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蘇我本家は、越前国造の蘇我(宗我・曽我)若長からとなり、武内宿禰大田根の子孫で、出雲王国の富家とも親族となり、出雲市宗我町(曽我町)の出自を由来とするため、「蘇我」(宗我・曽我)と名乗ります。大和の蘇我(曽我)氏、河内の石川臣氏とは、縁戚になるものの、本家となる蘇我氏はこちらになるのであります。ちなみに、馬子(石川臣稲目、麻古)や蝦夷(石川臣雄正)、入鹿(石川臣林太郎)は捏造された人物で、そのモデルの人物は巨勢臣に養子に入った石川臣氏になりますが、藤原不比等の指示により、中臣家にとっ
飛鳥時代における権力闘争も凄まじく、蘇我系VS石川系VS息長(おきなが)系の構図であったわけです。このいずれの氏の妃の子が、天皇になるのかにおいて熾烈な争いが繰り広げられるわけです。蘇我氏と石川氏(河内石川氏)は、武内宿禰大田根命を通じての親戚同士ではあっても、三国国造家の蘇我本家は、元々は旧東出雲王国・磯城登美(富)家の分家であり、石川氏とは、系統が違う氏族となります。ちなみに、記紀における蘇我馬子、蝦夷、入鹿の蘇我氏は創作上の人物たちで、実在の石川氏が、そのモデルになってい
第三十代敏達(びだつ)天皇は大和時代の天皇です。御父欽明天皇の第二皇子、御母は宣化天皇の皇女で欽明天皇の皇后石姫。異母弟に聖徳太子の父である用明天皇と崇峻天皇、また異母妹の額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、古事記では豊御食炊屋比賣命(とよみけのかしきやのひめのみこと)は、後に敏達天皇の二番目の皇后となり、また即位もされる後の推古天皇ですが、いずれも母方が蘇我氏である蘇我系の異母兄弟達です。※当時は異母姉妹との結婚は普通。ただし同母姉妹とは禁止。御名は渟中倉太珠敷命(ぬなくらのふとたましき
9月14日が命日・忌日の有名人・著名人585年(敏達天皇14年8月15日)47歳崩御(?)敏達天皇陛下第30代天皇欽明天皇の第二皇子1164年(長寛2年8月26日)45歳崩御(?)崇徳天皇陛下第75代天皇鳥羽天皇の第一皇子1321年56歳没(マラリア)ダンテさん詩人『神曲』1712年87年没(?)ジョヴァンニ・カッシーニさん天文学者土星探査機カッシーニ1901年没(暗殺)ウィリアム・マッキンリーさん第25代アメリカ合衆国大統領1982年満52歳没
7月に似顔絵で訪れた滋賀県長浜市。仕事前の古墳巡り!暑さと虫の勢いにヘロヘロになりながらも7基ほど巡ることができました最後は、長浜市のお隣の米原市の古墳。茶臼山古墳などがある横山という丘陵地の米原市側にある古墳です。古墳というか陵墓です!いつもの陵墓の屋根付き看板と鳥居この組み合わせを見ると無性に安心するのは何故!?宮内庁によると、ここは第30代の敏達天皇の皇后、息長広姫の陵墓とされています。息長陵|滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!
弓削神社(東弓削)と弓削道鏡・橘諸兄弓削神社(東弓削)八尾市観光データベースwww.yaomania.jp以前に、東西の弓削神社、二社に参拝させて頂いております。この内の弓削神社(東)の付近一帯が、出雲から河内へと戻ってきた弓削王の一族の本拠地になったのではないかと考えています。山背大兄王・弓削王が出雲へと逃れていたことにつきましては、下記をご参考下さい。『西ノ山古墳(八尾市楽音寺)の被葬者の新たな推論について[隼別天皇陵墓説]・1-4』西ノ山古墳(八尾市楽音
みなさんおはようございます~(^_^)朝、4時30分はまだ暗いですね拝殿、祭神は敏達天皇、五條大神、少彦名命扁額は五條大神です本殿今の御朱印お稲荷さんです祭神は乗光、八王子、福永大明神です七神合堂です、祭神は色々~狛犬さん~浪速狛犬さんです傷みがかなり来てます文政の狛犬さんです手水舎、龍の角が長い石碑に書いてる文字、春風醸太和春のそよ風がおおらかな和みを醸し出すらしい正直?、、、だけ?今日は病院から散歩して戻る~最高気温38℃だからな~
大阪市天王寺区真法院町五條宮結局、天王寺から近鉄上本町迄歩きました。
「3歴代ノ天皇(その30)」今日は、清洲城みなさん、おはようございます國と國との交渉は命がけです國民の生活、将来に直結するのですオカシイみなさんも諦めず日々是〇◎運のいい國にして生きましょうウキウキ卯月四月!できることはあるはずです笑顔で楽しく國史を学び家族の教育力向上ご自身の向上にお役に立てれば幸いですコメントお待ちしています!4月20日は織田信長が清洲城へ移りました信長は清洲城から桶狭間の戦いに出陣し天下を取り
【(息長)広姫の子押坂彦人大兄皇子】押坂彦人大兄皇子は息長家のエースである。『日本書紀』には、敏達天皇の初代皇后広姫(息長真手王の女)所生と記されている。広姫は息長真手王の娘で敏達天皇の皇后となり、所生には押坂彦人大兄皇子の他、逆登皇女、兎道磯津貝皇女がいる。敏達紀4年11月条に薨去の記事が載る。この時代は敏達天皇自身が反仏教の立場をとっており(即位前紀に「天皇不信仏法而愛文史」とある)、流行した疫病をめぐり排仏派と崇仏派の争いが激化し始めた時期である。物部氏と蘇我氏の争い
【「息長」という名の天皇】古事記は推古天皇までが描かれているが、敏達記に追記されている日子人太子の系譜に、息子として出てくる「坐岡本宮治天下之天皇」は舒明天皇のこと。日子人太子の系譜によって舒明天皇以降の時代に接続されている。古事記は推古天皇までを「古事」=前の王朝の時代としてとらえて記された書である。中国で前の王朝までの歴史を記す慣習があったことに倣ったのであろう。古事記は神武天皇から推古天皇までを「前王朝」とし、舒明天皇以降を「今の王朝」と意識している。今の王朝の最初の天
【『古事記』読破】通勤電車の中で古代史の勉強を開始した。『古事記』から読み始め、はじめはなかなか頭に入ってこなかったが、そのうちに人名(神名も含めて)を気にせずに読むようになると、1か月ほどで読み終えたと記憶している。最初に読み終えた時の印象が、今でも古代史のとらえ方に大きな影響を与えている。【息長氏が重要な役割を与えられている】最も強く感じたことは、『古事記』が氏族の中で息長氏を特別扱いしていること。『古事記』は正史として元明天皇に捧げられているので、天皇が主役であるの
☆三吉陵墓参考地(新木山古墳)(にきやまこふん)大和国廣瀬郡奈良県北葛城郡広陵町三吉(西側隣接の三吉石塚古墳にP有り)■形状前方後円墳*三段築成か(未調査)*葺石らしき石が散在■全長200m*周濠有り*両括れ部に造出有り■築造時期5世紀前半■埋葬施設(未調査)■出土品円筒埴輪、形象埴輪らしきもの、勾玉、管玉、棗玉、土師器釜、須恵器鉢、瓦器皿、瓦器椀、瓦質土器(ただし土師器釜以降は三吉石塚古墳のものが紛れている可能性有り)■周辺の状況*「馬見古墳群」中央
-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.be東日本と西日本青森と安倍氏天武天皇の第一皇子高市皇子の血をひく高市氏色々キーワードが出てきますね9代天皇の開化天皇の孫に阿部(安倍)氏が誕生します年代的には縄文弥生時代ですね当時の日本の中心地は青森あたりであったと(三内丸山遺跡)高市皇子の父第41代天武天皇は我が元祖第30代敏達天皇の玄孫うーん親戚
9月14日その2誕生日1935年-赤塚不二夫、漫画家(+2008年)1965年-ドミートリー・メドヴェージェフ、政治家1949年-矢沢永吉、ミュージシャン忌日585年(敏達天皇14年8月15日)-敏達天皇、第30代天皇(*538年?)1155年(久寿2年8月16日)-源義賢、平安時代末期の武将1164年(長寛2年8月26日)-崇徳天皇、第75代天皇(*1119年)1982年-グレース・ケリー、俳優(*1928年)モナコ公国公妃
「37第三十四代舒明天皇」今日は、禁門の変みなさん、おはようございます7月19日は禁門の変長州は幕府に敗れ朝敵となりました長州にとって一番苦しい時期ですアリガトウ『開運ノ國史』「第三十四代舒明天皇」です第三十四代舒明天皇御名、田村皇子息長足日広額尊たむらのみこおきながたらしひひろぬかのみこ敏達天皇(三十代)の孫です大臣、蘇我蝦夷皇弟、茅渟王(ちぬおう)大坂拠点としますその娘は、皇極天皇(三十五代)皇子、天智天皇(三十八代)
「33第三十代敏達天皇」今日は、嵯峨天皇、崩御みなさん、おはようございます7月15日は嵯峨天皇(五十二代)、崩御空海、橘逸勢とともに三筆空海に教王護国寺(東寺)を下賜されました東京はお盆ですご先祖様に感謝しましょうトランプさんを安倍さんが助けたとのことおそらく本当でしょうアリガトウ『開運ノ國史』「第三十代敏達天皇」です第三十代敏達天皇御名、沼名倉太玉敷尊ぬまなくらふとたましきのみこと皇后は、推古天皇(欽明天皇の皇女)皇子、竹田王子
☆用明天皇河内磯長原陵(こうちしながはらのみささぎ)河内国石川郡大阪府南河内郡太子町大字春日(P有、常時開放されているかは不明)第31代用明天皇の治定墓。「二上山」と「岩橋山」との間の谷筋を縫うように走る「竹内街道」沿い、「王陵の谷」と称され、敏達天皇陵・用命天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と王陵が密集する地。周辺の古墳を含めて「磯長谷古墳群」と称されます。学術名は「春日向井山古墳」。東西65m南北60mの方墳。空壕が巡らされ、外堤までも含めると100mほ
☆敏達天皇河内磯長中尾陵(太子西山古墳)河内国石川郡大阪府南河内郡太子町大字太子(P無し、近隣停め置き不可)第30代敏達天皇の治定墓。母の石姫皇女が合葬されています。「王陵の谷」と称される敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵、さらに聖徳太子御廟と王陵が密集する地。5つの陵墓がまるで梅の花びらの如くと「梅鉢御陵」とも。「二上山」と「岩橋山」との間の谷筋を縫うように走る「竹内街道」。5つの陵墓はこの街道筋付近に築かれました。「磯長谷(しながだに)」と呼ばれています。また周
一喜一憂しないみなさん、おはようございます雨のところが多いです洗って、祓っていただきましょうテレビ、マスコミは怖い勢力です世の中は混沌としてきましたこんな時は一喜一憂しない自己をしっかりと持っていきましょうアリガトウ「4月3日」の國史です「憲法十七条、制定」推古天皇12年(604年)聖徳太子は第1条で和を以て貴しとなすと神道を述べます篤く三宝を敬え仏教ですその他、儒教、道教、キリスト教の考えを織り込みます十七条の17の意味は
中大兄皇子によって飛鳥への還都が断行され、さらには最愛の妻にも裏切られた形の孝徳天皇が翌年に崩御した結果から考えますと、この事件は、乙巳の変につづく第2のクーデターといえます。その仕掛け人はもちろん、中大兄皇子です。しかし皇子はこのときも皇位につかず、孝徳崩御翌年の655年、皇極天皇が斉明天皇として重祚(ちょうそ=退位した天皇がふたたび行為につくこと)しました。その理由として当時の天皇即位年齢が挙げられています。7世紀に在位した天皇の即位年は最年少でも敏達天皇の
11月22日、八尾の大聖勝軍寺に参拝してきました。この日は大聖勝軍寺だけでなく、近隣の太川神社、渋川神社、比枝神社にも参拝してきました。自転車で4社巡り、ヘトヘト…話は変わりますが、あれだけ流行った『鬼滅の刃』も観ていなかった息子が、最近『呪術廻戦』にハマり、漫画まで買いだしました。ココ数日、兄妹で呪術廻戦の話で盛り上がっています。ワタシは五条悟が大好きなので、昨日は五条悟の話で会話に参加してました。で、気付くのです。あれ?大聖勝軍寺に呼ばれたタイミングで五条悟の話ばっかりさせら
ちょっと休憩水分補給に馬路村の柚子のドリンクを飲みました^^そして息長陵へ敏達天皇の皇后、廣姫の御陵敏達天皇、広姫の後の皇后は後の推古天皇。敏達天皇と推古天皇は異母兄妹…住宅地を抜けると景色はガラッと変わり、田んぼが広がっています。考古学的には、この皇后塚は古墳時代中期の5世紀代の築造と見られ、広姫の墓とするには否定的な見解が強いそうです。私は考古学者じゃないからその辺の事情は実はどっちでも良くて、ただただのびやかさを満喫できる空気が溢れていました。そういう意味では時
この勅許の後、蘇我馬子の病いは治りましたが、敏達天皇は崩御されました。次に即位されたのは聖徳太子の父、用明天皇です。太子は陛下に「長寿はかないません」と予言されました。その予言通りに、即位二年目にして病に倒れられました。陛下が食事されないときは太子も食事をとらず、香炉を持って祈祷され続けました。用明天皇は病床から群臣を集められ言われました。「私は三宝(仏法僧)に帰依いたします。そのことの是非を論じてください」天皇陛下が三宝に帰依されることはこの国が公に三宝に帰依することと同義です。物部守
蘇我馬子大臣は、深く仏教に帰依していましたが、なぜかいつも病気がちでした。原因を占うと「神の祟り」と出ました。そのことは天皇陛下にご報告されました。陛下は、側に控えていた太子に問われました。「我が国の基は国神(くにつかみ)の祭祀にある。大臣は他国神(あだしくにのかみ)を招き、祀った。それ故の祟りであろうと思うが、太子はどう思うか」太子は、「神々は三宝に従うものです。神祇があえて仏とたがえ、祟りをなすなどということはありえません。大臣が仏法を請じたことは、国にとって福でございます。大臣には仏を
8月29日に訪れた福島県の古墳、続きです。三春町の「へいどう壇古墳」をあとにして次の古墳を目指していたら・・・・↑道の横にマウンドを発見↑角度を変えて※写ってる車は今回利用したトヨタレンタカーマウンドの上には小さな祠もあります。三春町にある「そや壇古墳」かと思いましたが、場所は本宮市です。場所はこちら:37.483372,140.499273こちらのマウンドの詳細、ご存知の方、コメントお待ちしています。上記のマウンドから10分ほど走っ