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第二章青春の贈り物-41-”レジデンス・原峰”をネットで検索する良介。驚いた!!出てくる、出てくる、・・・20件近くの”レジデンス・原峰”にヒットした。その所在地は、元々の所領だった隣りの県にまでも及び、近隣の各市をほぼ網羅している。その中のひとつが、直樹が住んでいる”レジデンス・原峰山崎通り”という訳だ。スゴイなあ・・・。直樹が大名家の御曹司だと知らされた時、ちょっとだけ考えてみた良介
―それいくら?2―前回の続きです。文明十一(1479)年、位、人臣を極め、500年以来の才人とたたえられた「一条兼良」は、京からはるか180km以上もある「越前国」まで旅にでます。70歳を超えた老体にムチ打ち、なぜ越前国に向かったか?「息子のために!」。そう、彼は息子の冬良が、右近衛大将に昇進の参賀の費用をひねりだすため、越前国足羽御厨の所領の年貢の交渉で、戦国大名、朝倉孝景の所へ。その結果は、越前国の彼の所領は反古(まあ無視)となり、代わり
【問題】池田忠雄が9歳の頃に与えられたのは、次のうちどこの国内の所領か?【選択肢】越前国信濃国淡路国美濃国【正解】淡路国【解説】忠雄は池田輝政の子で、徳川家康の外孫であったことなどから、慶長15年(1610)、弱冠9歳で淡路国内で6万3000石を与えられた。幼少のため、政務は重臣がみたという。
蔵米知行(くらまいちぎょう)と地方知行(じがたちぎょう)を覚えた。蔵米知行・・・200石とか実際のどこの土地から取れてるか分からない米だけど、給与として自動的にもらう。地方知行・・・所領を得てそこで取れる米が給与となる。なぜこれが気になったかと言うと、、、新潮新書:磯田道史著:「武士の家計簿」にて、「先祖は500石の知行だったと聞いております」からの「500石の領地はどこの村でしょう」の問いには答えられない。蔵米知行であることの説明であるが、蔵米知行でもどこかの村に領地
【問題】天正8年、島津氏により大隅高山の所領を召し上げられ、薩摩へ移されたのは次のうちどちらか?【選択肢】肝付兼演肝付兼護【正解】肝付兼護【解説】肝付氏は大隅の大名で、兼続の代には島津氏と激しく争ったが、兼護の頃には島津氏に屈し、薩摩へ移された。兼演(かねひろ)は庶流で、島津氏に従い大隅国加治木を領した。
『鎌倉殿の13人』~後追いコラムその44第10回根拠なき自信登場人物おさらいその3足立遠元(あだちとおもと)について。実衣(宮澤エマ)が「あれが一番得体が知れない」と言った足立遠元(大野泰広:私と一字違いなので親近感マックス(笑))。彼は、藤原摂関政治で有名な藤原北家(ほっけ)の家系で、頼朝の父義朝の代からの家臣だ。『平治物語』(平治の乱を描いた軍記物:13世紀半ばに成立?)でその活躍が描かれている。1159年12月9日丑の刻(午前2時ごろ)、源義朝と藤原信頼
『鎌倉殿の13人』~後追いコラムその41第9回決戦前夜『一所懸命』その2頼朝は、自分に与した武士たちに安堵状を与え、頼朝=幕府=権威が所領を守ることを約束した(本領安堵)。そして、頼朝のために命懸けで戦い、勲功を挙げた武士に対して、新たな所領を与え、これも頼朝=幕府=権威によって守った(新恩給与)。頼朝は、土地に関する新システムを作り上げた。こうした土地のやり取りで、主従関係が構築される社会の仕組みを『封建制度』という。幕府からご褒美(=御恩)がもらえるから戦で頑張る(=奉公)。
『鎌倉殿の13人』~後追いコラムその40第9回決戦前夜今回は『一所懸命』について(その1)。北条時政(坂東彌十郎)が、頼朝(大泉洋)に、「佐殿は所領をお持ちにならねぇからわからねぇんだ。坂東武者にとって何より大事なのは、所領と一族。それを守るためなら死に物狂いで戦う。」と言い放つ。こうした当時の武士たちの行動原理から『一所懸命』という言葉が生まれた。自分の所領を命懸けで守るこの『一所懸命』こそが鎌倉幕府の存亡を握る。坂東武士たちが頼朝を担ぎ出したのは、自分達の土地
『鎌倉殿の13人』第9話今回のデクラス?今回も『デクラス=情報開示』というものではありませんが、終盤の時政(主人公義時の父)のセリフが気になりました。●『戦さで命を張るのは、わしらなんだ❗』というもの🤔分が悪い状況となった戦さにビビりまくり、頼朝方に背を向けた平家側を追い討ちし、その勢いそのまま京へと上り、なんとしても清盛を討ち果たしたい頼朝。…ですが兵糧がなく、とても追い討ちできる状況ではない頼朝の陣営😥坂東武者の皆の意見の総意として発言した、時政の力強い発言に、頼朝は
【問題】天正15年、足利義昭は豊臣秀吉の計らいにより山城国へ帰還し、所領を与えられたが、その石高は次のうちどれほどであったか?【選択肢】1万石7万石13万石26万石【正解】1万石【解説】天正15年(1587)、義昭は秀吉の計らいで京への帰還を果たした。1万石を与えられ、かつて自らが織田信長に反旗を翻した地でもある槙島に居住した。
【問題】土地から切り離され、ゆかりのない場所に所領を与えられた大名を、次のうち何と呼ぶか?【選択肢】秋晴れ大名鉢植え大名一本釣り大名表替え大名【正解】鉢植え大名【解説】代々の土地から切り離され、縁もゆかりもない地に所領を与えられた大名を「鉢植え大名」という。これは江戸時代に現れた言葉だが、織豊時代からあった配置政策である。
(つづき)●徳川家康家康は、三河国の豪族出身で、幼少期には、駿河・遠江2ヶ国守護職の今川氏の人質になり、そののちも服属していましたが、信長が今川義元を戦死させました(1560年・桶狭間の合戦)。それをきっかけに、家康は、信長と同盟すると(1561年)、まず、三河国を支配し(1566年)、つぎに、元今川領の遠江国も支配(1569年)、さらに、信長が急死すると、関東の北条氏と同盟し、旧今川領の駿河国+旧織田領の甲斐国・南信濃(1582年)も支配しました。しかし、家康は、秀吉
*徳川家の国替1~6*天下普請の城郭と徳川家初期の政略結婚*11代将軍・徳川家斉の政略結婚*江戸後期の徳川分家の政略結婚と海防1・2~・~・~封建制とは、主君が臣下へ土地を分与(封土/ほうど)するかわりに、臣下が主君へ奉仕・軍役する制度で、中国では、周(紀元前1046~紀元前256年)の時代に採用され、日本では、武士間の主従関係での、主君による御恩(「徳」)と臣下による奉公(「忠」)として普及しました。ただし、武士は、一家の維持・繫栄(「孝」)を最重要視するので、臣下の武士は
元々はタンゴディスカバリー車両をリニューアルした車両です。「海の丹後の国」をイメージし、水戸岡鋭治先生がデザインされたらしい。「客室天井と壁は白樺、床はナラ、座席は楓、それぞれに合った木を使用し、寛ぎの空間を演出しています」らしいです。京都丹後鉄道には沿線に多くの観光名所があり、観光列車も充実しています。また今年は麒麟が来る」の放送年。その光秀ゆかりの福知山は京都丹後鉄道の始発駅であり、関係の深い細川氏の所領・丹後の国へ行くなら今年しかありません!細川氏発祥は我ら愛知県の岡崎らしいですね
たまたま通りかかったので、ふらっと寄り道「老松神社」小さい頃は何とも思わなかったけど、今になって成り立ちを知った上で行くと新たな発見があって新鮮だった!土師氏の一族が出雲大社の分社を建立したのが始まり。毎年4月と9月に行われる「土師の獅子舞」は1328年より途切れることなく続いていて、県指定無形文化財となっています(*ˊᵕˋ*)雷が落ちて半分に分かれてしまった御神木安楽寺(太宰府天満宮)の所領のひとつで、菅原道真公とその夫人である吉祥目女が祀られています。
2935局目:玉滝【たまたき】郵便局(三重県伊賀市玉滝3506-7)22042☆局印に…「東大寺領玉瀧庄の里」とあり、昔は奈良の大仏で有名な東大寺の所領だったのですね。知らなかった…(・∇・)局内の(地元の方々の作品)展示物が充実していて、待ち時間に見学(^.^)木彫りの阿修羅像に一際目を奪われた。素晴らしい☆☆ご訪問ありがとうございます☆彡https://travel.blogmura.com/raretravel/ranking/in?p_cid
【問題】入来院氏とは、次のうちどの国に所領を持った国人か?【選択肢】薩摩国出雲国大和国遠江国【正解】薩摩国【解説】入来院氏は、薩摩国入来院を本拠とした国人である。入来院重聡の代には島津氏と良好な関係を築き、重聡の娘は島津貴久に嫁いで義久・義弘・歳久を生んでいる。
【問題】文禄4年、増田長盛が豊臣秀吉から与えられた所領は次のうちどこか?【選択肢】讃岐国十河城10万石信濃国高遠城15万石能登国七尾城5万石大和国郡山城20万石【正解】大和国郡山城20万石【解説】文禄4年(1595)、大和国を領していた豊臣秀保が没すると、増田長盛がそれまでの吏僚としての功績を認められ、郡山城20万石の所領を宛行われた。
有徳館内部先ず奥のガラスケースから永禄2年(1559年)佐々木氏が戦禍により所領を失い、近江より波瀬に。その時、携えたと思われる甲冑佐々木氏の末裔と思われる「隅立て四つ目結紋」がついている。身分を隠す為、家紋も「丸に蔦」に替え「田中彦左衛門」と名乗った歴史が有ります甲冑の足元、履き物?装着の仕方が描かれてます甲冑の保存状態が良いのは箱の中にこんな保存竹筒が入っていたから?4本の竹筒に樟脳が入れられ入れ替えた年月が記録されています。底に小さな穴、上は和紙で封じられてい
藩史戦国時代、この久野には豊臣秀吉がまだ名も知られていない百姓のとき、立身出世を求めて一時期、主君として仕えていた松下之綱が治めていた土地である。之綱は今川家、次いで徳川家に仕えていたが、天正11年(1583年)から秀吉の家臣として仕え、久野に1万6000石の所領を与えられた。慶長3年(1598年)、之綱が死去し、跡を子の松下重綱が継いだ。重綱は関ヶ原の戦いにおいては東軍に与して大垣城の牽制に務め、所領を安堵された。ところが、久野城の石畳を幕府に許可なく修理したことを咎められて、常陸国に懲罰
豊臣家と徳川家の石高は、いったいいつの間に入れ替わったのか?これねえ。考え方次第というか、理屈を捏ねればどうとでも言えるんですよ。家康が関東に移封された時点で250万石、と言った場合、それは家康の家来たちの所領を全部含めた数字ですよね、つまり、のちの江戸時代に「譜代大名」って呼ばれることになる連中の領地の合計です。一方、このとき豊臣秀吉は天下人であり、日本中の武士は家康含めてすべて秀吉の家来ですから、「日本中が豊臣の領地である」はずです。だって、日本中の武士は秀吉の命令ひとつで動員できるん
名字の言>2020聖教新聞「SEIKYOONLINE」*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~ランキングに参加しています。応援ありがとうございます。*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*<教学>生命論「十界論」*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*女性に贈る100文字の幸福抄[池田大作]*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*ランキングに参加しています。*~*~*~*~*~*~*~*
【問題】西園寺氏の家臣であった土居清良は、豊臣氏の四国攻めで小早川隆景が入国した際、次のうちどのように処されたか?【選択肢】拷問の上処刑された所領を安堵された大友家へ送還された日振島へ流された【正解】所領を安堵された【解説】土居清良(せいりょう、きよよし)は、伊予西園寺氏の家臣で、四国攻めの後に小早川隆景が伊予に入った際には、その所領を安堵されている