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会津若松市のシンボル鶴ヶ城に立ち寄った🏯鶴ヶ城は室町時代の初め、今から約630年前の至徳元年(1384)に葦名直盛が東黒川館として造営したのが始まりとされています。お城といっても当時は天守はなく、館程度でした。その後、伊達政宗が城主となったあとは、蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、七層の天守を築きました。江戸時代に入り、会津で大地震が発生。被害を受けた天守は大改修され、現在と同じ五層の天守となりました。幕末の戊辰戦争では新政府軍の猛攻に耐え難攻不落の名城と称えられましたが明治7年、政府の命
先日まで投稿してきました「模擬天守」シリーズで、「長岡城」を掲載した時に、ある方から、幕末から戊辰戦争で関わったお城をやって欲しいとのコメントをいただきました。私が訪城してきたお城の中には東北地方各所の近世城郭が結構あるのに、今まであまり紹介してきたことがなかったことから、それでは切り口を「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」軍を結成した東北と北越各藩のお城を取りあげシリーズ化しようと思いました。そこで、付け焼刃的なのですが、「奥羽越列藩同盟」について、少し勉強をしようとネット内の
新選組の鬼の副長として恐れられた土方歳三。ところが、近藤勇の死後、北へ向かう土方は、兵士に慕われ続けたという。鬼か?仏か?その後の新選組・土方歳三の実像に迫る。「鳥羽伏見の戦い」以降、薩摩・長州を主軸とする新政府軍に負け続けた旧幕府軍。そんな中、旧幕府軍が初めて新政府軍に勝利したのが、土方歳三率いる「宇都宮城の戦い」である。関東の名城・宇都宮城をわずか1日で攻め落とした。土方の知られざる戦略にスポットをあてる。彼は、その勢いのまま、北へ向かう。奥羽越列藩同
戊辰戦争の日光決戦で敗れた旧幕府軍は日光から会津方面に向かって会津での決戦に賭けます。それをおうように新政府軍も追随していきます。その一方新政府軍は北陸から会津方面に向かいますが長岡で足止めを食らいます。長岡藩は河井継之助が陣頭指揮を執り中立路線を保っていました。小千谷で新政府軍と談判しましたが話は決裂し長岡は奥羽列藩同盟に組します。北信越と東北と両方で砲火が鳴り響きます。新潟県の小千谷市には河井継之助を中心にした司馬遼太郎氏が書いた小説峠の文学碑があります。写真と動画は新潟県小千谷市に
ちゃんしげブログにお越し頂きありがとうございます😃🙏今日は【日本の至るところに潜んでいる一神教】に繋がるお話になります🙇幕末〜明治時代の歴史について恥ずかしいくらい勉強不足だった自分学校の授業でも習っているはずなんですが全く記憶にないのです寝てたのかな?w倒幕して政権を握った新政府軍をスーパーヒーロー扱いする本も出ていますしテレビドラマや映画でも新政府軍を華々しく🌸扱っているものも多々あります逆に明治維新は間違いだった。あれは侵略テロリスト集団であった。という本やブログもあ
こんにちは。ひでおです。今日も棚倉城からお届けします。棚倉城は別名『亀ヶ城』と言われており、現在も城跡には亀ヶ城公園があります。なぜ、亀なのか?城の周りのお堀に大きな亀が出没する的なことが書かれているサイトを見たりしていましたが、有力な説に遭遇!慶応4年(1868年)、戊辰戦争で落城するまでの240余年、8家16代の城主交代があり、お堀に住む大亀が水面に浮かぶと決まってお殿様が転封されたということから、別名「亀ケ城」ともいわれています。転封=国替え国
こんにちは。ひでおです。昨日に引き続き、棚倉城のお話。棚倉城は1868年6月24日に1日で落城・焼失したそうですが、その原因はやはり戊辰戦争です。関東と東北の境目として、親藩・譜代の大名が治めていた棚倉藩。戊辰戦争の際、会津にいた藩主・阿部正静(あべまさきよ)に代わって、家老・阿部内膳(あべないぜん)が守っていました。慶応4(1868)4月に始まった白河口の戦いで、内膳は十六人組の隊長として活躍。「仙台烏に十六ささげなけりゃ官軍高枕」と新政府軍に恐れられました。「仙台烏」
こんにちは。ひでおです。今日も涼しいですね。訳があって、棚倉藩に夢中です。いろいろ調べまくってます。Wikipedia立花宗茂の後を受けて元和8年(1622年)に棚倉藩に5万石で入封した丹羽長重は、それまでの山地の城を避け棚倉盆地の中央にあった都都古別神社を遷宮し、その跡地に江戸幕府の許可を得て棚倉城を寛永2年に築城した。長重は寛永4年(1627年)に白河藩に移封され、諸大名の転封を繰り返した後、最終的には慶応2年(1866年)に阿部正静が6万石で入
宇都宮戦線で敗れた旧幕府軍は徳川幕府のご本尊の東照宮を目指しますが両者の合意で日光東照宮では戦を避けました。そこで戦場になったのが日光街道今市です。ここでは新政府軍の板垣退助らの活躍で旧幕府軍が敗れ次の会津方面へと下っていきます。これによって新政府軍がこちらからも会津方面に進路がとれ会津方面の進路が東西南とできあがり優位な状況になったのでないでしょうか!大崎バックグランドなおアルバムや映像等は「大崎バックグランド」内の【戊辰戦争銃痕跡日光街道】を参照願います。
今日は、鬼の新選組副長の土方歳三が箱館戦争で戦死した日。土方歳三は、幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷共和国陸軍奉行並。諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。明治2年(1869年)5月11日(6月20日)、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭の防衛戦で戦死。享年
今日は、鬼の新選組副長の土方歳三が箱館戦争で戦死した日。土方歳三は、幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷共和国陸軍奉行並。諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。明治2年(1869年)5月11日(6月20日)、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭の防衛戦で戦死。享年34
タイトルの前に^^)今日は、本当は田植えをする予定でしたが、あいにくの雨^^;)明日リベンジをしたいと思います^^)↓それから、今日の晩御飯は「はま寿司」の「特上5種の海鮮丼」を買ってきました^^)↓ブログを書き終えたら、食べたいと思います^^)それではタイトルに戻ります^^)岐阜駅から、電車に乗って「関が原」を通過したんですけど、時間が無くて、またいつか行きたいと思います^^)関が原を通過してやって来たのがここ、「岐阜県大垣市」です^^)さっそく、「
新政府軍は小山の戦い後旧幕府軍が徳川家康をまつる日光へと退くのを追いかけ奥州街道と日光街道の追分のある宇都宮で攻防が始まります。宇都宮藩は新政府軍に組していましたが大鳥圭介や新撰組副隊長の土方歳三等の活躍で一時的に幕府軍が占領しましたがその後新政府軍の猛攻に遭い落城し新政府軍の手に渡ります。旧幕府軍は日光に向け日光街道を敗走し日光今市近郊での決戦に望みをかけます。大崎バックグランドなおアルバムや映像等は「大崎バックグランド」内の【戊辰戦争栃木県宇都宮市】を参照願います。
『JIN-仁-完結編』最終話再放送「最終章後編完結〜時空の果て…150年の愛と命の物語が起こす奇跡のタイムスリップの結末」新政府軍が江戸へ上り、「彰義隊」を名乗る旧政府軍は反旗を翻す機会を伺っていた。一方、恭太郎(小出恵介)は勝海舟(小日向文世)からフランス留学を推薦され…。
大軍都・東京を歩く(朝日新書)Amazon(アマゾン)468〜4,723円明治維新後に江戸の町の4割を占めていた大名屋敷は取り壊されて空き地となり、新政府軍がそのまとまった面積を活用して多くを軍用地に転用します。都心部に練兵場や弾薬庫、射撃場がひしめき合って展開する光景はさぞかし異様で、まさに「軍都」の呈だったと思われます。その後、都心の発展に伴いそうした軍事施設は郊外に移転し、跡地は再開発されますが、一部は司令部や別な施設に転用されて残存します。例えば尾張徳川家の上屋敷
今宵も「爺ィの夜話」をどうぞ!第133話は・・今日5月31日は土方歳三の誕生日。1835年5月31日(天保6年5月5日)武蔵国多摩郡石田村(現・東京都日野市石田)に農家の土方義諄(隼人)と恵津の間に生まれました。長じて、新撰組副長として、又、蝦夷共和国の幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねました。そして明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立。歳三は救出のためわずかな兵を率いて
会津藩の武家に生まれた柴五郎さんの遺書です。旧幕府軍、新政府軍の間で勃発した戊辰戦争により、著者が10歳の時に新政府軍が会津藩に攻め込みました。結果として、城下町は焼き払われ、城内に籠城していた会津藩の人々は捕虜となります。その中で、城下町の自分の家にいた祖母、母、姉、妹が自害をします。たまたま柴五郎さんは山間の親戚宅に出かけており無事でしたが、その事実を知って深く悲しみ、また家を出かける時の何気ない家族との挨拶が最後となったことを悔やみました。その後、新政府軍の捕虜とな
「Webで函館散歩」6回目は~箱館戦争・兵たちの足跡~その2です。(画像は過去に撮影したものです)※一部資料除く明治2年5月11日(新暦1869年6月20日)、侵攻を続ける新政府軍は、別途箱館山裏手より上陸、奇襲攻撃で箱館山を占領、西部地区を次々に制圧した。このとき、土方歳三は一本木関門付近にて新政府軍の銃弾に倒れる。敗走を続ける旧幕府軍に対し、12日(新暦6月21日)には五稜郭に向けて新政府軍による艦砲射撃が箱館港からはじまる。ついには16日(新暦6月25日)、中島三郎助は2
行きたい観光地、常にトップグループに入る街、函館。一番人気は「夜景」ですが、「五稜郭」も魅力スポットの一つです。5月~6月は「戊辰戦争」終戦の地として、例年五稜郭を中心に観光客がたくさん見えられます。今年は新型コロナの影響で、ゆかりの地を巡ることは出来ないかもしれませんが、Web上で「兵たちの足跡」を辿ってみます!「Webで函館散歩」5回目は「戊辰戦争」の最後の戦いとなった「箱館戦争」ゆかりの地巡り、~箱館戦争・兵たちの足跡~その1です。(画像は過去に撮影したものです)
上野の西郷さん像を後にしてその先に歩いていくと幕末好きの方は知っていると思いますが彰義隊の墓あるんです。相方は興味ないのでサッサと歩いていってしまったので急いでに納めました。誰も尋ねることなく何故かひっそり建っています。皆近道する為に目の前を横切って行きます。存在がないように。江戸幕府15代将軍徳川慶喜は大政奉還後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ立ち戻ったんです。というよりは逃げ帰ったんですね。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたんだそうですが、慶喜の一
『江戸の備忘録』ー磯田道史●西郷を動かした和歌1868年、徳川幕府が倒れたあと、新政府軍は江戸城総攻撃のかまえをみせた。このままでは江戸は火の海になる。人が死ぬ。土壇場になって、西郷隆盛と勝海舟が会談し、この両雄が講和をまとめて、間一髪、江戸の町を救った。今のところ、世間では、この話が通用しているが、私は江戸を救ったのは、ある一女性の、まともな感覚ではなかったかと思っている。新政府軍が江戸攻めに出発したころ、指揮官たる西郷のもとに突然、一枚の短冊が届いた。三条大橋で直接手渡された
谷中根津千駄木の散策Part6。寛永寺から上野公園へ。上野大仏、清水観音堂、彰義隊の墓、西郷隆盛銅像へ行きました。上野合格大仏は、ご本尊は釈迦如来だそうです。幾多の難を乗り越えた「上野大仏」寛永8年(1631)に越後村上藩主・堀直寄によって建立されたのがはじまり。その後、正保4年(1647)の正保相模の地震(しょうほうさがみのじしん)により一度目の倒壊。万治3年(1660)に無事再建された。天保12年(1841)の火事。安政2年(1855
今日がGW最終日ですが・・・いつもながら、GW・お盆・正月の長期休みはあっという間ですねぇ明日から仕事だと思うと憂鬱です。比較的好天続きだったGWですが、今日は雲天で小雨が降る生憎な天気でしたまぁせっかくなので郡山市と猪苗代町をつなぐ母成峠まで散策に出かけましたここは1868年(慶応四年)の戊辰戦争において新政府軍と反政府勢力による合戦が起こった場所。当時の戦況図は以下の通り白河口の戦いで白河小峰城を奪取した新政府軍は奥羽街道を北上し二本松城も陥落させます。この時
コロナ禍めぐる対立説得で最適解へ導け毎日新聞政治史の目的の一つは、ある争点をめぐり、政治主体(プレーヤー)が織りなす対立・連携を描くことにある。この間テレビやネットを眺めていて強く印象に残ったのは、...(みちのものがたり)北のシルクロード北海道松前藩の切り札「蝦夷錦」朝日新聞雲間から陽光が降り注ぐ。滅びた者、帰らぬ者の懐かしさが胸をつく。あの男はどんな思いを抱いて、この北の海を航海したのだろう。のちに松前藩初代…因縁のある二つの市/栃木毎日新聞一方の大田原藩
∂峠上・中・下司馬遼太郎峠(上巻)改版(新潮文庫)[司馬遼太郎]825円楽天峠(中巻)改版(新潮文庫)[司馬遼太郎]869円楽天峠(下巻)改版(新潮文庫)[司馬遼太郎]737円楽天∂「長岡という小藩にうまれたことは継之助にとって不幸であったが、長岡という小藩にとっても継之助を生んだことは不幸であった。継之助は、長岡藩という藩に対し、分不相応の芝居をさせようとした」(下巻347頁)河井継之助は