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●延州稽胡の乱この年、北周の延州(もと東夏州。今の延安)稽胡の郝阿保・郝狼皮が北斉に付き、北周に叛乱を起こした。阿保は丞相を、狼皮は柱国大将軍を自称し、別部の劉桑徳と示し合わせて行動した。北周は柱国〔・同州(長安の東北)刺史〕の豆盧寧⑴と〔開府儀同三司・〕延州刺史の羽真琳(高琳)⑵に討伐を命じ、平定に成功した。辛未(9月17日)、北周が〔明帝⑶の弟の〕輔城公邕⑷を魯国公とし、安城公憲⑸を斉国公とし、秦公直を衛国公とし、正平公招を趙国公とし、宇文倹を譙国公とし、宇文純を陳国公とし、宇文盛を
[北周:明帝三年→武成元年北斉:天保十年陳:永定三年後梁:大定五年梁:天啓二年]●元氏の虐殺この月(7月)、北斉の文宣帝⑴が、晋陽に行く前に昭成帝(拓跋什翼犍。道武帝の祖父)以降の元氏に大虐殺を行なった。先祖が王だった者も、高官の身分だった者も、兄弟が権勢を振るっていた者も、みな一様に東市にて斬首された。赤子は空中に放り投げ、槊(長矛)で受け止めて殺した。死者は七百二十一人にも及んだ。死体はことごとく漳水(鄴の近くに流れる川)に棄てた。のち、漳水で獲れた魚の中から頻繁に人の爪が出て
●吐谷渾撃破閏4月、乙卯(29日)、北周の大司馬・柱国大将軍の賀蘭祥⑴らが開府儀同三司・渭州刺史の于翼⑵と開府儀同三司〔・南夏州刺史?〕の梁台⑶を先鋒とし、吐谷渾と戦った。吐谷渾は広定王・鐘留王らを派してこれを迎撃した。祥らはこれを撃退して洮陽と洪和の二城⑷を攻め陥として帰還した。この戦いの功績により、大将軍の楊寛⑸・韓果⑹・宇文盛⑺は子が県公とされた。開府儀同三司の高琳⑻も子が県公とされ、自身は延州(現在の延安)刺史とされた。開府儀同三司の于翼は千二百戸を加増された。開府儀同三司・
[北周:明帝三年→武成元年北斉:天保十年陳:永定三年後梁:大定五年梁:天啓二年]●宇文護、明王に政権を返す春、正月、丁酉(9日)、陳が〔持節・通直散騎常侍・都督広交越成定明新高合羅愛建徳宜黄利安石双十九州諸軍事・〕鎮南将軍・〔平越中郎将・〕広州刺史〔・始興県侯〕の欧陽頠⑴を散騎常侍に進め、都督州諸軍事に衡州を追加し、更に開府儀同三司とした。この時、〔梁の大将軍の〕王琳⑵が長江の中流に割拠していたが、頠は海路や東嶺経由で、絶え間なく陳に使者を送り続けた。この日の夜、大雪が降っ
●新三台の完成○北斉文宣紀先是,發丁匠三十餘萬營三臺於鄴下,因其舊基而高博之,大起宮室及遊豫園。至是,三臺成,改銅爵曰金鳳,金獸曰聖應,氷井曰崇光。十一月甲午,帝至自晉陽,登三臺,御乾象殿,朝讌羣臣,並命賦詩。以新宮成,丁酉,大赦,內外文武普汎一大階。丁巳,梁湘州刺史王琳遣使請立蕭莊為梁主,仍以江州內屬,令莊居之。○北斉37魏収伝三臺成,文宣曰:「臺成須有賦。」愔先以告收,收上皇居新殿臺賦,其文甚壯麗。時所作者,自邢卲已下咸不逮焉。收上賦前數日乃告卲。卲後告人曰:「收甚惡人,不早言之
[北周:明帝二年北斉:天保九年陳:永定二年後梁:大定四年梁:天成四年→天啓元年]●宇文護、太師となる春、正月、乙未(1日)、陳が車騎将軍(一階)・開府儀同三司の侯瑱⑴を司空とした。また、中権将軍(二階)・開府儀同三司・左光禄大夫の王沖⑵を太子少傅とし、左衛将軍(二千石)の徐世譜⑶を護軍将軍(中二千石)とし、安東将軍・南兗州刺史の呉明徹⑷を安南将軍(四階)とし、使持節・通直散騎常侍・都督衡州諸軍事・安南将軍(四階)・衡州刺史の欧陽頠⑸を都督広交越成定明新高合羅愛建徳宜黄利安石双十九州
●譙淹の最期〔これより前、譙淹⑴は西魏に対し、蜀東部にて粘り強い抵抗を続けていた。〕この時(通鑑がここにこの記事を置いている理由は不明)、淹は北周の圧迫に堪えられなくなり、王開業⑵・帛玉成⑶・侯造らと共に七千の水軍と疲れ弱った三万の家族を率い、墊江(合州。今の重慶の北)より東下して王琳のもとに逃れようとした。北周は開府儀同三司〔・金州都督・七州諸軍事・金州刺史〕の賀若敦⑷と叱羅暉・〔羅州刺史の〕扶猛⑸らにこれを迎え撃たせた。淹は敗北を喫すると山に砦を作って立て籠り、南方にいる蛮帥の向白虎⑹
[北周:閔帝元年→明帝元年北斉:天保八年梁:太平二年→陳:永定元年後梁:大定三年]●合肥攻撃これより前、北斉は合州(合肥)刺史の封子絵⑴を大使とし、艦船の建造を監督させていた《北斉21封子絵伝》。庚午(2月1日)、梁の〔鎮右将軍(三階)・〕領軍将軍・〔南徐州縁江諸軍事〕の徐度⑵が軽船を率いて柵口(濡須口)より東関(合肥の東南)を経て巣湖(合肥の南にある湖)に入り(北斉21封子絵伝)、北斉領を侵した。戊子(19日)の初更(19~20時)に、夜陰に紛れて合肥に到り、北斉の艦船三千
●侯平叛す〔これより前、王琳⑴の別将の侯平⑵は水軍を率いて後梁(西魏の傀儡国。首都は江陵)の攻撃に赴いていた(555年正月参照)。侯平は後梁の巴州と武州を攻め、刺史の莫勇と魏永寿を捕らえた(555年5月1日参照)。西魏が大将軍の豆盧寧を派遣し(555年11月参照)、後梁が公安を攻めると、侯平は長沙王韶と共に長沙に逃げ帰った。王琳は平に巴州を守備させた(556年2月参照)。〕平は長江を渡ることはできなかったが、何度も後梁軍を撃破した。しかし、琳は平を支援しようとしなかった。これに不満を覚えた
[西魏:恭帝二年北斉:天保六年梁(蕭方智):承聖四年→紹泰元年梁(蕭詧):大定元年梁(蕭淵明):天成元年]●北斉、またも長城を築く6月、庚戌朔(1日)《出典不明》、北斉が百八十万の人夫を動員し、幽州の北の下口[1]より恒州に至る九百余里に長城を築いた《北斉文宣紀》。この時、北斉は撫軍将軍・六州大都督・定州刺史の趙郡王叡に山東の兵数万を与え、長城建設の監督をさせた。当時、季節は盛夏の六月だったが、叡は道中己に日除けの物をかざさせず、兵士たちと労苦を共にした。当時、定州には氷室があ
[西魏:廃帝三年→恭帝元年北斉:天保五年梁:承聖三年]●山胡討伐春、正月、癸巳(6日)、北斉の文宣帝(高洋。時に29歳)が離石(西汾州)道より山胡の討伐に赴いた。この時、帝は太師・咸陽王の斛律金(字は阿六敦。高歓の盟友。553年〈3〉参照)を顕州[1]道に、常山王演(字は延安。高歓の第六子で、文宣帝の同母弟。時に20歳)を晋州(平陽)道に派し、山胡を挟み撃ちにして大破した。〔手に入れた捕虜の内、〕十三歳以上の男は皆殺しにし[2]、女と子どもは奴隷として将兵に与えた。殺された者は数万に上
[西魏:廃帝二年北斉:天保四年梁:承聖二年梁蜀:天正二年]●建康か、江陵か庚子(8月10日)、元帝(蕭繹)が建康に都を戻す詔を下した《梁元帝紀》。ただ、帝は荊州を治めること前後合わせて二十余年にも上り(南34周弘正伝)、荊州に愛着があったため、内心気乗りしていなかった。また、この時、梁の群臣の多くは荊州人であり、彼らはみな地元の江陵に都を置くことを望んでいた。そこで、領軍将軍の胡僧祐⑴・太府卿の黄羅漢⑵・吏部尚書の宗懍⑶・御史中丞の劉瑴⑷らが諫言して言った。「建康は故都ではあります
●陳覇先、独断で広陵を攻囲す6月己亥(3日)〈北史北斉文宣紀。北斉文宣紀では乙亥(?日)〉、〔北斉の南道大都督の〕清河王岳(字は洪略。文宣帝の父・高歓の従父弟。高歓の死後、多くの戦いで総指揮官を務めた。552年〈2〉参照)らが〔南伐を終え、〕鄴に引き返した(3月20日に南伐を開始していた)。丁未(11日)、北斉の文宣帝(高洋)が晋陽より鄴に到った。乙卯(19日)、晋陽に戻った《北斉文宣紀》。庚寅(?日)、梁の相国の湘東王繹(字は世誠。武帝の第七子。552年〈3〉参照)が南安侯方矩
●梁州の攻防〔これより前、西魏の雍州刺史(元和郡県図志22鳳州)・大将軍の達奚武(字は成興。十二大将軍の一人。沙苑の戦いでは敵陣に大胆不敵な偵察を敢行し、河橋の戦いでは先鋒を任されて莫多婁貸文・高敖曹を斬り、邙山の戦いでは東魏軍の追撃を食い止めた。551年〈4〉参照)は三万の兵を率いて梁の梁州の攻略を命じられていた。〕武は陳倉(散関の東北)路より回車戍(唐の鳳州梁泉県の西北六十里にある)を攻略した《元和郡県図志22鳳州》。このとき、武は大行台尚書・大都督の王悦(字は衆喜。もと大行台左丞。玉
[西魏:廃帝元年北斉:天保三年侯漢:太始二年梁(湘東王繹):太清六年→承聖元年梁(武陵王紀):天正元年]●朝士、王僧弁を迎う戊子(3月20日)、侯景⑴の残兵が〔梁の征東将軍・江州刺史の〕王僧弁⑵に景の逃亡を告げると、僧弁は台城に向かった。これより前、僧弁は東討に赴く際、湘東王繹⑶にこう言われていた。「建康に辿り着いた時、誰が真っ先に迎えに来るであろうか?」僧弁は答えて言った。「周弘正⑷ではないでしょうか。弘正は目端が利き、すぐに駆けつけられる脚力もあり、妻子を見捨てるこ
●豫章王棟の即位壬戌(8月21日)、梁の豫章王棟(字は元吉。武帝の長子・昭明太子統の孫。551年〈3〉参照)が〔簡文帝(蕭綱)に代わって〕帝位に即いた【考異曰く、典略には『壬辰』とあるが、8月に壬辰は無い。今は太清紀の記述に従った】。棟は大赦を行ない、年号を大宝から天正に改めた(以後、棟を便宜的に『天正帝』と呼ぶ)。太尉の郭元建(北道行台・総江北諸軍事。551年〈1〉参照)はこれを聞くと、秦郡(西兗州。建康の北)より馬を飛ばして建康に赴き、〔相国・宇宙大将軍・都督六合諸軍事・漢王の〕侯景
[西魏:大統十六年東魏:武定八年→北斉:天保元年梁(侯景):大宝元年梁(湘東王繹):太清四年]┃忠臣、なお讒言を受く己卯(10月3日)、北斉の文宣帝(高洋)が金輅(皇帝用の黄金づくりの馬車)に乗って晋陽宮に入り、内殿にて皇太后(婁昭君)に拝謁した。この時、并州刺史の段韶(字は孝先。段栄と婁昭君の姉の間に生まれた智勇兼備の将。550年〈3〉参照)と仲違いしていた広武王長弼(高歓の従祖兄の子で、高永楽〈東魏の猛将の高敖曹を見殺しにした〉の弟。粗暴で辺り構わず人を殴った。550年〈3〉
[西魏:大統十六年東魏:武定八年→北斉:天保元年梁(侯景):大宝元年梁(湘東王繹):太清四年]●西魏、大挙東伐の軍を起こすこれより前、西魏の丞相の宇文泰は潁川を失うと関中に引き籠り、時機が来るのを待った。のち、高澄が死んだ事を知ると天が高氏を滅ぼそうとしているのだと考え、喜びを抑えきれなかった。のち、高洋が即位した事を知ると左右にこう言った。「高洋は一豎子(青二才)に過ぎず、その才能は父や兄に遠く及ばぬのに、帝位を簒奪した。これは自ら破滅の道を選び取ったものである。私が大軍を率い、