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最後に原田左之助の妻となった、まささんについても少し語っておきましょう。原田は、壬生から西本願寺の太鼓番屋へ引き移って間もなく、仏光寺の町人で菅原というものの娘まさ子を妻にもらって、本願寺筋釜屋町七条下るところに、小さな家を借りてここから隊へ通った。妻の里菅原は、由緒正しい家で、苗字帯刀御免であった。~『新選組遺聞』元治二年(慶応元年)三月十日ごろ、新選組は西本願寺北集会所に屯所を移転した。それからまもなく、二十六歳の左之助は仏光寺通堀川東入ル喜吉町の町人・菅原長兵衛(戸籍では清
「近代京都オーバーレイマップ」というサイトがあります。非常に便利なサイトで、現在の地図の上に昔の地図をかぶせて、しかも透かして見る事が出来るので、京都市の現在と過去の違いを比較するのにとても便利です。(こちら→近代京都オーバーレイマップ)このオーバーレイマップには・仮製地形図(明治25年)・正式地形図(大正元年)・京都市都市計画基本図(大正11年)・京都市明細図(昭和2年)・京都市都市計画基本図(昭和4年)・京都市都市計画基本図(昭和10年)・京都市明細図(昭和26年)・京
原田左之助夫妻の住まいに関する考察は、なかなかややこしいので、ここらでひとつ、色々調べているうちに気づいた事を。グーグルマップで古高俊太郎の生まれ故郷とされる、滋賀県守山市古高町を見てみたら、「山南」の文字が目に入ったのでビックリしました。…しかし、よく見るとそれは「守山南中学校」でした(笑)まあ、それはいいとして、なんで古高町が気になったかと言いますと岸島さんの妻女は江州三上山の在方の豪家の娘さんでしたが…~『新選組遺聞』(子母澤寛)「原田左之助」より「原田左之助未
古高俊太郎のことを、あと2,3回書いたあとに書こうと思っているものがあるんですが、まあ、結果は出ている話なので、チョチョッと調べれば終わるだろうと思ったら、全然・・・。悩みすぎて、おかげで古高俊太郎のことを書いてる暇がありません。本末転倒だ(笑)しかし、どうもわかりません。証言が矛盾しているというか、辻褄が合わない。まさか、証言してもらったものにまで自分で加筆してるんだろうか。まあ、当時はカセットテープもビデオカメラもないので、取材内容を自分で必至にメモしてただろうから、