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京都市左京区浄土寺真如町にある真如堂[しんにょどう]。■寺号標寺号は真正極楽寺。・・・ですが、真如堂の方が一般に通りが良いはず。■三重塔1817年(文化14年)再建。■本堂重要文化財。1717年(享保2年)再建。本堂南西側。本堂南側側面。■たてかわ桜樹齢300年以上。春日局(1579-1643)が父の菩提を弔うために植樹。父は美濃斎藤家、明智光秀家臣であった斎藤利三(1534-1582)。斎藤利三の最後は、
映画『首』公式サイト映画『首』公式サイト大ヒット上映中!衝撃に備えよ。構想30年、北野武監督が放つ前代未聞の“本能寺の変“。出演:ビートたけし、西島秀俊、加瀬亮、中村獅童、浅野忠信、大森南朋movies.kadokawa.co.jp本日(27日)鑑賞。最近すっかり、映画鑑賞が趣味になってる。「シン・ウルトラマン」と「シン・仮面ライダー」のお陰だ。昔は読書が趣味。毎月、月刊誌を4冊~5冊も読んでいたから。現在は一切読まなくなったから。花田紀凱のお陰だ。【映画パンフレット】映画
明智秀満(128)「言経卿記」『十七日、一日向守内斎藤蔵助、今度謀叛随一也、堅田ニ牢籠、則尋出、京洛中車ニテ被渡、於六條川原ニ被誅了。一粟田口ニ去□日ニ、明智日向守首ムクロ等、相續張付ニ懸了、斎藤蔵助同前也、其外首三千餘、同所ニ首塚ヲ被築了。』山崎の戦いで中川・高山隊と死闘を演じた利三は、堀秀政隊の横槍に崩れ、北に押し出された。利三は二人の息子と旗本を伴い、夜戦の中を生き延びた。乱戦の中、戦線を離脱して、何とか丹波国に逃げ込んだのである。ここで利三は旗本と
明智秀満(124)秀満が天守に戻ると知恩院から逃れてきた光忠がいた。「次右衛門、足は大丈夫か。」と問うと、「ああ、玉は抜いたが、あまりよくない。」と光忠は足を開いた。紫色に腫れ、膿んでいる様だ。「弥平次兄さん、こんな時に済まない。」と光忠は言う。「いや、次右衛門がいてくれて大助かりだ。皆に指示を出してくれ。」と秀満は言った。秀満は地下に保管されている焔硝を天守に移動させ積み上げていく。「吹き飛ばすのかい。」と光忠が問うと、「ああ、ここでみんな死んだこ
明智秀満(119)「浅野家文書」『同十二日ニ、池田(恒興)を致同道、同中河瀬兵衛(中川清秀)、高山右近令談合、山崎表へ馳せ上り申候へど高山と瀬兵衛と御先をあらそひ候間、筑前申様は、高山申も無餘儀候、手先之儀候條、一番合戦之所ニ陣取り固め、瀬兵衛と申談、合戦之陣取尤之由申候而、両人山崎之内ニ陣取をかためさせ、其次々天神之馬場迄、我等者を取續陣取を大坂へ人を進上申候間、働陣可申候、信孝様を相待、富田ニ一夜陣相懸申候事』秀吉の接近を知った光秀は淀城と勝竜寺城の補強を
第38回丹波攻略命令信長丹波攻略を命ずる三淵藤英が自害斎藤利三、光秀の元に第39回本願寺を叩け熙子の死本願寺との争い天王寺砦からの撤退大和の守護は、松永か筒井順慶か2023.10.27未完成ちょっとテキトーな絵です。声の掛け合いが面白かったので、描いてみました誠仁親王を演じたのは加藤清史郎さんもう少しかっこよい表情に直さなければ申し訳ない蹴鞠を見ていたのが、信長、関白の
明智秀満(107)既に陽は西に傾き始め、焦土と化した本能寺跡に続々と明智軍が集結してくる。「いくら探しても、信長の遺体は見つかりません。」と無念そうに秀満が報告すると、鳥羽から駆け付けた光秀が、「生きて京から逃れたという事はないか。」と懸念を示した。すると利三が進み出て、「私は血塗れの信長が燃え盛る御殿の奥へ入っていくのを見ました。その後、激しい火柱が上がったので、万に一つも助かることはありません。」と当時の状況を説明した。「そうか。」と光秀は肩を落とした。
明智秀満(106)秀満は鉄砲隊50名と長槍隊50名を集めると、近衛前久の屋敷に押し入った。邸内から悲鳴が上がるが、委細構わず梯子を懸けさせると鉄砲隊50名を屋根に上らせた。長槍隊は梯子を警固させ近づくものを排除した。「良いか、斉射はするな。一人一人狙撃しろ。この距離なら三つに一つは当たる。落ち着いて一人づつ撃ち殺せ。」と命じた。当時の火縄銃は50mならよく当たるが、100mを超えると途端に精度が落ちる。それを上から下への狙撃でカバーすれば、命中精度は上がるはずだ。
明智秀満(105)京都所司代・村井貞勝は出家していて、春長軒と号していた。本能寺の変のおり、貞勝は自宅にいて異変を知った。「父上、既に本能寺は明智の軍勢に包囲され、近づくこともできません。」と貞成は言う。「これはいかん、裏口から出て、妙覚寺の三位中将様にお助け願おう。」と貞勝、貞成、清次の三人は妙覚寺に向かったのである。しかし敵は思いのほか大軍で、事態は深刻であった。明智軍は信長とその家臣以外は無闇に傷つけることはなく、僧侶姿の貞勝と平服の二人は怪しまれず、妙覚
明智秀満(104)「岡崎市史」『信長初には御弓を取合、二三つ遊し候へば、何れも時刻到来候而、御弓弦切、其後御槍にて被成御戦、御肘に鎗傷被り引退、是迄御そばに女共付そひて居申候を、女はくるしからず急罷出よと仰被れ、追出させられ、既に御殿に火を懸焼来候、御姿を御見せ有間敷と被思食候歟、殿中奥深く入給ひ、内よりも御南戸之口を引立、無情御腹めされ、』白い帷子のまま縁側に出ると、すでに明智の手の者は境内に侵入していた。信長は弓を手にすると次々に矢を射た。和弓の威力は絶大
明智秀満(103)「本城惣右衛門覚書」『御ほうこうの衆ハはかま・かたぎぬにて、もゝだちとり、二三人だうのうちへ入申候。そこにてくび又一ツとり申候。其物ハ、一人おくのまより出、おびもいたし不申、刀ぬき、あさぎかたびらにて出申候。其折ふしハ、もはや人かず入申候。それヲミ、くずれ申し候。我等ハかやつり申候かげへはいり候へバ、かの物いで、すぎ候まゝ、うしろゟきり申候。其時、共ニくび以上二ツとり申し候。ほうびとして、やりくれ被申候。のゝ口ざい太郎坊ニい申候。— 本城惣右
明智秀満(102)「本城惣右衛門覚書」『あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、ほんのふ寺へ我等ゟさきへはい入候などゝいふ人候ハゞ、それハミなうそにて候ハん、と存候。其ゆへハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、ゆめともしり不申候。其折ふし、たいこさまびつちうニ、てるもと殿御とり相ニて御入候。それへ、すけニ、あけちこし申候由申候。山さきのかたへとこゝろざし候へバ、おもひのほか、京へと申し候。我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、いゑやすさまとばかり
明智秀満(101)「ルイスフロイス日本史」『人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だがそれは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事であったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智は何らかの根拠を作ろうと欲したかもしれぬし、あるいは、おそらくこの方がより確実だと思われるが、その過度の利欲と野心が募りに募り、ついにはそれが天下の主
明智秀満(100)「信長公記」『明智日向守逆心の事六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、惟任日向守光秀、逆心企て、明智左馬助、明智次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵人佐、是れ等として、談合を相究め、信長を討ち果し、天下の主となるべき調儀を究め、亀山より中国へは三草越えを仕り侯ところを引き返し、東向きに馬の首を並べ、老の山へ上り、山崎より摂津国地を出勢すべきの旨、諸卒に申し触れ、談合の者どもに先手を申し付く。』淡々と出撃準備が続く中で、明智家は不思議な沈黙が支配
※こちらの記事は、令和3年2月20日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は令和2年の大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』第38回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない。歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【『麒麟がくる』の楽しみ方】・第1~2回―当時の三傑と明智家/リアルな戦の描写・第3~4回―
明智秀満(96)「信長公記」『家康公、穴山梅雪、奈良境御見物の事五月廿日、惟住五郎左衛門、堀久太郎、長谷川竹、菅谷玖右衛門四人に徳川家康公御振舞の御仕立仰つけらる。御座敷は高雲寺御殿、家康公、穴山梅雪、石河伯耆、坂井左衛門尉、此の外、家老の衆に御食を下され、忝くも、信長公御自身御膳を居えさせられ、御崇敬斜ならず。御食過ぎ侯て、家康公、御伴衆上下残さず、安土御山へ召し寄せられ、御帷下され、御馳走申すばかりなし。』その頃、庄兵衛と次右衛門は丹後に赴き、忠興と共に
明智秀満(92)『土岐定政伝』『五月、神君、到江州安土城、右信長之所播也。信長命明智(日向守)光秀而、饗応。光秀嘗謂「土岐氏之族而、与定政属従父弟」。以定政従神君而、有功、贈以剱(備前兼光所造)、及、甲冑(以烏糸綴織乃土岐氏之冑也)、馬銜(佐佐木高綱乃生食之)、鎗(名血水)、而通好。』その日の夜、家康のもとに定政が現れた。「おお、藤蔵か、今日はご苦労であったな。」と家康が労うと、「折り入って、殿にご相談がございます。」と言う。「うむ、何か。」と尋ねると
明智秀満(74)「信長公記」『三位中将信忠卿、今度、高遠の名城攻め落し、御手柄御褒美として、梨地蒔御腰物参られ侯。天下の儀も御与奪なさるべき旨、仰せらる。東国御隙入る儀も御座無きに付きて、右の御礼として、三月廿八日、三位中将信忠卿、甲府より諏訪まで御馬を納めらる。今日、以外に時雨、風ありて、寒じたる事、大形ならず。人余多寒死侯ひき。信長公は、諏訪より富土の根かたを御見物なされ、駿河、遠江へ御回り候て、御帰洛なすべきの間、諸卒是れより帰し申し、頭々ばかり御伴仕り侯へ、と
明智秀満(71)信長が上諏訪に陣を布くと、そこに稲葉一鉄が訪れた。甲州征伐で一鉄は織田一門衆と共に信忠先陣の後備として出陣している。この老将は既に68歳にして、今でも棟梁として一門を率いているのだ。事前の申し合わせのうえ、光秀は一鉄の宿舎に訪れた。断られるかとも思ったが、意外にも素直に応じてくれたのである。部屋に入ると、一鉄は庭を見たまま、そっぽを向いている。さすがにむっとして光秀も、何も言わず胡坐をかいた。このへそ曲がりには何度も煮え湯を飲まされている。「
明智秀満(61)正親町天皇の勅命をいただくという大仕事を成し遂げたことに、光秀は大きな満足を覚えていた。朝廷とここまでの信頼関係を築いた家臣は他にいないであろう。安土城下は信濃に向かう先方勢の出陣準備に大わらわである。安土から岐阜、岩村城へ次々と大量の兵糧が送られる。戦を継続するためには何より兵糧が大切なのである。今回の甲州攻めは岩村城が兵站基地となっていた。光秀が登城すると城内は出陣前の特有な緊張感でピリピリしていた。光秀のもとに小姓が慌てて取次に来た。小姓は明らかに
明智秀満(53)「斎藤利三書状(天正10年(1582)1月11日)第2巻所収」『斎藤利三が実兄石谷頼辰の義父、空然(石谷光政)に出した書状。利三が書いた書状は、現在数通しか残されていません。天正3年(1575)頃、織田信長は長宗我部元親に、四国内は元親の切り取り次第という許可を出していましたが、天正9年の後半頃に、土佐と阿波半国しか領有を認めないと通達しました。元親は承知せず、それを諫めるために利三が、石谷頼辰を使者として派遣したと『長宗我部元親記』(寛永8年(
明智秀満(52)「信長公記」『淡路島申し付けらるるの事十一月十七日、羽柴筑前、池田勝九郎両人、淡路島へ人数打ち越し、岩屋へ取り懸け、攻め寄せしのところ、懇望の筋目侯て、池田勝九郎手へ岩屋を相渡し、別条無く申し付く。十一月廿日、姫路に至りて、羽柴筑前守帰陣。池田勝九郎、これも同時に人数打ち納むるなり。淡路島物主、未だ仰せ付けられず侯なり。』秀吉は因幡の鳥取城を兵糧攻めで落とすと、直ちに伯耆に出兵した。羽衣石城の南条元続は吉川元信の鳥取城救援を妨害して
明智秀満㉘「信長公記」『正月朔日、他国衆の御出仕御免なされ、安土にこれある御馬廻衆ばかり、西の御門より東の御門へ御通しなされ、御覧あるべきの旨、上意にて、各々その覚悟仕り侯ところ、夜中より巳刻まで雨降り、御出仕これ無し。安土御構えの北、松原町の西、海端へ付けて、御馬場を築かせられ、元日より、菅屋九右衛門・堀久太郎・長谷川竹両3人御奉行にて、御普請これあり。』坂本城で評定が行われるため、秀満、利三(内蔵助)、光忠(次右衛門)が丹波から駆け付けてきた。
関市の県道59号の北野乙狩線を、武芸川町谷口のバス停分陽寺口から分陽寺までいきました。この道はお局道といわれ、徳川幕府の徳川家光の時に絶大な権力があった春日局が歩いたといわれています。法泉寺から谷口の旧道、さらに県道を通り分陽寺口から参道をいく道がお局道といわれっています。この春日局は分陽寺を再興した斎藤利國の縁続きで、春日局の父斎藤利三で、この縁で局は分陽寺をしばしば参拝したといわれています。いつしかこの道がお局道といわれるようになった。分陽寺は嘉吉元年(1441)土岐氏執権斎藤利永が創建
天正10年(1582)6月2日。夜が明けてきた時分といいますから、時刻は午前5時ごろでしょうか。―早夜ハホノ/\ト明ケニケリ、内ヨリ水吸ノ下部水桶ヲニナイ出ケルガ…(『乙夜之書物』)京都・本能寺に滞在していた織田信長の供廻りで最初に事変を知ったのは、朝一番に寺の門を開けた下男(召使い)だったと云います。朝もやの中、水汲みに向かおうと桶を担いで出た下男の視界に現れたのは、黒い甲冑に身を固めた騎馬武者の群れでした。水色桔梗の旗印は明智の軍勢。すでに寺は囲まれていました。本能寺の変で
明智秀満⑥「福知山市史」『太田牛一の『信長公記』によると、黒井城陥落にあたって信長は光秀に感状を与え、「永々丹波に在国して粉骨をつくし、度々の高名名誉まことに比類がない。」といい、牛一自身も「都鄙の面目これに過ぐべからず」と激賞している。光秀は九月二十二日国領城を攻略し、十月二十四日安土に至り、縮羅百端を献じて信長に丹波・丹後平定を報告している。ここに天正3年以来約五年を費やして丹波攻略を完了したのである。』黒井城陥落の後、光秀は丹波掃討戦を実施していた。
明智秀満③「信長公記」『さる程に、丹波国、波多野館、去年より、維任日向守押し詰め、取り巻き、三里四方に堀をほらせ、塀・柵を丈夫に、幾重も申し付け、攻められ候。籠城の者、既に餓死に及び、初めは、草木の葉を食とし、後には、牛馬を食とし、了簡尽き果てて、無体に罷り出で候を、波多野兄弟三人の者、調略を以て召し取る。六月四日、安土城身上、則ち、慈恩寺町末に、三人の者、張付けにかけさせられ、さすが、思い切り候て、前後神妙の由に候。』天正7年(1579年)、秀満は伝五の
明智秀満①「名将言行録」〇明智光春……明智光安の子、初め三宅彌平治と称す。明智光秀の従父兄弟なり。後、復族して左馬助と改む。天正十年六月十五日死、年四十六。「明智氏一族宮城家相伝系図書」〇光俊‐童名岩千代、三宅弥平次、明智左馬助、本名光春、丹波国桑田郡周山城主、五万石「明智系図鈴木叢書十三所収」〇康秀-童名彦三郎、三宅長閑斎聟、遺跡号三宅弥平次、後左馬助、妻長閑斎女「系図纂要」(喜多村弥平兵衛殿)〇光春-明智弥平次、左馬助、天正
三宅弥平次(91)「信長公記」『寅十二月八日、申の刻より、諸卒伊丹へ取り寄せ、堀久太郎、万見仙千代、菅谷九右衛門両三人奉行として、鉄砲衆を召し列れ、町口へ押し詰め、鉄砲をうたせ、、其の次、御弓衆、平井九右衛門、中野又兵衛、芝山次大夫、三手に分かちて、火矢を射入れ、町を放火仕りべき旨、仰せ出出される。酉の刻より亥の刻まで、近々と取り寄せ、攻められ、壁際にて相支え、万見仙千代討死候。』天正6年(1578年)末、亀山城は完成した。光秀は城代に明智光忠(次右衛門)を任じた
三宅弥平次(89)「信長公記」『維任日向は、直ちに丹波へ相働き、波多野が館取巻き、四方三里がまはりを、維任、一身の手勢を以て取り巻き、堀をほり、塀・柵、幾れも付けさせ、透間もなく、塀際に諸卒、町屋作りに小屋を懸けさせ、廻番を丈夫に警固を申し付け、誠に獣の通いもなく、在陣候なり。』有岡城の包囲が完成すると光秀は庄兵衛と伝五を残し、丹波へ向かった。八上城攻めでは丹波国衆の小畠永明が黒井城との分断のために砦を築き守っていた。永明は光秀が信頼する国衆で、後年「明智