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松本市特別史跡~中山古墳群~中山15号古墳□所在地松本市中山埴原北(鍬形原)□所有者松本市□指定日昭和42年2月1日中山古墳群という名称は、旧中山村内にあったすべての古墳を指す通称でしたが、現在は中山霊園のある丘陵南麓の鍬形原・蟹堀・西越地籍と、隣接する坪ノ内・向畑地籍にある群集墳に限ったものとしても使われています。中山15号古墳は、鍬形原古墳群の内のひとつです。平成7・8年に実施した発掘調査以前は円墳とされていましたが、調査結果により、一辺の長さ20m、高さ5mの方墳であ
富士塚古墳形:方墳1辺10mの方墳。墳丘上に石碑あり。県選定重要遺跡(栢間古墳群)、1976(昭和51)年選定。参考資料:『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』埼玉県教育委員会1994年3月(古墳マップhttps://kofun.infoより)住所:埼玉県久喜市菖蒲町下栢間特徴:撮影:2023年5月28日
朝霞市柊塚古墳歴史広場かわいい形をした建物は、家形埴輪をモチーフにしたトイレです。車止めは円筒埴輪になってます柊塚古墳全長72mの前方後円墳後円部:径48m、高さ8m前方部:幅24m6世紀前半左が後円部、右が前方部。現在、前方部は大きく削られ、残存高は約2mです。北西から北から西から墳丘の周りには幅6~15mの周濠がめぐりますが、前方部前面で途切れることが
権現山古墳群史跡の森水子貝塚から新川岸川を北へ、権現山古墳群史跡の森があります。権現山古墳群新河岸川を見おろす標高20m前後の台地上古墳時代初頭の古墳群前方後方墳(権現山2号墳)1基と方墳11基”権現山古墳群史跡の森”は真ん中に道が通ってます。まずは左(南側)へ。3号墳9号墳?10号墳?と5号墳?真ん中を通る道を反対側から見た所。
瓢塚41号墳石室現在の成田ニュータウン内、加良部にあった古墳の石室です。この古墳は瓢塚古墳群48基のうちの一基で、開墾などにより削られていましたが、昭和45年5月に発掘調査した結果、東西辺17.2m、南北辺20mの方墳でした。この石室では、雲母片岩などの板石(18枚)を組合わせて、玄室と羨道がつくられ、副葬品として須恵器、直刀、鉄鏃などが納められていました。終末期古墳の埋葬施設の一例です。(現地、説明板より)住所:千葉県印旛郡栄町龍角寺1028特徴:房総風土記の丘資料館駐車
龍角寺108号墳石室県道成田安食線の建設工事にともない、昭和55年に発掘調査を行った古墳の石室です。この古墳は周溝外側で一辺約21mを測る方墳です。みそ岩屋古墳の北東側に位置し、岩屋古墳をはじめとする龍角寺古墳群の6基の終末期方墳(7世紀)の中の一基です。石室の石材は筑波山麓で産出される雲母片岩(通称「筑波石」)です。古墳の規模も石室の構造も瓢塚41号墳とよく似ています。(現地、説明板より)住所:千葉県印旛郡栄町龍角寺1028特徴:房総風土記の丘資料館駐車場に所在撮影:
北原1号墳(きたはらいちごうふん)形:方墳1辺13.5m・高さ2.5mの方墳。(古墳マップhttps://kofun.infoより)住所:茨城県稲敷郡阿見町吉原特徴:撮影:2023年4月23日
市指定史跡桜井古墳群上渋佐7号墳指定年月日平成12年(2000)2月1日所在地原町市上渋佐字原畑73外面積3,803㎡形状方墳(1辺27.5m、高さ3.3m)指定理由古墳時代前期の築造で、東北地方では出現期の大形の方墳であること、東北地方では出土例の少ない銅鏡が出土したことなどから、市の史跡に指定されました。(現地、説明板より)7号墳(市指定史跡)指定年月日平成12年(2000)2月1日指定面積3,803㎡遺構1辺27.5m・高さ3
山代二子塚の東側にある山代方墳へ。国指定史跡山代方墳山代方墳は、古墳時代後期末(6世紀末~7世紀前半)に築かれた大型方墳です。隣接する山代二子塚古墳や大庭鶏塚古墳などとともに「山代・大庭古墳群」と呼ばれ、島根県内では最大級の古墳群である。この古墳は山代二子塚古墳の次代の首長の墓と考えられている。墳形は方墳である。墳丘規模は、南北が43m、東西が45mで、2段につくられている。墳丘の周囲には幅14mの大規模な周溝がめぐり、さらにその外に周堤が存在した可能性がある。こうし
石屋古墳住宅街の坂をのぼっていくと石屋古墳があります。住宅団地の造成中に埴輪片が多数見つかり、古墳が発見されました。石屋古墳一辺40m、高さ7.5mの方墳二段築成葺石あり第1段の平坦面には、葺石の根石にそって円筒埴輪や朝顔形埴輪が隙間がないほど並べられていた東北辺と西南辺には、丘陵の尾根を切断した幅10mの空濠がある空濠を加えると南北は70mまた、北辺・南辺ともに造り出しがある
8月10日千葉県立「房総のむら」へ戻る。そして国内最大規模の方墳「岩屋古墳」へ。墳丘の横に2基の横穴石室。残念ながら中には入れない。それにしても見事な方墳。こんなに素晴らしい大きな方墳を間近で見るのは初めてかも知れない。こちらは隣の龍角寺104号墳。ここは岩屋古墳よりも古く造られた方墳と考えられている。いやそれにしても凄いです。古墳好きにはタマリマセン!
山梨県指定史跡竜塚古墳竜塚古墳は、5世紀前半に造られた方墳(四角い古墳)です。墳丘の大きさは、一辺約56mで、高さ7.4mあります。墳丘は幅約3mの平坦面(テラス)を挟んで二段に分かれています。上段は斜面全体が葺石で整然と覆われていますが、下段は土を盛り上げたままの状態でした。墳丘の周囲には幅約10mの周溝が廻っています。被葬者は木棺に入れられ、墳頂に掘られた長方形の墓抗の中に埋葬されました。遺物は墳頂や周溝の中から土師器が数点出土していますが、副葬品と考えられるものは見つかっていませ
高崎市指定史跡行人塚と芋うえ桜行人塚古墳は、7世紀前半頃(飛鳥時代)に造られた一辺約20m、高さ3mの方墳である。榛名山南東麓の扇状地を流れる井野川の支流天神川の左岸に立地する。墳丘に石を貼って装飾した葺石がみられるが、埴輪は確認されていない。7世紀の方墳としては、現在のところ高崎市域で唯一の事例である。埋葬施設は、墳丘南側に開口する自然石乱石積みの横穴式石室で、全長6.6m、玄室長4m、同幅1.6m、高さ1.8mの規模を有する。特徴的なのは玄室奥の一部が東に約1m広がる「L字形横穴式
高崎市指定史跡下芝谷ツ古墳(しもしばやつこふん)下芝谷ツ古墳は、昭和61年に調査された西暦500年前後(今から1500年前)に造られた一辺約20mの方墳です。二段に築成された墳丘は、下段が約4mの高さで、上半分は盛土で下半分は削り出し、その斜面は急角度に葺石で覆われている。冗談は石のみを積み上げた積石塚で、中央に竪穴式石室がある。上段と下段の間の平坦部には小石による石敷をし、埴輪円筒列が廻っている。本墳の様に盛土と積石とに分かれた墳丘の構造は、全国的にも稀有な例である。また、竪
箱式石棺出土場所舟塚山九号墳(石岡市北根本字東坂上681番)この石棺は、昭和51年の発掘調査によって発見された。石棺が発見された舟塚山九号墳は今から約1400年前のものと推定され、一辺約10mの方形をあらわした古墳で、周囲に幅1.5m、深さ60cmの溝をめぐらしている。石棺は扁平な板石を組み合わせた箱式石棺で、蓋石5枚、側石8枚、妻石2枚の計15枚で作られており、床石には15cmの小石を敷きならべている。石棺内部には、人骨2体が埋葬されており、初め1体を埋葬し、後にもう1体を埋
下依知土地区画整理事業地内遺跡下依知土地区画整理事業に伴う発掘調査は、昭和55年から平成元年まで断続的に9次にわたり行われました。事業地は、相模川と中津川に挟まれた中津川台地の先端部に近い東側の高位から中位にかけての河岸段丘面にあり、標高は30mから39m程です。事業地内には数多くの遺跡が発見されました。〇大久根遺跡(昭和58~61年調査)遺跡は縄文時代、弥生時代、古墳時代、平安時代、中世、近世の各時代に人々の生活が営まれた跡であることが分かり、日常生活の場である竪穴住居跡や生活道
6月に訪れた千葉県にある房総のむら。昔の町並みや農村を復元した巨大公園です!風土記の丘資料館もあり、園の内外に龍角寺古墳群のたくさんの古墳も!『千葉県立房総のむら!リアルな村でしたw』今朝はそこまで気温が上がらず久々にゆっくり目覚めたモーニングです関東で車中泊していて怖いなと思うのは竜巻や突風被害。昨日も茨城県で突風被害があったそう。大気が…ameblo.jp『龍角寺古墳群101号墳に綾小路さん?』梅雨前線がなかなか強力に列島上空にのたうちまわってヒヤヒヤする今日このごろ。今日
1月2日に訪れていたものの、イマイチな写真しか撮れなかったので、ブログのアップを見送っていた古墳です↑山見塚古墳(山見塚1号墳)ゴルフ場敷地内にあるため、フェンス越しにしか撮れません。現状、東西約30メートル、南北約35メートル、高さ約6メートルの方墳。古墳時代終末期築造。場所はこのあたり:35.448578,140.095276↑どうにか墳丘を撮影ゴルフ場の造成に伴い山見塚古墳を含め10基の方墳が確認されています。(他9基は現存せず)同じゴルフ場内には太田法師
公津原古墳群(千葉県指定史跡)平成2年3月16日指定現在の成田ニュータウンとなっている台地は、その昔“公津ケ原”とよばれ、たくさんの古墳があったことは広く知られていました。(江戸時代末期に出版された『利根川図志』に、公津の八十塚と記されている。)古墳の築造年代は、5世紀から7世紀代と考えられています。これは、昭和44年から46年に千葉県教育委員会が実施した、学術調査によって得られた成果をもとに推定したものです。この5世紀から7世紀という時期は、大和政権による東国支配の進められたころで
こんばんは。買い物ついでに古墳によりました。2代目大工の三島です。今日は嫁さんと2人でお買い物。デート先は可児市。でも買い物だけではちょっと寂しい。そんな事を思っていると「好きなとこ行っていいよ〜」と嫁さんの嬉しい一言。おお。ありがとう〜。そんなワケでちょっと寄り道。やって来たのは可児市の誇る(?)岐阜県史跡。いかつい見た目の次郎兵衛塚古墳です〜。うっひょ〜。すんごい見た目!要塞のようなドッシリ感だ。説明をフムフム。特徴は3つの石室。主室を真ん中に東と西。
詳細は不明。住所:栃木県足利市上渋垂町特徴:上渋垂諏訪神社社殿形状は方墳。撮影:2022年9月4日
寺前西古墳形:方墳全長7.5m、墳丘上に石造物や墓石が残る。参考資料:群馬県教育委員会『群馬県古墳総覧』2017年5月ほか(古墳マップhttps://kofun.infoより)住所:群馬県安中市磯部4-11-28特徴:撮影:2022年8月24日
真下神社古墳(ましもじんじゃこふん)形:方墳所在:安中市簗瀬字東原7008m四方の古墳。埋葬施設は不明。簗瀬二子塚古墳の陪塚だろうか。(古墳マップhttps://kofun.infoより)住所:群馬県安中市簗瀬701-2特徴:撮影:2022年8月24日
原市町11号墳形:方墳1辺18mの方墳。公園内に保存されている。(古墳マップhttps://kofun.infoより)住所:群馬県安中市原市特徴:八本木児童公園内撮影:2022年8月24日
さきたま古墳公園にある稲荷山古墳です。前方後円墳ですね。この写真は方墳のほうから。この写真は円墳の方から。
1月2日に訪れた千葉県市原市の古墳をアップします(この日は江子田古墳群31号墳を訪れてます)まずは「米沢の森第1駐車場」を目指したのですが、その直前・・・・↑古墳のようなものを発見場所はこちら:35.401102,140.150570「ちば情報マップ」によると細見塚(さいみつか)とありました。時代は「近世」とのこと。あらためて「米沢の森第1駐車場」に車を停めて境部田岱(さかいべただい)古墳群を目指します。↑こんな山道を歩くこと数分↑
最後に紹介する総社古墳群の墳丘は蛇穴山(じゃけつやま)古墳です。7世紀後半築造の一辺が約44mの方墳。愛宕山の55mから宝塔山の66mと拡大基調だった墳丘のサイズも古墳終末期には大幅に縮小します。各地で寺院が建立され始め古墳の役割が終焉を迎えようとする時期。為政者のカリスマ性の演出は寺院に取って代わられる事になる。🤔この頃になると構造は至ってシンプル。ただ工作精度は益々高くなるので古墳の質感レベルは上がっています。墳丘は二重の堀で囲まれており被葬者が‟やん
総社古墳群の続きです。愛宕山古墳から方墳の築造が始まり次の時代の宝塔山古墳も全長66mの方墳が作られました。時代は7世紀の中頃。こちらの古墳は良く整備されており保存状態も良好です。段築(3段築成)の痕跡が確認できます。😲蘇我氏の方墳を連想する佇まい。石室は二段目に入り口を設けています。これ(↑)が入り口です。門柱状の作りにご注目!入口の前庭に板状の石材がありました。何だろう、これ?😲ひょっとすると扉石じゃないのかなぁ?資料館でお尋ねしまし
二子山古墳の次はご近所の愛宕山古墳。ちなみに総社古墳群のネタは築造された順番にアップしております。こちらは7世紀前半の古墳です。畿内でも前方後円墳が姿を消す頃で愛宕山古墳は墳丘の長さ56mの方墳。蘇我氏の全盛期なのでやはり中央の影響を受けているのか?何度も言いますが、蘇我氏は方墳です。石室は開口部を南に向けます。入り口の天井石のデカい事!!😍玄室の長さは7メートルを超えます。石材は榛名山の角閃石安山岩で一部加工が施されているそうです。赤城山や榛名山