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新撰組始末記には、新見の名は見えず、代わりに壬生浪士創設の一員として田中伊織という人物が記され、その最期について「近藤の意に応ぜざる事のあるをにらみ、闇殺す」としており、彼の変名とする説もある。大河ドラマ新選組では相島一之さんが演じました。新見錦とは局長、のち副長。芹沢の右腕的存在。学があるため、浪士組の上京後の清河八郎の朝廷への建白書の真意をつかみ、佐々木只三郎へ報告する。芹沢を理解し行動を共にしており、次第に組織内で顔が大きくなっていく近藤達を懸念して、芹沢と水戸派の地位を守る為
2004年に放送された大河ドラマ「新選組!」。あれから20年が経ち、ちょうど今年2024年は20周年記念イヤーなんですよね!!気がつくのが遅く今年も後半になってしまいましたが…新選組!2004年のNHK大河ドラマ第43作(Wikipedia)新選組!-Wikipediaja.m.wikipedia.orgこのドラマをきっかけに新選組にどハマりし、その残像を求めて各地各所を訪れるまでに発展したことは、当Blogの過去記事を読んだいただければ、よく分かると思います(笑)新選組および幕末
清河八郎が江戸で集めて京都に連れてきた「浪士隊」が、分裂騒動を起こし、水戸出身の芹沢鴨の率いる一派が「会津中将様御預」の肩書を得て、「新選組」の名前を貰います。この新選組は、最初「芹沢鴨」「新見錦」「近藤勇」の三人の局長がいました。新選組のトップがなぜ組頭ではないのか。この「局」ってのは何なのか、局ってのはツボネの意味だから、新撰組のなかが「芹沢局」「新見局」「近藤局」の三つに分かれていたのか、っていうと、べつにそういうわけでもないらしい。要するに当面は集団指導体制(トップを一人に決めな
「流行児近藤勇」の第四回目、芹沢殺害後の話。「應募當時新見錦の下についた一兵卒近藤がその隊長として秘蔵の名刀虎徹(その實は四谷正宗であったといふ事は有名なはなし)を伊達にはさゝぬ身分となった」浪士組(記事中では新徴組)として京に行く時に、近藤は新見の下にいたというのが前提ですからその「一兵卒」が隊長となったということですね。「新見」の読み方が、「しんみ」とルビがふられています。先日の講座でも少しお話したのですが、「にいみ」か「しんみ」か?理由は割愛しますが、私自身は「しんみ
昨日はよみうりカルチャー横浜の定期講座受講の皆さま、ありがとうございました。新選組の隊士名簿からの「編成」と、通説との相違点などを中心に「新見錦」についても考察してみました。またちょっとマニアックな水戸藩士たちのお墓もご紹介できました♪(Sさま、ありがとう)次回は9月12日(日)13時~「権東品vs汐海珠里」で「市村鉄之助は日野に来たのか来なかったのか」をテーマに、ディベートを行います。ご興味がございます方は、2名さままで「体験受講」できますので以下のアドレスにご連絡
文久三年八月十八日の政変で長州藩は京を追われる事になりましたが、それから間もない九月になって、西本願寺にある難題が持ち上がります。水戸藩士にして、桂小五郎の神道無念流練兵館時代からの朋友であった吉成勇太郎が、西本願寺に武道稽古場を建設して、同寺の家来たちに剣術を教えたいと持ちかけてきたのです。『逸見将曹(将監の誤り)等願書』文久三年九月(東京大学史料編纂所維新史料網要データベースより引用。以下同様)恐れながら願い申し上げ奉る口上書先日、書き取りをもって願い上げ奉り候、報国稽古
壬生浪士組がその後、新選組となって活躍する事になるのは今さら説明するまでもない話ですが、一方で藤本鉄石が在京浪士を中心に集めた浪士たちに関しては、史料がほぼ残っていないので、あるいは計画倒れになってしまったのではないか、募集はかけたものの、活動実態はなかったのではないか、と考えたりもしました。しかし、どうもそうではないのではないか、鉄石率いる「もう一つの浪士組」も壬生浪士組同様に活動していたのではないか、と思える史料がありました。『京都町触集成』文久三年松平肥後守殿御預浪士、市中昼
藤本鉄石と、彼が頭目に推される事になった、いわば“在京浪士組”に関して調べているうちに、ある事に気が付きました。それは吉成勇太郎の寓居に関する事です。吉成勇太郎は水戸藩士で神道無念流の剣客。新選組の芹沢鴨や新見錦ら「玉造勢」と近い人物であり、なおかつ長州の桂小五郎とは江戸練兵館の同門でした。特に新見錦の出自を探る上でのキーマンとなる人物なのではないかと目されています。その吉成勇太郎は、上洛当初長州藩の保護を受けていましたが、文久三年五月に備前岡山藩などの援助を受けて寓居を構えています。が
今日ははじめての京都に一人旅~*♬೨̣̥京都タワーとお洒落なつくりの京都駅まずは山陰本線に乗って京都駅~丹波口駅に大河ドラマ『新選組!』が好きでずっーと行きたかった壬生寺と壬生屯所となっていた八木家へ『新選組!』ではもちろん!相島一之さんが演じる新見錦が好きです近藤勇の胸像_。大河ドラマのOPにも出ていた狛犬たち。(昭和三十七年に焼失した旧本堂の大屋根に掲げられていた狛犬瓦。焼け跡から発見された。江戸時代から文化年間の初頭に制作されたと見られる。)
あれから一ヶ月…士魂Remember熱未だ冷めやらず…今日は朝からのんびりすごし…ちょっとリッチにロマンスカーに乗り可愛い新撰組のお供とおニューのカバンと小旅行💕人生初東村山~♪ここに行きました!東村山中央公民館そうです!この人…土方さん…士魂流水の会の師範野口尋生さんに会いに!士魂流水の会のお稽古見学へ。すると…田口さんという男性の方すごい迫力ある殺陣をされる方と、すらっと綺麗な女性…ん??見たことある!平山さんの愛しい人…吉栄さんだ💕めっちゃスタイ
みなさま、こんばんちゃ☆つばめですヾ(・Σ・●)わたくしめ、先日のGWに山口県へ旅行に行ってきましたーーー≡⊂(^-^)⊃今回はそのレポを書きたいと思いまする!※写真がたくさんあるので重いやも---------------------------まず向かったのは、防府市三田尻です٩(๑❛ᴗ❛๑)۶まずはここ↓『三田尻御茶屋(英雲荘)』へ!ここは萩藩の公館で、参勤交代や迎賓などに使用されていた、国指定史跡の建物です。幕末には三条実美などの七郷や、志士
新撰組のメンバーで好きなのは?みんな生命かけて生き抜いた人たちで一人に決められないよ!!▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう中学生の時は薄命の君の沖田さん高校生の時はすこし悪な斉藤さん大人の魅力の山南さん30過ぎて気になった芹沢さんに新見さん中学生から新撰組関係の本読みまくり当時高校生では珍しい卒論に「池田屋騒動は明治維新を早めたか否か」って作文用紙30枚ぐらい書いた記憶が…それでも最初から今でも一番は『土方歳三様♡』語らせたら何時間でも語ります
今日、2月27日は───☆◇◆◇新撰組の日◇◆◇です文久三年(1863年)2月27日に新撰組の前身である「浪士組」が結成された日*新撰組のメンバーで好きなのは相島一之さんが演じる~新見錦~新見錦役の~相島一之さん~▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
今日の記事テーマは「ブログ」にするか「新選組関連」にするか…迷いましたまずはこのニュース。壬生浪士幹部?の借用証発見同一人物説の新家粂太郎連署これはヤフーニュースの京都新聞発表の記事です。Tちゃん、教えてくれて、ありがとう(記事はこちら☆)それによりますと、今回見つかったのは、文久3(1863)年5月、三条通河原町東入ルの旅籠「万屋」での借用証。吉成勇太郎、新家粂太郎、今泉与一太郎の名が記されています。(京都府立総合資料館蔵)以前より、
こんばんは。台風27、28号。上陸はしなかったものの、各地での風雨の被害、心よりお見舞い申し上げますm(__)mさて、このブログ、我が愛する「新選組」の150年前の出来事を、辿るブログでございます。えそれにしては最近創作が多いってそうなんです事実のみのお伝えでは味気ないので・・・というか、いつの間にこういう形となってしまいました。ま、その辺は「そういう可能性がなきにしもあらず…」という感じで、お許し下さいさて、150年前の本日は、文久3年9月14日。前
こんばんは。箱根で温泉に入って、美人になった(ウソ・笑)珠里でございますお陰様で、のんびりゆったり、ほっこりして参りました気になるのは…食べ過ぎさて、150年前の本日は文久3年9月13日。十三夜でございます。風流にお月見という雰囲気ではない、屯所です…「…では芹沢先生、のち程」新見が頭を下げて出て行こうとした。「新見」「はい」「どうしても行くのか?」新見はふと皮肉っぽい笑みを浮かべた。「今更ですか、芹沢先生。まさか裏切るわけではありますまい」
こんばんは。今夜もご訪問、ありがとうございますm(__)m我が愛する「新選組」のちょうど150年前の出来事を、なるべく“分り易く(?)”お伝えしようというブログでございますが、(150年前の)本日、どうやら大坂にて治安維持に努めているようですなので、その間まったくの“創作”である小説「うめ第三(最終)章」をお届けいたします。お楽しみいただけたら、幸いでございます新選組外伝うめ第三章壬生の雨
こんばんは。今夜もご訪問、ありがとうございますm(__)m昨夜は失礼いたしましたσ(^_^;)何の説明も無しの写真だけの記事でした。舞台装置の写真が結構気に入ったのでアップにしてみましたら、余計な駄文は入れない方がいいかな、と。10日の、娘とのデートの日のものでございます最後の、おまけ☆写真は、連休に娘がナイトサファリに行った時に写したものです。本来であれば、その前の日の記事に付けたかった写真です。(もおちょっと早く見せろよと心の中だけで呟いた母です…)なんとな
こんばんは。一昨日、本当に久しぶりで美容院に行きまして、カラー、カット、ヘッドスパのフルコースをしてきましたチケットを割安購入したものですから、初めて行くお店です。会社を早退して電車で向かいました。ホームページには親切に改札を出てからの道が写真付きで掲載。しかも、降車駅から徒歩3分これは、迷子になりようがないでしょが、習い性ですね。予約時間30分前に駅に到着。で、階段を下って改札へ。ふむ。まずは南口方面へ進む、か。改札出る前にキョロキョロ。ん?東口と西口はあるけど、南はないぞ
八木家の母屋には、すでに芹沢・新見・勇・敬助の四人が揃っていた。歳三が軽く会釈をしながら部屋に入る。「遅くなった」「いや。隊務、ご苦労であった」神妙な顔で勇が言う。敬助も頷くように、顎を引いた。確かこの二人も一刻程前まで、外にいたはずだ。「今日は五人だけか」歳三が呟く言葉に新見が「長州の残党狩りとやらで、皆出払っているのでな」鋭い流し目を飛ばす。「わかっているんなら、新見副長にも出張って欲しいところなんですがね」「何っ!」いきり立つ新見を、芹沢が片手で制す。「
その決行の日を、壬生での礼相撲の夜に選んだのは、芹沢の意地かもしれなかった。八月十二日(9月24日)夜五つ(午後8時頃)町年寄り(町役人)のもとを訪れて、大和屋の蔵を焼き討ちする事を告げた。町内の者には、外出禁止の申し出をした。(余談ですが、新選組検定1級問題にありました(-"-;A)そして日付が変わった頃(この頃は暁をもって翌日としたので十二日としました)芹沢は大和屋庄三郎(仙之助とも)方に乱入。引き連れた隊士たちは、庄三郎の父・庄兵衛が交易で儲けた金で買い占めた絹糸や織
文久3年8月8日(1863年9月20日)-その頃、芹沢は毎日面白くなかった。佐々木愛次郎の事も耳にしていたが、たいしたことではない。新見が、佐伯がどうのと言っていたが、自分の預り知らぬ事だ。昨日から、相撲が始まっている。何が相撲だ。否、相撲はいい。だが、俺らは武士だ。なんで商人の真似をせねばならん!芹沢は、勇の困惑した顔を思い浮かべた。我らは今だ何の手柄も立てておらぬ。ただただ会津公におすがりするのは気がひける。今は我らが誠の武士になる為に資金がいるのだ
慶応4年5月晦日。沖田総司病死。剣に倒れることなく、ある意味、無敗であった総司さん。ですがこの日は、1868年7月19日。よって、また7月19日に、ご冥福をお祈りしたいと思います。私の個人的なこだわりですので、悪しからずご了承下さりませm(__)m時折(さすがに最近の書物では無くなりましたけれど)近藤さんの処刑が4月25日(旧歴)なので約ひと月後に沖田さんも逝ったと書いてあったりしますが、この年は、閏4月が入るので、約2か月後になります。暑い盛りだったのでしょ
昨日の続きです新八ちゃんが帰ってきたようで、歳さんは八木家の母屋に赴きます。「やあ、これは土方君に永倉君、何用ですかな?」声を掛けて、芹沢のいる部屋に入ると、新見が声を張り上げた歳三は、この男に自分と同じ‘におい'を感じ取っている。芹沢の右腕だ。「新見、せっかくお二方がいらしたのに失礼ぞ。さ、こちらへ来て過ごされよ。只今、席をおつくりいたす」今日は上機嫌らしい芹沢が、上座から手招きした。無論、酒が入っている。その言葉に、平山、平間、野口の三人が立ち上がった。「ありがとう
昨日は暴風雨でしたが被害は無かったでしょうか我が家の方は風はそうでもなかったのですが豪雨その為、土曜夜に行っているフィットネスクラブのLesson出られなかった150年前中山道をトコトコ歩いていた浪士隊の面々も雨風が強い時などはさぞや難儀だったことでしょうねぇさて源さんや総ちゃんの義兄・林太郎さん達、三番組の小頭であった新見錦さんについて、です。芹沢さんの片腕と呼ばれることの多い新見さんですがこれまた謎の人ですでも、芹沢さんとは水