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今回は「新発田重家の乱」を巡る2つの城について触れたいと思います。遡ること戦国時代。上杉謙信には実子がなく、自らの甥にあたる景勝、北条氏との同盟の証として送られてきた景虎の2人を養子としていました。ところが、世継ぎを事前に決めることなく1578年に謙信が死去。その直後から景勝と景虎の跡目争いが起き、越後を二分する「御館の乱」に発展していきます。現・新発田市を地盤とする揚北衆の新発田重家は、御館の乱で景勝方に組し、大きな功績をあげたものの、論功行賞で軽んじられ不満を持っていました。そ
ずっと気になっていた“新発田重家の乱”で危うく景勝サマまでもが討ち取られる〜😭💦という場面に陥った“放生橋の戦い”の現場に行ってきました!«法生橋»(“放と法”時代によって漢字違うのかな?)という地名は残っていますが大きな川も橋もなく新潟あるあるの田園風景がただ広がっています😁水田に必要な用水路の水が勢いよく流れています!たぶんこの辺に陣を置いたと思われる景勝サマ……💦💦💦ふと見上げると新発田軍の山城浦城から丸見えです😅この二つの山が新発田軍の城山浦
新潟県央にある三条市…三条城に行ってきました😁この城の歴史は古く平安時代まで遡ります。戦国時代では山吉景長さん→神余親綱さんが城主となっています。上杉家後継ぎ争いの〝御館の乱〟では一時は木場に移された元三条城主の山吉景長さんと共に景勝さん側に付きます〜と雰囲気を出しながら……神余さんは栃尾の本庄秀綱さんと共に上杉景虎さん方として参戦しています。景虎さんが自刃した後も抵抗していましたが落城後に自刃しています…。その後は甘粕景持さんが城主となり後に勃発する〝新発田重家の乱
最近何だか新発田重家さんが気になり始めています😄なのでゆかりのある五十公野城へも登城してきました!ちなみに…五十公野『いじみの』と読みます😌新発田家に生まれた重家さんですが少年時代に親戚の五十公野家を継ぐ為に養子となっています。その頃は〝五十公野治長〟と称していました😌新発田家を継いだお兄さんの長敦さんとは仲が良かったようで川中島の戦い、御館の乱…といつも一緒に戦い兄弟で大活躍を見せていました🙌✨そんなお兄さん…御館の乱では恩賞がほとんどなくかなりショックだったようです…
昨日に続きましてまた新発田に行ってきました😁👍実は~新発田城内には陸上自衛隊の駐屯地があるんです!その中に無料で入れる“白壁兵舎広報史料館”という建物があります(*´ω`*)無料とは思えないかなり見応えのある施設です😆💨フランス様式と和風城郭様式を組み合わせた兵舎移築して復元したそうです😊案内図⬆️ちなみに館内写真OKです📷️"前庭のヘリコプターは雪で埋もれていました😅この建物の2階から駐屯地の駐車場と新発田城の三階櫓が望めます!昨日より雪が積もったのでまるで
景勝さんの名前のあるお菓子はないのかな?と常日頃調べているのですが何故か「景勝清水」っていうのが出てきました!お菓子の名前かな?と期待したのですがそうではなく名水が涌き出る所みたいです😅きっと景勝地ってワードで上杉景勝さんは関係ないと思ったのですがまさかのゆかりアリアリのトコでした😆ここは新潟県新発田市の中でも山の中にある赤谷地域といわれるところです。上杉景勝さんが新発田氏攻略で赤谷城を攻める際、山の上から一望出来る龍泉寺の裏山に陣を張ったそうです
2024年の12月に新発田城へ行ったときの記録新発田城しばたじょう新潟県新発田市にあった城上杉謙信の家臣にして大名、新発田氏の居城上杉景勝に反乱を起こした新発田重家が有名新発田藩の藩庁が置かれ、また陸軍の駐屯地として明治まで運用されていた現在のものは明治期の資料を基に復元されたもの新発田重家上杉謙信の代から上杉家に仕え、川中島の戦いや関東出兵等に従軍上杉謙信の跡継ぎ争いである御館の乱では上杉景勝側につき、上杉景虎側の武将や乱に介入した伊達、芦名勢を退けるなど
天海(275)「政宗はかくも知らず、鷹狩をして居られけるが家中の者ども馳来り、この由を告ければ政宗大いに怒りて「父を虜にせられては政宗末代の恥辱なりとて、(中略)とにもかくにも、父を敵の手にかけ、うめきを見せた奉らんよりは我手に懸奉りて、義継諸共に打たんとて、二つ玉の鉄砲にて、「南無八幡大菩薩。」とぞ打にける。その玉あやまたず、義継が後より、父諸共に馬より逆様に打落す。」(「奥羽永慶軍記」)盛隆の後継は生後一月の亀王丸であった。このため亀王丸の母である彦姫が実質的な
天海(274)蘆名家は桓武平氏の流れをくむ三浦氏から発祥した一族である。三浦氏の支族であるから、家紋は「丸に三引両」であった。文治5年(1189年)に奥州合戦に従軍した佐原義連(三浦義明の七男)が会津4郡を与えられたことで、蘆名家は始まったという。蘆名盛氏は蘆名氏の最盛期の大名で京都扶持衆に名を連ね、「会津守護」を自称したという。しかし当初、奥羽地方では伊達稙宗が大きな勢力を持っていて、大崎家や最上家を影響下に置いていた。そこで盛氏も稙宗の娘を正室に迎え、両家の
2013年7月8日羽越本線平木田駅から新発田駅に移動しました。新発田城までは徒歩20分ですがタクシーを利用しました。堀部安兵衛武庸像や堀部安兵衛生誕處碑などが目につきます。堀部安兵衛武庸は赤穂藩士で忠臣蔵で有名な義士なのに、なぜ越後国新発田藩の土地に生誕地や銅像があるのか不思議でした。調べてみると武庸の生涯は波乱に満ちていました。武庸は越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門(200石)の長男として寛文10年(1670)に誕生しました。母は出産直後に亡くな
あっという間に5月の中旬、時が過ぎるのは本当に早いです。コロナ以降、仕事のストレスから過食と飲酒量の増加で体重増加や血圧上昇が著しく、健康に気をつけなきゃなと思う毎日です。さて今回は、現在の新潟県新潟市にあった城、蒲原津(かんばらのつ)城です。蒲原津城跡は、現在の金寶寺の境内あたりにあったといわれていて、新潟駅から新潟交通のバスに乗って、新光町バス停で下車すると徒歩8分くらいで行くことができます。また、移転先とされる蒲原神社にも、新潟駅万代口から徒歩10分くらいで行くことができます。新
沢海城から今度は新発田市内にある浦城へ。浦城は新発田城の南に位置し、新発田城の支城として機能していたようです。この墓地の所に車を停めて登って行きます。車でも登れそうな道があるので、道なりに進みます。道なりに行ったのは良いのですが…道が無い!😅一旦戻って周囲を調べてみたのですが、やはりここだけみたいです。意を決して薮に突入しました。すると、道が開けてました。さっきの所だけだったようです。主郭へ登る道がありました。取り敢えず周囲を見て回りました。小さいなが
どんなジャンルのブログが好み?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう知的でアカデミックなブログですね。ゲームとか食べ歩きとか、低俗な記事はあまり好みません。てことで…今ここ!有咲ちゃんゲット!燐子ちゃんゲットまでは頑張りますよ。そして、信長の野望ウォークのお話です。私はめんどくさがりなので武将の編成はコンピューターの自動編成にお任せしてるんですよね。きっと最適解を弾き出してくれてるでしょうから。ただ、そうするとなぜか、数多いるSSR武将を差し置いて…S
資料を追加したので、再UPしました。今回から新発田城の紹介です。第1回目はその歴史です。鎌倉時代鎌倉時代初期に佐々木盛綱の傍系の、新発田氏による築城と考えられています。佐々木盛綱は近江国佐々木庄を地盤とする、宇多源氏佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の三男として生まれ、16歳で伊豆国に流された、源頼朝の身辺に仕え、頼朝の挙兵に参加して武功を上げて、越後国加地に領地を得ました。佐々木盛綱銅像です。加地盛綱とも言われます。新発田氏系図です。加地氏の分家が新
今月31日は衆議院議員総選挙の投票日ということで、翌11月1日は世の中選挙結果の話題で持ちきりとなりそうですが、ニッポン城めぐりではその裏でひっそりと変更が行われます。8月に激闘が繰り広げられた合戦イベント、「第二次川中島の戦い」において、部隊長となった武将たちの中から以下の4人について、2021年11月1日に必要石高の変更を予定しています。本日はその告知です。新発田重家|中条藤資|武田義信|山本勘助同合戦の部隊長になったものの、上に記載のない武将については、石高に変更は
『はんぺいたまる』です。新発田市の、「福勝寺」へ行きました。曹洞宗の寺院で、南魚沼市の「雲洞庵」の末寺です。戦国時代の武将、「新発田重家」公の菩提寺で、山門前には銅像が建っています。上杉氏に反逆した、「新発田重家の乱」が有名ですね。「新発田重家」公の祠堂。自由に見学できる、「羅漢堂資料館」がありました。「本堂」です。このあたり(寺町通り)は、歩道の一部がお堀になっていて、鯉がたくさんいます。貫禄のある鯉を、撮りました。
3回連続となってしまい恐縮ですが、本日も合戦イベント「第二次川中島の戦い」の告知をさせてもらいますよ(´∀`)!!!今日は、気になる両軍の部隊長の発表です!第一次の際には、両軍8名ずつ、計16名という大所帯でしたが、この人数自体は、第二次も変わりありません。が、その顔ぶれは少々異なります。さっそく見てみましょう!以上の面々となっております!おっと、見慣れない顔が何人かいますね?まず、上杉軍。今回新たに部隊長として登場したのは、中条藤資と新発田重家。中条藤資は
御城印めぐりをしている私に嬉しい情報が聞けば白山神社、白山公園あたりに昔お城があったのだとか。これは是非とも御城印をいただきに行かねばと、さっそく行って来ました。【新潟城】城廓構造平城城主新発田重家天正9年(1581年)築城。その4年後の天正13年(1585年)、宮島三河守(上杉景勝の家臣)によって落城。このひょうたん池の奥のほうにお城があったといわれているみたいです。藤やツツジがキレイに咲き誇っていました公園は新緑の世界に御城印をいただきました。(ネットより)1
本日も令和3年3月3日に新潟白山神社で頂いた御朱印をご紹介致します。御朱印、ではなく「御城印」ですね。上杉景勝家臣の新発田重家は上杉謙信の死去後、天正9年(1581)新発田重家の乱を起こし新潟津を奪取、同年新潟城を築城しました。白山神社・白山公園付近にあったとされます。その後、景勝家臣の宮島三河守の計略によって天正13年(1585)に落城されました。遺構が残っていないため実際にその姿や跡を見ることは叶いませんが、御城印を通してこの地で起こった歴史に思いを馳せていただければ幸いで
もうすぐ2020年が終わってしまいますね。12月はなにかと忙しいです(;´・ω・`)そんな中、12月は記念日が目白押し今日はアメブロ始めて丸9年。(旧のりりんブログを含む)10年目に突入です。こんなに続くとは思わなかったそして14日は次男の17回目の誕生日🎉そしてあちらのお城アプリを始めて丸7年。これから8年生。もう一つ、赤穂浪士討ち入りの日です!ブログはボケるまで続けようかな更新しなくなったらボケたと思ってください(笑)さて、10月20日~22日の福島新潟遠征の続きです。
〖コロナ終息祈願!!〗⚫もう少しで終息するハズ!!もう少しみんなで頑張りましょう!⚫*ブログリニューアル*お待たせしました!やっとリニューアルメンテナンス完了し今ここに復活出来た事を自己満足に感動しております!これからも楽しいブログ作りに励み、世の中を明るく(大袈裟)していきながら、城めぐりを楽しみながら、寺社仏閣を参拝しながらその楽しみを皆さんと共に共有して行きたいと思います!第六傾奇王紋次郎《日焼け止め》〘楽天市場売上No.1〙楽天1位!累計販売3万本日焼け
【問題】五十公野家を継いでいた新発田重家が、新発田家に戻り家督を継いだのは、次のうちどの理由からか?【選択肢】父が戦死したため弟が病弱だったため兄が死去したため嫡男が出家したため【正解】兄が死去したため【解説】新発田重家は、はじめ五十公野(いじみの)家に入嗣し、五十公野治長を名乗っていたが、兄・長敦が病死したため、新発田家に戻って家督を相続した。
米倉城米倉城は、新発田重家本拠浦城に近接し、会津方面からの街道(近世米倉宿)を眼下に監視する。新発田重家が上杉景勝に反抗、割拠した際には、浦城防備のための重要な役割を担ったことであろう。遺構は、その緊迫感を伝え、堅固な普請が残る。米倉城実測図尾根先端209.2mを中核の指揮所(主郭・居住スペースとはし難い)とし、後背南東尾根に6本の堀切を入れ警戒している。3,4本目(北尾根堀切を一本目とカウント・水澤さんは東からカウントし記述しているもよう)は二重構造で、大規模である。北東下
竹俣城実測図(水澤幸一(2006)「越後国加地荘の城館(中)」より許可得て引用・加筆。以下測値は同書に拠る)後編・城域西部(Aと囲んだ関門よりも西)A(実城域への関門とした)から西部への接続部にも、崖に向かって掘り込んだ出入口を設け、切岸上からの監視下に堀底にまわり降りる導線が設定されている。前編で記載したAと分けたが、Aの前衛となる関門である。降りた堀は、南斜面に竪堀となるが、他の竪堀に比し、浅く短い。これは、南斜面から入る城道が接続していたと考える。堀底は西尾根とA関門側切
主要構造は本編で熱く書きましたが、北東尾根・郭③や南尾根はどうなってるんだ、北の支尾根にも堀切と竪堀があるぞ、と奇特にも思っておられる方もおられるかもしれないので、写真を補足します。北東尾根ここ加地城実測図(水澤幸一(2004)「越後国加地荘の城館(上)」より許可得て引用茶・地点明示に茶囲加筆・以下測地は同書に拠る)切岸下付随郭(三枚目写真)と東東尾根の間は堀切が設けられ、区画される。郭③も400㎡と長大なスペースを確保し城内居住が可能である。③北西には帯郭が付随
大学院の課程に専念すると宣言しておきながら、舌の根の乾かぬうちに加地城を書きます。加地城ここhttps://yahoo.jp/mRX6Yqこの城は、2011年5月(9年前)に馬念さんとはじめて行ったお城で、私にとって記念すべき城です。思えば私をこの道に引きずりこんだのは馬念さんで、そのスタートがこの城でした。当時にブログを書いているのですが、その頃の私の眼など節穴で、この城の凄さに全く気が付いていませんでした。それはそれで微笑ましいのでそのままにしておきますが、あらため
魚津城は、15世紀ごろに、山城である松倉城の支城として、椎名氏によって築城され、永禄12年(1569年)に、上杉謙信が椎名氏を攻略し、上杉氏支配の城となった。魚津は上杉氏の本領・越後国との国境近くにあり、上杉氏にとっては最後の防衛線である。そして、魚津が落ちれば、越後は敵の侵攻を食い止めることはできない。天正6年(1578年)、上杉謙信が死去。その直後から越後国内で勃発した「御館の乱」は、2年の長きにわたり上杉家は疲弊し、謙信公時代の勢力が衰えてしまう。このような状況を、天下統一を
七夕のお願いごとは何?#七夕2019をつけてブログを書くと!?あなたのブログに何かが起こる!詳細を見る七夕のお願い事ですか・・・。とりあえず、家族みんなが仲良く平和に生活できてればそれでいいですが、宝くじ高額当せんをお願いしておきますかね(笑)さて、久々の更新となりましたが、今回は現在の新潟県阿賀野市(旧北蒲原郡水原町)にあった城、水原(すいばら)城です。水原城で検索すると、韓国の水原(スウォン)市にある水原華城がヒットするんですが、さすがあちらは世界遺産だけあるなと・・・。そう
新潟県で数少ない近世城郭の一つ、新発田城に行ってきました。本丸表門と二の丸隅櫓(鉄砲櫓のあった位置に移設)は国の重要文化財として指定されており、新潟県唯一の現存建築物です。御三階櫓、辰巳櫓は復元されており、特筆すべきなのは、御三階櫓の屋根は日本全国で唯一T字型になっており、鯱もちゃんと3匹います。屋根瓦には溝口家の家紋が入っています。そして訪れた人がよく言うのは、「御三階櫓には入れないのか?」「駐屯地側から見れないのか?」まさしくその通りだと思います。防衛省と県、市との協定で通常
こんばんは競馬🏇は……もう軸馬が4着ってため息ですわさて城ブログは昨年行っていてブログに載せていない城について。今回は会津若松城。この時は新潟・山形遠征城巡りで京都から1泊2日で新発田城村上城鶴ケ岡城山形城上山城(失敗)改装工事中米沢城会津若松城向羽黒山城(失敗)松虫駆除中で入れずに計画したが…2城も(>_<)福島県の会津若松市にあります。京都から車🚗で行くのは苦労しました。【会津若松城】築城1384年蘆名直盛廃城1874年城郭梯郭式平山城