ブログ記事38件
慈光寺本『承久記』によると・・・後鳥羽上皇が武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏に北条義時追討の院宣を下したことを知った北条政子は、こう演説したのだといいます。「皆よく聞きなさい。私ほど若いころから物思いの絶えない者はいません。姫御前(長女の大姫)・大将殿(源頼朝)・左衛門督殿(長男の頼家)・右大臣殿(次男の実朝)に先立たれ、四度もの辛い思いをしてきました。今度、権大夫(弟の義時)が討たれることとなれば、五度目の悲しみを味わうことになってしまいます。「女人五
日下力『いくさ物語の世界中世軍記文学を読む』岩波新書、2008年読み頃この頃の本がよく箱の中から出てくる。花火のために部屋を整理していた若者が、床に積まれていた本を段ボール箱に詰め込んで外部倉庫へ出したままだったということだろう。一回り経って読み頃になっただろうか。読まなくてよい本を選別できただろうか。物語にだまされる文学と歴史で読み方が異なる。日下力氏は物語にだまされることの例をいくつかあげていた。早稲田大学の図書館は、『平家物語』を以前、歴史書に分類していたという。「鎌倉時代の末
中の院阿波の国へ移り給ふ事37閏十月十日、土御門中院は土佐国へ遷された。この院はこの度の戦には加担していなかった。その上で賢王が配流されたので、鎌倉からもたしなめらえたが、「わたしは、恐れ多くも法皇を配流させてしまい、その子として華洛に居ることは、冥土の照覧に憚りがあるだろう。また、そのまま居ても何の益があるのか。承久四年の恨みは深いというが、人界に生を受けた事は、父母の恩と思っても、思い切れない。一旦の恨みによって、永く不孝の身になるのならば罪深いことだ。そうであれば同じ様に遠
胤義子供斬らるゝ事36三浦判官胤義の子供、十一、九、七、五、三歳になる五人がいた。矢部の祖母の許で養い置いていたのを権大夫義時が、小河十郎を使いに建てて、皆を召し出した。尼の力も及ばなかった。「この度の世の乱れ、特に胤義の仕業である。惜しむことはできない」として、十一になる一人を隠して、その弟九、七、五、三を召し出したのは不憫であった。小河十郎は、「せめて幼稚なることをこそ名残惜しまれよ。成人の者を止めることはできないのですから」と責めると、尼は立ち出て
広綱子息斬らるゝ事35八月十一日、佐々木山城守弘綱の子の児、御室があり、六波羅より尋ね出されて向かうと、御室がご覧になり送る、埋れ木の朽ち果つべきは止(とど)まりて若木の花の散るぞ悲しき泰時はこれを見て、「幽玄の稚児であるから、助けてあげなさい」と申されて、母はこれを聞いて、「七代武蔵守殿のご加護を頂きまして、命が有る限りお祈りいたします」と、手を合わせて拝むと、「皆人、我が子を助けるように覚えておこう」と悦んだ。
新院宮々流され給ふ事34八月二十日、親院順徳上皇は佐渡国へ流された。お供には定家卿の息子・冷泉中将為家、花山院少々義氏、甲斐左兵衛佐教経、上北面・藤左衛門大夫安光、女房には左衛門佐殿、帥佐殿の以下三人だった。冷泉中将為家は一歩のお見送りもなされなかった。残る三人が参ったのだった。花山院少々義氏は、途中で所要があるとして帰られた。兵衛佐も重い病になって、越後国に留まった。安光だけがお側に仕えた。九条殿の手紙があった。御形見に文庫を奉るということがあった。中に執筆された『八雲抄』も
一院隠岐の國へ流され給ふ事33七月六日、泰時の嫡子時氏、時房の嫡子時盛が数千騎の軍兵で武装し、院御所四辻殿に参って、鳥羽殿に移すことを述べた。御所中の男女は喚き叫び、倒れ迷う女房達もいたので、先に出してしまった。時氏はこれを見て、「御車の中も怪しい」と言って、弓の筈を持って、御簾を掻き揚げた。発見された後鳥羽院は何の準備もしておらず、余りにも情け無く見えた。お供には大宮中納言実氏、宰相中将信成、左衛門尉義茂、以上の三人だけが参った。武士が前後を囲み、今日を限りとして
公卿罪科の事32それからしばらくして、去る六月二十四日、武蔵守泰時が静かに院参して、「謀反を勧められた張本人を召してください」と申すと、後鳥羽院は急ぎ氏名を書き出させたのは驚くべき事だった。指示に従って、皆が六波羅に捕縛され、その人々には、坊門大納言忠信、その身柄を引き受けていた千葉介胤綱。按察使の大納言光親、身柄預かりの武田五郎信光。中御門中納言宗行、預かりの小山左衛門尉朝長。佐々木中納言宗行、預かりの小笠原次郎長清。甲斐宰相中将範茂、預かりの式部丞朝時。一条次郎
京都飛脚の人々評定の事31北条武蔵守泰時が早馬で関東へ注進した。合戦の次第、討ち死に、手負いの者の名前を記した書状、並びに召し置く者の使命、着られた武士の使命、この他、院や宮の御事、公卿や殿上人の罪状、京都の政治のため、山門(比叡山)南都(興福寺)の事については、泰時が単独では処分を裁可できないので、急ぎ鎌倉で治定(ちじょう:確定すること)して、帰参するよう命じた。早馬が関東に着いたところで、北条権大夫義時殿、二位(北条政子)殿、その他大・小名の面々が走り出て、「戦の結果
京方の兵誅戮の事30山田次郎重忠は西山に入って沢の端に本尊をかけて、念仏をしている所に、天野左衛門が押し寄せてきたので、自害する隙がなく、嫡子伊豆守重継が助けながら、「この間に、御自害ください」と言ったので、山田は自害して伏せてしまった。伊豆守は生け捕られた。秀康、同じく秀澄も生け捕られて斬られた。下総前司盛綱も生け捕られて斬られた。糟屋は北山で自害した。天野四郎左衛門は、自首してきたが斬られた。山城守、後藤判官は生け捕られて斬られた。後藤の子息左衛門元綱も受け取っ
胤義自害の事29三浦胤義は、「東山で自害しよう」と思ったが、都合が悪くなったので、「太秦に小児がいる。これを隠し置ける場所へ逃げていきたいが、先にはまた大勢入り乱れていると言っているので、これに隠れ過ごして日を暮らして、太秦に向かおう」と、西山木島(このしま)の社(やしろ)の中に隠れておいて、車の傍らに立って、女車のようにして、その車に隠し乗せたのだった。胤義が長年の郎党に、藤四郎入道という者が高野山に籠もっていたところ、戦を見て、主人の往方も見ようと、
院宣を泰時に下さるゝ事28六月十五日巳の刻(午前十時頃)、北条泰時は雲霞のような軍勢で、上河原から立ち、四辻殿の院の御所へ向かうと聞こえてきた。一院(後鳥羽院)方は東西を関東方に押さえられていた。月卿、雲客が前後を忘れて慌て騒ぎ、せめての御事に院宣を泰時に遣わせられた。その状は次のようなものだった。------秀康朝臣、胤義以下の徒党を追討を命令すること、宣下の通り。また先の宣旨を停止し、解却の輩、還任を許可すること、同じく宣下の通り。凡そ天下の事、今において、干者やお口入れ
秀康・胤義等都へ帰り入る事27京方の能登守、平九郞判官、下総前司、少輔入道、所々の戦に負けて都に戻ってきた。山田次郎も同じ様に京へ入った。六月十五日の卯の刻(午前六時)に四辻殿に参って、「秀康、胤義、盛綱、重忠が、最後のお供を仕ろうと、参りました」と申し上げると、後鳥羽院はどのようになる身かもわからないところへ、四人が参上したので、ますます騒がせて、「私は武士が向かえば、手を合わせて命ばかりを乞おうと思っていたけれども、お前達が参って籠り防ぐのならば、なかなか悪くは無
宇治の敗るゝ事26京方の大将佐々木中納言有雅卿、甲斐宰相中将をはじめとして一騎も残らず逃げ落ちていった。卿相には右衛門佐、武士には佐々木太郎衛門尉、筑後六郎左衛門朝直、糟屋四郎左衛門、荻野次郎・弥次郎左衛門ばかりが残った。武蔵太郎、中将の甲のはちを射払って、後の首射立てたのだった。薄手なので逃げ延びた。また京方、右衛門佐朝俊がさせる弓矢を取って、頼家に忠を示すべき身もなかったが、望みを申して向かった。大勢に向かって、「朝俊」と名乗って駈ければ、取り込めて討たれてしま
関東の大勢水に溺るゝ事25二番目に打ち入る者達は、佐野与一、中山五郎、溝次郎に次いで、臼井太郎、横溝五郎祐重、秋庭三郎、白井太郎、多胡宗内の七騎が上がっていった。三番目には小笠原四郎、宇都宮四郎、佐々木左衛門太郎、河野九郎、玉井(たまのい)四郎、四宮右馬丞、長江与一、大山次郎、勅使河原次郎、これらも無事に打ち上がっていった。安東兵衛、渡瀬に臨んでみたが、「味方は多く渡っていった。下頭(くだりがしら)だったので、渡瀬も遠い。三段ばかり下に、少し狭まったところを覗いて、ここの
信綱・兼吉宇治河を渡す事24武蔵守泰時は、陸奥国の住人芝田橋六兼吉を呼んで、「戦を止めさせよ。河を渡ろうと思う」と言ったので、兼吉はかしこまって承り、「まず瀬踏みを仕って、見てまいりましょう」と河を見ると、夜の雨に昨日の水が三尺五寸も増していた。全体でいつもよりも一丈三尺増していた。兼吉は次のように思い、「検見を出して瀬踏みをしましょう」と申し上げると、南条七郎時貞を遣わせた。兼吉はすぐに時貞を伴って、刀を口にくわえて渡ったが、安心な場所も気
宇治橋にて合戦の事23同月十四日、北条武蔵守泰時は宇治に寄せてきたが、日暮れになったので、田原に布陣した。酉の刻(午後六時頃)に、駿河守義村が淀で分かれるところで、「駿河次郎(三浦泰村、義村の子)は、義村に武装したほうがよいと思う」と言うと、「鎌倉から武蔵守泰時殿に付き従っていて、今もお供仕ろうといしているところで、親子の仲ではございますが、お心の内がよくわかりません。三郎光村(泰村の弟)を連れていけば、安心できるでしょう」と言うと、駿河守義村は頷いて、「
勢多にて合戦の事22同じ月(六月)の十三日に、北条相模守時房、北条武蔵守泰時は守野路につき、十四日に相模守が勢多へ寄せて見ると、橋板が二間引いてあり、南都の大衆どもが、板東の武士を招いていた。宇都宮四郎が遠矢を射た。武蔵国住人の北見太郎、江戸八郎、早川平三郎が押し寄せたが、射にさらされて、退いていった。村山太郎、奈瀬左近、吉見十郎、その子の小次郎、渡右近・又太郎兵衛、横田小次郎も、敵が隙間も無く射てきたので、退いていった。中にも熊谷、久米、吉見父子五人は橋桁を渡って寄せていった。奈良法
方々責口御固の事21主上(天皇)と上皇は、西坂本の梶井の宮へ入られた。座主大僧正承円が参上して、「内々、御気色も無く、御幸をいただいた事、末代の誹りも受けてしまうだろうと覚悟しております。悔しいことです。役に立つ悪僧どもは、水尾崎、勢多へと向かわせました。急ぎ還御できるように、宇治と勢多を支えてご覧にいれます。おそらく神明もお助けくださるでしょう」と、涙を流して申し上げると、「いかにも」と院も思われて、十日に四辻殿へ還御された。都では、再び喜びあった。
一院坂本へ御出立の事20(六月)八日の早朝、藤原秀康、三浦胤義は、御所へ参上して、「去る六日、大豆戸をはじめ、皆敗れ逃亡しました。また杭瀬河よりほか、はかばかしい戦をした所もございません」と報告すると、君も臣も慌て騒ぎ出した。すぐにでも都に敵が討ち入りしてくるように、押し合って騒ぎ立てたのだった。後鳥羽院は、「合戦においては、一方は必ず負けるものである。だからといって矢を射ないことはない。今は世はこのようになってしまっている。中途半端な戦をするのならば、山門(
朝時北陸道より上洛の事19その後、式部丞朝時は、五月末日、越後国府に到着して、すぐに出発した。北国の輩が悉く相従って、五万余騎にも及んだ。京方(後鳥羽院方)の仁科次郎盛遠、宮崎左衛門尉定盛、糟屋左衛門有久が先駈けて駈けて下ったが、対敵できず、加賀国の林のもとで休み、国々の兵どもを召すと、井出左衛門、石見前司、保原左衛門、石黒三郎、近藤四郎・五郎、これ等を召し抱えた。参上しない者のために、日数が無駄にかかったが、宮崎という所も支えることが出来ず、田ノ脇という所に逆茂木を設営したが
相模の守戦の僉議方々手分の事18同月七日、北条相模守時房、北条武蔵守泰時が野上の垂井に中一日留まって、中山道、東海道の二つの軍勢を一所に寄せ集め、道の途中に兵士達がはせ集まってきて、このとき二十八万騎になっていた。関ヶ原という所で、合戦の詮議を行い、軍勢をいくつかの分隊とした。武蔵守が、「今日は、宇治、勢多の合戦が終わる予定だ。我々の軍は詮議では分隊が重要課題だった。三浦駿河前司義村殿のご計画に沿っているのだ。憚らずに意見を出してくれ」と言うと、義村が、「大将
重忠支へ戦ふ事17京方(後鳥羽院方)の尾張源氏山田次郎重忠は、味方がひとりも残らず逃亡していくのを見て、「ああ、心が暗くなる。重忠は矢を一つ射てから逃げよう」と行って、杭瀬河の西の端(はた)に九十余騎で控えていた。関東方(鎌倉幕府方)から小鹿嶋(こかしま)の橘左衛門公成が五十余騎で馬を素早く真っ先に駈けて、河端に戦を仕掛けたが、山田次郎の旗を見て、どうしようかと考えていると、村雲が立ち上がってきたので、控えていた。後陣を進んでいた相良三郎、波多野五郎義重、加
承久記下巻官軍敗北の事16その後、夜が明ける頃に、北条武蔵守泰時、小太郎兵衛を使者として、「唯今、大豆戸を渡ったところである。同様にお急ぎください」と申したところ、足利義氏は、すぐに、「使者が見ているところで渡ろう」と言って、足曲冠者と連れだって共に渡っていった。小太郎兵衛も、この部隊について渡った。ここに渋川六郎という者が、逃げようとしたので、「日頃の言葉とは違っているでは無いか。引き返せ」と言われて、大勢の中に駆け戻ったが、もう二
阿曾沼の渡豆戸の事15(承久三年)六月六日の明け方、大豆戸に向かった板東勢の中に、武蔵国住人・阿曾沼小次郎近綱という者がいた。河を渡ろうという寸前で、「中山道の戦は明日と合図をしていましたが、既に始まったようです。死んだ馬が流れてきています。中山道の部隊に後陣をつけなかったことが悔やまれます」と言い終わらぬうちに、河に入っていった。十万八百余騎が一度に河を渡っていった。北条時氏は三十余騎で、敵の館の中に駈け入っていったが、兵どもは一人もおらず、雑人が十四五人が逃げ散るばかり
秀康・胤義落行く事14長野四郎、小嶋三郎が大豆戸へ駈けて行き、合戦の様子を述べると、能登守秀康をはじめとして、「悔しいことだ。とはいってもどうしたらよいのか」と慌て騒いだ。三浦胤義はこれを聞いて、「唯今、中山道の部隊が敗れてしまえば、下手の軍勢は、これを聞いて萎(しお)れ落ちていくでしょう。そうならないように、弥太郎判官を中山道の部隊に向かって手助けさせましょう」と、常葉七郎を案内者として五百騎ばかり進めさせた。その日の夜に入ったところで、藤原能
尾張の国にして官軍合戦の事13(承久三年)六月五日の辰の刻(午前八時頃)に、尾張一宮の鳥居の前に、関東の両将の北条時房、北条泰時以下、皆控えており、手勢を分けていた。「敵、既に尾張、三河等に向かっております。大炊渡から中山道の敵に手を付けるべきです。宇留間渡には森入道を。池瀬(いきがせ)には足利武蔵前司義氏、足助冠者を。板橋には狩野介入道を。大豆戸は大手の正面として」結局、武蔵守泰時、駿河前司義村は伊豆、駿河領国の軍勢が馳せて戦懸かりとなり、いよいよ雲霞の軍勢になってきた。
高重討死の事12五月末日に、東国より大将の北条相模守時房、北条武蔵野守泰時が、遠江国橋本に到着した日、京方の佐々木下総前司頼綱の郎党筑井四郎太郎高重という云う者が、その土岐に東国に下ってきて、北条時房の来着を聞いて、馳せ参じたが、大勢に道を塞がれてしまった。逃れる隙もなく、先陣の軍勢に紛れて橋本に到着した。今は逃げなければと思い立ち上がって、馬の腹帯を強く締めて、高師の山に登ろうと歩ませて云った。その数十九騎だった。相模守時房はこれを見ていて、「この軍勢の中に、私の許可無
京都方々手分の事11後鳥羽院は、「押松が話した事は、その通りであろう。臆(おく)してはならない。たとえまた、味方に志がある者が、鎌倉を出たときに北条義時方だと名乗っていることもあろう。日月は未だ地に落ちてはいない。早く、こちらからも討手を向かわせよ。北陸道には仁科次郎盛遠、宮崎左衛門尉定盛、糟屋右衛門尉有久、あわせて一千余騎(ここでは大勢の意味)を下らせよ。重ねて、東海道、中山道の二つの道に討手を下せよ」と命令した。三浦胤義、大江広親は以下の兵どもに、各々覚悟するよ
義時宣旨御返事の事10同じく五月二十七日、仙洞(後鳥羽院)の宣旨の請文に、言葉によって北条義時が返答したのは、「将軍のご後見として、任ぜられてから、王位を軽んじたことはございません。自ら勅命を承ることは、是非、皆様方の道理をお示し戴いて、衆中(しゅうちゅう:評定所の審議役人)で評定してください。それによって、尊長、胤義らの讒言によって、突然、宣旨を下されて、既に誤り無く朝敵になってしまったことについて、本当に不都合極まり有りません。ただし、合戦を好み、武勇を嗜むのであれば