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畑谷城を血祭りにあげ、周辺の城を恐怖のどん底に陥れ次々と自落させた直江兼続率いる上杉軍は、その勢いのまま山形盆地へ押し寄せる。二万余の大軍を従え、次の標的は山形城の前哨拠点、長谷堂城!しかし、そこには最上義光が送り込んだ最強の武将・鮭延秀綱(さけのべひでつな)を従えた、智将・志村光安(しむらあきやす)が、鉄壁の守りを敷いて待ち構えていた……。って、映画の煽り風な書き出しにではじめてみましたが(笑)、今回はその長谷堂城を前回の畑谷城につづきドライブで訪ねたさいの感想です。■長谷堂城長谷
12月5日、東北5日間の旅へスタート山形新幹線でGO米沢を通過山形へ着。でもすぐに街中や山形城へは行かずに、JR左沢線へ乗ってみる。左沢線の読み方って「さざわ」ではないんだよー40分で終点の左沢駅に着。ラ・フランスの産地なのかな。左沢は「あてらざわ」です。日本ではトップクラスの難読駅らしい。自分も乗るまで読み方を知らなかった。山形駅のアナウンスで「○○○ざわ線は・・」言っていたので、あれ?って感じ。ちっこい駅途中の寒河江駅はサクランボの産地らしい。
先日納車されたフリードの試運転(?)をかねて、じつは山形の畑谷城跡を訪れていました。標高549メートルの館山に築かれたこの城は、慶長出羽合戦で最初の激戦地となった場所として知られています。■鬱蒼とした城跡への道城跡への道は鬱蒼とした木々に覆われ、どこか神秘的な雰囲気が漂っています。水木しげるさんの妖怪でも出てきそうなムードにワクワクします。しかし、その高揚感も長くは続きませんでした。下の方で少し大きめな動物が動く音がして「あれ?妖怪やおばけならイイけど~ここって熊が出るンぢゃないの!?」
純烈さんの出るBSよしもとの「うたフレ」『Singingおしゃべり歌謡喫茶『うたフレ』は、毎月1回、第1土曜日に放送中。BSよしもと公式HPのアーカイブページにて、放送日から2週間見逃し配信もあるので、お見逃しなく!ってことで、BSよしもと入ってなくても見られるんですね!駄目だとばかり思っていました。私が知らなかっただけかもしれんが。よしもとさん、有難う。とにかく明るい安村が、純烈の知られざる一面を暴く!Singingおしゃべり歌謡喫茶『うたフレ』1
南光坊天海㊷上杉家は勇将・猛将を多く抱えた武門の名家ではあるが、まだ新領地に馴れず、防戦の準備も捗らなかった。そこで、兼続は智謀のある武士数名を越後に遣わし、一揆を扇動したのである。堀家では新領地の検地を行っていたので、検地に対する苦情として、領民に一揆を起こさせた。その目的は堀軍の会津侵攻を遮るためである。慶長5年(1600年)7月24日、家康は小山に着いた。その頃には会津一国は徳川麾下の大名に包囲され、身動きもできぬ様となったのである。8月1日、越後一揆
9/5(木)からスタートした今夏の2泊3日の「夏恒例のお城巡り」2城目は「上山城」(山形県上山市)です。「天童城」に登城後、中腹にある「織田信長」を祀る「建勲神社」に立寄って13時40分に出ました。45分位で「上山城」に到着、2005年に訪城して以来です。まずは模擬「天守」が建つ「二の丸」跡に行きましたが、当日は閉館中で中を見ることができませんでした。「上山城」の歴史と城主についてお話をしておきます。「最上家」一族の「里見満長」がこの地に入りお城を築きます。当地は、羽州街
天海(199)家康は「この戦は、碁や将棋の様に全体を見ねばならない。」といった。では、慶長出羽合戦といわれる東北の戦いにはどんな意味があったのだろう。景勝はできるだけ早く南下して、佐竹家と共に関東を制圧したいのである。しかし、周囲は伊達家、最上家、堀家等に囲まれ、動くことができない。この場合、上杉家にとって、最も厄介な存在が最上家である。最上家は上杉領である会津と庄内を分断する位置にいるのだ。しかし、仮に上杉家が最上家を屈服させることができたなら、どうなるであろ
名称:直江山城守本陣築城年:1600年築城主:直江兼続主要城主:直江兼続所在地:山形市大字菅沢慶長出羽合戦長谷堂城遠景長谷堂城合戦古戦図
88888!ChatGPTに聞いてみたのコーナーーーーそもそも、ChatGPTとはなんですか?って話ですがAIに向かって話しかけて、何らかのヒントをもらう見たいイメージです持ってる情報量が当然膨大なので、帰ってくる答えが自分の考えることの範囲を超えてくることもあります例えば7月15日?から新潟県立歴史博物館で上杉景勝展が開催されるのですがChatGPTに上杉景勝について聞いてみました新潟県立歴史博物館で7月確か15日から開催される上杉景勝展ですが、
3月7日、仙台市内の東北本線・長町駅(仙台市太白区)地下鉄南北線・長町駅も同じ場所にあります。長町駅から東へ20分ほど行くと、ありました。北目城戦国時代に富沢舘と同じく、粟野氏が築城。1600年、北の関ヶ原と言われる慶長出羽合戦では、徳川家康方の伊達政宗が入城。石田三成方の上杉景勝・直江兼続と戦うためです。現在は住宅地と道路になってしまい、遺構は何も残っていないが、発掘調査の時は堀跡があったそうで。しかも障子堀。遺構は無いと思っていたが、石垣を発見。いや、
10月25日、米沢からJR奥羽本線で山形駅へ。途中、左手に上山城の模擬天守が見えました。1982年に建てられた資料館です。山形駅に着。新幹線も停まる大きな駅。駅の西側にタワーがありますが、最上階の展望室は南向きなので、北側にある山形城を見下ろすことはできません。駅の北西、住宅の間を抜けていく。山形は駅は大きく道路も広いが、人があまり歩いていません。山形城へ着。最初は最上氏によって築城される。最上義光(もがみよしあき、徳川家康方)は関ヶ原の戦いの時、「北の
午後から雨模様というので暑さ覚悟で、この辺りを久しぶりにランニング。最近、車🚗で少し上がってからこの辺より涼しいところで走ることが多かった。曇り空で日差しはあまりないが湿度が高く、体が重く感じる。日が差しても良いように日陰が多い、早坂林道に行ってみる。向田八郎左衛門の墓この向田八郎左衛門というお方慶長出羽合戦の時に、直江軍に攻められた畑谷城を援軍に行ったものの時すでに遅し。帰り道、この辺りで山形城に霞が掛かっているのを、落城したものと勘違いして自害したという。
【問題】慶長出羽合戦の折、最上家臣・志村光安が守った城は次のうちどれか?【選択肢】畑谷城寒河江城長谷堂城上山城【正解】長谷堂城【解説】慶長5年(1600)の慶長出羽合戦では、最上方の将として、志村光安(あきやす)が長谷堂城を守った。同城は上杉軍の猛攻を受けたが、光安はこれを守りきった。
今日は「十三夜」十五夜に次ぐ、月の美しい日とされ日本固有の風習らしい。たまたま、昨日一緒に走った方が「十三夜の餅」の話をしてくれて興味深く聞いたところだった。慶長出羽合戦の時、まさしく十三夜に上杉軍が今で言う西山形や本沢に攻め込んで来たために、この土地の人々は餅を食べる暇もなく、逃げまどったという。その供養かどうかは不明だが今でも、この時期にその地区で「十三夜の餅を食べる会」が催されるとのこと。今朝のラジオでも、今日10月18日が今年の「十三夜」と伝えていたのでせっ
戦争体験談、聞いたことある?子供の頃、祖母のお茶飲み話で語られたのが、戦争の話多目でした。▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう今日は、だいぶ前の戦で命を落とされた方のお墓参りして来ました。魚津城落城の際自害された中條景泰様何故なら白川さんが天地人で演じられたから。最期の言葉は「お先に」今回カメラ持って行かなかったので写真は2019年のものです。だいたい、お盆にお墓の写真撮ったら怖いことありそうじゃないですかぁ『二つの
好きなコロッケ教えて!クリームコロッケ好きです。カニクリームとかエビクリームでも、むか~~し、親戚の家の近くで売っていた、普通のコロッケが食べたくなります。シンプルにジャガイモと少々のひき肉だったかしら。塩気が強かったかも。もうそのお店はないので食べられないんですけどね明日は「3人の歌仲間43影山ヒロノブ遠藤正明純烈」ほ配信日アーカイブは5/16まで!お忘れなく~~~~私は勘違いして、今日だと思っていましたマル
【問題】慶長出羽合戦で、上杉軍の撤退により最上領に取り残された上杉家臣・下吉忠(下秀久)は、その後どうなったか?【選択肢】最上軍によって全滅させられた日本海から脱出し佐渡へ漂着した最上義光に降り最上家臣となった最上領を突破して会津に帰還した【正解】最上義光に降り最上家臣となった【解説】下吉忠(しもよしただ)は上杉家臣として出羽庄内を治め、慶長出羽合戦では最上領の谷地城等を攻略した。しかし、上杉本隊が撤退して孤立、最上義光に降伏して、以降最上家臣となった。
【問題】慶長出羽合戦で、上杉軍の標的となった畑谷城主・江口光清に対し、主の最上義光は次のうちどのような命令を下したか?【選択肢】城を捨て山形城へ退却せよ最低一ヶ月は城を守り抜け籠城せず城外で野戦に挑め降伏して上杉家に仕官せよ【正解】城を捨て山形城へ退却せよ【解説】義光は、畑谷城では大軍を迎撃できないことから、光清に再三に渡り山形城への撤退を命じたが、光清は、城を捨てたとあっては武士の名折れとして拒否し、玉砕の道を選んだ。
坂本龍馬・ジョン万次郎等々・・・・・・・・ブロッカーが何人いるか把握したくなくなるほどの鉄の防御をかいくぐり、めげずに土佐に武将を送り続け、やっと長宗我部盛親が来ました!最後は長宗我部元親が決めました!そして念願だった「関ヶ原西軍武将を20人登用せよ!」をクリア!!そしてそしてお待ちかねの「大坂の冬の陣の大坂方武将を15人登用せよ!」が発生しました。何気に結構そろっている・・・迷いながらも明石全登・真田大助・御宿勘兵衛とかとっておいてよかった。
秋の朝散歩。山形城二ノ丸東大手門。二ノ丸の堀(跡)かかる橋の下は、堀をつかって奥羽本線が通っています。おーきたきた!ちょうど719系5000番台の奥羽線村山行きが通過していきました。右側通行に見えますが、左沢線との単線並列の線路が新鮮に思えました。線路際でカステラくんたちをさて、城内(霞城公園)へ。秋の朝、すっきりした空の下で奮戦しているのは直江兼続を迎え撃つ最上義光。勇ましくてかっこいい!説明に「鎧兜は時代考証にとらわれず表現したものであります」
夏期休暇2日目の3ヶ所目、以前から行きたかった慶長出羽合戦の最初の激戦地となった畑谷城に行きました。畑谷城は山形城の数ある支城の一つで置賜、村山地方の境目の城でもあり、伊達氏や上杉氏からの攻撃に備える最前線の城でもありました。1600年(慶長5年)に起こった慶長出羽合戦で直江兼続率いる上杉軍が狐越街道から約2万余の軍を率いて山形城を落とす為に攻め上がってきた時に、最上義光率いる最上軍と上杉軍がここ畑谷城でぶつかり最初の激戦が繰り広げられました。2日間の攻防の結果、畑谷城城主である江口光
まず土日で台風がきて天気が荒れていますがみなさん外に出るときは気をつけてくださいね(´・ω・`)さて自分は昨日雨が晴れた所をみはからって少し城巡りに行ってきました!場所は山形県の山辺町というところにある畑谷城という山城です。とりあえず簡単に城説明から。畑谷城は「東の関ヶ原」と呼ばれた慶長出羽合戦での最上と上杉の間で起こった最初の激戦地として知られています。城主は江口光清という武将です^_^実は自分この江口光清という武将が結構好きなんです(^^)もっと言えば畑谷城の戦いってかなり短い
前回予告した合戦関連の更新と思わせておいて、今日時点でまだ情報のアップデートがないのでまったく関係ないネタで失礼します。すなわち昨日7月5日でこの運営ブログもスタートから6周年を迎えましたという話です。ありがとうございますm(__)mアプリ6周年の時の画像を使いまわしてみました毎年忘れそうになるこの記念日、まぁ多くの人にとってはびっくりするほどどうでもいい事柄だということには薄々気付きつつも( ̄∇ ̄;)、年に1回くらいは感傷にひたらせてもらいましょう。近頃はわりとアプリに
毎週月・水・金曜日はいつも昼過ぎになると「今日のブログは何にしよっかなー(゜∋゜)」と、まかないの献立を考えなければならない新人シェフに匹敵するほど頭を使っているわけですが、合戦イベントが炊飯器のあの蒸気がバァーって出てくるとこよりも熱を帯びてるのに、まったくこれに触れないというのも不自然の極みなので、今日はいつも合戦イベントの最中に更新している「お問い合わせ対応版」をアップします。歴戦の方もだいぶ増えてきているしFAQにもあるしということで今回はブログに書かなくてもいいかなと思っていました
■【独眼竜政宗】最上義光公の魅力をもっと語りたい!いま視聴してるチャンネル銀河の『独眼竜政宗』から~最上義光(もがみよしあき)公ご光臨独眼竜政宗では原田芳雄(はらだよしお)さんが演じられてたんですねドラマでは伊達政宗の宿敵として描かれ、原田芳雄さんの強烈な演技が印象的でしたね。原田芳雄さんは最近でも(真田太平記の石田三成役清水紘治さんの時にも触れた)フジテレビの大型ドラマ「不毛地帯」の大門一三役でも強烈な存在感を放っていましたが、義光公役もまた格別でした。(カッコイイ・・・個人的に