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海軍神風特別攻撃隊敷島隊第二番機中野磐雄一飛曹(なかのいわお)19歳、福島県出身1944年10月25日フィリピンマバラカット基地より出撃、散華。特攻出撃戦死後二階級特進、海軍少尉中野磐雄少尉のために絵を描きました。零式艦上戦闘機↓下描き↓背景から↓背景、仕上げ↓零戦の途中↓完成中野磐雄少尉のために…※『中野磐雄少尉のために零戦を描いた』という意味ですので、詳しい型式は私にはわかりません。※『何故急に二番機を描いたのですか?』とか質問はしないでくださいね…
ご来訪ありがとうございます…第二次世界大戦…神風特攻隊…その指示を出した人とその後…言葉が…出ません…これを…ご覧になり…こいつは右翼か…そう言われても結構です…立場を全うすることと…責任の取り方…これこそ日本人だと…思います…
今日10月25日は大日本帝国海軍敷島隊が特攻を完遂させた日特攻隊員たちの78度目の命日です或るご縁から私が中野磐雄少尉(以下磐雄兄もしくは兄と呼ばせて頂きます)とコンタクトを取らせて頂き、随分の月日が経ちます私が突然の流れから1年半ほど磐雄兄が幼少期を過ごした福島県原町市(現在の南相馬市)で暮らした、奇妙な縁単身赴任を終え伊達市の自宅に帰ってから特攻についてのコンタクトが始まり磐雄兄の生家を訪ねる為、原町市を訪ねて初めに行き着いた場所でのこと車を停めて、先ずは誰か
78年前の今日、日本海軍の神風特別攻撃隊・敷島隊の若き5人が散華した日である😢我が愛媛・西条市出身の関行男大尉/神風特別攻撃隊、最初の指揮官として爆装零戦(250kg爆弾を装備した零戦)に搭乗し部下と共に敵護衛空母に突入し散華された😭西条市の楢本神社に五軍神慰霊碑が建立され、神風特攻記念館もある。10月25日の当日には行けて無いが、過去に数回慰霊に足を運んでる🙏国を想い我が身を捧げ散華された若き隊員の御霊の御冥福を心よりお祈り致します😢🙏https://ameblo.jp/ehimer
昭和19年10月25日初めての特攻がありましたレイテ沖海戦です敷島隊二番機の搭乗員中野磐雄(行年19)もこの海戦で己が人生に別れを告げました御神意そして魂からのご縁で中野磐雄兄とは節目節目でコンタクトをして参りましたが先ほど急に…届くこと叶う人々へ届けてくださいとのことでしたので中野磐雄兄ご本人の意向のもとメッセージをお届けします‘’中野磐雄からのメッセージ‘’明日を考えることを許されなかった。母の名前を呼ぶことさえ叶わなかった。明日のない日常がどんななのか
呂41は呂35型の7番艦で、1943年11月26日に就役。第34潜水隊に編入後、トラックに進出。画像は呂35その後哨戒・輸送任務に従事。一度呉に帰投し整備を受け、1944年9月18日呉を出港。10月3日朝、呂41はモロタイ島東方海上で敵空母部隊を発見。この部隊77.1.2任務群で、護衛空母ファンショー・ベイとミッドウェイを有しています。ファンショー・ベイミッドウェイ呂41はこの空母に向け魚
https://ameblo.jp/pw20twhq/entry-12758570271.html『キューピーストラップでまさかの…』ネットで『陸軍キューピー』ストラップを見つけました。↑『陸軍搭乗員』ストラップ『ほしい!』と思ったのですが、↑こっちの『陸軍士官キューピー』もかわいい!2つ欲…ameblo.jpれいこちゃんの記事見てたら・・💡俺んの海軍さん😁👍愛車に付けとる😃👌ストラップ変えたりして😁👍関行男大尉と五軍神(楢本神社)の(購入)御守り、も一つあるんよ😃👍要る人あった
神風特別攻撃隊敷島隊の戦果は、大本営発表のラジオ放送とともに新聞でも大々的に報じられ、関は軍神と持ち上げられ、関の母サカエもまた持ち上げられたが、日本の敗戦とともに価値観は180度変わり、世間はサカエに辛く当たるほんとうに見事な掌返しなのだそれまで草餅の行商で生計を立てていたものの、その行商も立ち行かなくなり、知人の紹介でとある中学校の用務員となるなんとか生活できる薄給でも、彼女は手を抜かず、生徒達の給食を賄い、職員室は常に清潔に保たれていた救いと言えるかどうかはわからないが、生徒達
1944年10月25日フィリピンのレイテ湾サマール島沖で、関行男大尉を隊長とする、神風(しんぷう)特別攻撃隊敷島隊の五機がアメリカ海軍の艦隊へ攻撃を敢行したこのころの旧日本海軍は、航空母艦のほとんどを失い、航空母艦を中心とした艦隊の運用は実質されていないそのため、零戦をはじめとした航空戦力は、その大半を陸上基地へと移し、部隊の再編成を繰り返していた1944年10月20日第一航空艦隊司令の任に就いた大西瀧治郎中将は、日に日に悪化する戦局を立て直す時間の猶予を得るため、一時的な戦術とし
我が愛媛・西条市に建立されてる五軍神慰霊碑本日10月25日は大東亜戦争後期、日米が激突したレイテ沖海戦(捷一号作戦・日本海軍史上最大の作戦)において艦隊進撃に呼応して「神風特別攻撃隊」が編成され、隊長・関行男大尉率いる敷島隊五人が散華した日である😢昭和19年10月25日・・77年前の今日、零戦の機体に250kg爆弾を抱き、機体モロ共敵艦に体当たり攻撃を敢行するという壮烈無比の神風特別攻撃隊の若き隊員達😣※フィリピン・マバラカット基地より250kg爆弾を抱き出撃する零戦を見送った❗️レイ
おはようございます☀そして、お久しぶりです🙇♀️気温も下がり朝晩は冷え込みますが、皆様如何お過ごしでいらっしゃいましょうか?朝晩と昼間の温度差が激しいので、お互いに体調に気を付けましょうさて、今日は何の日でしょう?はい、今日は帝国海軍の神風特攻隊の一隊である敷島隊がレイテ沖海戦にて、セント・ローと護衛空母3隻を撃沈撃破した日であります。↓↓↓(敷島隊の特攻を受け、沈没してるセント・ロー。※©Wikipedia:関行男)敷島隊の5名は、関幸男中佐・海軍一等飛行兵曹の中野磐英雄さ
こんにちは!10月なのに暑すぎます🥵💦今日も暑くて冷房を付けてしまいました💧皆様の所は如何でしょうか?関東・東北の皆様は台風の被害などは大丈夫ですか?さて、本題に入ります🙇♀️昨夜、夢に敷島隊・ほがらか隊の皆様・安部正也少尉・飛虎将軍こと杉浦茂峰少尉・篠原弘道少尉が出てきました。皆様、ニコニコ微笑んでいて楽しそうに談笑していました何故か私も一緒に飲もうと誘われ、彼らの輪の中に入っていました🤯そして、彼らに"アメリカ人との混血ではないです!!ドイツとユダヤ系オーストラリア人と韓
こんばんは!お久しぶりです皆様、如何お過ごしでしょうか?私は水曜日にコロナワクチンの2回目を接種し終え、昨日今日でぶっ倒れてました🤒今は微熱に治まり、頭痛もEVELUNAを飲んで良くなりました昨日今日で色々なことを考えて、その中の一つにコロナが落ち着いたら何がしたい・何をしようかなと考えてました。したいこと・行きたい所が山ほどあり、数えられないですが…その中の一つとして、愛媛の西条市にある楢本神社に行くことです。↓↓↓楢本神社は、一応最初の特攻隊と言われている敷島隊の5名の慰
楢本神社の奉賛会から郵便物が届いた❗これ+収支決算表コロナのせいで去年に続き今年も追悼式は中止だそうな😞過去三度程慰霊に足を運んだ楢本神社(西条市)の五軍神慰霊碑🙏https://gamp.ameblo.jp/ehimerekitan/entry-12414403364.html神風特別攻撃隊五軍神|れきたんくんのブログgamp.ameblo.jp※2年前も西条海軍航空隊跡探訪の帰りに訪ねた。https://gamp.ameblo.jp/ehimerekitan/entr
今日は76年前、神風特別攻撃隊(敷島隊)が米空母に突入し散華した日である❗️↑神風特別攻撃隊(敷島隊)最初の指揮官、我が愛媛・西条市出身の関行男大尉と部下4名が壮烈無比な攻撃により散華した😭敷島隊の出撃の様子が遺されている❗敷島隊の1機が護衛空母セント・ローに突入した瞬間を捉えた一枚😭大和や武蔵の大艦隊を投入して行われた史上最大の捷一号作戦よりも、僅か五機で行われた神風特別攻撃隊による戦果の方が大きかった❗️本望では無かったであろう特攻攻撃により若き命をかけて国の為に殉じた多くの御霊
今日は終戦記念日。今回は、最近購入した本を紹介したいと思います。株式会社ダイアプレス忘れえぬ特攻の記録十死零生、体当たり攻撃に命を賭けた男達の物語です。“THEHISTORYOFUNFORGETTABLEKAMIKAZEATTACKMEMORY”自分が学校で日本史を習ってた頃、「特攻」のことは、あまり触れられることもなく、第2次世界大戦のことすら、サラッと流す程度でした。今でもそうでしょうか?1年に1度くらいは、このような
今年は戦後75年になります。毎年この時期になると平和について、戦争体験者からの講演やテレビ番組が放映されます。今回は私が長年疑問に思っていた神風特攻隊員の搭乗者の名前が判明しました。今年の終戦特集ブログは、その判明した神風特攻隊員のお話です。NHKBSで放映されていた、「零戦搭乗員たちが見つめた太平洋戦争-後編-」より。2013年の再放送ですがレポーターは織田信長役の染谷将太。神風特別攻撃隊。もう説明は不要ですね。日本が誇る零式戦闘機。
こんばんは、観相師ふかマンです。皆さん今週も仕事お疲れさまでした。(週末も業務方々、お疲れさまです)今、陸海空の観相記事をあげようとしてる途中ですが。間に挟んでの今話題。前から、度々日本海軍航空隊の最終選抜時。海軍嘱託(尉官扱い)観相師、水野義人さんという方を通して、航空隊入隊、入隊後の配置決定を行っていた。という記事を挙げていました。今、本腰入れて調査していますが。(防衛省に行ったのもその事で(^_^)a)様々な証言も集めてます。その中の一つを挙げます。戦艦『陸奥』の主
本日30日、NHKNEWSWEBより【旧日本軍の「特攻」で沈没米空母の海底映像公開】との報道がありました!/( ̄へ ̄)旧日本軍の「特攻」で沈没米空母の海底映像公開2019年10月30日10時29分NHKNEWSWEB75年前の昭和19年に旧日本軍が初めて行った飛行機による体当たり攻撃、いわゆる「特攻」を受けて沈没したアメリカ海軍の空母をアメリカのチームがフィリピン海の海底で発見し、その映像を公開しました。アメリカ海軍の小型空母「セント・ロー」は、太平洋戦争で輸送船の
最短1250キロの難関五重塔巡るスタンプラリー朝日新聞社西日本の寺社にある五重塔を巡るスタンプラリーが開催中だ。世界遺産の厳島神社(広島県)や、瑠璃光寺(山口県)の国宝など10カ所の五重塔が対象。空海の..毛槍の妙技に歓声熊野神社の相知くんちで「羽熊行列」唐津市/佐賀毎日新聞江戸時代の唐津藩主・小笠原氏が参勤交代するときの大名行列を模したといわれている「羽熊(はぐま)行列」(唐津市指定重要無形民俗文化財)が19日、同市...「戦争は一つも利益ない」神風特攻隊、初
本日は太平洋戦争後期、日本海軍史上最大の作戦と云われた捷一号作戦(レイテ沖海戦)で、神風特別攻撃隊最初の一隊・敷島隊の五人が散華した日である😢神風特別攻撃隊最初の指揮官に選ばれた関行男大尉艦隊のレイテ湾突入に呼応して、零戦に250キロ爆弾を抱いた特攻機を敵空母に体当たりさせるという壮烈無比の作戦であった😢フィリピン・マバラカット基地を発進した関大尉率いる敷島隊は、サマール島沖で米軍機と対空戦闘中の戦艦大和旗艦の栗田艦隊(主力部隊)を視認!その先に米護衛空母群を発見し、超低空で接近し突入
75年前の10月25日午前7時25分、フィリピンマニラ北方にあるマバラカット基地より飛び立った零戦5機、同10時50分米国艦隊を発見すると何のためらいもなく、指揮官関行男大尉を先頭に航空母艦めがけて突入した。・・・特攻隊の先駆けとなった敷島隊は次の五名である。一番機・指揮官は関行男大尉(23歳)二番機・谷暢一(20歳)三番機・中野磐雄(19歳)四番機・永峰肇(19歳)五番機・大黒繁男(20歳)米国資料によると1隻撃沈、3隻撃破とあり
きみに贈る映画100選No.071雷撃隊出動1944東宝今回から数回にわたり、この映画を軸に「特攻」について述べる。1944年10月25日。この日、最初のカミカゼが米空母に突入した。特攻については過去にも何度か触れてきた。今回はそれらと重複する記述もいとわずに、総論としてまとめようと思う。100選も3分の2を過ぎたことだし、この命題について詳しく述べるのはこれが最後になるだろう。だから今回は、たぶんしつこい。なおあらかじめ書いておくが、この作品
第232号神風特別攻撃隊敷島隊風特攻一番機、男気溢れる関行男中佐。そして涙の遺書。隊長大尉行年23歳島隊二番機中野磐雄の決死の特攻。そして涙の遺書。隊員一飛曹行年19歳敷島隊3番機・御仏の子谷暢夫・隊員一飛曹行年20歳敷島隊3番機・谷暢夫の母の想ひ敷島隊4番機・若獅子永峯肇飛行兵長,若くして征く。また涙。隊員飛行兵長行年19歳『南漠にたとへこの身が果つるともいくとせ後の春を想えば』敷島隊5番機の若獅子
神風特攻隊】最初の特攻兵長「関行男」の伝説風特攻一番機、男気溢れる関行男中佐。そして涙の遺書。【航空自衛隊】軍神と呼ばれた神風特攻…遺品から関行男の素顔と生き様とは?第232号神風特別攻撃隊敷島隊日本海軍軍神関行男中佐(神風特攻隊敷島隊隊長)の慰霊飛行関行男
マニラ北北西60キロのパンパンガ州マバラカット市、神風誕生の地。1944年10月20日、大西中将がマバラカット基地で、神風(シンプウ)特別突撃隊を組織。10月21日「敷島隊」はマバラカット西飛行場、「朝日隊」はマバラカット東飛行場より出撃。10月24日迄、悪天候に阻まれ、連日出撃も成果なし。10月25日マバラカット東飛行場から「敷島隊」出撃、初の特攻成功。マニラから、バスで1時間半、ダオターミナルで下車。そこから北へジプニーで20分、マバラカット東飛行場跡(通称カミカゼイースト)
「神風特別攻撃隊」の本当の戦果をご存じか?一隻撃沈のために、81人の命が犠牲に…特攻。今日では美化されて語られることの多い「十死零生」のこの作戦。一方で、はたしてその戦果がどの程度だったのか、が語られることは少ない。毎日新聞記者・栗原俊雄氏が、ある特攻隊員の証言と史料をもとに、歴史の闇に斬り込む。(前編はこちらから)「特攻の記憶」目の前に、「桜花」を抱いた一式陸上攻撃機(一式陸攻)が飛んでいた。護衛のゼロ戦に乗っていた野中剛(1925年生まれ)は突然、「耳元でバケツを打ち鳴らされたような音
特攻〔前文〕・初の神風特別攻撃隊を送り出した大西瀧治郎中将は、大日本帝国海軍航空部隊を育てた一人である。・しかも、航空特攻を「統率の外道」と認識していた。それでもなぜ、大西は特攻を推進し、続けたのだろうか。・まず言えるのは、大西のみならず海軍全体、そして陸軍にも共通することだが、1944年10月の時点では、米軍を主軸とする連合国軍に対して通常の作戦では太刀打ちできなくなっていた、ということだ。・たとえば特攻が始まる1944年10月に先立つ7月、サイパン近海で両海軍が激突した「マリアナ沖
仕事場のご婦人の一人が事情で辞めることに・・・・。とても残念です。でもとにかく、ささやかながら、海浜幕張駅近くのイタリアン・レストランで送別の儀を。粗餐を囲みつつ(けっこう豪華だったが)別れの杯をかわし(飲み放題だったが)敷島隊を送り出す大西中将の心情もかくやの私は、客観的には女子会に混入した不純物に見えたかもしれません。送る者と送られる者と、互いに幸多かれ、前途燦然たれと祈りつつ、「気が向いたらまた戻っておいで」と惜別の情やみがたくも、ついでに腹いっぱいになって、ちょっと飲みすぎに