ブログ記事22件
生々しく生きた古代の人達をこんな言葉で括ってしまうのは甚だ失礼な事かもしれない。でも、聖徳太子という日本史上最も有名な人物にスポットをあててみると、それは非常に浪漫なのだ。※「浪漫(ろまん)」=夢や理想、情熱、冒険への強い憧れ、叙情的な理想などを意味する。つまり、スーパーヒーローたる聖徳太子はこれほどのとんでもなく有能な人物であった…“ファン”はそう思いたくなるのである。でも現実は資料が乏しく、確たる証拠がない。中には聖徳太子という人物の実在すら疑ってかかるという立場の人も居る。
令和6年8月12日(月・振替休日)法隆寺夢殿から隣にある中宮寺に向かう。中宮寺は旧斑鳩御所と称されている尼寺門跡である。聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺院である。当時は東側500m先にあったとされている。現在は、法隆寺の塔頭としてある。〈中宮寺〉東院鐘楼。中宮寺の由緒書き。半跏像はとても美しい如意輪観音様である。表御殿玄関。表御殿。本堂。本堂を回る路。石碑。本堂。浮島のようになっている。本尊は
古都奈良といえば東大寺に法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)はセットみたいなものなのに、「いざ、法隆寺へ」と意気込むわたしの横で、夫はしきりと首を傾げています。方向音痴のわたしは何となく法隆寺も東大寺のすぐ近くかと思っていたのですがそうではなくて、東大寺から法隆寺へ行くには、うまくいってもバスと電車を乗り継いで1時間はかかると言うのです。エッそうなのその時点ですでに午後2時半、1時間で到着したとしても日没の早い冬場の拝観時間は午後4時半まで。それでも行くの・・・って当然でしょ。ここま
令和5年8月6日(日)法隆寺から中宮寺へ向かう。東伽藍夢殿の隣にあるので、直ぐである。10:10中宮寺に到着する。中宮寺は奈良県斑鳩町にある聖徳宗の寺院。山号は法興山。本尊は如意輪観音(国宝木造菩薩半跏像)である。中宮寺は聖徳太子の母っある穴穂部間人皇后の願いによって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対象的な位置に創建された寺院とされている。また、東洋美術における「考える像」として有名な半跏思像の如意輪観音は、飛鳥彫刻の最高傑作であると同時に、世界的にも「古典的微笑」の
『聖徳太子』第4回聖徳太子と『日本書紀』『日本書紀』の中に描かれた聖徳太子を見て行きます。●『日本書紀』とは(Wikipedia参考)『日本書紀』は、奈良時代に成立した日本の歴史書・神話。『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、720年(養老4年)に完成したと伝わる。神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。天武天皇が川島皇子に命じて原案が作られ、本格的に編纂が開始されたのは持統期とされる。藤原不比
京都旅行3日目。この日はレンタカーを借りて奈良へとGO!!前回行けなかった場所を目指しまーすヽ(´▽`)/まずは斑鳩へ・・・絶対に来たかった「法隆寺」に到着〜〜!!法隆寺は日本最初の世界遺産です。南大門(国宝)法隆寺の玄関にあたる総門で、この門は1438年に再建されたもの。中門(国宝)法隆寺の境内は大きく分けて5つのゾーンに区画されており、この中門は西院伽藍の入り口です。伽藍配置図コレを見ただけで、法隆寺がとても大きな寺院だという事がわかりますよね。
※長文のため、訂正箇所や一部修正・加筆を随時しています。法隆寺・聖徳太子。その本当の歴史を知る者はあまりいません。日本書紀から脱却し、当時の飛鳥時代を回顧し、また霊的な観点もプラスし、新しい視点から真実を探るような挑戦をしたいと思います。長いけど、読みにくいけど是非、最後までおつきあい下さい。◯序法隆寺・・・奈良県生駒郡斑鳩にある聖徳宗の総本山の古代寺院。別名・斑鳩(いかるが)寺。601年、聖徳太子は飛鳥からこの斑鳩の地に移ることを決意し、宮(当時は斑鳩宮と呼ばれた)の建造に着
7月6日水曜日〜その104枚組CD『不滅の光明聖徳太子一代⑦遣隋使派遣編』〜「斑鳩宮夢殿瞑想」と「曇微来日」をレコーディング。(写真)これにて録音完了。59歳。さすがに詞章を詠むのにメガネは必需品。
5月10日火曜日〜その15『不滅の光明聖徳太子一代記⑦遣隋使派遣編』〜「山城の国行啓」「法興寺丈六仏造営」「斑鳩宮遷居」を収録。黒飴を舐める。(写真)さすがに長時間にわたっての口演で、目に入る歌詞がぼやけてきました。従って、途中からメガネをかけた次第です。
7月30日金曜日~その1(写真)3枚組CD『不滅の光明聖徳太子一代記冠位・憲法制定編』1.「新羅出兵」2.「遣隋使派遣」3.「斑鳩宮造営」4.「三国同盟締結」5.「来日皇子新羅征討将軍就任~来日皇子死去~百済国新羅征討」6.「百済僧觀勒来日」7.「當摩皇子新羅征討」8.「推古天皇小墾田宮遷都~山城国蜂岡寺建立~儀杖制作」9.「冠位十二階制定」10~26.「十七条憲法制定第一~十七條」河内家菊水丸(R元年8月11日)を聴きました。7月16日・18日スタジオMAXにてレコーディング。★外
2021.05.12駐車場につくなり・・・昼食を食べる注文したのは、≪梅うどん≫と≪柿の葉寿司≫のセット今回の旅は・・・5月12~15日の3泊4日の旅★PCR検査からのずらし旅へ♪★今回の旅のお供ちゃんは、この子達さぁ~どんな旅が始まるのでしょうね最初の目的地は、こちら世界文化遺産の法隆寺です推古天皇9年(601年)聖徳太子が・・・斑鳩の里に斑鳩宮を造営中門を撮るが・・・この時から、写真に異変が五重塔は、とっても素敵であるが・・・やっぱり写
いつの間にやら3ヶ月も放置しておりました💦年始に蘇我家に巻物を届けるようにと、お遣いを頼まれて以来、蘇我氏に関わる様々な場所に出向いてまいりましたが、おそらく私の過去世に大きく関わるのが聖徳太子様とその父である用明天皇様なのです。数年前に、ある斎宮様からのメッセージを受け取るようになってからは、御陵も合わせて巡るようになりました。丁度その頃、車の運転中、不意に『用明』と聞こえまして、何のことだろうか❓と不思議に思っておりましたら、後に用明天皇様のことだとわかりました。この時、太子町に
今日の斑鳩町はお天気はいいですが…雲の多く風が強いく雲が風で流されて、雲の切れ間から日差しが眩しいです。先日の聖徳太子1400年御聖諱記念特別展示「法隆寺の信仰と宝物」展を拝見した後、久しぶりに「大宝蔵院と百済観音堂」に行ってきました大宝蔵院に行く前に大宝蔵院の入場入口の前に馬屋・黒駒と調子丸のお堂があります。厩戸皇子の愛馬といえば「黒駒」黒駒を連れているのは舎人の「調子丸」ですね。知らない方が多いみたいですね…大宝蔵院と百済観音堂大宝蔵院|聖徳宗
ご訪問ありがとうございます。蘇我氏の興亡という題で語るなら、乙巳の変がそのクライマックスになるのですが、そこにいたる直前のこの事件が、蘇我氏本宗の滅亡の序曲ということになるのでしょうか・・・あの聖徳太子の弟や子孫23人全員が自害して亡くなるというショッキングな事件は、「日本書紀」や「家伝」にとどまらず数々の聖徳太子の伝記に伝えられてきました。そのほとんどが蘇我入鹿の独断で、罪無き聖徳太子一族が殺されたことを記しています。しかし、本当のところはどうなのか・・・なぜこのような凄惨な事件が起き
浜北の洋画家・鈴木さんが秋葉神社に新作寄贈中日新聞...て描いた油彩画の新作「火の鳥」を、同市天竜区春野町の秋葉神社に寄贈した。「参拝者にエネルギーを受け取ってほしい」と話す。(南拡大朗)日本橋大伝馬町各店で「べったら市」企画開催中止惜しみ3密避けて独自に展開日本橋経済新聞同神社は1606(慶長11)年、江戸城拡張の折に城外から集団移転した宝田村の鎮守として同地に祭られた。徳川家康から拝領したという恵比寿像は...箱根大名行列規模縮小し継続開催へ今年は疫病退散を祈
ご訪問ありがとうございます。前回取り上げました三国時代の半島のややこしさは6世紀から7世紀の日本にも大きな影響を及ぼすのですが今回は日本の内部に焦点を当ててお話をしたいと思います。さて厩戸皇子が亡くなった後、推古天皇は大兄皇子の指名を行いませんでした。当時、彦人大兄皇子の子の田村王は30歳、厩戸皇子の子、山背王も同じくらい、大兄としては不足はないものの、老齢の自分がぽっくり逝けば、ちょっと若すぎる天皇になってしまう・・・という不安があったのでしょうか?それなら厩戸皇子には同母
ご訪問ありがとうございます。さて謎多き聖徳太子の話ということで・・・まず実在か創作か?誰かと同一人物か?自殺か病死か?聖人か祟り神か?読み物も研究書も多く、ネットでもいろんな意見がありますから、けっきょく分からないというのが真実で・・・^^;こんなことは邪馬台国と同じで手を出す問題ではないのですが、ここまできたら飛ばすわけにもいきませんしwそこで、シンプルに「日本書紀」の記述だけを見ていきますね。まずは推古紀元年4月、「厩戸豊聰耳皇子を立てて、皇太子とす。仍りて錄攝政(まつ
閑話休題(十一)一.NHK十一月六日放送の,『英雄たちの選択「〝日出づる処の天子〟の挑戦~聖徳太子の外交戦略~」』を見た。磯田道史(国際日本文化センター准教授)の司会による歴史番組である。今回のゲストは,萱野稔人(津田塾大学教授)・小島毅(東京大学教授)・吉村武彦(明治大学名誉教授)の三氏であった。二,前半は,聖徳太子虚構説に対する反論的見解の紹介であった。虚構説は,『当時,有力な王族「厩戸王」はいたが,聖徳太子の功績は後世に作られた』とするものである。こ
推古天皇の皇居である飛鳥小墾(おわり)田宮(だのみや)から聖徳太子、すなわち厩戸皇子の斑鳩宮(いまの法隆寺東院)まで「太子道」が延々続いています。飛鳥で朝議が催されるたびに厩戸皇子が上り下りした道です。交通手段の発達した現代でも飛鳥から斑鳩まで電車を乗り継ぎ、一時間はかかります。飛鳥時代、それだけの距離は政治家にとって致命的でした。緊急事態に対応できないからです。ここに謎が生まれます。したがって、厩戸が斑鳩宮に遷り住んだ推古天皇一三年(605)をもって「政
厩戸皇子が「摂政」という正式な職についていたわけではありません。推古天皇の時代にまだ皇太子という地位が確立していなかったのも事実です。しかしながら、当時の皇位継承候補を見渡しますと、厩戸は、敏達天皇(伯父)の皇子二人とともに有力な次期天皇候補でした。そもそも、一〇人の話を同時に聞いたという“架空の聖徳太子”のモデルとなる人物なのですから、「優れた知恵があった」という『日本書紀』の内容くらいは信じていいように思います。以上が、厩戸皇子が推古天皇の政治を支えたという第一の
消去法でいきますと、残った史料は『日本書紀』だけだということになります。ところが、歴史界に「聖徳太子虚構論」を提起して波紋を投げかけた歴史学者の大山誠一氏によりますと、『日本書紀』に計二二ヶ所ある厩戸皇子の記載内容を検証した結果、歴史的事実だと確認できるのは「(厩戸の)系譜・年齢・斑鳩宮(いまの法隆寺東院)の造営程度」だというのです(『<聖徳太子>の誕生』参照)。つまり、用明天皇の皇子に厩戸という名の人物はいたものの、斑鳩宮の造営と法隆寺の建立を除くと、ほとんど歴史的事実に関係
【平成30年5月28日(月)】斑鳩宮(いかるがのみや)は、聖徳太子が現在の奈良県生駒郡斑鳩町に営んだ宮殿。推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営し、推古天皇13年(605年)に移り住んだ。また、太子の手により、斑鳩宮の西方に斑鳩伽藍群(法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺)が建立された。発掘調査で判明したことは、まず宮は現在の東院伽藍の場所に建っていたこと、宮の範囲は二町四方であること、などである。しかし、宮全体構造はまだ分かっていない。また、厩戸皇子が建立したと伝えられる斑鳩寺は、西院伽藍
リュウちゃんの懐メロ人生楽天ブログ-楽天市場石舞台古墳近くの彼岸花雲に向かって立つ!(前回のブログの続きです)キトラ古墳の周辺の公園から、馴染みの高松塚古墳に向かいました。下の写真は、高...北金目神社古墳カメさんと遺跡-FC2運動がてら秦野と平塚に所在する古墳を久し振りに訪れてみました。今回は平塚市に所在する北金目神社古墳のご紹介です。この写真は撮影年月は不明です...上野公園の中に古墳があったフォートラベル一つは上野大仏があるところとこの古墳だ。か
信州最古の湯美人の湯Yahoo!ブログ-Yahoo!JAPAN真田幸村ゆかりの温泉地、信州上田別所温泉は、「北向観音」参道入口にほど近い、「上松屋旅館」に宿を取りました。源泉掛け流しの大浴場・露天風呂の無色...奈良・中宮寺の見どころ・仏像(国宝・文化財)「種類・値段・待ち時間・混雑状況」お守りの「種類・返納方法」アクセス仏像やお堂の名前は、漢字の羅列で読みにくい名前が多々、見受けられますが「木造菩薩半跏像」は、「もくぞうぼさつはんかぞう」と読みます。また「如意輪観
法隆寺夢殿/奈良県斑鳩聖徳太子の住まいだった「斑鳩宮」はこの場所に建っていたそうです。と、言うことは、聖徳太子はココから飛鳥まで毎日通っていたということですが、歩くと約4時間。馬でも2時間ぐらい?毎日、お疲れさまでした。
http://nyabecch.blogspot.jp/2005/01/blog-post_17.htmlhttp://nyabecch.blog47.fc2.com/blog-entry-1015.html