内郡太子町葉室(P有)■形状長方形墳または双方墳■全長東西75m、南北55m周濠有り■築造時期7世紀前半頃■埋葬施設横穴式石室が東西に2ヶ所あったと推定■出土品(無し)■周辺の状況「二上山」麓の南西丘陵地葉室古墳群に属し、東方すぐに磯長谷古墳群、南側すぐに一須賀古墳群がある蘇我氏が根拠地としていた地■被葬者(不明)「王陵の谷」とも称され敏達・用明・推古・孝徳天皇の各天皇陵に聖徳太子御廟が密集する「磯長谷
今日からアップするのは千葉県横芝光町にある小川台古墳群。参考資料は1975年の『下総小川台古墳群千葉県匝瑳郡光町小川台古墳群調査報告書』。栗山川中流域東岸、舌状台地上。前方後円墳5基、円墳12基、方墳1基からなります。小川台1~5号墳については昭和49年の調査後、消滅しています。↑国土地理院の航空写真から(赤い文字はふっき~が加筆)地理院地図/GSIMaps|国土地理院当日、見つけた古墳順でアップしていきます↑まずは小川台13号墳、円墳。南東側
1月2日に訪れた栃木県宇都宮市の古墳、続きです。まずは発見できなかった宇都宮市下砥上町の植の内古墳。星宮神社の南側、楡木街道の南側にあるはずなのですが、見つけられず↑最初、この三角になってる箇所かと思いましたが、分布図的にはもっと東側かな。写真の場所はこちら:36.541657,139.841072↑こんなものまであるので、古墳かと思いますよね(笑)植の内古墳を諦めて、姿川第二小学校の北にある観音塚古墳へ↑観音塚古墳、西側より周囲に住宅地が迫っ
市指定文化財上宿古墳昭和48年1月5日指定7世紀後半から8世紀初頭(古墳時代)とみられる。墳丘は敷地北西隅東西5.5m、南北3.8m、高さ1.2mの墳きゅが残っているが著しく変形しており、現在の墳丘の外形からは円墳、方墳、前方後円墳か判断できない。石室は主軸を南北にとり南に開口しており玄室は全長2.84m、奥壁幅2.08m、前壁幅1.42m、高さは奥壁で2.20m、前壁も2.20mで石壁の構築はすべて貝化石を含む砂岩の切石を使用している。奥壁(北側)は二段、側壁は東壁、西壁は八段合
千葉県の龍角寺古墳群にあって最大なのは「墳丘長78mの浅間山古墳」という前方後円墳(第111号墳)なのですけれど、予め目を通した本であったか、何かしらのサイトであったか、近付く道がどうにもよろしく無いといった情報を見かけていて、「んじゃまあ、やめとくか…」と。その代わりに風土記の丘資料館の説明には目を通していたわけですが、規模が大きいだけあって石室もまた。これは資料館内に再現されておりましたよ。ところで、上の写真に見えますように資料館の展示解説では「前方後円墳から方墳へ」とな
東京都指定旧跡大塚古墳所在地あきる野市雨間232標識大正15年5月指定昭和30年3月28日秋留台地のほぼ中央に立地する本古墳は、昭和57年に行われた測量調査によって、一辺約33m、高さ約8mの規模を持つことが判明し、その形状から方墳の可能性が高いとされました。その後、平成5年の部分的な発掘調査では、周溝が確認されず、墳丘の盛土の特徴が古墳に通常に認められるものとは異なることが判明しました。この遺跡については、古墳とともに塚の可能性も考える必要があります。令和元年8
千葉県芝山町にある山田・宝馬古墳群、続きです。この日、訪れた古墳の順でアップしています↑芝山町と言えば、こちらの埴輪のモニュメントをあちらこちらで見かけます。↑上に載せた埴輪のモニュメント近く、山田・宝馬194号墳、東側より27メートル×28メートル、高さ3.2メートルの方墳。場所はこちら:35.717697,140.395616↑墓地になっています墳頂に登ってみようと思ってましたが、お参りされている方がいたので断念。山田・宝馬古墳群、明日も続
これまで解いてきた古代史の謎達に対する答え合わせをする時間がやってきました!小野小町から遡ってメソポタミアまで辿り着き、今度は各時代の解釈をやり直す事にしてみましょう!という事で、今日は「前方後円墳」について言及してみたいと思います。これは日本最大の仁徳天皇陵(大仙古墳)になりますが、○+□の組み合わせた形だと分かりますね。たぶん、この解釈の定説はまだ無いんじゃないかと思いますが、今日は定説になりそうな内容を語る事になるんじゃないかと思います。この前方後円墳が作られた時代を
数日後、成田の房総風土記の丘へ!車で資料館を目指していたら、道を間違えたらしく旧学習院の初等科正堂という洋館の駐車場へ出ました。Uターンしていると、何やら右側に古墳らしきものが……。入口に説明板が見えたので、車を停めて近くまで行ってみました。するとなんと方墳ではありませんか。それもふたつ。国の史跡です。形もきれい……😳埴輪のことばかり考えていてうっかりしていたのですが、そういえば芝山のはにわ博物館の壁にかかっていた〝日本の古墳〟のなかの〝方墳〟がこの岩屋古墳で
上の画像は昨年訪れた群馬県前橋市の愛宕山古墳。総社古墳群を構成する古墳の一つで7世紀の第二四半期に築造された一辺の長さ約56mの方墳です。横穴式石室には、くり抜き型の石棺が。ここまで手間を掛けたものは畿内でも少数だと思います。強い勢力の証でしょうね。🤔愛宕山古墳の次に作られたのが宝塔山古墳。↑一辺の長さ66mを測る方墳です。造営は7世紀中頃と考えられています。宝塔山古墳の見所は精緻な横穴式石室。律儀に加工された切り石の間に漆喰を塗布するとい
こんばんは。やぶです。つづきです。『隣町の白山神社へお参り』年明け早々、大地震やら航空機事故と今年も大変な年になりそうな予感ですね。被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。こんばんは。やぶです。新年一発目の…ameblo.jp白山神社をお参りした後は同じ平群町内にある、つぼりやまこふんツボリ山古墳うどづかこふん烏土塚古墳にしのみやこふん西宮古墳の三つの古墳を巡ります。全部同じ町内ですから道さえ間違え
千葉県君津市にある戸崎古墳群、続きです。↑今日アップする4基の位置関係がこれでわかります↑まずは戸崎12号墳直径20メートルちょっとの円墳があります。場所はこのあたり:35.319138,140.045122↑竹藪の中に入ると戸崎12号墳の墳丘がハッキリと確認できます。↑12号墳、角度を変えて↑続いて戸崎13号墳直径40メートル、高さ9.2メートルの円墳。かなり大きな墳丘がそこにある!というのがわかるのですが、竹藪がきつくて、
岐阜県土岐市の織部の里公園に、たくさんの美濃焼を生み出した元屋敷窯跡を訪ねた後、土岐市美濃陶磁歴史館を訪ねる前に寄り道をした…と申しましたですが、そも陶磁歴史館・織部の里公園方面へとえっちらおっちら坂を登っている途中でこのような看板を目にして気になったものですから。「もしかして、辺りに古墳があるのであるか?!」と。織部の里公園から歴史館への戻りしな、歴史館の裏側を巻いて行けばたどり着けそうな道標がまたあったものですから、ちとやきもの路線を中断して古墳の方へふらふらと…といった具合でして
今日アップするのは千葉県香取市岩部にある大塚古墳。旧栗源町史によると金の機足(はたあし)が埋められているという伝承があります。※金の機織機ってことですかね?白い大蛇の首を埋めたという伝承もあったりするそうです。↑大塚古墳直径70~80メートル、高さ10メートルほど。方墳という説がありますが、自然地形で古墳ではないという可能性が高いとも。場所はこちら:35.816256,140.511751↑大塚古墳の南東側、公会堂横から墳丘へ登る道があります
最近ずっと「ご先祖さま」のメッセージが来ているのでパン教室で一緒になった叔母に長いこと行っていないおじいちゃん方のお墓(そこにおじいちゃんはいない)に行こうと提案しようと思っていた。なのにすっかり他の話題に夢中になってしまい、私からその話題に触れるのを忘れてしまっていたすると、叔母の方からなんとひいおじいちゃんの話が出たのだった。これは、ひいおじいちゃんのお墓参り決定日程を決めようと妹と叔母の予定を聞いてみるとなんと丹波に住んでいる叔母と東京に住んでいる妹が
古墳紹介マンガ武者塚古墳7世紀中頃築造の終末期古墳です。方墳詳しくはマンガを読んでネ✨
福島県にある11基が現存している塚野目古墳群、続きです。国見八幡塚古墳(塚野目1号墳)と錦木塚古墳(塚野目4号墳)を見学後、見つけやすそうな古墳だけ探してみました。↑塚野目22号墳キレイにされてます。直径約10メートルの円墳。このあたり:37.861916,140.556013↑こちらは塚野目24号墳一辺約14メートルの方墳。24号墳もキレイにされてました。オマケ・・・・この日の昼ごはんは、道の駅「あつかしの郷」にて↑ねぎ塩
11月5日の吉野ケ里遺跡イベントに参加した翌日、福岡県久留米市の祇園山古墳に行ってきましたこの日は、なんと大雨&強風どうしても見たい古墳だったので行きましたが、大雨だし傘が壊れてしまったような強風の中、墳丘を愛でる私がいましたどうか指さして笑ってやってください普通は行かないと思います西鉄久留米駅からバスで紫山住宅前まで行き、そこから徒歩約10分東西23.7m、南北22.9m、高さ5mの方墳で、古墳時代前期の築造(現地看板の情報)看板が汚れていますが、墳頂の箱式石棺+墳裾にも62基
こんにちは。少し前に夫から、お出かけの誘いを受け楽しみにしていたのですが、なんだかお互いのお休みが重ならず、やっと揃ったお休みをもらいましたが夫氏、ほんのり風邪をひいていたりなんだりで近場へ。『悟りの窓』こんにちは。夫から『悟りの窓って知ってる?』『あと、四苦八苦の窓』わたしが知ってるのは、股間の社会の窓とジョハリの窓だけですが…❓京都のお寺に見にいきたいんだ…ameblo.jpなかなか京都&奈良には行けてません。わたしたちが今回、足を伸ばしたのは静岡県にある法多山尊永寺。夫は法多山
大田原市指定史跡侍塚古墳群昭和41年2月15日指定大田原市湯津上地内□1号墳前方後円墳全長約35~50m前方部が大きく削られている。墳丘上には葺石が認められ、円筒埴輪の破片も採集できる。平成11年(1999)に測量調査が行われたが、埋葬施設の確認はされていない。□2号墳円墳直径約17.5m墳頂部に地元の住民が管理する「山の神」と呼ばれる小祠がある。裾部が削られているものの、墳丘の残りは比較的良好。平成13年(2001)に測量調査が行われたが、葺石の有無・埋葬
高松天神山古墳(たかまつてんじんやまこふん)形:方墳1辺約30mの方墳?墳丘上に祠あり。(古墳マップhttps://kofun.infoより)住所:栃木県足利市高松町493特徴:道路で一部掘削され、反対側は私有地。撮影:2023年6月25日
埼玉県指定史跡塩古墳群所在地熊谷市塩塩古墳群は、滑川沖積地を望む比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布しています。この古墳群は、前方後方墳2基のほか、方墳26基、円墳8基が残されており、古墳時代前期(4世紀中葉~後半)の土器等の遺物が出土しています。主墳の2基はいずれも、前方後方墳で、北側の第1号墳は、全長約35m、高さは前方部で1.7m、後方部で5.9mを測り、長軸北20度西を示しています。南側の第2号墳は、全長約30m、高さは前方部で2.2m、後方部で5.5mを測ります