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12月17日、阪急電車雲雀丘花屋敷駅からバスに乗り、摂津國ハ十八ヶ所第六十八番神秀山満願寺にやってきました。満願寺の創建は、奈良時代、神亀年間(724~728)、「信者すべての願いは必ず聞き届けるという満願の仏の功徳をもって大衆を救おう」と発願されました。そして全国に満願寺建設をすすめられた聖武天皇(第45代天皇)の命により、勝道上人(諸国に満願寺を建立した)が摂津国の満願寺として千手観音を本尊に開基したと伝えられています。安和元年(968)源満仲が多田に館を構えて以来、国家安泰を祈って帰
六甲駅から車で約30分仏母摩耶山忉利天上寺にやってきました。早速、急な石段を上がって行きます。大化二年(646)孝徳天皇の勅願により、インドの法道仙人によって開創された由緒ある古刹です。山門山門くぐると、また石段です。手水舎立ち上がってる龍の手水で手と口を清めます。親子カエル天竺堂インドから贈られた大理石の摩耶夫人が祀られています。石段を上がって行きます。右側に軍艦摩耶之碑紅葉の中の石段を上がって行きます。石段を上り終えると左側にまた、親子カエルがいました。花山天皇
阪急電車春日野道駅から歩いて約8分摂津國ハ十八ヶ所第八十一番遍照山高野寺聖徳院にやってきました。境内へお邪魔すると奥様が出て来られ本堂を開けてくださいました。御本堂聖徳院は、明治22年ごろ高野山大乗院の別院として、神戸市神戸区(現在の中央区)加納町4丁目2番地に真言宗の教えを広める目的をもって創建されました。しかし、昭和20年6月5日の神戸大空襲にの際、堂宇すべてを焼失。昭和24年になって、第八世住職亮禪和尚の手によって、創建の地よりすこし東北に移り、現在の地に復興されました
11月23日兵庫の摂津國ハ十八ヶ所を巡るため阪神電車で三宮に行きそこから三宮バスターミナルから森林植物園行のバスに乗り約20分。バスを降りるとすぐそこに大龍寺の山門がありました。山門をこえると長い坂道が続いていました。仁王門が見えてきました。水子地蔵仁王門仁王像仁王門をくぐると右に手水手水は龍後で分かったことですが、こちらの鳥居の石段からも御本堂へ行くことができます。私は西国三十三観音の横を真っすぐ登って行きました。かなり急な石段が続きます。本堂が見えてきました。本堂
11月19日日曜日今年の夏にご不在で御朱印をいただけていない摂津國ハ十八ヶ所第五十番の神峯山大門寺へ今度は電話をかけてからお参りに行くことにしました。大門寺の最寄りのバス停は大門北ですが、14時20分に着いてそこから10分ほど歩いて大門寺をお参りして帰りのバスが15時25分!その次は2時間後の17時25分と2時間に一本しかないので🤔〜大門寺までのバスの行き方を調べていたら1.8キロ先に幼稚園前というバス停から歩いて行くことができると分かったので行きは茨木市駅から13時5分のバスに乗り幼稚
阪神西宮駅からバスに乗り甲山大師のバス停からすぐの神呪寺の仁王門にやってきました。仁王門と本堂は、バスで通って来た道を挟んで左右に分かれています。仁王門は神呪寺第六十ニ世蓮眼和尚がその基檀と門礎を築成し、次の観眼和尚が文化元年(1804)に門部分を建立し完成させました。仁王像山門をくぐり最初の石段を上がると道の両方にこんな石像がおられましたこんもりと円い形のお山は甲山です。甲山は、190年頃に神功皇后が平和を祈願して金の兜を埋めたと伝えられられ、また兜に似ていることから甲山と名付けら
山陽電鉄西代駅から急な坂道を歩いて約8分!摂津國八十八ヶ所第八十五十観音山常福寺にやってきました。常福寺は、古来より摂津國八部郡西代の地に在る古刹で、旧西代村の菩提寺であった。当地の辺りは、中世・“源平”や“湊川”合戦等の戦地になっていたものと思われる。然して当寺の往昔の旧記等は、重なる兵火等によって焼失し、確たる由緒・縁起を知ることは困難であるが、奈良時代に行基菩薩によって開創された「蓮華寺」の法脈を受け継いでいます。元は西国街道に面した西代村内にありましたが、明治晩年に山陽電車の敷設工事
厳島神社から歩いて約10分!摂津國八十八ヶ所第八十四番浄国山金光寺は、承安3年3月12日の夜、福原遷都の手始めとして、運河を造る工事を命じていた平清盛の夢に、子供の姿をした守護神が現れ「五町ほど沖の海底に仏さまが沈んでおられる。探し出すように」と告げた。これに従い主馬判官(しゅめのほうがん)であった家臣の平盛国に命じ、十町四方の海に網を張ると、佛體がひきあげられた。佛體に付着した貝を取り払うと、黄金の薬師瑠璃光如来が出現した。平清盛は、この霊験と霊徳にいたく感心し「これぞ当地の守護仏なら
10月15日、日曜日いい天気だったので、どこにお参りに行くか?🤔〜悩んだ結果!兵庫県の摂津國ハ十八ヶ所巡りに行くことにしました。大阪梅田から阪神電車の直通特急に乗り、新開地にやってきました。新開地駅からお寺に摂津の御朱印を今からいただきに行ってもいいか?とお聞きすると法事があるため、本堂にはお参りできないけど御朱印だけならというとこでお邪魔することにしました。新開地駅から歩いて約5分!摂津國八十八ヶ所第八十三番真福寺に到着しました。嘉祥元年(1106年)仁和寺の覚行法親王により
伊射奈岐神社から歩いてすぐの摂津國八十八ヶ所第四十四番、摂津國三十三観音霊場第二十九番の佐井寺に行きましたが、この日はお留守でしたので本日、電話で在宅を確認してからお参りに行きました。石段上がって左側に忠魂碑彼岸花が咲いてました。薬師堂摂津國八十八ヶ所第四十四番札所🙏〜653年に25歳で入唐し、玄奘三蔵に親しく師事して法相の教学を学び、8年間の在唐ののち帰国した道昭法師によって草創された。第一世道昭のあとをついだ二世道薬(和銅7年寂)、三世中興行基(道薬の弟子)によって七堂伽藍と六
JR吹田駅の゙北側のバス停から千里中央行きに乗り新小川で降り、そこから歩いて約10分。摂津國八十八ヶ所第四十三番圓満山圓照寺にやってきました。仁寿三年(853)、文徳天皇の勅願により慈覚大師円仁が創建したと伝えられています。石段上がって左側に弁財天御本堂御本尊は慈覚大師勤刻の千手観音菩薩ろうそくと線香を献灯しご真言「おんばざらたらまきりく」🙏〜本堂横の観音像御朱印はこちらでお願いします。摂津國八十八ヶ所第四十三番の御朱印摂津國三十三観音霊場第二十八番の御朱印をいただ
阪急吹田駅からJRの線路沿いを歩いて初めての信号を右へ曲がったところに天照皇大神宮鎮守社がありましたのでお参りします。左側に稲荷社もありました。狛犬さん天照皇大神宮鎮守社から少し歩いた道沿いに常光円満寺の慈母観音さまがお参りできる所がありました。摂津國八十八ヶ所第四十二番の慧日山常光円満寺の山門にやってきました。寺の縁起によると、天平7年(735年)に行基の夢の中に牛頭天王が現れ「吹田に聖なる香木がある」というお告げを聞き吹田に来てみると、白砂青松の砂浜に、夢のお告げ通り一本の香木
勝尾寺は、摂津八十八ヶ所の五十四番札所でもあります。勝尾寺のご紹介は、西国三十三観音霊場でしましたので、御朱印だけ紹介します。
安岡寺から歩いて約20分の南平台東のバス停から霊仙寺のバス停で降りた所のNTT萩谷電話交換所の横の道を歩いて行きます。細い道を歩いて行くと山門が見えて来ました。道端に綺麗なあじさいが咲いてました。宝亀9年(776年)第四十九代光仁天皇の皇子、開城皇子が、山内の滝の中に自然石像の不動明王が立たれているのに気づかれ、一夜を念誦三昧に明かしていると、あたりに霞がかかり、月光がおぼろげになったとき、不動明王が「霊地を衆生済度のためにお開き下さい」とのお告げにより当山を開き、石像の明王を御本尊として
6月24日JR高槻駅から急な坂道を歩いて約20分峰尾山地蔵院にやって来ました。かなり上まで登っていましたが…まだ、この石段を上がります。開創は天平年間(729〜749)行基菩薩によるとされているが、詳しい寺伝は焼失し不明である。慶長年間(1596〜1615)には槇尾の明忍和尚によって律宗として再建された。さらに寛文七年(1667)教存律師によって堂宇が造営され、当寺ではこれを中興とする。以後、弘法大師の信仰が深まり、信者の群参が見られた。明治二年、実玄和尚が入山するまで約四十年間無
蓮花寺から歩いて約30分摂津國八十八ヶ所第四十五番の蜂熊山金剛院に到着しました。境内にお邪魔します🙏入って左に弁天堂の裏側の池を模したところに弁財天が祀られます。水かけ不動明王ですが…水と柄杓がありません。😭鐘楼鬱蒼とした境内です。。。歌菩薩味舌領主織田有楽斎ゆかりの「野立の井」大日如来御本堂行基作と伝えられる御本尊の薬師如来は秘仏で、30年に一度開扉されるようです。お地蔵様護摩堂護摩堂の御本尊の不動明王は弘法大師作と伝えられています。玉姫大明神庫裏扉に壁
阪急南茨木駅から歩いて約7分の摂津國八十八ヶ所第四十六番瑞光山蓮花寺は、天平元年(729年)行基がこの地の池に毎夜霊光を発するのを見て、霊地であることを知り伽藍を作ったという。代々当寺は、行基菩薩が建立された畿内四十九院のうちの一つであると口々に伝えられてきましたが、応仁の乱の際、兵火で堂宇ことごとく焼失してしまったため残念なことに歴史的な事実は残っていない。寛永年間(1624~43年)に祐乗が再建をはかり、祐清、祐照を経て快慶が享保5年(1720年)に再建復興されました。鐘楼門境内へお
4月16日阪急総持寺駅から歩いて約5分の補陀落山総持寺の御本尊様に会いに行きました。総持寺は、西国三十三観音霊場第二十二番、摂津國八十八ヶ所第四十七番、摂津國三十三観音霊場第二十七番、ぼけ封じ近畿十楽観音第六番札所です。開山堂4月15日〜21日まで秘仏本尊御開扉やってます。仁王像山門は江戸時代、仁王像は鎌倉後期〜南北朝時代のものです。境内へお邪魔します🙏山門入って右の庫裏の前に千手観音菩薩の看板がありましたので近づいてみます。御本尊の千手観音菩薩さまを可愛くマンガにされてます。
3月21日の春分の日阪神電車西宮駅から徒歩約8分の摂津國八十八ヶ所第七十九番の医王山圓満寺(西宮成田山)にお参りしました。こちらのお寺の山門はふたつあります。右側の山門は、医王山圓満寺左側は西宮成田山の山門です。圓満寺の開山は法道仙人で、創建は966年(康保3年)と伝わります。御本尊は薬師如来手水舎境内の隅に鳥居がありました。神変大菩薩こちらのお堂は、西宮成田山の御本堂です。御本尊は不動明王大師堂子守地蔵尊摂津國八十八ヶ所第七十九番の御朱印いただきました。阪神西宮
阪神尼崎駅の南西の寺町の中にある摂津國八十八ヶ所第六十五番月峯山大覚寺にお参りしました。月峯山大覚寺の開基は、推古13年(605)聖徳太子が、百済の高僧日羅上人に命じて瑞光に輝く長洲の浦に建立された「灯炉堂」で、尼崎に現存する最古の古刹です。御本堂御本尊は十一面千手観世音菩薩です。能舞台本堂側のガラス越しに舞台を覗いてみました。聖天堂芦刈からくり堂芦刈からくり堂縁起鎮守社貴布祢社、賀茂上社、賀茂下社、石清水八幡社、豊成稲荷社が祀られています。お地蔵様薬師堂薬師如来弁天
宝塚神社から歩いて約20分摂津國ハ十八ヶ所第七十四番大雲山金龍寺に到着しました。摂津国七大寺のひとつとして、中山寺、塩尾寺、円国寺などの寺々とともに聖徳太子の手によって建立されたと古書に見えている。文禄年間の豊臣秀吉の堺政策による強制分散のさい、堺から移築してきたらしいことが、現在の建造物(泉州型屋敷)や広大な寺領、そして両墓制から推察されている。伝記によると、天正年間荒木村重の乱によって、堂宇伽藍をことごとく焼失したが、そののち、宝永年間に泉州堺の碩学・宝州尊者が当寺を再建復興し、今
伊和志津神社から歩いて約10分摂津國ハ十八ヶ所第七十三番の武庫山平林寺にやって来ました。平林寺は、今を去ること約千四百年前に、第三十一代用明天皇の命により、聖徳太子が創建されたと伝えられています。創建後、一時期衰退しましたが、平安時代に入るや、弘法大師の縁に連なる法尼=如一尼によって再建されました。石段上がって左側に修行大師像と四国ハ十八ヶ所お砂踏み所がありました。御本堂御本尊は、弘法大師の作と伝わる釈迦如来像です。石段の上のお堂へ行きました。こちらは、地蔵菩薩と不動明王石段を上
補陀落山浄光寺は、釈の恵満という人が、観世音の功徳を戴き海辺にて散策中、ピッカ!と光る金像を見付け持ち帰り、小さなおやしろを造っておまつりし朝夕礼拝していた。その後、恵満が亡くなってから数十年はそのままであったが、天長六年(828年)の秋、弘法大師が諸国を巡錫の途上に立ち寄り御本尊の立派なのに、これはもったいないと考えられ、立派なお寺を建てて本尊をおまつりされ、補陀落山浄光寺と名前をつけられました。水が上から下へ流れるように自然のままに無理をせず自分を保っていくこちらから境内へお邪
朝日山荘厳浄土寺①真言律宗令和4年5月14日参拝御朱印『大聖不動尊』摂津国八十八箇所第三十五番荘厳浄土寺本堂大阪府大阪市住吉区帝塚山東5-11-14荘厳浄土寺Twitter荘厳浄土寺②『興正思圓上人』御朱印ランキング※掲出の御朱印はこの日この時頂いた「一期一会の御縁」で、今現在も頂けるとは限りません。観光寺社以外は、基本的にアポイントを取ったうえで、先方の御迷惑にならないよう自己責任でお参り下さい。
和光山西之坊真言宗御室派令和4年5月14日参拝御朱印『地蔵尊』摂津国八十八箇所第三十四番西之坊大阪府大阪市住吉区上住吉2-2-20御朱印ランキング※掲出の御朱印はこの日この時頂いた「一期一会の御縁」で、今現在も頂けるとは限りません。観光寺社以外は、基本的にアポイントを取ったうえで、先方の御迷惑にならないよう自己責任でお参り下さい。
12月28日OsakaMetro四天王寺前夕陽ヶ丘駅から歩いて約5分の摂津國ハ十ハヶ所第二十三番の吉祥山青蓮寺にやってきました。山門横のガレージから境内へお邪魔します。青蓮寺の縁起は、推古天皇の御代(593~628年)に聖徳太子が、鴫野に志宜山法案寺を創建された時にさかのぼる。天正11年(1583年)豊臣秀吉の大坂城築城の際、当地を城の二の丸にあけわたし、法案寺および生玉宮は、現在の生國魂神社の地に移転しました。法案寺は生玉宮寺として生玉宮を統轄し、当寺の前身の遍照院・医王院など塔頭九院
摂津國ハ十ハヶ所第七十六番體性山大日寺の山門にやって来ました。門は閉まってますがインターホンを押してから境内へお邪魔しました。寺歴は、天正6年(1578年)から、天正7年(1579年)の荒木村重の乱の際、堂宇ともども古い記録が焼失し、詳細が不明で開基もつまびらかではないが、慶安年間(1648年~1652年)の住持以来の言録がのこされている。この言録によると、慶安元年(1648年)より、隆尊が堂塔伽藍を建立し中興開基として当寺を再興したと伝える。創建当初の元禄以前は高野山蔓智院の末院で
法心寺の山門に到着しました。天正年間(1573~1592年)に織田信長が甲山神呪寺を焼き払い烏有に帰した焼け野原の灰燼の中で塔頭・常住院の本尊・十一面観音だけが遺り、寛文元年(1661年)に阿闍梨清誉大徳がその十一面観世音菩薩を当地に迎えて祀ったのが始まりと伝えられています。御本堂護摩堂摂津國ハ十ハヶ所第七十七番の御朱印をいただきました。この日の最後のお参りは法心寺から徒歩3分の大日寺に向かいました。
時は少し戻って11月12日この日は西宮の摂津ハ十ハの3つのお寺を巡りました。まず最初にお参りしましたのは門戸厄神でおなじみの松泰山東光寺へ向かいました。42段の男厄坂を登って表門に到着しました。表門の両脇に制多迦童子と矜羯羅童子がおられました。境内へお邪魔しますもう来年の干支のうさぎの絵になってました。階段の両脇に狛犬さんが祀られています。手水舎こちらのお寺も龍でした。中楼門子守地蔵尊女厄坂を登って御本堂へ向かいます。天井に色鮮やかな龍の絵が描かれています。中楼門く
善福寺から歩いて約15分宝生山帝釋寺の山門に到着しました。帝釋寺は、聖徳太子が四天王寺を造るにあたって、その料材をこの地に求めたときに、太子の御夢枕に八面八臂の鬼神が若干の眷属、容貌端正の天女、数多くの童子を伴って現れ、こう告げられた。「この深山の良木伐採のこと、ここは是れ我遊戯居住の地なり、よってこの地に一院を建立し仏法弘道を志願となせば、志願成就の繁栄を永劫に奉らん」と。そこで太子自ら帝釈天王の霊像を一刀三礼し刻したといわれている。この聖徳太子御作の帝釈天王がご本尊であり、ほかに弘法