ブログ記事27件
この日のメインは「油壺」。せっかく三浦半島の横須賀に行くなら。少し足を伸ばして、三浦半島の西南にある「油壺」に行ってみたいと思ったわたし。とはいえ、2024年頃に水族館や温泉施設が閉業となり、何もなくなってしまった油壺。そんなところに、個人的な趣味でかみさんに、行きたいんだと言うのも悪いかな、と思っていたんだけど。かみさんも、実は「油壺」という地名がずっと気になっていたとのこと。では、何も無いけど行くか。ということになった。わたしは1998年頃に、司馬遼太郎の「箱根の坂」を読んで以
トップページ都道府県別索引へ神奈川県の索引へ新井城は三浦半島の真ん中あたりから西、小網代湾と油壺湾の間に突き出た半島の先端のほうを占めていた城で、源平合戦のころからの名族、三浦氏が終焉を迎えた城として知られる。三浦氏時代には町中の三崎城と一体だったとも。城域の広い範囲が東大付属の臨海実験所となっていて入ることが出来ない。また少し前まで京急油壺マリンパークがあり、訪問日現在で水族館などの建物解体工事中。築城時期ははっきりしないらしい。一族内での争いから明応三年(1494年)に三浦義同
三浦義意は相模三浦氏最後の当主で、義同(道寸)はその父になる。そもそも三浦氏は鎌倉幕府で北条氏と権力を二分する有力御家人だったが、北条氏によって一度は滅ぼされ、傍流の佐原氏が三浦姓に復して再興していた。しかし、戦国時代となり伊豆から興った後北条氏に攻め込まれ、最後は新井城に籠城して滅亡した。三浦氏は北条氏により2度滅ぼされたことになる。墓は新井城のあった三浦市三崎町小網代にある。
新井城を訪れた時の記録三崎城があっさりしていたので、追加で新井城を訪れてみる。新井城は三浦氏の居城、三崎城も三浦氏の居城どっちが本拠地やねん新井城とは神奈川県三浦市に昔あった城相模三浦氏の居城北条早雲の攻撃を受けた三浦氏は徐々に追い詰められていき、最後に新井城で3年にわたる籠城戦を展開最終的に落城し、当主の三浦道寸含め、城内の人たちは全滅した北条早雲が接収した後は、千葉の里見氏に対する備えとして運用された豊臣の小田原征伐後に廃城となる相模三浦氏相模国
新しい年を迎えられ、謹んでお慶び申し上げます。元旦から能登半島地震、二日には航空機事故と多難な幕開けとなった令和六年ですが、今年もお付き合いの程よろしくお願いいたします。毎年恒例となりました元旦散策、今回は三崎をめぐり三浦一族所縁の地を訪ねる旅となりました。下地図の行程で24km、約42,000歩の道のりで三浦市をくるっと回った感じです。※大変長~い投稿になってしまいました。御用とお急ぎでない方はお付き合いください。m(__)m京浜急行の三浦海岸駅を06:3
第13代三崎臨海実験所長で東京大学動物学名誉教授の森澤正昭著『東京大学三崎臨海実験所〜その歴史と未来へ向けて』。我ら地元の誇りである「三崎臨海実験所」は、世界でも最も歴史の古い臨海実験所のひとつとして日本における生物学の発展に大いに貢献してきました。近代日本の幕開けから現在にいたるその歩みを丁寧に振り返りながら、今後の海洋生物学研究・教育拠点としての実験所の展望を示します。装丁がとても素晴らしくイラストが良くできていて、ジャケ買いもされそうです。「東京大学三崎臨海実験所は、20
※こちらの記事は、平成30年2月16日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は新シリーズ「各合戦の動員人数について」の3回目で「新井(あらい)城の戦い」についてです。今回も『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の新井英生氏の記事を参考にしています。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。今までの記事第1弾江古田原沼袋合戦第2弾権現山の戦い「新井城の戦い」はどんな戦いかというと…伊豆(いず)を平定し、小田原(おだわら)城を
《令和5年11月17日更新》※こちらの記事は、令和2年9月1日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第27弾として、以前言及した「新井(あらい)城の戦い」について、ビジネス的視点で見直していこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。新井城の戦いの動員人数について知りたい方は、下記リンクをタップしてください:「各合戦の動員人数について(3)新井城の戦い」関連記事:三浦関連記事:鶴岡八幡宮を味わう(3)―源平池とゆか
今日は、本編のホームページに、新井城の登城記をアップしました。本編のホームページはこちらです:http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html新井城は三浦半島先端に近い半島の西側にある油壷湾と小網代湾との間の岬状の高台にあったお城です。鎌倉幕府の有力御家人だった三浦氏の居城の一つでした。三浦氏は1247年(宝知元年)に、北条氏によって滅ぼされますが、三浦盛時によって再興されました。1494年(明応3年)に、三浦氏の当主・三浦時高の後継争いが起
早朝ランで、湘南国際村を西行して相模湾に達し、そこから北行して横須賀市秋谷から葉山町の長者ヶ崎に至りました。その手前の海岸線を「大崩(おおくずれ)・浜田海岸」と言います。戦国時代の1512年、相模国の支配権をめぐって争っていた小田原の北条早雲と、三浦義同(みうらよしあつ/三浦道寸)の軍勢が戦った古戦場でもあります。この地で大敗した三浦軍は、現在の三浦市の油壺にあった居城・新井城に籠城のすえ、1516年に滅亡しました。リゾートホテル「音羽の森」が、改装工事をしていました。海と青空
新井城址(神奈川県史跡)-神奈川県三浦市三崎町小網代-新井城址は神奈川県三浦市にある城跡で、相模三浦氏の居城でした。小網代湾と油壺湾に挟まれた岬状の台地で、岬の先端は現在油壷マリンパークとなっており、過去に凄惨な籠城戦があった城跡だったことは想像することもできません。三浦氏は相模国三浦郡を本拠地とする武士団で、古くから源氏との結びつきが強く、鎌倉幕府では有力御家人でしたが、その勢力が執権北条家を凌ぐほどになったため、宝治元年(1247)の宝治合戦で北条氏と安達景盛らによって滅ぼされました。
9月16日、三浦市の新井城を訪問。新井城は鎌倉時代~戦国時代にかけて、油壷にあった城。荒井城とも表記するらしい。京急油壺マリンパークの前からスタート。三浦氏の城ではあるが、元祖の三浦市の築城ではないらしい。鎌倉時代の1247年、鎌倉幕府執権・北条時頼が三浦一族を滅ぼした際に、三浦一族の一派である佐原氏は北条氏に加担して生き残る。その佐原氏が新たに三浦氏と名乗り居城(築城?)したのが新井城。そして時は過ぎ、新井城は三浦氏内の紛争で勝ち上がった三浦義同(よしあつ
新井城は三浦義同(道寸)・義意親子の最期の地であり、それにより相模の名族・三浦氏が事実上滅亡した地でもあります。三浦道寸はもともと扇谷上杉氏の出身で三浦家に養子として迎えられながら、養父に実子が出来たので関係がぎくしゃくし、やがて実力で三浦氏当主の座を奪取したという、名門にして実力派の豪勇です。そんな道寸を現在の伊勢原市にあった岡崎城から新井城へと追い詰めたのが伊勢盛時(北条早雲)。伊勢氏はおよそ3年もの年月をかけて三浦氏を弱体化させ、永正13(1516)年には道寸親子を討ち果たします。三浦氏の
新井城の戦いと諸磯神明社〈小桜姫神社〉1516年、北条早雲公は相模の三浦氏を滅ぼします。三浦氏最後の抵抗拠点、新井城は三方が海に面した天然の要害であり、3年間に渡ってよく北条氏の攻撃を凌いでいましたが、1516年に落城し三浦道寸公は7月11日に自刃しました。道寸公の辞世の句「うつものも討たるる者もかはらけよくだけて後はもとのつちくれ」から目前に迫った死と諦観の思いを感じるのは私だけでしょうか?新井城落城から74年後の1590年に豊臣氏によって北条氏は滅びますが、北条家第4代当主が切腹
こんばんはお久しぶりです私のこと覚えてくれていますか?えっ!?覚えてない?ボケました?読者様に毒づくな先日、近畿なのか東海なのか微妙な地域のお住まいの超エロの女性からメッセージが来ましたとある人が誕生日なのでとある人?神奈川県人の・・・しんちゃんいやしんちゃんの誕生日いつか知らないしまぁ以前は祭りとかやっていましたがもう、やらないのでともかく知った以上これくらいやってあげようカリン
新井城『別名』小網代城『所在地』神奈川県三浦市三崎町1024『城主』三浦氏、後北条氏『遺構』曲輪、土塁、堀跡『城郭形態』海城『駐車場』あり(有料)『歴史』新井城は三浦氏によって築城されたと言われています。永正年間(1504〜1521)に三浦道寸と北条早雲が対立し岡崎城が北条早雲によって落城すると三浦道寸の嫡男・三浦義意の居城・新井城で3年に渡り籠城しましたが、永正13(1516)に落城し三浦氏は滅亡しました。油壺荒井浜海岸油壺湾油壺湾解説板土塁空堀
今日の、一夜城マルシェブログは!チョー久しぶりに、城攻め!!先日お休み頂いた時に、三浦半島で城攻めしてきたので、その様子ですよ。今回の城攻めは↓↓↓コチラ!三浦半島の名城!新井城です(^^)/おっと!最近読者になってくれた方々には、???となってる事でしょう!なので、説明しておこう(^○^)/『城攻め』とは、車や自転車、公共交通機関、又は徒歩等で、城跡を見て廻り本丸(天守)を見学する!事を言う!!(自分ルールをユルくした(笑)では、城攻めの開始ですよ。先ずは、駐車場に
本日、北海道の大雪山系旭岳で初冠雪し8年連続富士山を抑えて日本最速だそうです数日前から一気に気温下がり、夜に買い物するとエアコンの設定夏のままの店とか半袖だと寒いです(^^;秋分の日もすぎ夕方6時には真っ暗ですマグロで有名な三浦半島訪問アップします6月は雨が多くニュースで東京の晴れた日は1日だけでこの日も曇ってますがふらっと出かけるのに、三浦半島未訪問なんで行ってみます滝好きになる前は半島や岬は旅先に組み込んでたのでそういう所は結構行ってますが、まだなんで気になってました三浦半島にも
今回はほぼオンタイムネタでまいります。登城は3月21日(土)でしたので、私的にはかなりオンタイムです。今回は神奈川県三浦市にある新井城跡です。神奈川県在住となり6年ほどになるはずですが、意外と神奈川県の城巡りは以前に行っていたところが多くてあまり行っていませんでした。新井城跡は随分前から行ってみたかったのですが、同じ神奈川県と言っても東京に出る方がかなり近く、また相当な渋滞を避けられないルートのため、なかなか行けませんでした。三浦半島には戦国時代の目立った遺構が多くはないのですが、
さて、昨日の続きです。東叶神社⛩をお参りして、勾玉の袋をいただいて、小舟に乗って対岸にある西叶神社⛩で勾玉をいただきます。恋愛成就のご利益があるそうです。雨の中でしたが、若いカップルもいらしていたから有名なのかもしれません。社交ダンスランキング人間関係のご縁は、ご円にも繋がります。『人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早過ぎず、一瞬遅すぎない時に。ただし内に求める心無くば、縁は生ぜず』私の好きな言葉です(^^)さて、新井城跡と諸磯神明社を目指します。ご
図書館へ行くついでに三崎城跡をしっかり見ておこうと思った。今は旧三崎中学校跡。市役所第二分館になっててこぢんまりとした図書館もその中にある。路傍に三崎城跡の碑が残るだけで昔のお城を思わせる物は何も無い。三浦一族の城「新井城」を守る城で1518年7月11日新井城が北条早雲に敗れた時この三崎城も落城したのだという。本丸があったのは市民体育館だった所なんだね!知らなかったー!てっきり三崎中学校の場所だと思ってた。その体育館は取り壊されて今は更地。看板の地図と今の地図を並
今回は、現在の神奈川県三浦市にあった城、新井城です。新井城跡は現在、京急油壺マリンパークや東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所などになっていて、三崎口駅から京浜急行バスに乗って油壺バス停で下車すると徒歩5分ほどで行くことができます。三崎口駅。京浜急行の久里浜線(京急本線、京成本線、北総線直通含む)が乗り入れています。久里浜線の建設当初は三浦市の中心部である三崎港付近まで延伸する計画でしたが、用地確保が難航したため油壺駅までに短縮します。ところが、こちらも用地確保が難航したため2016
人間という神の分身である私達ですが、見たり、聴こえたり、知る事をできない者たちはこの世に生を受けてもその本来の役割を知ることことなく、悪戯に肉体の本能という作用(無明)に99%支配されてこの人生を無駄に過ごすしてしまうのです。そこで、そのような人間の犯す過ちを一つお話します。人の怨みの想念とはすさまじいものです。「人を呪わば穴二つ」と言いますが、「恨み」や「怨念の情」は時を変え形を変え延々と続くもので、一度呪われるとその呪いが成就するまで、いつまでも付きまとわれてしまいます。この呪いの念
こんばんは平成最後の小さな旅、長女と出かけた油壺は日帰り温泉が目的でした。でも地図を見ていましたら辺りを散策してからと思い、散歩コースを歩きましたら、その豊かな自然がとても楽しめて。幸せだなあと思いました。観潮荘でのランチも海、(横堀海岸側)を眺めながら頂きました。11時30分、レストランはまだ空いていました。長女も私もお刺身定食にしました。令和元年早々、失礼しました〜クイズ回答編〜クイズ①ウィキペディアによりますと、新井城に籠もった三浦一族は、北条早雲の大軍を相手に3年間にわた
【戦国布武】北政所のプロフィール/歴史的背景【我が天下戦国編】GameWith夫である秀吉の関白任官に伴って、従三位と北政所の称号を与えられた。以降は天下人の妻として、朝廷との交渉役や人質である諸大名の妻子の監督役などを...黒野神社本殿県教委、新たに計3件を指定/兵庫毎日新聞国重要文化財の仏具「〓漆厨子(きゅうしつずし)」内に安置されていた。襟なしの下着とはかま姿で上から布の衣服をまとわせたとみられ、このタイプの聖徳太子...【戦国布武】三好長逸のプロフィール/歴史
今日は野暮用を片付け、息子につきあってもらって地元の歴史クラスタおじさまに教えていただいた小桜姫神社へお参りしてきました。三浦一族のプリンセス小桜姫。スピリチュアルリーダーでもある小桜姫を祀る祠が、油壺にほど近い諸礒崎神社のなかにあります。小桜姫が語ったと言われる膨大なメッセージは膨大すぎてまだ全て目を通せていませんが、どんな方なのか感じたくて…知識よりまずは感覚感情でシンクロできないものかと…会いに来ました✴︎(小桜姫のメッセージにご興味あれば検索してみてね。すぐ出て来ます。本殿
所在地神奈川県三浦市三崎町小網代特徴執権北条氏に滅ぼされた三浦氏の傍流が、相模三浦の地を回復して本拠とした。小田原から侵攻した伊勢盛時(北条早雲)によって落城し、三浦氏は滅亡したが城は存続した。感想大学用地のため立入禁止で、空堀や切岸を外から眺めるのみ。半島の北側にも城址碑や三浦氏の墓がある。
前回まではこちら⬇️目次世は群雄割拠の戦国時代。わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。葬儀の夜遅く、綱成(つなしげ)と忍びの美郎(よしろう)は寝込みを襲ってきた賊を捕らえました。綱成は賊の頭巾を剥ぎ取り、顔を見ました。綱成「こいつは…女!」美郎「おまえは……美咲(みさき)!」綱成「美郎、知っているのか⁈」美郎「美咲は我らと同じ風魔(ふうま)の忍び。しかし、美咲は風魔から出奔したもの…。」風魔は足柄山を縄張りとする忍者集団なんだよ。北条氏とは初代の早雲(そううん)さんから
暖かくとっても良い天気だったのでdrive目的地は油壺小さい頃に来たと思うけど、何も覚えてない城跡は歩き回れないけど、ハイキングコースを歩いてみようと思ってさ市営の駐車場にとめてちょっと歩いてこの入り口へここが主郭エリアなんだけど、天下の東京大学さんの敷地なもんで…入れません年に1度開放日があるらしいんだけど、いつかは…わからんねぇま、いいやと進むほぉ~ら出てきたちょい覗くと空堀や土塁…あぁ、気になるぅこの看板を掲げているのに、見せてくれない東京大学鎌倉時代からの名