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毎度ありがとうございます。さてさて。令和5年10月27日の十九代式守伊之助のお墓参りのあとに拙作『鎌倉山離愁赤橋』のゆかりの地めぐりをひさびさに行ったことはすでにお話ししましたがこの作品以外にも偶然出会ったゆかりの地があります。まず僕の作品に関係あるところではここ。はい。赤橋守時のお墓がある浄光明寺に行く途中にある『扇ヶ谷上杉屋敷跡』この場所は拙作の歌舞伎脚本『松山城風流合戦』の(作品名をクリックすると販売ページへひとっ飛び)重要な登
涼しくなった10月から城めぐり・歴史めぐりを再開しました。まずは近場の北条を歴史旅。戦国ドラマで北条と言えばクローズアップされるのは秀吉の北条征伐。大坂城への落城を拒んだために攻め込まれ何の結論も出ない評定を繰り返し(小田原評定という言葉も生まれてしまい)秀吉が築城した石垣山一夜城で戦意喪失・落城。なんだかイマイチで関東における覇者の威厳が感じられないんですよね。でも関東で城・歴史をめぐっていくとそんな北条のイメージはがらり。「それまでの北条がどれだけ耐
高校3年間同級生だった女の子が夢に出てきました。「女子高生」と他愛のないおしゃべりをした余韻、起きた後にも継続して。これほど気持ちのよい目ざめ、かつて経験したことはなかったかもしれません。この夢のきっかけですが、今日開催された初めての同窓会。定年も目前にしての集まりでしたが、私用のため欠席しました。とても残念な反面、年を重ねた私の姿をみせたくもなく。そして心の中で「永遠の女子高生のままで」いてほしいという願望もあって。わがままなジレンマですね(笑)。この気持ちですが。
ブロ友さんが以前に紹介していた東京国際フォーラムの太田道灌のコーナー。「私も行きたい」と行ってきました~国際フォーラムのガラス棟1階に太田道灌と江戸城コーナーがあります。江戸城と言えば・・・。かつての私の浅い知識では徳川家康が築城したお城と思っていました。いえいえ違うんです。江戸時代よりもっと前、室町時代からすでにお城があったんです。その江戸城を築城したのが太田道灌。扇谷上杉家の家宰です。道灌が江戸城を築城したのは1457年。その後も岩槻
北条氏康-河越夜襲篇(単行本)Amazon(アマゾン)1,224〜4,400円北条氏康の3巻目。軍配者シリーズの風摩小太郎、山本勘助、曾我冬之助が登場します。今川の雪斎の策により今川、武田、古河公方、山内上杉、扇谷上杉に包囲され負け必定の氏康。どうにか今川、武田を剥がし、8万の軍勢に囲まれる河越城を救いに8千の軍勢で向かいます。河越夜戦は史実として有名ですが、どのような感情で、どのようにして策を決め、少ない軍勢をどのように使ったのか、臨場感たっぷりでその場にいるかのように分か
今日はYOUTUBEで歴史動画の最新作がアップされました。今回は、後北条氏の河越夜戦です。北条氏の河越城を山内・扇谷の両上杉、古河公方、関東の国人などに包囲された危機に立ち向かう北条氏康。今回も熱い戦いが見られました。この戦いで、扇谷上杉は滅亡、山内上杉は越後へ逃亡、古河公方も古河御所へ撤退となります。もちろん、北条氏も無傷とはいきません・・・。さて、これから先は戦国時代でも有名な時代になってきますので、名前も知った武将が増えてくることでしょう。今後も楽しみですね。
シリーズものの新刊が次々出てくるは当然のことなわけですけれど、それが毎度、近隣図書館の新着図書コーナーに並ぶことになり、おのずと目に付いてしまうのですな。これまで『足利氏と新田氏』、『北条氏と三浦氏』、『鎌倉公方と関東管領』と読んできた「対決の東国史」のシリーズ、どれも同じように興味深かったというわけでも、またとっつきやすかったわけでもないのですが、今度は『山内上杉氏と扇谷上杉氏』、また手にとってしまったのでありました。鎌倉幕府が倒されて南北朝の対立となり、やがてその分裂が解消される中
今日は朝は曇っていたが職場に着いてしばらくすると晴れた。日差しは強いが日陰では涼しく感じる。比較的過ごしやすい日になったな☺️先週の金剛寺の続きになるが金剛寺の次は本来の目的の場所へ…坂を上がって行くと…王子神社に到着。ここが今回行こうと決めていたメインの場所。王子神社は東京十社の一つ。東京十社(とうきょうじっしゃ)は元准勅祭社12社の内から1975年(昭和50年)に定められた東京近郊の10の神社のこと。ちなみに以前行った東京五社のうちの1つである日枝神社は東京十社でもあるので東京十
【問題】扇谷上杉家の家臣であった上田朝直は、その晩年、次のうち何と号したか?【選択肢】三楽斎浄閑斎案独斎市井斎【正解】案独斎【解説】上田朝直は、はじめ扇谷上杉家の家臣で、同家の滅亡後は、越後の上杉氏や北条氏に従属して生き残りを図った。晩年に、案(安)独斎宗調と号している。
鎌倉駅の北側、横須賀線の線路のすぐ東側。佇む石碑。ここは、室町時代の関東管領・上杉家(山内)の分家・扇谷(おおぎがやつ)上杉家の屋敷跡。遺構は、皆無!まっぷる鎌倉mini(’21)江の島(まっぷるマガジン)楽天市場990円[書籍のメール便同梱は2冊まで]/鎌倉[本/雑誌](ブルーガイドてくてく歩き5)/実業之日本社楽天市場1,100円LED懐中電灯ASAHI市販電池対応単3乾電池1本人気アウトドアレジャーキャンプ防犯防災
先週の木曜日に引き続いての日曜日、大山は雪化粧となりました。市内を流れる「玉川」も水鏡。大山雪化粧を演出しているかのようです。さて。前回に引き続いての古戦場「実蒔原」。「史跡実蒔原古戦場」と刻まれた石碑の向う、そびえ立つ大山。この場所は伊勢原市になりますが、画面右端に見える山は厚木市の「見城山」。前回も記事にしましたが、この付近は両市境が錯綜しています。ところで「見城山」。その名の通り、お城の後背地にそびえていて、敵からの襲撃を見張る役割を果たしていたそうです。
本日発売の週刊大衆。日本史ミステリー捜査隊は、山内上杉家と扇谷上杉家との抗争長享の乱などの上杉同士での争いの特集です。原作/跡部蛮挿絵/萩山明日香次回の掲載は、5月17日(月)です。日本史ミステリー捜査隊をよろしくお願いします。
最近読み始めた本が幡大介「騎虎の将太田道灌」上下です。扇谷上杉家の家宰、江戸城を初めに建てた人物として有名な太田道灌ですが、この時代の関東のことは今まであまり詳しく知りませんでしたのでとても興味深い題材の小説です。今の所まだ上巻の半分を過ぎたところなのですがこれがとても面白い。わくわくするような感じで入り込んでしまいます。この小説の初めの章のタイトルが「万人恐怖」「万人恐怖」と言うのは、室町幕府第6代将軍足利義教を指します。(と言うか足利義教晩年の恐怖政治を指してこう呼んだ人がい
「柏尾通り大山道」を辿って、前回伊勢原市内にある「糟屋宿」に着きました。(↑)宿場町の外れには、大山道に面して「高部屋神社」が鎮座しています。この神社は平安時代に制定された「延喜式」(今でいうところの「施行令」のようなものでしょうか)にも記されている、由緒あるお社で由緒書によれば、創建は紀元前660年。2600年以上も昔に遡り、まさに神話の世界のお話になりますね。ちなみに「延喜式」に記載されている相模國の神社は13社のみ。このような古社が大山道に沿ってあることに興趣を惹かれま
小田原北条の政治力はすばらしいのかもしれません。そして、不当に低く評価されていると思います。けれど、「実力はあっても何か信じられない」という思いが関東の諸家になかったでしょうか。「河越夜戦はなかった」という説もあります。けれど、北条以前はずっと「旧勢力」(足利と上杉)が関東の主だったわけです。正平4/貞和5(1349)年に足利義詮(室町2代将軍)に代わって、足利基氏が関東公方として京都から下向してからと考えても、約200年間です。上杉家はその関東公方を補佐するというのです
(デザインを変えてみました)論集戦国大名と国衆12岩付太田氏4,320円Amazon↑(アフィリエイトを貼っておいてなんですけれども)桶川マインに入っている「丸善」の書棚に岩田書院の「岩付太田氏」が入っているのを見つけた私です!(4/4現在)桶川マインの「丸善」は隣に桶川図書館が入っていてグッド。お近くの方は行ってみましょう。図書館で本を読んでいて「これ欲しい」となったときにはすぐに「書店」に注文できる、ということを狙っているのでしょうか。4320
よく考えてみれば、この半年間、分からないながらも「北区史資料集」にもお世話になってきたのでしたね。今、その中にたった一つだけある「扇谷上杉系図」(「続群書類従」巻153所収)を見ています。道灌を誅したとする扇谷上杉定正は、本来「当主」になることは期待されてはいませんでした。定正の父、持朝の跡は兄顕房が継いだのです。しかし、顕房は21歳の若さで亡くなってしまいます。そしてその子政真が継ぐのですが、まだ子どもです。顕房・政真という幼い当主の間は家宰「太田道真・道灌」が柱となって扇谷
岩付太田家の「太田資武」は道灌が暗殺されるとき、「当方滅亡」と言ったと書き残しています。この、「当方」とは、「扇谷上杉家」であるとされ、道灌はそれほどに扇谷上杉に尽くしていたとされています。しかし、こうした表現を本当にしていたとしたら、その言い方はやはり当主定正を刺激するものだったと思いますが、どうでしょうか。もともと定正が扇谷上杉家の当主になれたのも、家宰道灌の決定からでした。すでに道灌はキングメーカーだったのです。そして「空想」にしかすぎませんが、その
(元の記事はこちらです)扇谷上杉定正の正室は山内家宰長尾景信の娘です。そして、道灌の母の姪に当たる方です。であれば、長尾景信の姉か妹から生まれた道灌の正室に扇谷家の姫が降嫁してきてもそうおかしくはありません。そうだとしたら。上杉定正が、暗殺を考えるほどに道灌を警戒した理由はそこにもあったのかもしれません。つまり、道灌と定正正室は「いとこ」なのですが、仮に「持朝の娘」と道灌が結ばれていたとすれば、二人は「兄妹」となるのです。「嫡子誕生が望めないような女
(元の記事はこちらです)太田資康は「太田道灌の嫡子」とされていますが、嫡子がいるのなら、なぜ道灌は甥を養子にしたのでしょう。一説によると「太田図書助資忠」が道灌初めての養子にされた後に、実子である資康が生まれたとされていますが、もし嫡子が生まれる可能性があるなら、早い段階で甥を養子にする必要はないのではないでしょうか。(そして「図書助」が下総臼井で戦死したあとも、「資家」が養子とされているのはなぜなのでしょうか。)様々な記録で「図書助」とされる人物が早い段階で道灌の「
御多分に漏れず、年度末業務のためてんてこ舞いの忙しさ。その影響をひきずり、先週と今週の土日は専ら「静養」に充てたため、ほとんど室内生活でした。そんな中で、久しぶりに今日午後からご近所散歩への「出陣」。「出陣先」は大山の展望地でもあり、お気に入りの場所「実蒔原古戦場」でした。今は田園地帯が広がります。その中にあって、存在を主張するかのように1本の大木が植わっていました。(↑)「実蒔原古戦場」由緒書(再掲しました)前々回のブログで採り上げた七沢城を守る「(扇谷)上杉」方が、
引き続き、伊勢原市糟屋周辺を散歩しています。前回ブログではこの付近、播州加古川城を築いた「糟屋氏発祥の地」と紹介させていただきました。(↑)「太田道灌」菩提寺大慈寺しかしながら、伊勢原における歴史的人物の認知度ナンバーワンは、やはり糟屋氏ではなく太田道灌公で間違いなさそうです。何しろ秋には「道灌まつり」が開催されるほどですので。(↑)道灌公首塚由緒書き話変わって。糟屋さんが定着した播磨国加古川ですが、戦国時代播州の英雄といえば「黒田官兵衛」。伊勢原の英雄、太田道灌と
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今日は江戸城を作ったこの人が問題でした。それでは本日の【ケータイ国盗り合戦】のクイズです。正解率は83%。みなさん、なかなか優秀ですね。正解は「3.太田道灌」でした。【解説】「関東地方の大名・扇谷上杉家に仕えて数々の戦功を挙げた太田資長といえば、一般には江戸城築城などで有名な「太田道灌」いう名で知られている武将です。「道灌」は資長が出家してから名乗った法名です。」私が知る歴史上の人物には、1.太田一豊さん、4.太田清正さんはいません。2.太田牛一は
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前回まではこちら⬇️目次世は群雄割拠の戦国時代。わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。1541年、我が北条に対抗する扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)は関東管領・山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)と結んだのです。扇谷上杉家の朝定(ともさだ)さん、敵対していた山内上杉家の憲政(のりまさ)さんに助けを求めたんだね。それだけ北条に追い詰められていたってことだね。氏康「まことか⁈」小太郎(こたろう)「はい。両家で書状にやり取りがありました。」氏康「うむ〜、今川(いまがわ)とも河東
前回まではこちら⬇️目次世は群雄割拠の戦国時代。わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。1530年6月、わしは攻めてきた扇谷上杉朝興(おうぎがやつうえすぎともおき)の軍と小沢城(おざわじょう)から出て麓で戦いました。小沢城跡氏康さんにとって、この戦いは初陣なんだ。しかし、この戦いでわしの率いる北条軍は敗れてしまい、一旦小沢城に撤退し籠りました。朝興「小童め!まだまだ若いの。よし、我が軍はこの辺りで陣を敷くぞ!」扇谷上杉家の軍は夜営をしたのです。夜営って夜、陣営を設けることだ
前回まではこちら⬇️目次世は群雄割拠の戦国時代。わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。1530年、前年に元服した綱成(ほうじょうつなしげ)は父・氏綱(うじつな)に玉縄城(たまなわじょう)に入ることを命ぜられました。玉縄城跡玉縄城は早雲さんが築いた城。小田原城の守りの役割を果たしていたんだよ。氏綱「綱成、玉縄城に入るのだ。」綱成「玉縄城には殿の御弟の氏時(うじとき)様がいらっしゃいますが…。」氏綱「うむ。実は氏時が病なのじゃ…。」綱成「なんと⁈」氏綱「綱成に氏時を補佐して
前回まではこちら⬇️目次世は群雄割拠の戦国時代。わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。父・氏綱(うじつな)の小姓となり仕えるようになった勝千代(かつちよ)は幼いながらもよく働いていました。氏綱の居間の掃除、馬の世話、飯の支度…自ら進んで何でも行なっていたのです。勝千代ちゃん、まだ幼かったから戦いには行けず、出来ることからやっていたんだね。この頃、氏綱は武蔵国の攻略を進めていたのです。1523年には武蔵国の西部・南部の国人衆が北条氏に従えるようになりました。これに危機感を感じ
前回まではこちら⬇️目次私は北条早雲(ほうじょうそううん)の子・幻庵(げんあん)です。(早雲は伊勢早雲(いせそううん)と名乗ってます。)1518年、早雲は嫡男・氏綱(うじつな)に家督を譲り隠居しました。その後、早雲は家中の主要人物に会っており、私も早雲に呼ばれ伊豆の韮山城(にらやまじょう)に行きました。この頃、私は菊寿丸(きくじゅまる)と名乗っていました。早雲「来たか、菊寿。」菊寿丸「父上、お体はいかがですか?」早雲「思いの外元気だ。菊寿、僧であるそなたに見てほしいものがある。