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幕府官僚たちは、財政については上等な統計資料を残していません。享保の改革とか天保の改革とか、大改革があったときだけ、幕府の財政についての比較的詳しい統計が残されていますが、その他の年は、いわばどんぶり勘定に近かったと思います。現代の政府官僚も得意な対前年度の増減を見るという程度だったと思えます。そして、時折は幕府の金蔵にある現金を勘定しなおしていたことでしょう(その統計はある程度残されています)。しかし、人口に関してだけは、幕府官僚はきちんとしていました。吉宗が8代将軍職に就いて6年目の1
1858年に日米修好通商条約に基づき、日本とアメリカの貿易が始まったのですが、それが徳川幕府の命脈を絶つことになりました。そのことをきっかけとしてハイパーインフレが発生して、日本経済が史上初の大破綻をしたからです。そして一方、倒幕の機会を窺っていた西南日本雄藩の経済は、発展し続けていました(どのように発展していたかは、3月19日付ブログ『薩長に負けた幕府官僚の経済無策-今の日本財政は黒船来航3年前の幕府財政と同じ(9)』に説明しています)。幕府を中心とする東日本と西南日本雄藩を中心
今日から、新しい連載『官僚は300年赤字財政を続けている』を開始します。日本で官僚と呼ぶにふさわしい人たちが初めて生まれたのは、徳川幕府第3代将軍、家光の頃であったろうと思われます。と言うのは、家光の乳母であり、その後大奥をつくりそれを指揮して大きな権力を得ることになった春日局〈かすがのつぼね;1579-1643年〉が芝居見物に江戸市中に出たあと、浮かれて門限に遅れたところ、それが幕府の定めた職務規定に違反するとして、江戸城の門外で一晩足止めを食ったという逸話が庶民の間で噂されたと伝えれて
幕末期に、大赤字の幕府財政を支えたのが改鋳差益金〈かいちゅうさえききん〉です。これは、幕府官僚が赤字財政のつじつまを合わせるために、幕府開闢(かいびゃく;1603年)からおよそ1世紀経った17世紀から18世紀への変わり目に考案した巧妙な手口です。経済が成長しているとき、市場に流通させる通貨の量は、大きくなる経済規模、今でいうGDP、に合わせて増やしていかなければなりません。どれほど増やすかと言うのは、当時の財務省に相当する勘定奉行〈かんじょうぶぎょう〉が判断することです。発行する通貨の量が
「日本は3四半世紀(およそ75年)ごとに大経済破綻を起こすと言うサイクルを江戸時代後期以降繰り返している」と言うのが、小塩丙九郎の主張するところです。今回の連載では、今(2016年度)の日本の政府財政は、黒船が浦賀沖に現れた嘉永6年に3年先立つ嘉永〈かえい〉3年、つまり1850年、の幕府財政と同じ水準にあり、日本が史上初の大経済破綻のすぐ近くにまで迫っていたときと同様の状態にあるのだ、と言うことを子細に説明していきたいと思います。今から170年近く前の嘉永3年、つまり1850年、の日