ブログ記事18件
1991年11月某日駆け足など大分下士官訓練に慣れて来たところで、今日は15キロメートルのフル装備の駆け足の日だった。背嚢には毛布を詰めたりしたのだが、重過ぎず軽過ぎず8キロの重さにするのに苦労した。なにしろ連隊のスポーツ係が秤を持って背嚢の重さをスタート前に測るという事でみんな緊張した。走るコースは、連隊の裏を流れるCanalduMidi(ミディ・運河)であった。7・5キロメートル走ってU・ターンしてくれば15キロという事だった。僕ら小隊の
1991年7月6日(土)新兵が脱走。名前は書いていない。カステルノダリーの駅で隣の小隊のラニエー伍長と見張に着く。カステルノダリーの駅の側のカフェに陣取る。何も収穫なし。ラニエー伍長は僕と同じく第6外人工兵連隊のこれも同じ第3中隊出身で気心が知れていたのでこの監視任務は気が楽であった。1991年7月7日(日)朝に「今度はお前ら、ツールーズの駅で見張れ!」と言われたのでラニエー伍長と2人でツールーズの駅ま
1991年6月9日(日)夕方から夜通し行軍に出発した。夜通し歩くという事は軍曹達も知らされておらず、22時ごろ、どうやら夜通しになるのじゃないかと軍曹が言ったので覚悟を決めた。地図を見せてもらうと、キャンプしているテント村はかなりの距離があった。明け方になりやっとテント村に着く。その日は休みではなくこれから射撃場へ向かうという事だ。89ミリ対戦車ロケット砲の縮小射撃装置を使っての射撃という事だ。ロケット弾は値段が高いので縮小射撃装置を使ってロケットよ
1991年5月20日(土)小隊はCM2(CertificatMilitaire2Dégré基本軍事訓練第2段階=小隊長の基礎訓練)の支援という事で、管理者養成訓練中隊の訓練場まで出発した。この資格は下士官専用の訓練で、これを取得しないと軍曹から上級軍曹になる事は出来ないと言われていた。また、1度目で落ちても3回まで受ける事が出来るというものであった。これを落とすと昇級は出来ない。勤務評定が非常に良くて資格取得前に上級軍曹になったものも数人いるけれ
1991年5月4日(土)〜5月12日(日)特に記述なし。1991年5月13日(月)連隊が管理しているフランス南西部にあるCamuracという村にある保養施設まで連隊のバスで向かった。小隊はちゃんとケピを受領したし、新兵訓練ご苦労様という感じでこの保養施設で比較的楽な日程で一週間ほどゆっくり出来るといういわゆるご褒美的なところでゆっくりするのだ。ただ小隊には46名ほど新兵がいるので、携帯用簡易ベッドを居室
1991年5月2日(木)給料は、小銭を除いて中尉が全て集めた。各自の口座へ入れるのだ。そうする事によって盗難などの問題にならないようにするのだ。それに、連隊に配属になってから新兵は何かと物を購入する必要があるので新兵訓練期間の給料はほとんど貯金に回される。それに新兵たちは勝手に酒保には行くことは出来ない。金の使い道が無いのだ。集金の後、すぐに中尉に呼ばれた。まず。僕の勤務態度を褒め、禁止事項を守らなかったこと
1991年4月28日(日)朝からの雨降りに関わらず小隊対抗のスポーツ大会を行った。僕はバレーボールのチームを率いていて、なんと優勝してしまった。昼過ぎ、訓練所に戻って撤収の準備をした。カステルノダリーにある連隊まで戻りカメロン記念日の準備がまだたくさん残っていたので忙しかった。うちの小隊は、ケピ・ブランのための長距離行軍を完歩していなかったけれど、雨や雪の中頑張ったという事で、ケピ・ブランを授与出来るという事だった。1991年4月29日(月)
1991年4月15日(月)いつも通り。新兵たちを滞りなく教室間を移動させたり食事をさせたりと忙しい。新しい小隊には2人の日本人新兵がいた。コウイチとカワムラだった。コウイチは、英語風に申告したので名前と名字が逆であった。ただ僕が日本人というのはわかっていたけれど、日中はほとんど日本語は話さないので2人は戸惑っている様であった。当たり前だが、外人部隊と言ってもフランスの普通の軍隊の一部である。命令など全てフランス語だ。同国人と言っても僕は容赦しなかった。
1991年4月15日(月)いつも通り。1991年4月16日(火)朝4時に起きて洗濯のためにカステルノダリーの街中の基地へ向かった。僕しか免許を持っていなかったし、日番伍長では無かったので僕が運転した。どういう訳か二日酔い気味で、運転するのが大変だった・・・。1991年4月17日〜4月23日記載なし。1991年4月24日(水)MarcheK
1991年4月6日(木)早速アイルランド人のケニーが脱走した。近場を軍曹達と探したが結局見つからず・・・。1991年4月7日(金)雑用でダンジョー基地へ向かう。1991年4月8日(月)中隊の武器の総点検。1991年4月9日(火)訓練所のラ・ジャッスへ戻る。1991年4月10日(水)
1991年2月28日(木)、3月1日(金)新兵各自の装備品の返却、給料。1991年3月2日(土)日番伍長に就く。10名の親兵が何かしらの物品を無くしたりして中尉から報告書を出すように命令が下った。午前中から取り掛かったにもかかわらず、10人のうち2人しかフランス語を書ける奴がいなくて、全て終わったのが明け方の4時近くだった。その日は警衛が入っているのに・・・。1991年3月3日(日)
1990年2月23日(土)午前4時ごろに、小高い丘の上辺りに到着。すぐに横になり朝7時起床。教育期間最後の長距離行軍がスタートだ。ただ歩き出した訳ではなかった。いきなり崖をロープ降下するというところから長距離行軍は始まった。僕は2等兵の頃、コマンド訓練コースで色々なロープ降下のやり方を覚えたので、新兵達はハーネスをつけてカラビナを付けてと忙しそうだったが、僕はハーネス無しのやり方を知っていたし、8の字リング無しのやり方も知っていた。背嚢を背負っていてバ
1990年2月17日(日)朝から小雨で寒い。午後に演習地であるCaylus(ケイルス、フランス南西部)へ出発するので午前中はまぁまぁゆっくりとしていた。僕らはいつも通りのトラックではなくバスに乗り出発。以前来た時のように演習場の基地の中に泊まるのだと思っていたら基地の外れであった。一応建物の中に泊まる事ができるので少し安心したが、電気が通っていないので酷い事になりそうだ・・・。1990年2月18日(月)
1990年2月8日(金)午前中は中尉の授業。午後は8キロTAP(8キロの距離を小銃、ヘルメット、背嚢などフル装備で走る)をやったが、疲れていて体がバラバラになりそうであった。伍長である自分は単に戦闘服で新兵達に付いて走るだけだったけれど、連日の寝不足と警衛明けだったので余計に疲れたのだった・・・。1990年2月9日(土)小隊はさまざまな勤務。この日は僕は何も勤務は無かった。おまけに日番伍長も終わりやっと
1990年2月5日(火)午前中はパルクール・ド・コンバッタン、その後は中尉のフランス語の授業。午後は射撃。武器手入れが長引き夜の21時ごろまでかかった。非常に草臥れたが、新兵訓練伍長なのでそんな事は言っていられない・・・。1990年2月6日(水)一日中新兵達は教室で授業だった。明日はガード24H(警衛)だ。伍長として、そしてここ第4外人連隊でガードにつくのは初めてだ。原隊と違うのできついだろう・・・。夜
日番伍長とは日番とついているけれど、1週間新兵達を監督する。朝は起床が5時なので、その前に起きて洗面、髭剃り、そして戦闘服を着てケピを被り起床に備えるので、日番伍長の時は朝4時半か4時に起きていた。点呼票は週番軍曹によって点呼表を週番室へもっていくだけで良い場合もあるけれど、軍曹によっては中隊広場に中隊整列もあって、その時は点呼10分前ぐらいには整列していなくてはならない。なので、入隊したての新兵達ばかりだと集合に時間がかかる場合がある。まだ民間人のような新兵達は大変である。フランス語を理解し
1990年2月1日(金)小隊が演習から戻ってきたので午前中はFA-MASの手入れ。伍長ともなると、軍曹が点検する前に一応各銃を見てきちんと手入れされたか点検しなくてはならない。もう今は僕が手入れの具合を点検するのだ。どんな軍隊でもまず銃口内はきちんと掃除して綺麗に手入れをしなくてはならない。外人部隊では尚更点検が厳しい。すでに新兵訓練の4ヶ月のうち3ヶ月が終わろうとしているのにまともな手入れが出来ていないので何度もやり直しをさせた。1990年2月
1990年1月26日(土)午前中は、街の中の基地の洗濯物を扱うところに行き小隊の洗濯物を洗う。と言ってもデカい洗濯機の中へまとめて入れるので何もやる事はない。まだ正式に伍長の階級章をもらった訳では無いけれど、今ではCaporal(カポラル=伍長)と呼ばれるようになり、新兵を指導するようになった。彼ら新兵を見ていると僕の新兵時代を思い出し「僕も以前はこんなだったんだなぁ・・・」と何だか不思議な笑みが溢れるのであ