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戦時下、山手168番に居住したヤコブ・フリッツ・ケルンはすでに紹介したが、彼はスイス公使館の利益代表横浜事務所に勤務した。利益代表とは「戦争等の理由により断交状態となった国家間において、大使館の保管や居留民の保護等を行う中立国のこと」(ウィキエディア)である。第二次世界大戦中、スイスはアメリカ、イギリスを筆頭に多くの交戦国の日本国内での利益代表国であった。今回スイスの外交文書から、利益代表横浜事務所の誕生から閉鎖までの経緯を知ることが出来た。1941年12月8日の太平洋戦争勃発後、横浜在住ス
ジャパンタイムズは1897年に創刊された日本最古の英字新聞だ。1941年に発行された『ジャパン・タイムス小史』には外務大臣松岡洋右が序文を寄せている。その中では次の様に語るので、政府系媒体であることは間違いない。「国内における邦人経営外字紙の先達たるジャパン・タイムスは、よく我が国家の代弁者として、わが国是たる世界平和及び人類福祉の向上を内外い呼び掛けて来たのである」1943年には「ニッポン・タイムズ」に改称するが、英語のジャパンを止めて日本語のニッポンに代えたような気もするが、
戦時下の横浜の外国人は筆者の大きな調査テーマの一つだ。横浜の外国人が主に暮らした地域が、1943年8月に外国人居住禁止区域に指定され退去する。横須賀軍港が見下ろせるというのが主理由で、対象者は1206名だ。戦況が悪化し最終局面の1945年5月28日「外事警察特別措置」で、外国人は指定した特殊地域でしか住むことを認められなくなる。特殊地位とは軽井沢、箱根などである。横須賀港筆者撮影こうして横浜には終戦時、欧米系外国人は原則いなくなる。1945年8月25日現在「神奈川県在留外国人名簿」に
中区矢口台の横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ(YC&AC)は1868年に設立された、外国人を主体とする会員制のスポーツクラブである。入口施設内には古い写真が掲げられ、1939年のクリスマスパーティーの集合写真には綺麗に着飾った数十名が集い、すでに欧州では戦争が始まっていたが、横浜への影響はまだ少ない印象だ。内部の壁にも「YC&AC1868」と書かれている。その後戦時中についてはよく分からなかったが、今年に入って見つけた次の史料がそこに光を当ててくれ
エドムヘンリ・ガロアフランス領事には娘がいた。彼女は仏領インドシナ(ベトナム)のフランス人官吏アンリー・ラニルケと結婚する。太平洋戦争開始後も、ヴィッシー政権による植民地統治が日本政府により認められていたので、フランス人の官吏がいた。ジャンヌが河内(ハノイ)に赴くに際し、習慣により領事はダイヤモンド帯留め等の贈り物を娘へお贈り物にしたく、すでに日本橋室町3丁目2番地の「金銀製品商連盟」に注文したのち、購入移転許可の取り付け斡旋を願い出た。外務省官房儀典課長より、商工省物価局統制課長に取り計らい
本牧元町に暮らしたヒューゴは1932年にセント・ジョセフを卒業し、日本ワトソン商会(IBMの前身)に勤務する。結婚相手のチズカ(アリス)・スミムラは芸者とロシアの外交官の間の娘であったので、ヒューゴの家族からは歓迎されなかった。そのため家族が軽井沢に疎開したが、ヒューゴはナチスの関係者が疎開した箱根の強羅に疎開する。1944年の7月28日朝憲兵隊が強羅のフランクの家に押し入った。彼らはヒューゴを捕らえ、山手警察署に連行した。同じ日に同じように軽井沢でフランス人、アンドレ・ボッセー(Andre
山手85番にあったミッション系男子校セント・ジョセフ・カレッジはフランス人アルベルト・セグリが校長になることで、戦争中も閉鎖を免れていた。1943年9月現在、12名のフランス人とスイス人、ルクセンブルク人それぞれ一人の神父が居住していた。そのフランス人ではないふたりの神父について、当時セントジョゼフに通っていたポルトガル人の方から話を伺うことが出来た。1エドワード・アセル(ルクセンブルクEdwardAssel):カリスマ的存在の先生で、頭が赤いので「赤鬼」と呼ばれていた。日本生まれの
横浜市中区に住むものの、勤務地が東京というドイツ人もかなりいた。当時は京浜東北線は桜木町までであるから、家からはまず今の石川町あたりまで徒歩で出て、そこから桜木町まで市電に乗らないとならない。結構時間のかかる通勤であったはずで、空襲が激しくなると危険も高い。奇しくも二人の武官補佐官が横浜から東京のドイツ大使館に通っている。<48ノルベルト・ベルステット海軍武官補佐官中区滝之上140>ベルステット(NorbertBellstedt)は日本に来てウールの商売をしていたが、戦争勃発後
ドイツ領事館総領事のゼールハイム(Dr.HeinrichSeelheim)の住まいは山手32番地であった。1941年6月22日、ドイツがソ連と戦争を開始した、翌23日の午後2時、ゼールハイムはいつも通り午後2時に領事館に入る。記者の質問には全く答えないが、他の館員が「あと2,3か月でソ連を打ち負かす」と高らかに語った。(読売新聞)苦難の蘭印での抑留から日本に引き揚げたドイツの婦女子600人の内、42名のドイツ人は1941年7月15日夜7時12分、横浜駅着列車で横浜駅に到着する。
山手8番は1943年、スエーデン領事官邸、イタリア領事館、イタリア領事官邸として使用されている。番地内に複数の建物があったのであろう。この時イタリア領事館に勤務したのはプロスペロ領事だけだ。さかのぼる1939年3月23日には「我が世の春を謳うイタリアンファシスト党結成20周年記念祝賀会が、あたかも日伊文化協定調印の23日午前11時、横浜中区山手町イタリア領事館でアウリッチ大使、プロスペロ領事司会の元に京浜在留党員90名が参集、盛大に催された。」(読売新聞)と黒のファシスト制服に身を固め
戦時中、山手には二人のレーベダックが暮らしていた。エドワード・B・レーベダック商会員山手60番家族3ヴェルナ・レーベダック会社員山手237番家族2『戦時下日本のドイツ人たち』の中でエドワードの方がインタビューに答えている。エドワードは1912年に横浜で生まれるが、父(ペーター)の代から日本で貿易にかかわっていた。若いころエドワードは「シュミット商会」に勤める。その頃のシュミット商会は「ライカ」カメラの輸入代理店であった。このビジネスで成功したパウル・シュミットは芦
先に山手旧居留地は270番で終わりと書いた。確かに1923年の地図を見るとその通りであるが、1943年の外国人の居住リストによれば288番に中国人厳燦猷(料理業家族2)が住んでいる。つまり関東大震災以後に271番以降が設けられたことが分かる。元外国人居留地ではなく、山手町が広がったのである。山手本通り225番の隣から始まり、271番から288番はほぼひとブロックである。このブラフ積みから山手本通りの間。288番は今も最後の番号で、厳は外国人立ち退きを命じられて移った先は山元町1丁目、
262番から264番までブロック状だが比較的大きい。「ハイコート山手南館」が張り出してきて、その両側に262番と新しいロータリーに沿って263番、264番が残る。ロータリーの中のお宅。265番から270番までは狭いブロック状。こちらも旧120番の分割?道を挟んだ両側だが、味のある界隈だ。266番の煉瓦の遺構?267番地Aの洋館に、昭和の文豪谷崎潤一郎が一時住んでいた。関東大震災少し前の話であるが、この家は震災直後に建てられた。山手267-1番館木造1階大正末期建築(住総研研
1923年当時、251番から261番まで小さな区域が集まる。こちらは103番の分割であろうか?元町・中華街駅から登ってきたところにあり、最も観光客の多い場所のひとつだ。そして今存在するのは251番、252番、254番、260番である。253番はインターナショナルスクール(現在は258番)で蘭印引き揚げドイツ人婦女子が20名が集団で暮らした。現在の横浜インターナショナルスクールBluffArchivesによれば254番は古くは「メルマン邸」である。こちら。1900年代初頭、この邸
120番から分割された244番は興味深い。1943年、ドイツ人カール・クライヤ(会社支配人家族2)が住んでいた。別の資料に拠ればクライヤは長年暖房技術の会社の代表であった。この邸宅が脚光を浴びたのは終戦直後のことだ。占領軍を受け入れる日本側は、次のような要望に応えなければならなかった。「最高司令官(マッカーサー元帥のこと)のため、相当の造作と家具および4名の副官・3名の使用人の寝室を有する適当な住宅。(サザーランド)参謀長他9名の将官のための、相当の造作・家具を備え、かつ最高
240番は以前より存在しない。241番はワシン坂通りの韓国総領事館の向かいだ。まずは角の山手ロイストン教会が目に付く。あまり教会らしくない建物だが、ホームページには教会の歴史が詳しく書かれている。「私達山手ロイストン教会が誕生した山手町241番地という土地は、明治8年(1875年)の英国軍駐屯地の撤退と共に、当時120番地だった英国公使館跡を分割し120番及び241~245番地とに分割され、外国人居留区として誕生しました。」山手に順番のそろわない地番がたくさんあるのは、筆者は空き地が
236番は山手本通りに面する。山手聖公会とは道を挟む。1941年12月8日、第二次世界大戦が勃発した時は、ブラジル領事ジョセー・ゴミデ・ショニオールが私邸として利用したいた。(他家族3名)一家は1942年6月に交換船で帰国するまで軟禁される。その後1943年にはヘルマン・バウムヘエルト(所長無国籍家族1)が住んでいた。名前から判断するとドイツ人なので、ユダヤ人ゆえに国籍をはく奪され、無国籍となったか?BluffArchivesでは1938~39年の間、Spelman夫妻(The
231番は以前からなし。232番は山手本通りに面した現在の元町公園の一角あたりで、今は存在しない地番。233番も以前から無し。234番は狭く、234番1の通称「山手234番館」のみ。1927年頃に外国人向けの共同住宅(アパートメントハウス)として、建てられた。関東大震災の復興事業の一つで、横浜を離れた外国人に戻ってもらうために建設されたという。(同館ホームページより)横浜市認定歴史的建造物。3LDKの住居が四つあった。内部に居住者の変遷を示すパネルが展示されている。戦時中に関しては
230番は1921年の地図では"BluffGarden"、今の名称は「山手公園」だ。公園のサイトの説明によれば、1870年に、横浜居留外国人の手によって作られた、国内初の洋式公園というが、いまいち実感がわかない。公園120周年の記念碑日本のテニス発祥の地でもあり、園内の「テニス発祥記念館」では、テニスの歴史を知ることができる。テニス発祥記念館。山手の写真を撮り歩くとき、しばしば休憩させてもらった。また、ヒマラヤスギが日本で初めて植えられ、ここから全国に広まった。英国人ヘンリー・
山手本通りに面する225番は道を挟んで1番の横。グルーっと回ってきたが、ここで旧居留地はいったん完結の印象だ。グーグルマップによれば「山手ヨットクラブ跡地」がある。戦前のクラブかと期待したが、海をこよなく愛するヨットマン御用達のレストランで2007年12月に閉店。跡には今は立派な邸宅が建つ。「グランドメゾン山手225」の塀は古き時代(ブラフ積み)を感じさせる作り。地蔵坂公園の入り口にはBluff225の名称。225番には1937年、ドイツ人Levedag(Jun.)EduardB
山手本通りに面して、218番と220番があり、その裏に217番と219番があった。旧217番の場所には現在「共立学園球技コートグラウンド」があるが、学校の住所と同じ214番だろうか。218番は現在「ニュー山手マンション」のみ。これらの住所、1943年時点にはかなりの外国人が住んでいる。217番ルドルフ・ベーシー(船員ドイツ人家族無し)ヨアヒム・フォン・マンデル(技師ドイツ人家族無し)なお別の史料ではルドルフ・ベーシーの住所(217番)の後に「静山荘」と書かれている。独
213~216番はかつて一列に並んでいた。かつての213番は現在共立学園の一部で存在しない。石段の乙女坂を登りきったところの214番には昭和初期の洋館が残り、スエーデン領事館として利用されていたという。(現地の説明パネルによる)BluffArchives日よれば1941年から42年にかけて、スエーデンのベアリング会社の日本法人(SFKIndustriesJapan)のGuston夫妻が住んでいる。書いたように1943年にはスエーデン領事館は126番にあった。そしてこちら21
180番、181番と、1921年時点でも存在しない。182番と183番は堀川沿い、西之橋付近で石炭ヤードであった。現在は石川町1丁目あたり。関東大震災からの復興事業として1926年に建設された西之橋は,横浜市認定歴史的建造物。184番は現在元町・中華街駅に近い山手迎賓館から、谷戸坂沿いのマンション「ブラフ100」の前まで。山手迎賓館は名前からすると公的建物の様だが結婚式場だ。同地184番にはあまり綺麗に保たれていないが、「機械製氷発祥の地」のプレートがある。1879年、米国人のア
西から東に向かって地番の振られていった居留地は、176番で東端に突き当たった。その後は居留地を広げるのではなく、これまでの場所の空き地に番号が振られていったようだ。177番は山手本通りの48番まで戻り、フェリス女学院3号館の奥あたりに小さく取られた。48番で紹介したこのユニークな家があるあたりであろう。178番はフェリス女学院中学校、高等学校だ。1872年頃、178番に1153坪を借り受けた。その1号館は「この建物こそ、山手の王様」とある本で絶賛されている。1929年築であるので、1
ワシン坂東端のこれらの地番は、台地上の所にある。1921年の地図では真ん中に道が走り、左に171,173,175番、右に170、172番、174番、突き当りが176番であった。170番には現在2軒が立つ。残りは更地で立ち入り禁止だが、「カネボウ化粧品教育センター」のネームプレートが残る。同センターは1976年4月に建築され、2017年7月に解体。当時の住所は入口のある171番であった。そして他の番号は現在存在しない。かつての171番あたり。先日訪れた際、工事の業者さんが入っていて、断って
159番のネオコーポ山手を過ぎるあたりから、ワシン坂通りは下り坂になる。右手が「ザ・ブラフ160」。このように誇らしげに「ブラフ」を冠に付けるマンション、個人宅は多い。160番にはライ社員E.W.スタツグ(英国人)が住んでいたが、1941年12月8日、外諜容疑で検挙される。左山手161番には「Retromobilemuseumclub」があるが今は休止中?そしてほかは1軒。1921年、161番は広大な土地が崖の下まで広がっていた。今は小湊一丁目公園あたり。162番は
62番の道の反対が63番で、代官坂のトンネルの右肩あたりに現在6軒ほど建物がある。1943年にはドイツ人カザリナ・ドライリング(無職)が暮らす。女性名なので彼女もジャワ方面からの引き揚げか?63番の高級レストラン「エリア耀」は人影が少ないが完全予約制。63番の邸宅。64番は今無し。その場所は聖母愛児園で68番。その下の地図の空白の土地の下、65番は今は上野町4丁目と思われる。昔の居留地の面影はない。山手通りの昔61番bが現在66番-2で横浜ユニオン教会インタナショナルプリ
桜道から山手本通りの三育幼稚園前の交差点に戻ると32番だ。そして山手公園北側入口の交差点の35番へと道沿いに続く。裏に並行して走る道までそれぞれの地番だ。1891年から1910年まで、捜真学院が34番にあった。このあたり、1943年にはドイツ人家族が多く住んだ地域。32番ヘインリッヒ・ゼールハイム(総領事)家族4詳細はこちら32番エムマ・ラングハイム(領事館タイピスト)32番ウィルヘルム・フエルケル(商社員)家族134番ルドウイグ・デツケルト(会社支配人)家族
『横浜山手に現存する個人所有住宅(洋館)の概要』によれば山手29-A番館が木造2階建て1931年の建築との説明であるが、今はAが付く住所は存在しない。29番の立て札の出る、下の写真の建物であろうか?木造で、古い洋館風な建物だ。隣にもう一軒同じ地番で建つが、林に囲まれ建物を見ることが出来ない。1943年時点で住んでいた外国人は2人である。ヨハネス・プラシー会社員ドイツ人オスカー・フリドリックルツトケ商社員ドイツ人(プラシー方)やはり上の洋館に住んだのであろうか?30