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義国神社青蓮寺から東へ少し行ったところ源義国ゆかりの地を訪ねたわけであるからここは是非とも行かねばなるまいと何やらあそこだ小さな祠あり確かに義国神社とある源義家の三男であり、立派なお侍の由緒あるその方であったある事件まではある事件『宮中に参内の途中、右大臣藤原実能の行列に会い、随身に無礼をとがめられたため、義国の郎等らはこれを恨み右大臣邸を焼き討ちした。このため、勅勘をこうむり、下野国足利の別業に蟄居を命ぜられた。』義国
岩松八幡宮御祭神は誉田別命創建は仁安年中(1166~1169)新田義重が京都大番のおり山城国男山より小松を持ち帰り、この地に植えて石清水八幡を勧請し岩松八幡宮と称した立派な鳥居である八幡宮は源氏の守護神として崇敬され、新田の庄各地に分霊が奉祀された。岩松八幡宮が新田の総鎮守と言われるようになったのは、南北朝以来新田の庄の実権が岩松氏に移ったことによると考えられる本殿彫刻が鳥ですね松
先日、月参りで新田義興公が祀られている新田神社を訪れると、境内に多くの人が集まっていました消防隊員の方もいらっしゃいましたたまたま訪れたら、イベントをやっていたのです相変わらず、新田神社との相性は、かなり良いみたいです私は家紋が新田本宗家と一緒なので、護りが必要な方を連れて、度々新田義興公にご挨拶に来ています巫女さんが舞を奉納した後、護摩焚きをするようでしたしばらくすると、護摩焚きが始まりました🔥※後ろ姿は私ではありません集まった参列者が先祖供養などの願いを書いた木札を投げ入れ
次に向かったのは、総持寺です。境内一帯が、新田の館だったそうです。山門六地蔵尊鐘楼堂本堂総持寺威徳山総持寺は群馬県太田市世良田町に境内を構えている寺院です。総持寺の創建は平安時代後期の仁安元年(1166)に新田氏の祖となった新田義重が開基したのが始まりと伝えられています。鎌倉時代を通して境内一帯が新田館だったとされ当寺も館之坊と称していました。その後一時荒廃しましたが鎌倉時代末期、新田義貞が再興し慶範を招いて中興開山し館の坊、真光寺(岩松八幡宮の別当寺)、清泉寺の
足利氏と新田氏(3)(対決の東国史3)Amazon(アマゾン)まずは、足利義兼の活躍。養和元年(1181)11月、源義経らと友に、遠江国への出陣を命じられる。元歴元年(1184)5月、源義仲の子、義高の残党が甲斐国、信濃国で蜂起。小笠原長清らと共に、甲斐国に出陣。鎮圧に当たる。源範頼に属して、平家追討のため、西国に出陣。翌年8月、平家追討の軍功により、上総国の国司(上総介)に任命される。文治5年(1189)7月、奥州藤原氏の追討のため、源頼朝に従い、陸奥国に出
治承4年(1180)8月17日、源頼朝が、伊豆で挙兵をします。この時の、新田義重、足利義兼の行動が、その後の、新田氏、足利氏の立場を、大きく決定づけることになります。足利氏と新田氏(3)(対決の東国史3)Amazon(アマゾン)11月12日、佐竹秀義を討って関東を支配下に置いた頼朝は、鎌倉に戻り、麾下の武士たちから「鎌倉の主」に推戴されます。この時、新造御亭に入る頼朝に供奉する武士の一人に足利義兼の名前があります。これが、足利義兼の初見史料で、すでに頼朝の側近の一人だっ
新田義貞と足利尊氏。かつて、この二人は、「武家の棟梁」を巡るライバルと言われていましたが、現在では、新田義貞は、足利尊氏を当主とする「足利一門」の末端に連なる一族の一人というのが定説です。つまり、二人の間には、圧倒的な格差があり、二人は、ライバルではなかったということ。さて、この「足利氏」「新田氏」の関係が、なぜ、このような状態になったのか。この本を基に、私見を交えて、解説します。足利氏と新田氏(3)(対決の東国史3)Amazon(アマゾン)足利氏の祖は、足利
源義重公騎馬像完成記念式典④令和6年8月3日(土)13時30分寄進者の里見治様新聞に掲載されました騎馬像です(*^.^*)by義重おじさん
源義重公騎馬像完成記念式典③令和6年8月3日(土)13時30分神事竹林宮司記念式典開会の辞・騎馬像経過報告の後、除幕式です主催者(寄進者)里見治群馬県知事山本一太様衆議院議員福田達夫様参議院議員清水真人様梶原製作所代表取締役社長梶原壽治様by義重おじさん
源義重公騎馬像完成記念式典②令和6年8月3日(土)13時30分(受付開始12時30分)遥か見下ろせる位置です一の大鳥居が見えます(*^.^*)歴代の武将の名前が(*^.^*)式典の司会者群馬TV看板アナ小此木佑香さん(*^.^*)式典の列席者(*^.^*)いよいよ式典がはじまります(*^.^*)by義重おじさん
源義重公騎馬像完成記念式典①令和6年8月3日(土)13時30分(受付開始12時30分)プロローグアトラクション賑やかに(*^.^*)群馬TVが入って9月29日に放送予定(*^.^*)by義重おじさん
源義重公騎馬像完成記念式典本日令和6年8月3日(土)13時30分(受付開始12時30分)群馬TVが入って後日放送されます(*^.^*)by群馬おじさん
源義重公騎馬像完成記念式典令和6年8月3日(土)13時30分(受付開始12時30分)群馬TVが入って後日放送されます(*^.^*)by群馬おじさん
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡群馬県太田市にある、新田義重公の四男で徳川氏始祖の義季公ゆかりの「長楽寺」に行ってきました。八幡太郎義家公のひ孫です。鐘楼本堂徳川義季公のお墓新田一族の供養塔新田家のお墓開山堂三仏堂忠霊塔太鼓門徳川氏のルーツと新田家の関係が良くわかるお寺でした。では、(*^-^*)ノ~~マタネー
上野国(こうずけのくに)八幡荘(やわたのしょう)市民活動センター(ソシアス)からの地域ガイド要請により、その準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう第42回新田義重公騎馬像「我こそは八幡太郎義家の嫡孫なり」源義重公は第五十六代晴和天皇の皇孫・源経基を祖とし、河内を拠点とする晴和源氏、源頼信(八幡八幡宮創建)、頼義、義家公の子、義国公の嫡男として、永久二年又は保元元年に生まれ、河内源氏重代の拠点である八幡荘を
上野国(こうずけのくに)八幡荘(やわたのしょう)市民活動センター(ソシアス)からの地域ガイド要請により、その準備のため、ここ上野国(こうずけのくに)と、私の地元の八幡荘(やわたのしょう)について、年代順に記述していってみよう第34回八幡八幡宮その25源義重公騎馬像完成記念式典源義重公は新田家初代で河内源氏重代の拠点である八幡荘や新田荘を拠点とし里見・山名・新田一世良田・得川・岩松等をはじめとする一族からは新田義貞公・山名宗全公・千利休大居士南総里見八犬伝で有名になった戦国大名
1,江戸時代の義貞さて、前回で新田義貞、義顕の後継まで行きましたが・・・さくさく現代までいかねばならないので、間の時代をざっくり飛ばします。室町幕府が潰え、織田、豊臣と経て、時代は江戸となりました。徳川家康は……大河ドラマが終わったばかりですが、家康は新田義重の末裔を名乗っています。そこ、大河ではどうなっていたっけ?これは「将軍になれるのは源氏だけ」「祖父の清康の代に『世良田』(新田一族)」を名乗った」「当初は加茂氏と源氏を併用」「三河守になるために「徳川(得川)三河守義季の
新田義重は、清和源氏新田流の祖。個人的に興味のある人物ですが、この「新田義重」をテーマにした一般向けの本は、恐らく、この本だけでしょう。新田義重―北関東の治承・寿永内乱(中世武士選書)Amazon(アマゾン)しかし、この本、内容的には、なかなか、難しく、ややこしい。なぜ、難しく、ややこしいのかと言えば、当時、「武士」の行動は、その武士が仕えている「貴族」の行動に、大きく左右されているから。その「貴族」たちの行動が、なかなか、複雑で、ややこしく、簡単に理解をすることが出来
新田義重の墓上野国の武将新田義重は、八幡太郎義家の孫。源頼朝が挙兵した時は、頼朝に対抗して軍兵を集めるなど鎌倉幕府創設に非協力的だったようです。そのため、新田氏は幕府での要職に就けなかったのだといわれているようです。ただ、八幡太郎に一番近い者として尊敬され、義重が亡くなって間もない時に蹴鞠をする源頼家を北条政子は「源氏の長老が亡くなって二十日も経っていないのに蹴鞠とは・・・」と叱責したのだとか。そして・・・徳川家康は義重を祖と称したのだといいます。
『吾妻鏡』によると・・・1180年(治承4年)12月22日、源頼朝は安達盛長に命じて新田義重を呼びつけます。その理由は、上野国の寺尾城に軍兵を集めているという噂があったため。鎌倉にも入れず山内(現在の北鎌倉)に止め置かれた義重は、「頼朝様に敵対する気持ちはありませんが、各地で戦争が起こっている中、安易に城を出てはいけないと家人らに諌められましたので、躊躇しておりましたら、この命令を受けて大変恐縮しております」と弁明したのだといいます。これを盛長が特に強調して取次いだので、許されたのだ
満徳寺は、徳川義季が創建した尼寺。義季は、新田氏の祖新田義重の子で徳川氏の祖とされています。そのため、江戸時代には鎌倉の東慶寺とともに徳川家康から縁切寺として認められました。明治になって東慶寺は男僧の寺として再興されましたが、満徳寺は廃寺となりました。現在は、本堂・門などが復元され、遺跡公園として整備されています。満徳寺☆☆☆☆☆2022年の大河ドラマ
大光院は、徳川家康が新田義重の追善のため、増上寺で修行を積んだ呑龍に開かせた寺。義重は、河内源氏・源義国の嫡子で上野国新田荘を本拠とした武将。家康は義重の子孫といわれています。大光院は、開山の呑龍が捨て子や貧しい家の子を弟子という名目で寺に受け入れ育てたことから、「子育て呑龍」・「呑龍様」と呼ばれて親しまれています。大光院源頼朝も祀られている!☆☆☆☆☆2022年の大河ドラマ
世良田東照宮は、徳川三代将軍家光が日光東照宮の旧社殿を移築して創建されたのだといいます。この場所は、新田氏の祖義重の館跡。新田義重は源義国の嫡子(源義家の孫)。足利氏の祖義康は異母弟。鎌倉御家人として仕えていましたが、源頼朝の挙兵に非協力的であったことから、足利氏と比べるとその地位は低かったようです。義重の四男義季は徳川氏の祖といわれています。世良田東照宮源頼朝も祀られている!☆☆☆☆☆2022年の大河ドラマ
法要のお手伝いで大光院に伺った。群馬県太田市にある。慶長十八年(1613)、徳川家康公が創建された寺である。新田義重氏を追善するためだ。義重氏は家康公の祖先である。本堂、庫裏は創建当時の趣を残している。瓦屋根、梁、柱、板戸など、たしかにもの凄い重厚さである。初代住職、つまり開山上人は吞龍上人だ。吞龍上人は貧しい家の子供たちを寺で育てていた。当時、幕府は寺に三百石の米を与えていた。そのお米をもとに寝食を共にされていたそうだ。今でも「
中世日本史を扱う際最も説明が困難な事項として取りざたされるのが荘園。1970年代までのマルクス主義歴史学の影響もさることながら、同時代の西欧の仕組みを日本に適用しようとした結果、政用とは成り立ちの異なる日本の制度が誤った捉えられ方をすることもありました。「中世の西欧は農奴社会だったから、日本の同時代の荘園で農耕に従事している人々は土地に縛られた農奴だったに違いない」といった思い込みが生まれるという弊害もありました。本書は、現在の歴史学の水準による荘園の歴史を一定程度網羅しています
新田義重が京都の賀茂神社を久安年間に勧請して創建されたのがはじまりと伝わる堀口の賀茂神社。奉納舞の獅子舞が有名で毎年11月14日の夜に社前で行われる。鳥居拝殿御祭神:賀茂別雷命本殿本殿は彫刻が素晴しい境内の石祠・庚申塔・境内社など
新田荘の総鎮守の岩松八幡宮は新田義重が京都大番の時に山城の男山より小さな松を持帰ってこの地に植え石清水の八幡さまを仁安年間に勧請し創建した神社水盤参道狛犬鳥居拝殿御祭神:誉田別命社殿本殿摂社:新田神社衢立岐大神
土曜日、ジョギングに出かけました🏃中山峠を北へ、高崎市街地方面へ向かいます🏃♂️おやっ!いつも走っているコースですが、杉に囲まれた場所に、「新田義重墓所」の道しるべがあります。新田義重?!なんか、凄そうな人のようですとりあえず、立ち寄ることに。ジョギングのよいところは、小さな発見、探検ができるところです。細い路地も山道も気が向けば何処へでも行けます🏃♀️おおっ!階段です🙃🏃♂️走ります‼️駆け上がると・・・おっ、山門の奥は、お墓かと思ったら、お寺でした!お寺は「
「鎌倉史話探訪武家社会の葛藤の謎」御所見直好著大和書房1990年発行こんばんは~先日紹介した本の続きです。全部で12章ありますが。Ⅱ頼朝は運につかれた男Ⅲ初めての余裕Ⅳ東大寺の再建供養会Ⅴ春日大社の巨大なだ太鼓Ⅵ清盛の轍を踏む政略と親馬鹿Ⅶ頼朝の女ぐせⅧ頼朝の男あつかいⅨ笹竜胆は鎌倉源氏の家紋に非ずⅩ不明な義朝・政子・実朝らの墳墓ⅩⅠ広元・忠久