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前回まではこちら⬇️目次私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。(早雲は伊勢早雲(いせそううん)と名乗っています。)早雲は1514年より三浦道寸(みうらどうすん)殿が籠城している新井城を兵糧攻めで追い詰めていました。三浦勢はただ籠城するだけでなく、兵を出陣させ攻めてきました。早雲がいる鎌倉近くまで攻めてくることもありましたが、早雲勢は押し返し新井城をじわじわと囲んでいました。現在の新井城跡辺りの地図1515年には早雲の嫡男・氏綱(うじつな)に男子が誕生し、早
前回まではこちら⬇️目次私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。(早雲は伊勢早雲(いせそううん)と名乗っています。)早雲が体勢立て直しに動いた1511年、扇谷上杉朝良(おうぎがやつともよし)殿は山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の跡目争いの仲裁に入っていました。山内上杉家は亡くなった顕定(あきさだ)さんの2人の養子、顕実(あきざね)さんと憲房(のりふさ)さんが跡目争いをしていたんだ。しかし、仲裁の甲斐なく争いは激化していきました。さらに古河公方の足利氏(あしか
前回まではこちら⬇️目次私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。(早雲は伊勢早雲(いせそううん)と名乗っています。)早雲は大道寺重時(だいどうじしげとき)の命を懸けた出陣で小田原城に入ることができました。小田原城小田原城で早雲は嫡男の氏綱(うじつな)に迎えられました。氏綱「父上、ご帰陣お待ちしておりました。お身体は大丈夫ですか?」早雲「もう大丈夫だ。しかし、新次郎(しんじろう)と重時の働きがなければ…。亡くなったもののためにも、相模国を平定せねばならん。」
前回まではこちら⬇️目次私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。(早雲は伊勢早雲(いせそううん)と名乗っています。)1510年、早雲の調略により扇谷上杉朝良(おうぎがやつうえすぎともよし)殿から離反した上田政盛(うえだまさもり)殿は権現山城(ごんげんやまじょう)で挙兵しました。早雲は後詰めとして出陣し住吉城(すみよしじょう)を築きました。住吉城は早雲さんが自然の地形を利用し築いた山城なんだよ。住吉城跡早雲らの動きに対し扇谷上杉朝良殿は山内上杉家(やまのうちう
前回まではこちら⬇️目次私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。(早雲は伊勢早雲(いせそううん)と名乗っています。)早雲が江戸城に迫っていると知った扇谷上杉朝良(おうぎがやつうえすぎともよし)殿は出陣していた上野から反転し反撃に出たのです。朝良「おのれ、我が領地を鼠の如くちょろちょろしおって!打ち滅ぼしてやるわ!」朝良「ものども!行くぞ!」1510年、両軍は武蔵国、相模国で対峙したのです。早雲はある策を考え出しました。早雲「扇谷上杉家の中で離反して、わしに
前回まではこちら⬇️目次私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。(早雲は伊勢早雲(いせそううん)と名乗っています。)早雲が相模国の小田原城下で検地を行い、支配の強化している頃、関東管領・山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)でひと騒動が起きていました。先の長享の乱で山内上杉家の上杉顕定(うえすぎあきさだ)殿に援軍を出した越後国の守護で顕定殿の弟の上杉房能(うえすぎふさよし)殿が家臣で守護代の長尾為景(ながおためかげ)殿に殺される事件が起きたのです。長尾為景さんのお父
前回まではこちら⬇️目次私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。(早雲は伊勢早雲(いせそううん)と名乗っています。)1504年、早雲は扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の上杉朝良(うえすぎともよし)殿、今川氏親殿と共に武蔵国立河原で関東管領の山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の上杉顕定(うえすぎあきさだ)殿と古河公方・足利政氏(あしかがまさうじ)様の連合軍と戦い、それに勝ちました。この戦は戦死者が二千人も出たんだよ。上杉顕定殿は命からがら逃れました。顕定「お
前回まではこちら⬇️目次私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。1504年、早雲は扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の上杉朝良(うえすぎともよし)殿の援軍として小田原城を出陣しました。同じ頃、今川氏親(いまがわうじちか)殿も扇谷上杉家の援軍として駿河国を出陣しました。かたや上杉朝良殿の籠る河越城を攻めていた山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)の上杉顕定(うえすぎあきさだ)殿は、顕定「これ以上、このまま河越城を攻めても拉致がない。敵の支城の江戸城を落とす!」と陣
前回まではこちら⬇️目次私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。(早雲は伊勢早雲(いせそううん)と名乗っています。)1487年から山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)と扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の争いは今だ続いていました。この争いは長享の乱って呼ばれているんだ。扇谷上杉家は当主の上杉定正(うえすぎさだまさ)殿が亡くなり、後を甥の上杉朝良(うえすぎともよし)殿が継ぎました。しかし、山内上杉家の当主・上杉顕定(うえすぎあきさだ)殿の反撃、さらには山内上杉家
前回まではこちら⬇️目次私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。(今回より伊勢早雲(いせそううん)と名乗っています。)早雲は伊豆国で善政を施行すると、国人や民が続々と早雲に従ってきました。そんな早雲に接近してきたのが扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の上杉定正(うえすぎさだまさ)殿でした。扇谷上杉家の家紋早雲と扇谷上杉家とは、かつて今川氏の家督争いで対立した過去がありました。今の今川氏の当主・今川氏親(いまがわうじちか)さんと小鹿範満(おしかのりみつ)さん
前回まではこちら⬇️目次私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。(早雲は最初は伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)と名乗っています。)興国寺城(こうこくじじょう)の主となった盛時は京より正室の陽子(ようこ)と子の伊豆千代丸(いずちよまる)を迎えました。盛時の興国寺城は駿河国の東に位置し伊豆国に近い場所にありました。盛時は討ち取った小鹿範満(おしかのりみつ)を外部から推していた扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)が攻めてくることを予想し戦の準備に取り掛かってい
前回まではこちら⬇️目次私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。(早雲は最初は伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)と名乗っています。)盛時は駿河国に入り、妹の桃に再会しました。盛時「義忠(よしただ)殿が討死とは…残った龍王丸(たつおうまる)はまだ幼いのに。」桃「夫は武士です。戦で亡くなるのは本望だったことでしょう。ただ龍王丸には不憫でなりません。幼少の身で家督争いに巻き込まれるとは…。」義忠さんは今川義忠さんのことで桃の旦那さん。2人の子が龍王丸くんだよ。