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介護旅行・終活・世界遺産のことはお任せ!小田原のアラベラです。今日ご紹介する世界遺産は、中国の物件です。◆承徳の避暑山荘と外八廟(中国)1994年登録。北京の北東250㎞に位置する承徳にある避暑山荘は、歴代清朝皇帝の避暑地である。康熙帝が1703年に着工、1792年に乾隆帝が完成させた。中国江南地方の水郷や北方地方の草原といった自然美と、様々な宮殿様式を組み合わせ、中国全土の縮図ともいえる景観を作り出した。外八廟は、避暑山荘の東と北を取り囲むよう丘陵地帯に作られた
6月にダンナと行った承徳旅行で、書いてなかったこと一つ。そもそも写生旅行だったのに、着いた翌日は泊まった友人の盛大な誕生日が計画されていて、それに付き合うことに。私以外はもっと長くいてよかったのだが、私が北京に戻らないといけなかった。二泊しかできず、ダンナ、写生なし。私も字を書かない、、、、と思ったら、特別に「笔会」(日本語は席上揮毫)が用意された。その場所はサロンって感じで、でもお金持ちの別荘ではなく、2階建てのオフィス棟の地下だった。先にトイレに言及。男女分かれてなくて、こうなっ
三日目。ダンナは遅く起きるに決まっている。私はダンナよりずっと早く起きるし、庭を通って、リビングへ行きたい。ところが凶暴な犬がいる。ダンナがお手伝いさんに「嫁がリビングへ行くから、朝8時頃に犬を繋いでもらえますか?」と前日頼んだ。初日に老郝が木に繋いだと思ったら、ちゃんと繋がってなくて、飛び出して来てびっくりした。この犬、客を噛んだことがあるという。私:もしこっちにやって来たらどうしよう?走ってすぐに部屋に入ればいい?老王:ダメだ。走っちゃ。動かなければいい犬は熊か!
まずは今回の旅行の登場人物。全員画家。うちのダンナ(60歳)老郝(66歳)今回泊まる家の主人老王(67歳)北京在住老张(69歳)北京在住。二日目にやって来たみんなダンナより年上で、長い付き合いの友人。ダンナを「小强」と呼んでいた。初めて聞いたぞ。普段会うのはほぼ年下だから、呼ばれるときは「老王」か「王老师」。二日目の朝、ダンナが9時になっても起きない。「みんなお腹空いてるよ。9時だよ」と言って、起こした。私は先に寝たけど、夜中までおしゃべりしてたのかな?「何時に寝たの?」
週末、ダンナから急に電話がかかってきて、急遽河北省承徳へ行くことになったことは書いた。超特急で翌日のブログを予約投稿して、30分で旅支度、書道用具を用意して、出発。自力でアトリエに一番近いバス停に行く。ダンナの車に乗り込む。後部座席の半分は写生(油絵)の道具。トランクには山で食事ができるように方便面やらお湯を沸かす道具やらが用意されていた。同じく画家村に住む、ダンナの友人の老王の家の近くのスーパーへ行く。老王がスーパーからビールの段ボールを抱えて出てくる。ダンナ:(私を指して)これは
謝謝您來我的博客昨年、実家から持ってきた写真たち。『西へ』謝謝您來我的博客2002年…オリンピック開催が決まった頃中国の西部に旅行に行きました。友達は美術の大学に行っており、4年生になる前に、同じ専攻の人たちで、…ameblo.jp(この時の写真もそう)初北京の写真もありました。94年の8月に、約1か月の北京師範大学への短期留学での思い出。その時は中国語、ほぼできず(第二外国語で1年ならったのに)、一番下のクラスで勉強しました。留学…と言う名
○2024年3月1日に、中国、河北省承徳市を訪れた。もちろん、避暑山荘を見学するためである。その際、承徳南站から承德公交69路のバスに乗って、終点の火神庙站まで行った。料金は3元(60円)だった。○翌日、3月2日には、承徳を発って北京に帰った。何しろ、5泊6日の短い中国旅行である。ゆっくり、承徳避暑山荘を見学する余裕が無かったのが残念でならない。ただ、今回は承徳避暑山荘の下見みたいなものである。再度承徳を訪れ、十分、時間を掛けて、見学するしかない。○帰りも、火神庙站から承德公交69路のバスに
○2024年3月1日に、中国河北省承徳市の避暑山荘を訪れ、宮殿区だけでも、麗正門から澹泊敬誠殿、四知書屋、十九間照房、煙波致爽殿、雲山勝地楼と、案内し続けている。避暑山荘の規模の大きさは尋常では無い。宮殿区を歩いただけで、疲労困憊してしまった。○しかし、日本から、遥々とせっかくここまでやって来たのである。頑張って見物するしかない。そう思って、湖泊区の方へ下りて行った。その湖泊区についても、これまで、晴碧亭、芝径云堤、水芳岩秀、金山と案内して来ている。○しみじみ、避暑山荘の広大さを感じるばかり
○中国、河北省承徳市の避暑山荘を訪れ、宮殿区から湖泊区へ降りて来て、右手の湖畔にあったのが晴碧亭だった。その前にある橋を渡って堤に出ると、そこが『芝径雲堤』で、世界文化遺産の記念碑が設置してあった。○その記念碑で、堤は左右に分岐していた。もともと『芝径雲堤』は「芝」の字の形をしていることから、命名されたとされる。左側の堤は湖の中心へと続く堤で、右側の堤は湖泊区の出口方面へと続く堤らしかった。ここで、どちらへ行くか、相当迷った。せっかく、避暑山荘まで来ているのであるから、左へ進んで、十分避暑山
○2024年3月1日に、中国河北省承徳市にある、世界文化遺産、避暑山荘を見に出掛けた。もっとも、当古代文化研究所が目指したのは、世界文化遺産ではなく、『中国四大名園』が目的だった。ちなみに、『中国四大名園』は、次のものを指す。拙政园江苏省苏州市颐和园北京市海淀区避暑山庄河北省承德市留园江苏省苏州市○昨年9月に、蘇州を訪れ、拙政園と留園を見学した。その際、中国庭園と言うものが甚だ気になった。中国庭園には、中国文化の粋が見られる。少なくとも、当古代文化研究所
○2024年3月1日に、河北省承徳市の避暑山荘を訪れた。もう3月になると言うのに、避暑山荘は、広い湖面全体がが厚い氷に覆われていて、まるで厳冬の様相を呈していた。木々も落葉樹が多く、寒々とした風景だった。○避暑山荘の宮殿区から湖泊区へ向かう下り道で、カチャカチャとけたたましい鳥の声が聞こえた。あれは、間違いなくカササギである。何ともうるさい鳥である。ただ、日本では、ほとんど見掛けない鳥でもある。○そう思い、せっかくなので、近づいて写真を撮っておこうとした。しかし、雑木の中、動き回るので、なか
○2024年3月1日、承徳市の避暑山荘を訪れ、宮殿区から湖泊区へと下りて来た。3月だと言うのに、湖水面は、一面、真っ白だったのに、驚いた。日本の、それも、南九州からやって着た者にとっては、衝撃の光景だった。○何しろ、湖面が一面凍っている風景など、初めて見た。それに、氷の厚さが尋常では無い。たぶん、30~50センチ以上、一メートル近くもあるのかも知れない。そんな感じだった。初めて見る光景に、相当、興奮した。○あらためて、避暑山荘の広大さを実感させられた。ここは、とても一日二日で見尽くせるもので
○2024年3月1日に、承徳市の避暑山荘を訪れた。もう三月だと言うのに、避暑山荘は、まだ真冬の只中にあった。麗正門から岫雲門まで、宮殿区の中心軸を歩いて見学して回って、すっかり疲れた。それでも、避暑山荘は、何とも広い。○確認の意味で、中国の検索エンジン、百度百科が案内する『承德避暑山庄』を見ると、次のように載せる。承德避暑山庄世界文化遗产的重要组成部分、第一批全国重点文物保护单位、国家AAAAA级景区承德避暑山庄,又名“承德离宫”或“热
○避暑山荘の宮殿区の中心軸を、麗正門から澹泊敬誠殿、四知書屋、煙波致爽殿、雲山勝地楼と見学し、最後に岫雲門まで行った。そのまま湖泊区へ出ても良かったのだが、松鶴斋が気になったので、引き返して、松鶴斋を見ることとした。○ところが、松鶴斋は解放されていないみたいだった。それで、松鶴斋の東側の脇を北上して、湖泊区の方へ向かった。松鶴斋の北側の端が、ちょうど、『避暑山荘:万壑松風』の部分になる。○中国の検索エンジン、百度百科が案内する『避暑山荘:万壑松風』では、次のように載せる。避暑山
○前回も案内したように、避暑山荘の宮殿区は、南から次の九重からなることが判る。1)麗正門(南)2)午門3)閲射門(内午門)4)澹泊敬誠殿5)四知書屋6)十九間照房(万歳照房)7)煙波致爽殿8)雲山勝地楼9)岫雲門(北)○その避暑山荘の宮殿区を麗正門から入って、岫雲門まで行った。そのまま北へ抜ければ、湖泊区の方へ出るのだが、松鶴斋が気になったので、引き返して、松鶴斋を見ることとした。○ただ、現在、松鶴斋は見学はできないようで、閉まっていた。
○前回、ブログ『煙波致爽殿』でも案内したように、避暑山荘は、南から次の九重からなることが判る。1)麗正門(南)2)午門3)閲射門(内午門)4)澹泊敬誠殿5)四知書屋6)十九間照房(万歳照房)7)煙波致爽殿8)雲山勝地楼9)岫雲門(北)○その前朝の中心が『澹泊敬誠殿』で、後寝の中心になるのが『煙波致爽殿』であった。麗正門から入場して、一通り見学して、最後の建物が雲山勝地楼になる。○前回、案内したように、麗正門や澹泊敬誠殿の名が、「易経」に基
○前回案内したように、避暑山荘は、南から次の九重からなることが判る。1)麗正門(南)2)午門3)閲射門(内午門)4)澹泊敬誠殿5)四知書屋6)十九間照房(万歳照房)7)煙波致爽殿8)雲山勝地楼9)岫雲門(北)○またそれは、前宮(前朝)と後苑(後寝)とに分かれる。その前宮(前朝)の中心が澹泊敬誠殿であり、後苑(後寝)の中心が煙波致爽殿だと言うことになる。この避暑山荘では、その前宮(前朝)と後苑(後寝)とを、明確に区分していたことが判る。○そ
○昨日、ブログ『澹泊敬誠殿』を書いて、「澹泊敬誠」なる言葉が気になった。それで、手元にある岩波文庫「易経」上下巻をいくら探しても、不煩不擾、澹泊不失。の文言が出てこないのである。○それでインターネット検索でいろいろとさがしたところ、次のページがヒットした。經學通論論變易不易皆易之大義《易緯·乾鑿度》云:易一名而含三義,所謂易也,變易也,不易也。又云,易者,其德也。光明四通,簡易立節,天以爛明,日月星辰,布設張列,通精無門,藏神無穴,不煩不擾,澹泊不失,此其
○2024年3月1日、河北省承徳市の避暑山荘を訪れた。最初に、宮殿区に行き、麗正門をくぐって、内午門から澹泊敬誠殿、四知書屋殿へと進んで行った。だからと言って、建物そのものは、それ程、豪華なものではない。○それはここが清朝の避暑山荘だからではないか。北京の故宮博物院とは雲泥の差がある。ただ、今回、初めて訪れてみて、その規模の広大さに、驚き呆れた。それももう避暑山荘のレベルでは無い。みはるかす先までが避暑山荘だと言うのだから。○避暑山荘の宮殿区のみを歩いて、承徳の避暑山荘と言うものは、一日二日
○2024年3月1日、河北省承徳市の避暑山荘を訪れた。麗正門をくぐった先に、避暑山荘及び周囲寺廟景区案内図と避暑山荘及び周囲寺廟簡介があって、それには次のように紹介してあった。避暑山荘及び周辺寺廟紹介避暑山荘と周辺の寺院は1703~1792年に建てられた。康熙、雍正、乾隆の三朝を通じて89年間の年月を経て完成し、それらは清朝の皇帝のための避暑地であると同時に、政務を行い、仏教の修行をし、他民族と懐柔しつつ国境を固め備える夏の離宮として、そして皇族の寺廟群で
○2024年3月1日、河北省承徳市の避暑山荘を訪れた。朝、北京朝阳站を8時50分に出発し、承徳南站に10時2分に到着した。その後、承德公交69路に乗って、終点の火神庙站まで行った。火神庙站から宿泊先の『承德山庄宾馆』までは、歩いて200mである。○ホテルへチェックインして、いよいよ念願の避暑山荘見学である。宿泊先の『承德山庄宾馆』の向かいが、もう避暑山荘だった。避暑山荘見物には、最高のロケーションである。道路一本を渡ると、そこが避暑山荘だったから。○土産物店が立ち並んでいて、入り口が何処かも
〇2024年3月1日、河北省の承徳市を訪れた。もちろん、世界文化遺産『承徳避暑山荘と外八廟』を見学するためである。ただ、当古代文化研究所が目指したのは、世界文化遺産『承徳避暑山荘と外八廟』ではなくて、『中国四大名园』としての徳避暑山荘だった。○ちなみに、『中国四大名园』とは、次のものを指す。拙政园江苏省苏州市编号121-74颐和园北京市海淀区编号122-75避暑山庄河北省承德市编号123-76留园江苏省苏州市编号124-77○実は、昨年9月に、蘇州を訪
○2024年3月1日に、河北省承徳市にある避暑山荘へ出掛けて来た。承徳避暑山荘は、『中国四大名园』の一つとして知られる。そのことを知ったのは、昨年2023年9月に、蘇州の拙政园や留园を訪れた時であった。○ちなみに、次が『中国四大名园』になる。拙政园江苏省苏州市编号121-74颐和园北京市海淀区编号122-75避暑山庄河北省承德市编号123-76留园江苏省苏州市编号124-77○それで、今回の「北京漫歩」旅で、避暑山荘と颐和园とを、訪問しようと思った次
○2024年3月1日に、河北省の承徳市を訪れた。北京朝阳站からG961次高铁に乗って、承徳南站まで行った。承徳南站は周囲に何も無いところに建つ駅で、わずかにバス停のみがあった。○そのバス停から、承德公交69路のバスに乗って、承徳市街を目指した。終点が火神庙站だから、始発から終点までバスに乗ることになる。料金は3元(60円)。○終点の火神庙站前に建っていたのが康熙大帝だった。承徳で、康熙帝は英雄である。承徳の町中のロータリーの中に建っているのが康熙大帝である。毎日、皆が振り仰いでいるのが康熙大
○2024年3月1日、「北京朝阳到长春西G961次高铁』に乗って、北京朝阳站を8時50分に出発し、承徳南站に着いたのは、定刻の10時2分だった。北京から承徳まで250㎞、それをわずか72分で走り抜けるのだから、何とも速い。○降り立った承徳南站は、周囲に何も無い田園地帯で、立派な駅舎の脇を、皆が歩いて行く。たぶん、そちらにバス停があると判断して、後を付いて行った。案の定、その先に承徳南站バス停が見えて来た。○承徳南站からホテルまで行く方法も、日本で確認済みだった。できれば、承德公交游1路に乗っ
○2024年3月1日、「北京朝阳到长春西G961次高铁』に乗って、北京朝阳站から承徳南站まで行った。北京朝阳站を8時50分に出発して、10時2分には承徳南站に到着する。つまり、250㎞を、わずか72分で走り抜けると言う、優れものである。○日本では、新幹線を日本のものと思って、信じて疑わない。しかし、新幹線が最も発達しているのは、中国である。広い中国中を新幹線が走っている。何しろ、香港から北京まで、一日で行くことが出来る。その総距離数は2439㎞だと言うから、驚く。○また、当古代文化研究所では
○2024年3月1日は、北京から承徳へ向かう。安家楼バス停から北京朝阳站までは、北京公交413路バスに乗って行った。意外に、バスは混んでいた。7時40分ころにバスに乗って、8時15分には、もう北京朝阳站に着いていた。○現在は、日本に居ながらにして、中国の鉄道の切符を予約することができる。何とも便利な世の中である。当古代文化研究所は、10年以上も前から、中国の携程と言う旅行社を利用している。以前は、中国の電話番号が無いと利用できなかった。それで、当時は、上海に住んでいた甥の電話番号を利用して、切
○2024年2月29日から3月5日に掛けて、久し振りに北京へ出掛けて来た。中国訪問は、昨年の9月、「寧波・杭州・蘇州・台北旅」以来、半年振りになる。中国への一人旅を始めたのが2012年3月からで、これまで随分、中国各地を訪問して来た。○それなのに、何故か、中国の首都である北京には全く訪れていない。それもこれも北京は中国文明からしたら、僻地になる。ちなみに、ウイキペディアフリー百科事典では、その歴史について、次のように述べる。北京市北京市(ペキンし、中国語:北京市、拼音:Bě
普陀宗乗之廟(三)普陀宗乗之廟と土爾扈特(トルグート)部の帰順普陀宗乗之廟は避暑山荘北側の獅子溝に位置し、土地は22万平方メートルを占め、外八廟の中で最大規模の寺院である。この寺院は乾隆が自分の60歳の誕生日と母親の80歳の誕生日を祝うため、命令を出してラサのポタラ宮に似せた様式に建造させたものである。乾隆は誕生祝いの際、モンゴル、青海、西北各地の少数民族の上層の人物が熱河にお祝いに来ることを考慮し、来訪者の大部分がラマ教の信徒であるので、ラマ教の聖地、ポタラ宮に似せてこの廟を建設した
中国清王朝の時代、北京の北方250Kmの河北省承徳市に造営された避暑山荘。海抜1千メートルの燕山山脈山中に作られ、都北京から近く、避暑に最適な離宮であるが、その造営目的は、帝政ロシアの中国領侵略を防ぎ、モンゴルやチベット地区の少数民族との融和を強化することにあった。避暑山荘を主に造営したのは、清朝第4代皇帝、康熙帝であった。尚、避暑山荘は1994年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。今回ご紹介する避暑山荘に関する歴史背景のお話は、中華書局出版から1984年に出版された『名勝古跡史話』