ブログ記事120件
東北ツーリングも3日目、久しぶりに下北半島に向かいます。今回のツーリングの2個目の目的は下北半島の陸奥湾側を走ることです。キャンプ場を出てファミマに寄ったら景色の凄いこと。そう言えば富士山の見えるローソンで話題になってたな。岩木山の周りに高いものが無いのが更にきれいに見える。今日も結構な距離を走るのでサクサク動きます。ここは陸奥湾にある雷電宮。名前が厨二病をくすぐられる、かっこいいw新緑の中にある社が良かった。由緒は征夷大将軍の坂上田村麻
2018年12月のブログです*司馬遼太郎さんの『北のまほろば-街道をゆく41』(1997・朝日文芸文庫)を再読しました。久しぶりです。読むのは3回目くらいでしょうか。本書は司馬さんの1994年の青森の旅の紀行文。当時、『週刊朝日』に連載中に、なんと、三内丸山遺跡が発掘されるという大ニュースがあり、司馬さんは再度、訪れたりしています。まさに運命的な出会いですね。それまでにも、亀ヶ岡遺跡(宇宙人のような土偶で有名)や十三湖遺跡(アジアとも交流をしてい
明治銀座異変[滝沢志郎]楽天市場維新だ、攘夷だと叫ばれていた時代。開国に舵を切り、大政奉還により明治新政府が成立して10年以上経ったときに起きた、殺人事件。どうやら開国前夜の騒動が遠因のようで、殺された鉄道馬車の御者は「青い瞳の子」と言い残していた。犯人のわからない過去の事件との繋がりが、少しずつ明らかになる時、それぞれに他人に言えない過去を抱えて過ごしてきた維新後の生活が垣間見えるようになる。知らん顔をして、ずっと以前からそうであったような顔をして生きていくことも
本日は町野主水顕彰会から『町野家資料』が送られてきました。『三国峠の戦史』の原本コピーをされたのは、昨年他界された千葉隆胤氏。町野久吉墓、国道17号拡張工事により、他所移設予定だそうです。『孫から見たおじいさん』は町野英明様が編集されて出版されたのですものね。井村陽一氏の告別式は令和5年2月14日に行われたそうです。町野主水の弟・重世の直系子孫。でも、重世の息子が主水の娘を嫁にもらっていることから、町野主水の子孫ということにもなるのでした。
GWですよーーー!!やっと来た連休。今年はかねてからの野望を実行するべく、青森県の旅でございます。お目当てはコレです。斗南藩を偲びたい上の本は会津武家屋敷で購入した冊子です。戊辰戦争で降伏開城した会津藩は謹慎しながら処分を待っていましたが、明治二年になって別の場所へ預け替えという形で藩の再興が許されます。移住先は斗南藩三万石、現在の青森県むつ市というところになります。ここにぜひ行ってみたい!!しかし色々調べましたが、クッソ遠い↑これが冊子
青森市の朝横断歩道も停止線もセンターラインも見えない今日は斗南藩の歴史を追って斗南藩史跡地から斗南藩のお墓までは一本道車で約5分程度の道のりここを走ってる間は涙が止まらなかった。私には到底経験した事のない想いが押し寄せてくる感覚でした。斗南藩のお墓ここより先には行けなかった。このすぐ先にお墓が見えるけれどどーしても入れなかった。この場所で手を合わせて必ずお墓参りに来ることを約束して帰ることにしました。今度来る時は、会津藩を学び、会津藩の史跡を巡りそしてこの場所へ再
さぁ、今日はこれでやめよう次に更新するのはいつになるやら(なるべく2つ3つ更新したい!)多賀神社護国神社何故か惹かれると思っていたら会津藩の方々も祀られてるんですね屯田兵が西南戦争に出征してますね私が贔屓してやまない旧会津藩(斗南藩)も屯田兵として出征してます妙に腑に落ちた子供の頃から今もなお会津藩好きなの不思議弥彦神社9月は諏訪神社に行かなかったのかな?神社の写真はこれで終了スタババイトちゃんに教えてもらって行ってきたわらびもち美味しい♥️スタバ、ホットだね?
終章公使館地区が開放された翌15日早朝、柴中佐は敵陣地に残された馬に跨り城内で行動していた。山口師団長から2個歩兵大隊と1個砲兵中隊を与えられ、皇帝がまだ宮城にいるかも知れないので宮城の各門を占領しろと命じられたのだ。市街はいたる所に少人数の敗残兵(清兵)がいたので市街戦を実施しつつ前進し、各門で頑強に抵抗する清兵を掃討した。柴中佐は師団長に報告のため部隊から離れて師団司令部が置かれた公使館にむかう。途中、敗残兵50人ばかりに遭遇して撃ち殺されそうになるものの、回避して無事だっ
米・英・露軍は―午前11時過ぎに露・米軍が東便門内に進入、米軍は清兵を駆逐しつつ内城の南壁沿いに進む。露軍は死傷者を収容してから前進し、崇文門に行きつくものの門扉は堅く閉ざされていた。午後1時ごろ、英軍は東便門の南東約1キロの広(こう)渠(きょ)門を攻撃するため同門に向った。到着すると門扉は閉じられていたがこれを教民が開けたので、英軍は敵の抵抗を受けることなく外城に進入することができた。そして印度兵は率先して御河の水門に潜り込んで進んだ。公使館地区では―午後2時ごろ
―8月14日晴33.3℃午前2時、突然東方から砲撃音が聞こえた。これまで聞いたことがない方向だったので、公使館地区の皆が援軍だといって歓喜し躍り上った。感極まって泣きだす婦人もいた。公使館に対する清兵の攻撃は一時止まっていたが、再び激しい射撃が開始される。背後に連合軍が迫っているにもかかわらず、公使館を執拗に攻撃した。その攻撃に一体何の意味があるのだろうか、ただの悪あがきというしかない。サムライの士気は高い。小川が記している。「これこそ敵の最後の攻撃だと一同また必死に防い
―8月13日晴34.4℃公使館地区は昨夜から籠城以来非常に激しい銃砲撃を受けていたが、夜が明ける頃には清兵の射撃はほとんど止み、時々どこかで銃声がするだけになる。列国公使は昨日の約束どおり親王らが来るのを待っていたが、午前11時を過ぎても一向に来る気配がない。午後2時になると英公使館に手紙が届く。かねてから相方に射撃しないと、あれほど度々固く約束したにもかかわらず、外国兵及び教民は昨日またまた清兵を攻撃して、将校1名と兵24名の死傷を発生させた。かような有様では到底和睦の談判が
―8月13日各国はそれぞれ通州を発った。日本軍は独立騎兵隊と先発の真鍋支隊が定福庄からその東の搭(とう)拉(ら)坡(は)間に宿営、露軍は定福庄の東南に宿営したものの、一部を公使館地区の東約2キロにある東便門(とうべんもん)付近まで進めていた。他は米軍が定福庄西約3キロの高碑(こうひ)、英軍が定福庄南東の双橋(そうきょう)に宿営した。あの仏軍は楊村での守備という任務を放棄して通州に追及し、さらに高碑の米軍を越えて宿営した。これまでもそうであったように、日本以外の列強が連合軍として議決
―8月8日午前8時過ぎに師団本隊が南蔡村に到着した。そこに間もなく柴中佐からの密使が到着する。持っていた信書は8月5日付のもので山口中将及び福島少将宛であった。「我糧食は他国の分を融通し貰えば今日より更に十日位支うるに足る。只懸念なるは敵兵攻撃を再興せば直に弾薬の欠乏を来すに在り……清国政府は我に向って頻りに北京より早く退去せよと逼り……我は援軍の到着迄は決して動かざるの決心なり……昨今政府部内の開化派は殺され頑固党益々勢力を得て愈々頑強に敵対せんとするものの如し……」この密使による
―8月7日福島少将は敵情の解明と前方拠点の確保のため、10キロ先の南蔡村に歩兵第41連隊基幹で、騎兵1個中隊、工兵1個中隊、野戦砲兵1個大隊(1個中隊欠)から成る1個支隊を出して占領させた。楊村の列国将官会議では、各将官は速やかに北京に進むべきか意見を求められた。福島少将は、①彼我ともに疲労しているが敵に防御工事のいとまを与えないこと、②公使館は激しい攻撃を受けて切羽詰まっており、また飢餓に陥る恐れがあることから、北進は急務であるとした。これに反対したのは露軍のステッセル少将のみで、明
この夜における連合軍の態勢は、北倉の北方約5キロの柴樓に真鍋支隊が清兵と接触しており、北倉と柴樓との中間付近である王秦荘に塚本混成旅団が集結し、師団司令部とその他列国軍は北倉及びその周辺に宿営していた。なお、独・墺・伊の水兵は天津に帰っている。偵察から得られた清兵の状況は、右岸の清兵が左岸に渡り、あるいは西方に逃走して楊村に集結しているようであった。左岸の清兵は真鍋支隊の前方約1キロの森林に小部隊、主力は楊村と見積もられた。列国将官会議では日本軍の提議により、翌6日午前7時連合
7月25日、柴中佐の発した密使(張徳盛)が第5師団に到着する。その書簡には、死傷者で兵が減っていること、弾薬や食料が残り少ないことなどが記されており、「貴軍来着一週日以内に在らざれば当地は恐らくは支え得ざらん。七月二十二日夜認む柴砲兵中佐」とされていた。これにより列国はぐずぐずしている場合でない事情を認識する。8月4日夕より連合軍は行動を開始した。白河右岸沿いに攻撃する日・英・米軍は四日夜宿営地(居留地)を出発、西沽に集結して翌五日午前一時三十五分に攻撃前進する。左翼の塚本勝(か
第五師団、圧倒の北進7月14日に天津の清軍を撃破した臨時派遣隊は第5師団主力の到着を待った。山口第5師団長は同月18日大沽に上陸し、翌19日には参謀本部次長寺内正毅中将とともに天津に入っている。同月21日、陸軍大臣の訓令に基づいて臨時派遣隊の編成が解かれ、福島少将ら同司令部要員は第5師団司令部付となる。以後、語学に堪能な福島少将は各国との交渉の任にあたることになる。天津攻略後、日本以外の列国は北京進撃を遅滞させた。後年、森中将(当時中佐)がその内情を明かしている。「天津
―8月11日曇30.0℃一日中、雨がちな天気が続いた。早朝から清兵は射撃をしてきたが、砲撃がないので破壊力は低い。ただその分小銃による射撃が以前より一段と激しくなっていた。夕方、総理衙門から使者が来て食料購入に関する処置が示される。明朝9時に総理衙門から官吏を派遣するので、それに買い物の相談をしてほしいということだった。そのための委員会が設けられて杉も委員に選ばれる。杉の日記にこうある。「此夜会議を催して、買入物等の目録を製せり。久しく餓えし此腹も、明日よりは旨き馳走にあり付くと
―8月9日晴30.0℃終日銃声が絶えることはなかった。新たにやってきた清兵が張り切っていたようだ。この頃になると教民らも食料不足になり、その婦女子などは草木の葉や槐の花などを食べていた。彼らのうち餓死するものも少なくなかった。そこでキリスト教徒でない200人ほどの中国人を籠城地区から出すことに決まり、これを総理衙門に通報して実行することとした。彼らは籠城当初から公使館地区に入っていたのだった。籠城して早い時期からこの話はあったものの、内部の様子を敵に知らせるのは好ましくないとして今
―8月8日曇31.1℃昨夜から未明まで粛親王府では清兵による停山門・厨房・東阿司門正面に対する射撃があったものの突撃して来る様子はなかった。朝からは段々と投石が多くなり、夕方になると東阿司門の清兵は白字に張の字が記された旗を多数掲げて絶えず銃撃をしてきた。教民らによると、この兵は話し声などから新たに山西から来たものだという。午前、総理衙門からエディンバラ公薨去に対する弔詞が英公使に送られた。それを機会として英公使は次のような趣意の書面を総理衙門に送った。北京政府による訃報の
この日小川は入浴した喜びを記している。「久し振りで公使館で風呂を沸かし交(かわ)る交(がわ)る入浴した。籠城の初めから日々戦闘に忙しかったから入浴などはとても思いよる事ではなかった。猛暑の二ヶ月、土に伏し砂にまみれ汗だらけになり、時には雨でびしょ濡れになっても大半は着更えもなかったから、そのまま六十日余りを土間か板敷の上で起き臥してきたのである。それだけに久し振りで入浴した時の心地はなんともたとえようがなかった」この頃の日本には以前に比べて食料以外は若干の余裕がでていた。―8月6日
―8月4日晴31.1℃日本の陣前に来る清兵は、栄禄が外国人を天津に護送することを命ぜられたとしていつ立退くかと頻りに尋ねた。またその隊長からは、3日中に発たないと攻撃することになるから用心しろと脅すような内容の手紙もあった。総理衙門は各国政府がその国に駐在する清国公使に在北京公使を安全に送り出すようしきりに要求するので速やかに退去せられよと促した。夕方、列国公使は総理衙門に次のような回答をする。我々は本国政府の命なく勝手に任地から退去することはできない。いくら我々の政府が清国政
迷走する北京政府―8月2日晴32.2℃前日と変わらずに短時間の射撃と瓦石の投擲が繰り返されたが、清兵の射撃量は以前に比して少ない。ただ午後に英兵が英公使館の西側にあった韃子館に設けられた清兵の胸壁を破って一部を占領すると、清兵は激しく反撃してきた。清兵の統制が緩んだのか、また種々の物売りが密かにやって来た。彼らにとっては鶏卵などよりも弾薬の方が都合よく、またいい値段で買ってもらえるので、以降は弾薬の物売りが多くなる。弾薬は清兵が使用するモーゼル銃のものであったが、日々2、
7月28日に英公使に届いた密書で日本にもたされていた間諜の情報が虚偽であると判断した柴中佐は、「今俄かに荒立て、彼の偽欺を咎め立てしては我々が援軍と交通して居ることが敵に分り、随って総理衙門との交渉にも影響すべきを懸念致して……」といった理由で、以後も知らないふりをしてこの間諜らを使うよう示していた。そして柴中佐は自虐する。「今迄此間牃には日々三、四〇弗(ドル)づつ与えて且つ随分用心して別に他に二、三の間牃の言とも照し、合せて居りましたが、彼等は矢張り同穴の狐で、抜目なく相談
―7月31日晴29.4℃昨夜に比べると銃声は少ない。例の間諜が、30日午後5時外国軍が張家湾を占領、清国軍は通州の南15清里(約8キロ)にいると報告する。これまであまり来ることのなかった他の間諜が、外国軍はまだ楊村にいるとした。柴中佐はこれまでの状況を簡単にまとめて手紙とし、それを福島少将と第五師団長に渡すよう、この間諜に命じた。昨日の英公使の抗議文に総理衙門から返事が届く。北御河橋上の胸壁は交通路を掩護するために設けたもので他意はない。ところが外国兵はこれに向ってやた
―7月29日晴30.0℃しばらく続いていた平穏が破れて朝から清兵の勢いづいた銃撃が続いた。北堂方面からも激しい銃砲撃音が聞こえる。北堂は先日から断続的に攻撃されていた。昨夜は特に激しく、朝になっても砲撃は止まないでいる。あの間諜が最新の情報をもたらす。28日午前の戦闘において、連合軍は一時馬頭の一端を奪取したが、清軍は再び取り戻したという。杉は苦力2名も間諜として雇い通州に派遣していた。例の間諜の情報に疑惑があったからだ。苦力の一人は、28日午前10時ごろ馬頭に到着したものの、
―7月27日曇32.2℃朝から清兵の射撃を受けていたが、ここ数日に比しその回数が多くなっている。英公使は総理衙門に、引き上げの諾否に関して各国公使と相談した結果、その判断をする以前の問題として傷病者、婦女子等の輸送、沿道の護衛をどうするのかということになり、その回答をいただきたいとして諾否を先延ばしにした。日本に対峙する清兵の隊長からは毎日のように手紙が届いていた。その内容は天津へ出て行けとか、早く降参したら命だけは助けて本国に無事帰してやるとし、もしいうことを聞かなかったら
―7月25日晴28.3℃午前零時40分ごろに久しぶりに恒例だった銃の乱射が40分ばかり続いた。ただ以前に比して射撃する銃の数が少ない。英公使館は栄禄に対し、停戦の約束に違反して射撃を行なったことをとがめた。総理衙門は天津に引揚げるよう再度要請してきた。その内容に、外国軍艦が要港を占めて天津を囲み戦闘準備をしているが、これをどうすれば止められるかとあった。やはり北京政府は、すでに天津が落ちていることや連合軍が北京進撃を準備していることを公使館が知らないと思っているようだった。列国
用心のために、同じ内容の手紙が天津に向かう米公使の密使にも託されていた。日本が雇った密使は物売りをしていた甘軍の兵士で、購買係の杉と林が見出したのだった。物売りに来る兵士にやたらと銭を貪るものが一人いたので、試しに金は望みどおり支払うから天津まで手紙を持って行ってくれないかと話すと、その兵士はいくらくれるかと問い返してきた。そこで天津に行って返書を持って帰れば100両与える、不足ならば別に褒美を増やすと答えると、兵士は確かに100両くれるかと念を押したうえで承諾したのだった。これまで雇
間諜と密使―7月21日晴35.0℃清兵の物売りが続々と来た。砂糖、豚や羊の肉などもある。鶏卵は日々200~300個買えた。その3割は日本がとり、残りは英公使館に送った。清兵は公然と物売りをしているわけではなく、士官らの目を盗んでやっていることなので、上衣の下に忍ばせるなどして持って来ていた。肉類や野菜などは数回持ってきたが、隠すのに不便なので以後は鶏卵のみを扱うようになる。柴中佐の伝令服部が購買所での内情を記している。「彼らの貪婪(どんらん)なるや日毎に鶏卵の価を嵩めて已