ブログ記事6件
いつも永倉のブログを読んでいただき誠にありがとうございます。あるブロガーさんから『永倉さん、歴史苦手なんで教えて下さい。諸士調役兼監察の読み方と意味がわからないです。』と言うメールをいただきました。そこで、永倉がアンサーしますね毎度おなじみの永倉隊長の解説諸士調役兼監察諸士調役は
北越戦争に従軍した佐久間恪二郎(三浦啓之助)は、翌明治二年に松代藩への帰参が叶い、更に翌明治三年二月には、佐久間家の家名再興がようやく認められることになりました。『松代藩士久保三郎日記』(明治三年二月二十三日。原文読み下し)左の通り被命これ有り。佐久間恪二郎亡父修理義、先年京地において殺害致され家断絶に及び候ところ、先祖より数代奉仕の内には武芸出精の者もこれ有り、その上、修理文武厚く心がけ、ことに西洋砲術伝習、未だ世間に稀なる時に当たり、ひとり奮って原書につき研究し
『壬生浪士始末記』(西村兼文)によれば、慶応二年九月十二日夜、浅野薫は斥候役として、橋本会助とともに乞食に扮して三条大橋の下にいたといいます。そして新井忠雄率いる12人は橋の西詰の北側、高瀬川東入るところの酒屋に、原田左之助率いる12人は同じく橋の西詰の南側、先斗町の町会所に、大石鍬次郎ら10人は橋の東詰に待機していたところ、子の刻(午後11~午前1時)に、それぞれ身軽な出で立ちの土佐藩士たちが鴨川の河原を南から上って来て、浅野らの前を通って制札場にのぼって行き、くだんの制札を引き抜こうと
京に還った赤報隊は、最初の駐屯地因幡薬師から転陣し、本満寺(二番隊)と本禅寺(三番隊)に分宿したと思われますが、この間に、総長綾小路俊実卿による、隊士の再面接があったようです。「その時に当たって貴様、これまで何をしておったと言うと、あるいは女郎屋でございましたとか、私、髪結い所でありましたと言う者があったのであるから、百五十人も調べると(綾小路卿は)口を押さえて笑われて、あとは調べぬで皆暇をやって、取るところのある者だけを残して、それは寺町今出川上ル本満寺というがある。その所に屯所しまして
久しぶりの幕末でございます150年前の本日は、慶応3年5月11日。この日、新井忠雄さんが大宰府に赴き、新選組からの分離の報告を致しました。五月十一日、荒井俊蔵宰来る。上国情実を達す。此度は幕を離れ、御陵衛士と唱え候也。同夜、帰京之為宰を出。御陵衛士常州伊藤摂津相州加納鷲雄同三木和泉郡山橋本堅助米藩秦河内川越内海二郎奥州阿部信二郎江戸藤野平助同荒井俊蔵同斎藤一同毛内有之助〆泉涌
幕末でございます150年前の本日は慶応3年3月20日。この日、カッシーたち御陵衛士は、新選組屯所を出て三条城安寺に移りました十九日周旋。二十日三条城安寺に引移る。(九州行道中記)前日に何とか話がついたようですねあ、でもこの城安寺は一泊だけ翌日にはまた移転しているのですが、何があったの、カッシー何ゆえの一泊なのでしょうか。話が喰い違ったのかなぁ…何か問題があったのかなぁ…だって一泊だけだったら、屯所にいたっていいじゃないですか。それとも15
幕末です150年前の本日は、慶応3年3月13日。この日カッシーは両長に分離策を談じ、了承されました。十三日夜壬生を訪ひ、分離策を談ず。意の如し。十四日三条別館周旋。十五日大久保主膳、野村左、分策を講ず、亦意の如し。(九州行道中記)これ、なんで壬生なんだろう…どこか、「特別な場所」でもあったのでしょうか。八木さん家?前川さん家?それとも勇さんの休息所?(あくまでも歳様の、ではない設定・笑)たぶんこの「九州道中記」というのは、リアル
150年前の本日は慶応3年3月12日。この日、カッシーと新井忠雄さんが、帰京致しました十二日、昼、淀川を船にて上京、同志に面会雑談。(九州行道中記)前日に大坂に着いたカッシーたち、この日に帰隊致しました。で、「同志」と話し合いをしたようですね。あの「涙の別れ」から、2ヶ月弱。きっとまた「涙の再会」だったのかもしれません一昨夜、昨夜と書いたように、この時既に「御陵衛士」を拝命していたのかどうか、私は微妙なところだと思うのです。カッシーはきっとこの
幕末です。150年前の本日は、慶応3年2月29日。この日カッシーは、大隅守から300両を受け取りました。二十九日金三百両隅州より請取る。(九州行道中記)これね、よくわからない。。。前回、日田を出立して22日に新井さんと再会したカッシー。翌日には塚(柄)崎に泊まって、温泉に入ったりしてます。で、ここで新井さんは体調を崩していたようで「病篤し」と書かれているのです。25日には長崎に到着したようで、それから10日間滞在します。26日に、長崎奉行能瀬大隅守を
昨夜に引き続きの幕末です150年前の本日は、慶応3年2月20日。この日、九州遊説中のカッシーは、足止めされていた日田を出発いたしました。十七日二子道を別けて出立、我のみ一人旅店に在りて窪田治部に面会を乞ふ。同人殊に嫌疑強く、廿日まで当所に滞在、内海多次郎殿帰るに逢ひて氷解、出立の事を計る。(九州行道中記)これだけ読むとよくわからないと思うのですが、先日もちょっと書きましたように、新井さん、寺田さんと一緒の大宰府を出たカッシー。「日田」というところで、
連休中はとても暖かく、桜の開花が…なんて言ってたのに、今日は冷たい雨となった横浜ですけれど、東京都心では、開花宣言がなされたようですね先日から、ちょいと風邪気味ですが、元気にジムは行ってます昨日は祭日プログラムで、新しいレッスンにチャレンジしてきましたさて、幕末です150年前の本日は、慶応3年2月16日。この日、「孝明天皇」との諡号が決定されました。一大行天皇御諡号、被称孝明天皇旨宣下候。御一列へも可被示伝候也。二月十六日(中山忠能日記)
幕末です150年前の本日は、慶応3年1月22日。この日カッシー達は豊後国佐賀関港に到着致しました。廿二日晩又々出で、九ツ時豊後国佐賀関港に着、夫れより小船四艘にて鶴崎に向かって行く、港口引潮にて船入ること叶わず、三人は途中より上陸鶴崎に着、永井ぬしは夜五更頃に同所に着。(九州行道中記)冒頭の「晩又々出で」という事の説明をしますね。この前々日の20日に出航した事は先日書きました。(その時の記事はこちら☆)「波風の荒き世なれば~」という句。これ
本題に入る前に…昨日あさくら先生の講座終了後、先生と少しお話させて頂きました。その中で、前回の講座のブログ記事内で私、佐々井さんのお名前を間違えていたのを、教えて頂きましたすみませんっm(__)m「佐々井半十郎」さんです私、「半次郎」と書いたのが2ヵ所ありました。(記事は訂正してあります)もう、本当に申し訳ないです先生は笑って下さっておりましたがもし今後、何か気が付かれた方がおられましたらビシビシと叱ってやって下さいませm(__)mで
2562新井忠雄墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)酔いどれJohnny2562新井忠雄墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)-新井忠雄(あらいただお、天保6年2月7日(1835年3月5日)-明治24年(1891年)2月15日)は、幕末の新選...2572初代・平尾賛平墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)酔いどれJohnny2572初代・平尾賛平墓(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)-初代・平尾賛平(ひらおさんぺい)弘化3年~明治30年1月31日(1
朝起きたら、やっぱり雪いや、降ってるのは雨っぽい感じでしたが積もってる!!天気予報、当たりました転ばないように、ゆっくり近くの駅まで歩き地下鉄で出勤おお~、さぶっ私は地下鉄だから大丈夫でしたがアチコチで電車が止まり、大変だった様子。ツレも会社までそうとう時間がかかったようです。積雪の多い地方の皆様からしたら「こんくらいじゃ、ね!」と、言われそうなくらいの雪でしたが首都圏は雪に弱いですね今夜と明日朝の凍結が怖いっさて、幕末です150年前の本日は慶応元
御陵衛士が慶応3年8月に出した長州寛典の建白書・・・新撰組本では、よく、伊東・齋藤・藤堂・三樹の4名が提出したとされてます。『中山忠能履歴史料』には確かにその4名しか名前がのってません。でも、絶対変だと思ってました。なんでその4名なの?って。家伝には「同志の輩と談合して」ってあるし・・・。家伝には、でも、建言書はのってるけれど差出人の名前は省かれていて詳細は不明。で、本日、遅まきながら「近世史料」「新聞書」(大日本史料稿本)に彼らの建白書がのっていることを確認しました・・・その差出人