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蘂取村の春は、五月になってようやく訪れます。三月、四月に比べると気温は少しずつ上がってくるものの、まだ冷たい風が身に染みる日もありました。流氷が去り、根室から一番船がやって来ると、村にも春が来たのだと感じられます。出稼ぎに来た人たちが村に入り、人々であふれ、にぎわいが戻ってくると、子どもたちも生き生きとしてきます。けれど、生き生きするのは人だけではありません。冷たい大地の下で眠っていた草花も、雪解けとともに目を覚まし、小さなかわいらしい芽を出し始めます。雪解けが進むと、畑を耕す季節で
―蘂取村の水事情蘂取村では、生活に欠かせない水は主に山から引いて利用されていました。海岸沿いの山すそに家々が建ち並んでいたため、山間からトイを使って水を引き、キツというコンクリートの水槽にためて使う工夫がなされていました。村には井戸もあり、五、六軒ごとに設けられていました。天秤を使って水を運ぶのは子どもたちの役目で、水を運ぶ量が増えていくことは成長の証でもありました。運ばれた水は家の中のカメにためられ、飲料水として大切に使われていました。しかし、場所によっては井戸の水は塩辛く、飲
船の情報も電報で伝えられた択捉島の生活は、定期船の運航と深く結びついていました。函館の船会社から「マツヤママルハコダテシュツコウ」「シベトロニュウコウヨテイ」といった電報が郵便局に届くと、それを回漕店へ配達します。回漕店では、船の入港予定を黒板に書き出し、村人に知らせました。船が来る日は、港に多くの人が集まり、内地から来る人を迎えたり、荷物を楽しみに待ったりしました。冬の郵便は人が運んだ夏のあいだは定期船で郵便が運ばれましたが、十二月から四月にかけては流氷のため船が来られなくなりま
蘂取郵便局の思い出戦前の択捉島では、郵便局は村の大切な情報の窓口でした。今のように家庭に電話やインターネットがない時代、遠くの人との連絡は手紙や電報に頼るしかありませんでした。電話がまだ一般的ではない時代、人々の連絡や送金、船の情報などは、主に郵便局と電信によって行われていました。蘂取郵便局では、電信を送るとき、局員が電鍵でんけんという装置を使ってモールス信号を打ちました。電鍵を打つと「コト、コト」という独特の音が響きます。信号を送る技術は簡単なものではなく、資格を持った人しか扱うこ
蘂取郵便局舎この図は、戦前の択捉島・蘂取村にあった「蘂取郵便局舎」の正面図と平面図です。札幌駅逓資料調査会の資料に残されている貴重な図面です。建物の大きさは建坪30坪(約99㎡)。当時としてはしっかりした造りの公共施設でした。平面図を見ると、郵便局の仕事がどのように行われていたのかがよく分かります。建物の中心には**郵便室(6.5坪)があり、ここで手紙や荷物の受付や仕分けが行われていました。その隣には電信室(1.5坪)**があり、電報の送受信を行っていた部屋です。まだ電話や通信が
茂世路鉱山には宮城県など本州から移住してきた人々が多く、労働者とその家族が暮らす小さな共同体が形成されていました。民家は十二軒、人口は百十七人。昭和初期までは駅逓所も置かれていました。自然は厳しく、数年で島を去る家族も少なくなかったといいます。それでも、そこには確かに「暮らし」がありました。鉱山で使われていたロープウェイの搬器は、子どもたちにとって格好の遊び場。川で夢中になって遊び、流れに足を取られて溺れかけ、大人に助けられたという思い出も残っています。医療環境が十分ではなかった当
択捉島東海岸蕊取村モヨロ鉱山択捉島の北端に、**茂世路(もよろ)**という集落がありました。活火山・茂世路岳(一一二四メートル)を背にした、東海岸の小さな産業拠点です。茂世路の産業のひとつである漁場は、川畑孫市と鳥海武夫による共同経営、合資会社イ印商会(大正十五年三月十五日設立)が担っていました。そして、この地の主な産業は鉱山採掘でした。明治二十三年頃から大正、昭和初期にかけて、山一帯から純度の高い硫黄が採掘されていました。操業していたのは茂世路鉱業株式会社。採掘は露天掘りで行われ
雪が続き、外に出るのも少し億劫になるこの頃。家にこもりながら、択捉島蘂取村の島民の方々から聞いたお話を思い返したり、島民の皆さんが遺してくださった本を読み返したりしています。そんな中、母が渡してくれた書類の束の中から、一枚の感熱紙が、ぽろりと出てきました。時が経つと、文字が消えてしまう紙。よく見ると、かすかに読める部分があります。蘂取村の島民の方が書かれた文書だとわかりました。消えかけた文字を、なんとか残したい。そう思い、光にかざして写真を撮ってみると、不思議なことに、さきほ
今日は、蘂取村二世の友人が、母に会いに遊びに来てくれました。テーブルの上には『蘂取物語』や、島民の方々がまとめられた本、そして、先日受け取ったばかりの新しい一冊。ページをめくるたびに、あの日の海の色や、家並み、潮の匂いまでがよみがえってくるようで、自然と話も深まっていきます。「この場所、覚えてる?」「うちの父はね……」本を囲みながら、思い出が次々とつながっていく時間。母の言葉に、友人がうなずき、時に笑い、時に目を潤ませる――そんな穏やかなひとときでした。途中、近くのそば
↑ここにある、箱のような建物奉安殿と言いますこの箱の中には天皇・皇后の写真(御真影)が納められていましたこれらは、国民道徳の基本を示すものとして、学校における最も重要なものとされていました児童生徒は、登下校時や奉安殿の前を通る際には、必ず一礼をして通り、天皇への忠誠心を育むための施設として機能し、天皇を神格化する教育が行われていました戦後廃止されたのですが男の子達は『もうお辞儀をして前を通らなくていいんだ』と、喜んだそうです
ロシアとウクライナの戦争が始まりまだ、終わらない四島にはいけない状態です今年もまた、お墓参りができない…島でのお墓参りはまずお墓の場所を探し歩きますなぜなら、島民が住んでいた場所には墓石が無くなってしまったから…背丈位の雑草をかき分け歩くこと30分やっと見つけて安堵すぐ、雑草を取る作業に取り掛かりますひと段落すると、墓石に供える野花を探します生のお花は根室市で買って持っていくことができません持ち込み禁止なのです択捉島蘂取村には私の曽祖父、祖父母、幼い頃亡くなった叔母
平成2年に択捉島のお墓参りが許されました島民が島を追われてから初めて見た村の景色は…何もない草っパラ住んでいた時の家は1軒もありませんそして人も住んでいませんそんな切ない景色を村の人たちは見ることになった初めての墓参でしたロシア人が建てた簡易の小屋浜に着くと、村への道が険しくなっていました砂の丘に足を取られているとロシア人のハンターさんが母の手を取って歩いてくださいましたなんて不思議な光景なんだろう…と思わず私は写真を撮りました学校の校門が残るだけ…
今の情勢では四島の墓参はありません洋上での慰霊に母と参加して来ました天気が悪いと出航出来ないこともありますが波も穏やかで無事、根室港から出発することができました国後島が見えます乗船した方々と交代で、祭壇に手を合わせる四島に眠っている島民や択捉島で眠っている祖父母と叔母の御霊に向けて手を合わせましたお昼ご飯えとぴりか船内では初めましての方々とお話しするようにしています今回は福井県からいらしている親子の方と、札幌に住んでいらっしゃる2世の方とお話をする機会がありました
○悠久の歴史が息づく町、下田日露和親条約と聞いてもピンとこなかった交渉、締結の地というのも何度も聞いていて『下田』の名前は知っているでも、実際のその場に足を運びわかることは多い静岡県下田市は、幕末の動乱期に日本の歴史が大きく動いた重要な場所です。嘉永7年(1854年)、アメリカの東インド艦隊司令長官であるマシュー・ペリーが、7隻の黒船を率いて下田沖にやって来ました。アメリカは、太平洋での捕鯨船の燃料や食料、水などを補給する寄港地として、日本の開国を強く求めていました。ペリーは軍
鉄砲のお話私のルーツの蘂取村は小さな村入植が明治時代と、古くからいる方々は鉄砲の許可も簡単に取れましたそして村のほとんどの家庭には鉄砲がありました村は浜の側から住宅地が広がります裏山を登っていくと丘その丘から左右に分かれて山道を通り他の村に行くのですがそして、クマがたくさん出るそのために自ら命を守らならないので鉄砲を持っていかなくてはいけません熊がいないと思っていた群島でも鉄砲はありトドを打ち貴重なタンパク源として食べていました大きな村は熊が村まで降りては来ま
洋上慰霊、母と行って来ました。濃い霧も晴れて国後島を望むことができました。遠くからいらしている方や初めて来た方に声をかけ、始めましてのご挨拶。えとぴりかで楽しい時間を過ごしてもらえるよう、互いにルーツの話をし、母への質問もあり盛り上がる。小学生6年歳の4歳のお子さんは夏休みの宿題に、四島のことを取り上げるらしい。下船する頃は皆んなすっかり仲良し。こうやってつながって広がることもご縁。洋上慰霊、とても意味のある事業だと感じました。根室港は濃い霧国後島見てました
薬取ものがたりよりお寺編曹洞宗•可水山瑞泉寺はじまりは、明治25年(1892年)11月24日、新潟県北蒲原郡菅谷村西光寺住職斉藤芳瑞師根室町開法寺住職江西實道師の協援によって川畑孫市、駒井彌兵衛、駒林常蔵各氏(何れも漁業主)ほか数名の賛助を得て説教所を開いたとあります。その後、根室町曹洞宗開法寺の末寺として本尊・釋迦牟尼佛を安置し、明治36年(1903年)、く寺號の公称認可を得て寺院が建立されました。寺院の規模は境内5度8畝余り(約5,740㎡)、ここに間口5間(約
石で出来た開拓記念碑村を開拓したと言う記念に建てられました写真を見てもわかるようにかなり大きいものです村の人たちで設置した時の写真です神社の側にありました戦争が終わり突然ロシア人が村に入って来てこの大きな記念碑は跡形もなく壊されてしまいました
北方四島のヒグマは山が険しくて日当たりの良い見通しの利くところに穴を掘って冬ごもりをしていました穴の中はほとんど笹の葉でそれも1枚1枚丁寧にもぎ取った葉を穴の中に敷き詰め笹の茎の部分はほとんど入っていなかったそうです笹の葉は敷き詰めるとふかふか茎は乾燥するとさらに硬くなるので使わないようです実際にヒグマが穴ごもりをする直前に穴の中に運び込んでいる様子を目撃した人もいました冬ごも用に作った穴には次の年の秋に再び入れると言われ春になり冬眠を終えて穴を出る時は中に敷いてあった
正月が明けると、村の余興村芝居の歌舞伎を公会堂で演じますカツラと衣装は本州から取り寄せ青年団の芸達者達は練習を重ねます歌舞伎の演目は『義経千本桜』『曽我兄弟』笛と太鼓で舞台の幕が上がると10人の女性の津軽三味線流の強い撥引きの(女性は小さい頃から三味線を習います)演奏で舞台を盛り上げます自宅での三味線練習の様子
村のお祭りは7月15日この神社は、鳴海漁業、駒井漁業、川畑漁業の寄付で建てられた社殿お祭りの時はその漁業の登りが道端に沢山建てられていたそうです女の子は、振袖を着て神社に集まります子供達は樽で出来た『樽神輿』を担ぎ村を練り歩きます
幾度となく建てられた択捉島蘂取村の標柱は昭和5年に北海道庁の依頼で花崗岩でできた記念碑を建てることになりました蘂取村の公務員総出で村から船に載せ運びカモイワッカ岬に真棒を建て縄で引き上げ岬の上に記念碑を建てました教育研究会などの集まりがあったり出張で蘂取村に来る方がいれば船に乗り案内する場所でもありました記念碑の上に建てた棒に縄をかけて引き上げた記念碑を建てたメンバー戦後、ロシア人が侵攻し日本人が追い出されてからこの記念碑は岬から姿を消しました村から日本人が、強
今年の洋上慰霊5回目に母と参加しましたえとぴりか1泊のコースです午後、えとぴりかに乗り込む交流会では母は語り部、私は司会日頃、千島連盟には語り部でお世話になっているからと引き受けた夕食後、交流会私は緊張から夕食は全く喉を通らない…😓母は講話前に食べてしまうと集中出来ないし曖気が出たら困るから食べません食欲のない親子を見て、これから話す事を知らない周りの方々が『どうしたの?食欲ないの?』おかしな雰囲気の私たち親子なので周りに気を使わせてしまった…『ゆったり参加するつもり
昨日、飛行機を乗り継ぎ灼熱の高知から帰りました約1ヶ月前に決定した北方領土語り部島民の方と行って参りましたパワーポイントと講話内容を急いで作り直さなくてはならないので、この期間友達になかなか連絡できず…😭そして、今年も蘂取村の四季絵地図と択捉島の鳥瞰図のもっと綺麗にわかりやすく内容を変えて書き始めようと思っていたので、旅行や実家にも帰る予定は変更せずにレッスンの合間に2枚同時に絵を描き始め、パワーポイントを作り講話の文章を書き、語りの練習は合計毎日3時間作りできるだけ暗記をする…ど
択捉島蘂取村漁師の親方をなさっていた子孫の方が守られていた択捉水産会の資料を見せて頂くために大学に行って来ました置かれていた資料の中に亡くなった島民の方の遺品もあり島に行った時に島民の方々にプレゼントをしたアルバムを見つけました大切にしていてくれたんだなぁと感じます読むとためになる本も伺いました母たちが住んでいた時に蘂取村の浜を掘ると現れる寛永通宝の話や貴重なお金も見せて頂きましたとても忙しい教授を捕まえて質問をしたりと3時間近く話に夢中になってしまって…
択捉島蘂取村の絵地図昭和20年人口は約400人役場、郵便局、営林所、駅逓、駐在所病院、商店、回漕店、お菓子屋、床屋料理屋、仙台鮎川捕鯨、官営孵化場村営燻製室。洋裁店がありましたニワトリ、猫はほとんどの家で飼っていた1000メートル級の山にある高山植物が村の中にたくさんあり、広葉樹が広がる山メイプルシロップも採れました5月に流氷がさり6月に千島桜が咲く7月15日は神社のお祭り運動会暑い日は泳げました秋は、学芸会蘂取村川は択捉島で一番長い秋になると川いっぱいに鮭が
択捉島蘂取村にある蘂取川四島の中で一番長い川全長26.7キロメートル蘂取橋を渡るのが面倒くさい子供達は川幅76メートルの川を平泳で泳いで渡ります頭には着ていた服をくくりつけて…なんと!幼児も平泳で泳いで向こう岸のはまなすの群生地まで行ったそうです河口近くは深く潮がぶつかり合うので渦巻きのようになっていたようです溺れる子もいましたが、必ず助けてくれたそうですこの川は恵みの川たくさんの魚やカレイの稚魚も泳いでいました川の奥には人の背丈より高いふきがなります秋に
久しぶりに幼馴染と会った今年は、択捉島の鳥瞰図を描く為山を描く刺激が欲しい!!😊坂本直行展に付き合ってもらいました素敵な絵ばかり油絵と水彩迷いのない絵の線さすがだなあと感じます素人の私には強い味方フリクションのペンと水彩色鉛筆がある🎵帰ったら地図と睨めっこ島の配置を確認するためにまずはしっかり観察します幼馴染とは夕方までゆっくり5時間話をして楽しい時間を過ごしましたさあ〜て!楽しんで描きます!!
先週、北方領土語り部がありました1月の講話の内容を少し変え、講話資料も他の絵地図を復帰同盟の方にコピーをお願いしましたやはり原稿を見る暇もなく1時間弱お話をさせていただきました音楽もバッチリ流れて安心質疑応答、今回もありました何をお聞きしたいのか相手のお話に耳を傾け頭の中でまとめて返答をしますこれが1番大変だと感じますが質問してくださった方が納得いく答えをしたいその場で出来ない場合は、後日でも良いと大先輩の母に言われているので不安はありませんでしたすべて経
令和5年北方領土返還要求全国大会•国立劇場令和5年北方領土返還要求全国大会北方領土返還要求全国大会実行委員会主催「令和5年北方領土返還要求全国大会」2月7日(火)11時30分~@国立劇場・大劇場―――――――――――――――――――――――1.「語り継ぐ北方領土」北方領土占領から送還までの記憶を、大学生と元島民後継者が語り継ぎます。2.大会実行委員長挨拶3.元島民の訴え4.内...1部は4人でスピーチしましたロシア人が島に侵攻•侵略した時の話逃げた人の話島を追われる時の話を