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摂津西国巡礼も最終回とうとうやってきました板宿駅から山陽電鉄に乗り須磨寺駅まで上野山福祥寺【じょうやさんふくしょうじ】須磨寺【すまでら】淳和天皇のころ(823~833年)に漁師が和田岬の沖で聖観音像を引き揚げ、会下山の北峯寺に安置していたのを、886(仁和2)年に聞鏡上人(もんきょうしょうにん)が須磨の地に移したのが始まりとされています。仁王門へと続く龍華橋綺麗だよね仁王門・龍華橋(におうもん・りゅうげばし)仁王門は、源三位頼政の再建、仁王力士は運慶及び湛慶の作と伝えられ
摂津西国巡礼も残り…2回終わりが…すぐそこに妙法寺から板宿駅方面に2キロほど歩いて…戻りそこから勝福寺へ向かいます勝福寺【しょうふくじ】桂尾山勝福寺は真言宗高野派高野山如意輪寺末で、本尊は聖観音菩薩。988(永延2)年の創建から千年以上の歴史を持つ古刹です。太政大臣藤原伊尹(これただ)の三男、英雄丸が高野山で修行中、摂津の国神撫山(今の高取山)附近に出没する鬼人を平定せよとの勅命を受け、山麓に草庵を設けました。そこで日夜修法を行い祈願退散したことがこのお寺のはじまりとされています
常福寺から歩く事…3キロ今回もよく歩く妙法寺へ向かいますまだ山歩きじゃないだけマシかな妙法寺【みょうほうじ】妙法寺は天平10年(738年)行基菩薩により建立された寺で、聖武天皇・高倉天皇の勅願所と伝わっています。開基当初は七堂伽藍三十七坊を有したが、その後一時衰え、承和6年(839年)に定範上人によって再興されました。平清盛が福原遷都の際、平安京の鞍馬になぞらえ、ここを新鞍馬と称して、福原京の鎮守の地として保護したといわれています。しかしながら、観応2年(1351年)高師直、師
今回は兵庫県のJR新長田駅からスタート今回で摂津西国巡礼…最終章まずは新長田から北上して常福寺へ常福寺【じょうふくじ】奈良時代に行基菩薩によって開創された「蓮華寺」の法脈を受け継いでいます。元は西国街道に面した西代村内にありましたが、明治晩年に山陽電車の敷設工事に伴い、村墓域のあった現在の地に移転されました。行基によって築造された「蓮池」の樋の余材で作られたとされる「木造板五輪卒塔婆・十基(平安時代後期)」が保存されており、神戸市の有形文化財に指定されています。閑静な境内山林内に
真福寺から約2キロ…金光寺へ金光寺【こんこうじ】1180年宰相・平清盛公が都を京都から兵庫の地・福原に移したさい、その工事の手始めとして運河を造る事を命じました。(福原の都はわずか半年足らずで再び京都にうつりました)ある夜、童子が清盛の枕元に顕われて「兵庫の海中に霊仏があるので探し出すように」との夢告をしました。そこで清盛は早速兵庫大輪田の海に網をくだしたところ果たして海中から金色の光もまばゆい黄金薬師尊が出現しました。清盛はその霊験と霊徳にいたく感心され「これぞ当地の守護物ならん
大龍寺からまた4キロ…の山下り帰りは早い!なんせ…転がるように下るからだぁ元町駅まで歩いて…そこから阪神電車に乗って新開地駅までそここら数分歩いて…真福寺へ真福寺【しんぷくじ】元は、兵庫県武庫郡今津村字今津道(現在の西宮市今津町)に有り、摂津国今津郷の別当寺院として栄えた。ところが明治初期の廃仏稀釈の為に廃寺寸前の状態になってしまった。これを深く憂えた先々代の伝灯大阿闍梨月典伊達隆辯和尚は十善の御教を熱心に伝道布教され、当寺の再興を図られた。兵庫県に積徳会を組織されたのも、こ
今回は三宮駅からスタートまずは…大龍寺へ山の上にあるお寺大龍寺【たいりゅうじ】昔々、1250年程昔のこと。ある夜、和気清麿公が不思議な夢を御覧になりました。往来で美しい僧が托鉢をしている夢です。何か心願があるのでしょう、その僧は一心に拝み、托鉢を続けている、そんな夢でした。不思議な夢を見たものだと気にもとめておりませんでしたが、その数日後、また不思議な夢を御覧になります。先日の夢に出てきた僧が往来で手に持った宝珠を眺めています。暫くそうしていたかと思うと、宝珠を大切そうに押し
天上寺から必死に山を下り虹の駅まで戻り…ケーブルに文明…素晴らしいよね摩耶ケーブル下まで戻ってきて…そこから…2キロくらいかな?歩いて…聖徳院へ聖徳院【しょうとくいん】縁起開基創建は確かではありませんが、聖徳院と名乗る寺が昔、大和国高市郡久米村霊禅山にありましたが、堂宇が破壊され放置されたままになっていたので、寺僧等協議の上、本尊弘法大師、脇仏不動明王を高野山南谷にあった大乗院に安置しました。その後、藤原姓を名乗る俊恭法印なる人が、幼少の頃、醍醐山に入り剃髪受戒して学問修
円満寺からJRさくら夙川駅まで1キロちょっと歩いて…そこから電車に乗り二駅六甲道駅へそこで終わりじゃなくて…六甲道からバスに乗り摩耶ケーブル下で下車次の巡礼場所は摩耶山頂にある天上寺ケーブルとロープウェイで頂上までの往復切符を窓口で購入そこでトラブル発生~な・なんとロープウェイが点検を行っていて動いてないとか・・途中の虹の駅までしか行けない・・そこから50分程の山登りでしか行けないんやって・・どうする・・・考えろ考えろ・・・結論は・・せっかく来たんだから行きたいよね
今回は西宮駅からスタート前回も…西宮駅スタートだったような…まずは阪神西宮駅から南へ10分!円満寺へ西宮成田山圓満寺【えんまんじ】高野山真言宗の別格本山で、御本尊は薬師如来です。又、摂津国八十八箇所霊場の第79番札所です。開山は法道仙人で、創建は966年(康保3年)と伝わります。西宮鷲林寺にあった、武庫山鷲林寺を現在地(西宮市社家町)に移したのが当山の原点です。圓満寺・山門です山門前には二基の常夜燈が立っていますねこちらは西宮成田山・山門です円満寺の山門の隣にあ
法心寺から歩いて…5分!めちゃ近いのはホント嬉しいよね大日寺【だいにちじ】当山の縁起は詳しい記録が残っておらず詳細不明とのことであるが、1648年(慶安元年)隆尊和尚が、中興開山、堂宇を建立したとの記録が残る。1802年(享和2年)火災に遭い、灰燼に帰すも、1817年(文化13年)に再建されたと伝わる。山門ってよりも…なんか違う物に見えるね本堂1903年(明治36年)に藁葺から瓦葺に建替えられ、100年近く経った本堂は先年の阪神淡路大震災で全壊し最も被害を受けたお寺の1つが
門戸厄神から西宮北口駅まで戻りそこから法心寺へ法心寺【ほうしんじ】天正年間に織田信長に攻められ焼け野原と化した甲山神呪寺・常住院。その御本尊だけが灰燼の中に残っていたんだそうです。それを寛文元年、清誉阿闍梨が当地に迎え、祀ったのが始まり。山門この地区は震災後、土地の再開発が行われ、寺院に面した道も広く取られ、きれいに整備されたとの事です門の所にお地蔵さまぁ〰️が居てたぁ手水トイレの横にあったから兼用なんやね…鉢は可愛いんやけど…蛇口がね…本堂本堂の再建までに3年
神呪寺からまたバスに揺られ…JR西宮駅で降りて…そこから門戸厄神東光寺までひたすら歩きました!門戸厄神東光寺【もんどやくじんとうこうじ】嵯峨天皇四十一才厄年の時、愛染明王と不動明王が一体の仏が魔障逃散させる夢を感得。弘法大師に告知、大師は愛染明王と不動明王一体の明王像を三体刻し、その一体が東光寺に伝わる厄神明王です。その姿が厄除護符に描かれ天下流布。その後戦国時代兵火で東光寺堂宇伽藍総てが焼失。にもかかわらず焼跡から厄神明王が厳然と佇立しているのが発見され、その霊力に信者は日増し
今回は阪神西宮駅からスタート阪神バスに乗り…神呪寺へ前回は歩いて行って坂道にやられたから…今回は文明に力をかります神呪寺【かんのうじ】神呪寺は真言宗御室派仁和寺末寺である。甲山大師と親しまれ「西の高野」ともいわれ新西国33所第21番札所である。寺蔵の「神呪寺縁起絵巻」によれば、弘法大師に帰依した淳和天皇第4妃、真井御前が、天長5年(828年)に開基したとされる。仁王門重層門ですが楼門ではないんよ文化元年(1804年)に神呪寺第63世寛眼が建立した山門で、西宮市指定文化財とな
平林寺から逆瀬川駅に戻り…阪急電車に乗り…仁川駅へ仁川駅って…阪神競馬場があるんやぁ〜でも…この日は開催日じゃなかったんです阪急今津線仁川駅から徒歩10分金龍寺へ金龍寺【きんりゅうじ】金龍寺は聖徳太子が摂津武庫七大寺院のひとつとして建立したと伝えられています。1582年(天正10年)の荒木村重と織田信長の戦闘に巻き込まれ堂宇がことごとく焼失し、縁起も不詳になってしまいました。現存する建物は元禄年間(1688~1704年)に赤穂義士を支援した天野屋利兵衛が、泉州堺より移
今回は阪急今津線の逆瀬川駅からスタート逆瀬川駅から少し山登りをして平林寺へ平林寺【へいりんじ】今から約千四百年前の飛鳥時代に、用命天皇の命により、聖徳太子が摂津国七大寺の一つとして創建したと伝えられています。水盤龍がよだれを滴しながら待ってましたぁ〜でも…竹が…柄杓が欲しいなぁ本堂創建後、一時期衰退したが、平安時代になると如一尼と呼ばれる尼僧によって再興され、往時には30余坊が甍を重ねていたと伝えられています平林寺も天正年間の荒木村重の乱で焼失…その後、再建江戸
中山寺奥之院から清荒神方面に下山こちらの道も悪い足腰にめちゃ負担がかかるし…足が何度攣った事か…1時間ほどで清荒神清澄寺に到着清荒神清澄寺【きよしこうじんせいちょうじ】清荒神清澄寺は平安時代の初め、宇多天皇の創意による理想の鎮護国家、すなわち諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く勅願寺の一つとして創建されました。天皇は讃岐国の名工、定円法眼に命じて曼陀華の香木で本尊大日如来像を刻ませ、寛平8年(896)に、叡山の高僧静観僧正を迎え、開山の祖としました。当
次の七十一番札所は中山寺の奥之院すぐおくのいん道の石標是より十八丁(一丁はおよそ110m)で徒歩50分くらいの山登り気合いを入れて…いざ…出陣じゃ〜道は…うん…山道最初は…平坦で楽勝〜と…思ったんやけど…めちゃ道は悪いし…坂が急やし…みぞかつは…何度…休憩したことか…この道を2キロ…心折れそうちょうど半分くらい登った所にある夫婦岩見ようによっては、左端が「陽石(夫)」、右端が「陰石(婦)」、中央が「子」と読めなくもありませんね50分かけて…それ以上
今回も中山寺同じ境内に2つの札所があるからそれだけ広いんです閻魔堂豊臣秀頼が1603(慶長8)年に再建した丹塗りの堂宇には閻魔大王が祀られています密教における十二天である閻魔天が中国道教の冥界思想の影響を受けて変化したものとされており、日本では浄土教の信仰と共に地獄と極楽のイメージで定着し、冥土の裁判官や地獄界の王とも称され、一般民衆の間で身近な仏として知られています地獄という恐ろしい異界を管轄されている大王の堂宇のため、極彩色の装飾と合わせて見ると本当に異空間に迷い込んだよう
摂津西国巡礼20日目〜今回は兵庫県宝塚市の中山寺駅にって事で中山寺にやってきたぁ〜中山寺【なかやまでら】北摂の地に紫雲たなびくといわれる中山寺は、聖徳太子の創建によるわが国最初の観音霊場です。第十四代仲哀天皇の先后大中姫(さきのきさきおおなかひめ)、その長子麛坂皇子(かごさかのおうじ)、弟忍熊皇子(おしくまのおうじ)の追善供養のため、あるいは聖徳太子、蘇我馬子との政争に敗れた物部守屋の霊を鎮めるために建立されたと伝わっております。奈良時代には大小多数の堂塔伽藍を備えた高野山や比叡山
久安寺からバスに乗り…池田駅まで戻り…そこから阪急電車に飛び乗り(ホームにあがったら…ベルがなっていた)宝塚方面に二駅…雲雀丘花屋敷駅にこの駅名…めちゃ素敵で好き〜ここから…またバスに揺られて…20分くらいかな?満願寺へ満願寺【まんがんじ】縁起は、神亀年間(724~9年)勝道上人が千手観音を本尊として創建したと伝わる。のち、968年(安和元年)源満仲が摂津守として多田に本拠地を構え、満願寺に帰依し、源氏一門の祈願所とした。以来、源頼朝や足利尊氏など源氏一門の安堵や寄進
高法寺から近くのバス停まで歩き…そこからバスに乗ること20分くらいかな?いや…25分かな?久安寺へ久安寺【きゅうあんじ】神亀2年(725)、行基菩薩が開創。天長年間(824~834)に弘法大師留錫し、真言密教道場として栄えた「安養院」が前身であります。保延6年(1140)安養院は灰塵に帰しましたが、薬師如来像、阿弥陀菩薩像は損傷を免れ、本尊千手観音像は岩の上に飛行して、光明を放ったと伝えられています。久安元年(1145)に、近衛天皇の勅願寺として桜門、堂塔伽藍、四十九院な
摂津西国巡礼19日目〜今回は阪急宝塚線の池田駅にまずは駅から700m程度歩いて…高法寺に高法寺【こうほうじ】天平年間(729~749年)、僧・行基の開基と伝えられています。もとは、豊中市侍兼山の頂上近くに建立され、永禄年中(1558年~1570年)までは池田の城主築後守の祈願所でした。天正7年(1579年)の織田信長と荒木村重による有岡城の戦いの戦火に巻き込まれて堂塔は全焼し、時の住職が御本尊と「髙法寺」の掲額のみを背負い、城下であった当所に逃れ、小堂を建ててお祀りしたと伝えら
浄光寺から3キロほど歩いて…大覚寺へ阪神尼崎駅からは10分ほどで着く距離なんです大覚寺【だいかくじ】現存する尼崎最古の古刹です。本堂以下の建物は明治十年の大火で消失し、再建されたものです。寺伝によれば推古十三年(六〇五)聖徳太子が百済の高僧日羅上人に命じて長州の浦に作らせた寺と伝えられています。大覚寺は正和二年(一三一三)から天正十七年(一五八九)に至る、中世文書五十六点の「大覚寺文書」(兵庫県指定文化財)を含む多数の古文書を所蔵しますが、この中に「大覚寺縁起絵巻」があります。こ
摂津西国巡礼18日目〜めちゃ順調に進んでるぞぉ〜今回は、尼崎市にまずは、JR尼崎駅にそこから約2キロほど歩いた浄光寺へ浄光寺【じょうこうじ】真言宗善通寺派の寺院で、空海がこの地に立ち寄り天長年中(824-834)に創建したといわれています。あっ!山門が以前来たときは…山門が無かったんよ新しい山門…気持ちいい〜手水所雰囲気凄くいいよね本堂『太平記』によると康安2年(1362)に南朝方の楠木正儀と争った摂津守護代箕浦俊定の陣所となったとされており、同寺蔵の「浄光寺縁
昆陽寺から2キロ弱この日はめちゃ歩いた大空寺へこちらも最近行ったなぁ大空寺【だいくうじ】天平年間(724~49年)行基菩薩によって創建された寺と伝えられています。天正7年(1579年)織田信長の荒木村重討伐の際の兵火に遭い、藤原時代の本尊の聖観音菩薩を焼失しており、時の住職がそれを嘆き、脇侍の延命地蔵菩薩を本尊として安置したと伝わっています。後に聖観音菩薩は再興されて観音堂に安置され、その脇侍として不動明王と毘沙門天が祀られていました。山門こじんまりした門ですが…素敵で
安楽院から3キロ弱ちと…遠いね…ただ…山道じゃなく、平坦な道やから気持ちよく歩けました目指すは昆陽寺たしか…去年にも来たような…まぁ…いっかぁ〜昆陽寺【こんようじ】(こやでら)僧行基によって建てられた「昆陽布施屋(ふせや)」の後身寺院です。その後天正7年(1579年)に織田信長の兵火にかかって堂塔を焼失し、それ以前の建物は何一つ残っていません。山門江戸時代中期に再建されたもので,昭和44年(1969年)3月に兵庫県の指定文化財(有形文化財)に指定されました山門は上層周囲に
金剛院から2キロ弱歩いて…安楽院へ安楽院【あんらくいん】和銅6年(713年)行基菩薩により聖武天皇の勅願所として創建されました。後の天平年間(729〜749年)聖武天皇の命により行基が五畿内(大和•山城•摂津•河内•和泉※)にて、49院を建立。現在で言う、奈良•京都南部•大阪•兵庫南東部にあたる地域山門薬医門形式で18世紀の建造でも…阪神淡路大震災で塀は全壊新しくなっています手水舎御縁の龍龍神さまは、良縁を運ぶご利益があると言われており、いつ頃からか…五円(ご縁)
摂津西国巡礼17日目〜今回は兵庫県のぉ〜JR伊丹駅にとうとう兵庫県に突入〜JR伊丹駅前にある有岡城跡にお立ち寄り有岡城跡有岡城跡は猪名川の西岸、伊丹段丘(だんきゅう)東縁部の一角に位置してますもとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていたところだとか天正2年(1574年)11月、織田信長の武将荒木村重は,伊丹氏にかわって伊丹城に入城そして城の名を有岡城と改めて…大改造をおこないました城だけでなく侍町と町屋地区をも堀と土塁で囲んだ惣構(そうがまえ)の城とし
一乗院から3キロ弱!てくてくと歩いて常福寺へ清光山常福寺【じょうふくじ】当山の寺伝は、聖武天皇の天平三年(731年)、行基菩薩がこの地に来られて一棟の建物を建て、自ら本尊千手観世音菩薩を刻んで奉安したのが当寺の開祖であると伝えています。二世海然大徳が深く密教の奥義を究め、種々の法験を現じたので多くの寺院がこぞって、この時代から真言宗に附嘱することとなりました。また、古来より有名な当山の龍池弁財天もこの頃に勧請され、さらに牛頭天王(今日の神田八坂神社の祭神)の降臨したのは、円融