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今日は天気が良かったものの、午前中は家で撮り貯めたTV番組の整理をしてました。ですが、あまりに天気がいいので、昼過ぎから少しお出かけを。向かったのは泉大津市。以前に一度ブログで取り上げたことがある「ロシア兵墓地」(浜寺俘虜収容所・ロシア兵墓地を訪ねて附・敷設艦「津軽」)へ。泉大津市・春日墓地内のロシア兵墓地ここには、89名のロシア兵が眠っています。また、ロシア政府が建立した五稜の石碑があり、ロシア語など5か国語で「御霊よ、安らかなれ」と刻まれています。ロシア政府が
「クワイ河に虹をかけた男」から登場人物やエピソードのうち印象的な場面を紹介します。その2回目です。惜しくも編集から漏れたシーンもあります。「あなたをずっと待っていました」そう永瀬さんに声をかけたのはトレバー・デイキンさんだった。元イギリス陸軍伍長。戦後はカナダに移住して、6年前にタイに来たそうだ。「退職後、ここに移り住んで余生を過ごすことにしたんです。亡くなった仲間たちの元でね」デイキンさんはこの町で巡礼に来る元捕虜や家族に対して、広い墓地の中で目指す墓がどこにあるのかなどを知らせるボ
この本が刊行されたのは2004年なのですが、収録されている文章の初出は『野生時代』1975年4月号~1976年4月号に掲載されたものですから、約50年前に書かれたものです。日本はなぜ敗れるのか敗因21ヵ条(角川oneテーマ21)Amazon(アマゾン)戦時中に技術者としてフィリピンに赴任し、戦後にしばらく捕虜収容所に収容された経験を持つ小松真一氏が『慮人日記』という著書に書いた日本の敗因21カ条を基にして、それを山本七平氏が自分の体験を加味して解説したもので
年度末はつらいのぉ。仕事が鬼のようにたまっている。やってもやっても減らない。厳しい状況だ。土日はとりあえず休めるが、31日は乗り越えることができるのだろうか?ドイツ人捕虜の習志野捕虜収容所の価格表記使用例。習志野を大正4年9月15日差出。横浜にも大正4年9月15日到着かな?送金額は16円。昨日の名古屋捕虜収容所の使用例は送金額は16円30銭である。
地獄の7人1984年6月2日(土)公開米軍退役陸軍大佐が、ベトナム戦争で捕虜となった息子を奪還すべくかつての部下と共にベトナムヘ向かうというアクション映画。あらすじジェースン・ローズ大佐は、ベトナム戦争で行方不明になった息子のことを、この10年考え続けている。息子がまだ生きていて、ラオスの奥深くの捕虜収容所に囚われているような気がしてならないのだ。政府に懇願したが一向に要領を得ない。ローズは自ら立ち上がることにした。まず友人の空軍大佐から、現存するベトコン捕虜収容所の空中写真を入手し、
こうのすシネマ午前十時の映画祭より製作:イギリスアメリカ監督:デヴィッド・リーン脚本:カール・フォアマンマイケル・ウィルソン原作:ピエール・プール撮影:ジャック・ヒルデヤード音楽:マルコム・アーノルド出演:ウィリアム・ホールデンアレック・ギネスジャック・ホーキンス早川雪州1957年12月22日公開第二次大戦下のビルマ・タイ国境近くにある日本軍捕虜収容所で、米国の海軍中佐シアーズ(ウィリアム・ホールデン)らは激しい労役に就く中、脱走の機会を狙っていました。や
戦場にかける橋2クワイ河からの生還1989年10月14日(土)公開第二次大戦中、日本に移送されることになったタイ=ビルマ国境地帯の連合軍捕虜たちの苦難の日々を実話を基に描く戦記ドラマ。あらすじ1945年2月、タイ=ビルマ国境地帯の捕虜収容所では、日本国内の労働力不足を解消するため連合軍の捕虜たちを日本本土へ送り込もうとしていた。それを知った捕虜たちは奇襲攻撃をかけるが、その際英国特殊部隊のグレイソン大佐は死に、米空軍のリー・クロフォード少尉は、捕えられてしまう。一方そのさ中、仲間
『捕らえられた伍長』間もなく始まる。キリギリの入場や。じっくり見て聞くで。14時35分追記遂に鑑賞が成り立った。重くて鋭くて渋い写真だった。1962年のジャン監督の視座を想像している。『コルドリエ博士の遺言』『ゲームの規則』二回目1月12日出町座鑑賞『水の娘』1月24日シネ・ヌーヴォ今年は1・2月にジャン・ルノワール写真4回見聞が京阪で成り立った。有り難い事である。上映スタッフに深謝。合掌
あなたは、「シベリア抑留」という言葉を聞いたことがありますか?第二次世界大戦が終結した1945年、多くの日本兵が戦争の終わりを迎え、故郷へ帰れると信じていました。しかし、彼らを待ち受けていたのは、まさかのソ連軍による捕虜としての生活。60万人もの日本人がシベリアをはじめとする極寒の地へ連行されました。なぜこんな悲劇が起こったのでしょうか?なぜシベリアだったのか?シベリア抑留の背景には、ソ連の労働力不足という事情がありました。独ソ戦で膨大な犠牲を払ったソ連は、戦後復興のために大量の労
こちらは、屋嘉にある渡久比那川の河口付近、嘉芸小学校の海側にあります。意外と藪の中にあるので、トンボの軍団に出会ってしまい、呆気にとられてしまいました。とても探しにくい所にあります。古より、航海安全祈願やニライカナイの神々を拝む拝所となっているようです。また横並びに、伊計島、宮城島、平安座島、そしてうっすらと浜比嘉島が見えるので、沖縄の海らしい風景が見られます。ニライカナイはもちろん、金武湾からのパワーをダイレクトに受け取れる場所です。と
宮崎県、日向灘で地震発生。南海トラフ地震にも注意が必要だってんでテレビは大騒ぎ。元々、いつ起きても不思議がないと言い聞かされていた南海トラフ地震、"注意"なんてものを気象庁が発表する意味ってなんなんだろう。来るかもよ!注意しろよ!でも日常生活は継続しなさい!!いったい何をどうしろと?💧これでしばらく地震も起きず沈静化したならば、地震予知否定派の学者有識者たちの逆襲が始まるのでしょう・・。でもそいつらも今は、もしかしたら地震が起きるかもしれないからダンマリなのか。よくわからない。た
現在でもよくその名前を見かける方。俺は以前、知人にすすめられて代表作である‘「空気」の研究’を読んだことがあるが、ときどき自らの陸軍での経験を織り込みつつ世の中についてあーだこーだと難しいことをだらだらと書いていたような。読むのが少々難儀だった記憶がある。さて今作は。書名のとおり自分が参加したフィリピン戦が現在地。砲兵部隊の指揮官としての仕事、つまりは大砲の射撃の要諦についてけっこうしっかり書かれていておもしろい。ところがこの人、やっぱり目の前のことだけで終わらない。移動、報告、運搬、
日本兵脱走「カウラ事件」から80年豪首相が献花、平和と友好誓う(時事通信)-Yahoo!ニュース以下、記事の抜粋。『日本兵脱走「カウラ事件」から80年豪首相が献花、平和と友好誓う8/4(日)19:10配信4日、オーストラリア南東部カウラの戦没者墓地で、献花するアルバニージー首相(豪首相府提供・時事)【カウラ(豪南東部)時事】第2次大戦中、オーストラリア南東部カウラにあった捕虜収容所で日本軍兵士が集団脱走を図り、230人以上が死亡した「カウラ事件」から5日で80年。
「大脱走」(原題:TheGreatEscape)「大脱走」予告編1963年7月4日公開。戦闘シーンのない集団脱走を描いた異色の戦争映画。スティーブ・マックィーン主演。興行収入:11.7百万米ドル。原作:ポール・ブリックヒル『TheGreatEscape』(「大脱走」)脚本:ジェームズ・クラヴェル、W・R・バーネット監督:ジョン・スタージェスキャスト:ヒルツ:スティーブ・マックィーンヘンドレー:ジェームズ・ガーナーシリル:リチャード・アッテ
毎週末にウクライナの人たちと話していますが今回は衝撃的な話を色々と聞きました。冒頭に主催者から「捕虜交換があって、多くの兵士が帰ってきた」とうれしそうな報告があったので少しホッとしているとそれに続く話は恐ろしいものでした。捕虜収容所に10ヶ月あまりとらえられていた兵士の体験です。食べ物は、1日にスプーン3杯のおかゆ+コップ半分の水「地獄」と呼ばれる独房に3ヶ月電気椅子に座らされ何度気を失ったことか殴られ、ナイフで刺された「なぜこんなことをするのか?」「お前が生まれてき
生きてるだけじゃ駄目なんだ。ただ生きてるだけじゃ。それは生きていないのと同じなんだ。俺は卑怯者をやめる。山本さんのように生きるんだ。この小説を手に取るきっかけは映画の主題歌であるMrs.のSoranjiです。気が重たくなる戦争ものは避けていました。しかし読む価値があったと今は思います。物語は第二次世界大戦後のソ連。日本は敗戦国となり帰還する流れの中でした。在留している日本人は戦犯とされソ連の捕虜となります。ラーゲリとは収容所のこと。そこでは人間を人間として扱
これを見れば、特亜人や手下のパヨク日本人が主張する残虐な日本兵がどれだけデマかが良く分かります。このような立派な祖先がいることを我等は、誇りに思うべきですね。
戦争・反戦の金字塔的作品アレック・ギネスと早川雪洲とウィリアム・ホールデンという見事なまでの適材適所161分の長さの戦争大作にも関わらず特にラストは全く目が離せない展開戦闘シーンを最小限に抑えて戦争の不毛さを引き出す手腕そして有名なテーマ曲「クワイ河マーチ」本作で大成功を収めた後に「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」とデヴィッド・リーン監督の快進撃は止まらない3作品快進撃のお供はアレック・ギネス監督から信頼を得ていた証だ『アラビアのロレンス』壮大なBGMと広
世界最長のシベリア鉄道・バイカル湖畔を行く走行距離9,300キロ、駅の数145、そして始発から終点までの時間はほぼ7日。世界最長の鉄道はロシアを横断する形で走っている。シベリア抑留手記生き抜いて祖国へ③和歌山県岡本昇(引用:平和祈念展示資料館)抑留手記和歌山県岡本昇さん③ともに打ちのめされた状態の中で、我にかえると、自分は生きているという現実がよみがえってきて、お互いにそれを確かめ合った。これからどうなるのかという不安と、口にこそ出さないが、戦は終わった、祖国
こんにちわんこそば。皆様お元気ですか?この連休中は、Amazonprimeで久々に映画を見てました👀🎥。この3日間でAmazonprimeで、何本か映画を見てたのですが、その中でも1番衝撃を受けた作品がコチラ。ラーゲリより愛を込めてえ?( ̄▽ ̄;)今頃?って??一昨年の冬に映画館で放映された作品ですものね。見るの遅くてすみません。(~_~;)こちら。辺見じゅん先生のノンフィクション小説「収容所(ラーゲリ)から来た遺書」の原作が、一昨年の12月に映画化された作品です。見た人いる?
環7ウォークで平和島まで歩いたが、ウォーキングから離れた話を書いておきたい。今年は太平洋戦争中、昭和18年の学徒出陣からちょうど80年で、10月には新聞にその特集が何度か組まれた。その時20歳で招集された学徒は、生きていればちょうど100歳になる年だ。学徒出陣の話題は11月になっても続いているようで、今朝の新聞の投書欄には、投稿者の母親が神宮外苑で泣きながら小旗を振って出陣学徒の見送りをしたという記事があった。ずいぶん昔になるが、職場の大先輩からその話を聞いたことがある。彼はその
第二次大戦中、日本国により捕虜収容所等に収容されたイギリス人捕虜らの、強制労働・虐待等を理由とする日本国に対する損害賠償請求が、理由がないとして棄却された事例損害賠償請求控訴事件【事件番号】東京高等裁判所判決/平成11年(ネ)第456号【判決日付】平成14年3月27日【判示事項】第二次大戦中、日本国により捕虜収容所等に収容されたイギリス人捕虜らの、強制労働・虐待等を理由とする日本国に対する損害賠償請求が、理由がないとし
もう一度、リブログします。シベリア抑留編。問題が起きたようで、みなさんの方には、中沢啓治先生のリブログしかのってなかったようです。再投稿します。最後のビデオは、「良い話だけでは終わらせないでほしい」たしかに感動の話だけれど、ワンちゃんの頑張り、帰還する日本兵たちの船長さんの努力のたまものです。リブログは必ず読んでください。
ロシア人がいなくなった捕虜収容所はドイツ人用になった収容所に入ったドイツ兵は10年以内にロシアと戦うのだとそしてロシアを打ち負かすのだと言っていたそんなドイツ兵をみてハンリーさんは不思議だった俺たちはどこの国とどう戦うかなんて考えたこともないのに
兵士としての最後の任務は捕虜の移管だったドイツが負けたのでドイツ人がいなくなった捕虜収容所にはたくさんのロシア人が強制労働させられていたかられの要求を聞きながら順々に機関車に乗せるのがハンリーさんの任務だった面倒がおきるかもしれないと考えたけれどロシア人たちは先を争うようにして満員の機関車に乗って祖国に帰っていった
‘これは戦記ではない’と冒頭にいう。ではなんなのか。‘学徒出陣でルソンの戦場に身を投ずることになった一人の人間が、その谷間でかい間見た戦争と軍隊と人間、そして極限状態におかれた己れという人間の物語’だという。さてその物語だが、典型的なフィリピン戦の物語だ。昭和19年の暮れにヨロヨロと進む船団でなんとか上陸、やがて米軍が上陸し、なすすべなく山中を彷徨、最後は栄養失調でヒョロヒョロになって捕虜収容所へ送られ、日本へ送還される、というもの。移動中の空襲を除けばまったく戦闘シーンは無し、敵はひ
こんにちは昨夜から降っていた雨は止んでいました→今日は曇晴でした→川崎へ出かけました曇と思っていたら小雨がまだ降っていましたまあいいか!あまり濡れませんでしたラゾーナ川崎プラザの駐車場ルーファ広場何かのイベント中JR川崎駅駅前の中央通路チネチッタ通りチネチッタ映画館で映画「ヒンターラント」を観ました出演ムラタン・ムスルリヴ・リサ・フリースマックス・フォン・デア・グレーベ
久留米にお見舞いに行った帰りに、国分町だったんでサクッと撮影した。久留米大学医療センターの広い駐車場は、実は昔は、、、久留米捕虜収容所だった。(古い言い方では「俘虜」)捕虜とは、簡単に言えば敵対する国に捕らわれた将兵のこと。全国に16箇所(最終的に6箇所に統合)の収容所を設けました。全国最大規模の収容所となった久留米にはドイツ兵1,319名が収容されました。1914(大正3)年10月から5年3カ月の間、ドイツ兵達は、そこで暮らしていました。碑の文字が読めないが
【捕虜収容所脱走映画】映画史に残るオススメ作品が多過ぎます
『旅人日記』という本を読んだ。著者・小松真一は醸造技術者なのだが、戦時中陸軍軍属としてフィリピンにわたり、燃料用アルコールの製造に従事、戦後1年4か月は連合軍のPW(PrisonerofWar.捕虜)として米軍捕虜として過ごした。彼は台湾の製糖会社勤務当時に軍嘱託になるよう声をかけられてから捕虜生活を終えて帰国するまでその生活の詳細を手帳に記録しており、絵も遺しているのだが、彼が1973年に亡くなったあとに遺族がそれを編集して自費出版し、それが筑摩書房からも出版された。現在もこの本はちく